通州事件当時、通州には旅館とも割烹ともつかぬ日本人経営の宿屋(近水楼)があったといいます。その宿屋「近水楼」では、十数名の日本人の女中が働いており、通州に来る日本人実業家や軍人が利用する唯一の場所だったとのことです。安藤利男・同盟通信記者は、その宿屋に宿泊中、中国人部隊の襲撃を受け、他の日本人とともに銃殺場へ連行されました。でも、たまたま銃殺の際、城壁の頂上に一番近い場所に位置したために、四、五十名の兵隊の銃が一斉に火を吹く直前に城壁のふちに手をかけ、壁面にそって滑り落ちるようにして、銃弾に追われながらも逃げ延びることができたといいます。
その安藤記者が、下記に抜粋した文章のなかで、通州事件の原因の第一が、日本軍による「冀東保安隊」の爆撃であるとはっきり書いています。「冀東保安隊」は、日本の傀儡政権といわれる冀東防共自治政府の中国人部隊です。その「冀東兵営には冀東政府の旗、五色旗がひるがえっていた」という事実や日本軍の爆撃にびっくりした冀東兵営は「さらに標識をかかげて注意をうながしたがそれにもかかわらず、爆弾はそれからも落とされたのだ」ということも明らかにしています。だから、この爆撃事件が「冀東保安隊の寝返りにふんぎりを与え」、日本人襲撃に至ったというわけです。
通州事件で九死に一生を得た安藤記者が、下記に抜粋した文章の最後に、
”通州事件も、大きく見れば、当時の日本がたどった、中国の気持ちや立場を、まったく思いやらない、不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである”
と書いていることを、噛みしめる必要があると思います。通州事件における中国人の残虐性ばかりを強調して、自らを省みない主張では、日中の相互理解や関係改善はできないと思うのです。
最近、「なでしこアクション」(山本優美子代表)など民間団体が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産への2017年登録を目指し、「通州事件」の資料その他を申請したとのことですが、中国の申請した「南京大虐殺の記録」が、世界記憶遺産に登録されたことに対する反発のようで、抵抗を感じます。
最近、中国だけではなく、国際通信社のロイターやカタールの衛星放送「アル・ジャジーラ」なども、日本政府が今年のユネスコ(国連教育科学文化機関)の分担金約38億5千万円の支払いを「保留」しているという事実を伝える中で、中国の主張を取り上げ、「日本と中国の見方に食い違いがあるにも関わらず登録が強行されたことに対し、日本政府は国連機関に資金提供をやめると脅迫した」と報道しているのです。
英紙ガーディアンも”Japan threatens to halt Unesco funding over Nanjing massacre listing”の見出しで、“We are considering all measures, including suspension of our funding contributions”to Unesco, he said.と、菅官房長官の分担金「保留」の発表を取り上げています。threaten=脅迫する、という言葉を使っています。
国際世論の、こうした厳しい見方や批判的な反応があるなかで、「通州事件」の資料などを申請するのは、いかがなものかと思います。冷静な対応が必要ではないでしょうか。
安藤記者の下記の文章は、「『文藝春秋』にみる昭和史 第一巻」文藝春秋編(文藝春秋)から抜粋しました。
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通州の日本人大虐殺
安藤利男
・・・
さて、それではこの惨劇を起こした通州事件の原因、真相は何であろう。
友軍の間柄であった冀東保安隊は一夜にして寝返り、ところもあろうに一番安全地帯だと信じられていた通州に、日本人虐殺事件を起こしたのだ。そこで当時おきていた数多の前後の事情のうち、第一にあげなければならないものは、冀東保安隊幹部訓練所爆撃事件である。これが日本軍の手でやられたということだから、驚いたものである。これが少なくとも直接の原因だったといってよい。事件前々日の27日日本軍が通州の宋哲元軍兵舎を攻撃した。その時一機の日本軍飛行機は、どうしたものか、宋哲元兵営でなく、冀東兵営を爆撃した。冀東兵営には冀東政府の旗、五色旗がひるがえっていた。
びっくりした冀東兵営はさらに標識をかかげて注意をうながしたがそれにもかかわらず、爆弾はそれからも落とされたのだ。死傷者も出た。憤激しきった保安隊幹部がすぐに当時の陸軍特務機関長だった細木中佐に抗議したのはいうまでもない。あわてたのは同中佐と殷汝耕冀東政務長官である。保安隊の幹部連はそのころにはもう、いや気がさしてちりぢりに飛び出していたので殷長官がこれを一カ所に呼び集めるのに一苦労だったという。二人は百方言葉を尽くして釈明につとめたが、結局日本軍の誤爆によるものというその一本槍のほか、説明のしようもないできごとだった。あとで聞いたところでは、この日本軍の飛行機は、天津や北京から来たものではなく、朝鮮から飛んで来たものだともいわれた。地上戦闘と飛行機の連絡がまずかったものか、できなかったものか、それとも冀東兵営と知りながら狙ったものなのか、その辺のところまで来ると当時の状況については、ついにその後も分からずじまいにされている。
ともかくこの爆撃事件が冀東保安隊の寝返りにふんぎりを与えたことは事実のようだ。この爆撃事件がなかったならば、通州事件の惨劇は生まれなかったということと、この爆撃事件を起こしたものが通州事件の張本人だという人もいる。
冀東政府の主人公殷汝耕長官は保安隊反乱の渦中にいてどうしていたか。彼は前夜深更けまで細木特務機関長と政府建物長官室であったのち、間もなく29日午前2時頃反乱部隊の侵入を受けて、そのまま行動の自由を失った。細木中佐は宿舎への帰途、政府附近の道路上で戦死している。特務機関副官、甲斐少佐は自分の事務所前で多数の反乱兵ときりむすび白鉢巻き姿で仆れた。
反乱の主力部隊は保安隊第一、第二総隊であった。城内を荒らしまくった反乱軍は殷長官を引き立てて通州城外へ出た。行き先は北平であった。反乱軍は北平にはまだ宋哲元軍がいるものと判断したらしく、殷長官を捕り物にして、宋哲元軍に引きわたし、同軍に合流をはかろうとしたのらしい。だが宋哲元は日本軍の28日正午期限の撤退要求のため29日未明には北平を出て保定に向かっているので、反乱軍が安定門ついた頃にはもう北平にはいなかった。反乱軍は一たん城壁の外側にそって門頭溝へ向かったが、このへんで日本軍にぶつかり攻撃をうけ部隊はこの戦闘でいくつかに分散した。
そこで 殷長官は安定門駅の駅長室から今井陸軍武官に電話をかけ、救出された。長官を手放した保安隊は附近をうろうろしているうちに間もなく同じ城門外にあった日本人の手で、おとなしく武装解除された。それを見ると全部が全部悪党ばかりではなさそうなところもある。
通州事件の責任者はいったい誰なのか、日本軍は当然その問題にぶつかった。そのころ天津軍は今井少佐に対し、殷氏を天津軍に引き渡すように要求していた。少佐の気持ちは反対だったようだ。しかし結局はそうなっていった。
殷氏の体は六国飯店から日本大使館のとなりの日本軍兵営の中にある憲兵隊の一室に移され、ここでしばらく不自由な日を送ると、やがて天津へ護送され、天津軍憲兵隊本部に監禁された。北平の憲兵隊にいたとき、殷氏は、関東軍の板垣陸軍参謀長、東京の近衛公へ通州事件がどうしておきたか、「その経緯をしたためた手紙を書いて、これを殷氏夫人、(日本人)たみえ夫人の実弟にあたる井上氏に託し新京と東京とへ、飛ぶように依頼している。だが井上氏もまたある日、憲兵隊に足をいれたまま行動の自由を奪われてしまった。そこで殷氏の手紙も井上氏のポケットから、憲兵隊にとりあげられてしまった。
天津憲兵隊の訊問はその年の暮れまで続いた。半年近い獄生活ののち12月27日、当時、訊問に当たった太田憲兵中佐は本部二階の一室に殷氏と井上氏、そのほか三名の冀東政府中国人職員の五名を前に、
「天皇陛下の命により無罪」と言ったそうだ。この被告生活のうち、それでもただ一つ、温かい場面があった。たみえ夫人は、通州虐殺事件の時には、天津にいて難をまぬがれたが、その後、重病になり、もう絶望という時期があった。同じ天津にあっても、病院にねて、動きもとれぬ間、太田中佐は殷氏をソッと連れ出して瀕死のたみえ夫人の病床におくりこんだ。たみえ夫人は奇蹟のように、その後恢復にむかい、18年後の今日、殷氏は南京の中山陵附近の墓地に眠り、たみえ夫人は、日本に余生をおくっている。
通州事件後政界から姿を消していった殷氏は、北平で終戦の年の12月5日の夜、国民政府の要人載笠氏の招きで宴会に出たままその場で捕らわれ、多くの当時の親日政客と同じように、北平の北新橋監獄に送られる身となった。そして、民国36年(昭和23年)12月1日中国の戦犯として南京で銃殺され、59年の生涯を閉じた。たみえ夫人はちょうどその一年前、北平から南京へとび、獄舎に10日ほど物を運び、つきぬ話をしてきた。それが殷氏との最後であった。
殷氏が南京高等法院の法廷で述べた陳述のうち、冀東関係の部分に「自分が作った冀東政府は当時の華北の特殊な環境に適応したもので、当時華北軍政の責任者宋哲元の諒解を得ていた」と記録されている。獄中ではもっぱら写経をこととし「十年回顧録」も書いた。長杉皮靴のこの文人の、仏弟子となり最期は悠々としてりっぱなものだったことは、その忠僕、張春根さんが、墓石を据えたあと、北京のたみえ夫人に、伝えた話をきけば明らかでである。
夫人には南京での会見の折、日華の提携の必要をあくまで説き、最後の死刑場では、
「自分は戦犯ではない、歴史がそれを証明する」と刑吏に語り、ご苦労だった!といって悠然と世を去って行ったということである。
張春根さんが北平のたみえ夫人にとどけた、罫紙3枚の遺書と最後の写真とは、たみえ夫人の胸にしっかりとだかれているが、夫人は「主人は刑場で遺書を書きおわってから、春根はまだ来ぬか、まだか……と待ちつづけて、ついに銃殺の時刻に、間にあわず、飛びこんだ時はこときれていた。この春根の主人につくしてくれた話を、日本の人に書いて知らせてください」とせきこむようにいっていた。
春根さんというのは殷氏の運転手で、通州事件で、彼の主人が苦境におちいった折も、とうてい人にはできぬ働きをしている。
殷氏の遺骸を、自分の手で葬るまで、30年のながい間、忠勤をはげんだこのひたむきな人も、中共が入ってきてからは、戦犯につくしたというかどで、激しい追及の眼にたえきれず、とうとう狂い、同じ南京で自殺をとげた。悲惨な話である。これも通州事件の余話の一つ。いつの時代でも、恐ろしいのは狂った政策である。
通州事件も、大きく見れば、当時の日本がたどった、中国の気持ちや立場を、まったく思いやらない、不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである。
(30・8)三十五大事件
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