下記の文(「昭和天皇ご自身による「天皇論」半藤一利(講談社)より抜萃)にあるように、天皇は、「憲法学説として機関説は少しも不都合がないではないか」という考えでいました。でも、当時の政権は、議会の役割を重視した美濃部達吉の天皇機関説を受け入れることはありませんでした。逆に、美濃部を不敬罪の疑いにより取り調べるとともに、美濃部の著書を出版法違反として発禁処分にしたのです。そして、軍事的緊張の高まりとともに、統帥権の独立を主張し、議会の統制を受けない軍部が徐々に前面に出て来るようになると、天皇は、自らの思いと離れて行く日本の政治に様々な不満を抱き、それを周囲にもらしています。こうした憲法を遵守しようとする天皇に対して、当時の本庄武官長は、
「恐れながら、軍においては陛下を現人神として信仰申上げております。これを機関説によって人間なみに扱うがごときは、軍隊教育および統帥上至難のことと心得ます」と説得を試みたようですが、ここに私は、明治維新を成し遂げた尊王攘夷急進派の意図を越えた皇国日本の姿を見ます。
というのは、すでに取り上げた長州藩の木戸孝允が、同じ長州藩の品川弥二郎に宛てた書簡の文章に、”玉(天皇)を我が方へ抱き奉り、万々一も彼手(幕府)に奪われては、その計画は大崩れとなって、三藩(長州、薩摩、土佐)の亡滅は申すに及ばず、皇国には、徳を損なう者があるということになって、再起不能になることは明らかだ”というような内容があったことと関連します。
明治維新前後の長州藩、即ち尊王攘夷急進派にとっては、当時の関連事件から判断して、尊王も攘夷も、幕府を倒して権力を奪取するための手段の側面が強かったのだろうと思われます。だから、倒幕後はすぐに攘夷を捨て、開国に転じるとともに、奪取した権力を奪われないように天皇を神格化し、大日本帝国憲法や軍人勅諭、教育勅語に盛り込みつつ、統帥権の独立を見通した山縣有朋や桂太郎による反立憲的軍制の確立に至ったのだと思うのです。
権力を奪取するために、天皇を政治的に利用し、”玉を我が方へ抱き奉り”つつ、権力を奪い取られないように、天皇を神格化した国家体制、すなわち皇国日本を作り上げたのだと思うのです。
ところが、時代が進み、そうした皇国日本で育った者が日本を支えるようになると、そうした尊王攘夷急進派の政治的意図を越えて、上記の”軍においては陛下を現人神として信仰申上げております”に表現されているように、”天皇=現人神”信仰は、本ものとなって、政治的手段ではなくなっていったのだと思います。
それを象徴するのが二・二六事件ではないかと思います。二・二六事件は、支配層の政治的意図を越えた、本ものの”天皇=現人神”信仰によって、支配層自身が脅かされた事件であったのではないかと思うのです。
たとえ天皇が、”軍部にては機関説を排撃しつつ、而も自分の意思に悖る事を勝手に為すは、即ち朕を機関説扱と為すものにあらざるなきか乎”と主張しても、もはや、本ものの”天皇=現人神”信仰をもつ軍人は聞く耳を持たず、ひたすら、”夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず”というような考えに基づいて、国家を動かすことしか考えられなくなっていたのだと思います。それも、”皇室の尊厳を冒瀆するとか、陛下のご宸襟を悩ます”とかいう言葉を楯にして。
そこに、人権や人命を尊重しない、”天皇=現人神”とする国家のカルトの恐ろしさがあったのではないかと思います。したがって、戦前の皇国日本の正当化は許されないことだと思います。天皇は神ではないのです。一日も早く皇国日本の考え方の残滓を払拭し、人間の尊厳、個人の尊重を基本原理とする考え方で政治が進められるようにしなければならないと思います。靖国神社問題、憲法改正問題、夫婦別姓問題、こども庁の名称問題などで顔を見せる皇国日本の考え方では、人間の尊厳や個人の尊重を基本原理とする国際社会の仲間入りはできないのだと思います。天皇を国民(臣民)の父とし、日本全体を「家族国家」とするような戦前の家族国家観は、きちんと乗り越えられなければならないと思います。
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陛下ご自身による「天皇論」
5 天皇神格化と天皇機関説
1930年代前半の昭和史とは、駐日アメリカ大使グルーが書いたように、「穏健派」と「革新派」とのきわどい鍔ぜり合い、せめぎ合いであったといえる。それだけに、今日になってみれば、昭和十年ごろまでのさまざまな状況下で、天皇の”人間的”発言を、いろいろな文献によってみることができる。
昭和八年の国連脱退は、天皇には最後まで納得できない国策決定であった。これにたいし奈良武官長が「脱退は遺憾であるが国民の世論である」と説明したとき、天皇は、
「世論というも、現今のように軍人が個人の意見を圧迫するようなことがあっては、真の世論はわからないではないか」
といった。また、当時頻りに叫ばれていた「日本精神」についても、
「この日本精神というのは、いわゆる”日本精神”で排他的なものではあるまいね」
と、国際的に孤立化することを戒める発言を天皇はしている。
しかし、当時、それらの天皇発言は残念なことに、いっさい下のレベルまで流れでるようなことはなかった。なぜなら、穏健派であろうと天皇の超越性の維持については、革新派と同一線上に立たなければならなかったからである。ここに大きなジレンマがあった。
その穏健派が、「君側の奸」として軍や右翼の標的とされ、もはや自分たちには情勢に対処する力がない、という事実を認めざるをえないときがきた。昭和十年の天皇機関説問題である。
統帥権が国務から独立して運用されているのは、事実としても、それは一つの慣行でしかない。「将来之を改めて軍の統帥に付いても等しく内閣の責任に属せしめ」ようとする美濃部理論は、軍にとっては明らかに「敵」でしかなかった。この大元帥を天皇の下位におこうとする天皇機関説を、このときの国体明徴運動が一気に押しつぶした。そして天皇の絶対的”神格化”によって、国民を動員するという軍の意図は果たされたことになる。
この明徴運動のさなか教育総監真崎甚三郎は全陸軍に訓示した。
「うやうやしくおもんみるに、神聖極を建て統を垂れ、列聖相承け神国に君臨し給ふ。天祖の神勅炳(ヘイ)として日月の如く、万世一系の天皇かしこくも現人神として国家統治の主体に在(イマ)すこと疑を容れず。………この建国の大義に発して我が軍隊は天皇親ら之を統率し給ふ」
結果は牧野の引退、一木の枢相辞任、法制局長官金森徳次郎の辞職、全面的な穏健派の敗退となる。そして国体明徴の名のもとに、軍人右翼の合作による天皇の「神」への模造が再確認された。このあと理屈抜きの天皇神格化への試みがくり返されていく。
事実昭和六年ごろよりひろく配布されはじめた天皇皇后の御真影が、皇室尊崇観念の血肉化のため、小中学校で極端に重要なものとされるようになったのは、昭和十年からである。御真影と奉安殿普及の徹底化、それと教育勅語によって天皇の神格化は見事に演出され、それにふさわしい最敬礼と唱歌、いわば宗教的なおごそかな雰囲気のもとの儀式は、子供たちの心に尊王愛国をなんの抵抗もなしに浸透していったのである。
さらにもっと重大な事件がそのあとの穏健派を襲った。昭和十一年の二・二六事件は、まさに「昭和」の不可逆点であったといえる。牧野のあとの斎藤内大臣は殺され、鈴木侍従長は重傷を負った。西園寺と牧野は辛うじて暗殺者の手を逃れたが、立憲君主主義者は一人また一人と、天皇のまわりから去らねばならなくなった。
いまになってみると、天皇機関説にたいして、もっとも明快な意見をもっていたのが、天皇その人であったという事実は、なんたる歴史の皮肉としかいいようがない。
侍従次長広幡忠隆には、
「憲法学説として機関説は少しも不都合がないではないか」
と非公式に感想を述べている。また鈴木侍従長にもはっきりいっている。
「主権が君主にあるか国家にあるか、ということを論ずるならばまだ事が判っているが、ただ機関説がよいとか悪いとかという議論をすることは、すこぶる無茶な話である。自分からいえば、君主主権説よりもむしろ国家主権の方がよいと思うが、日本のような君国同一の国ならばどうでもよいではな
いか。君主主権はややもすれば専制に陥りやすいと思う」
さらに本庄侍従武官長と、なんどとなく機関説をめぐって天皇は熱心に議論している。
「自分の位は勿論別なりとするも、肉体的には武官長と何等変る所なき筈なり。従って機関説を排撃せんがため、自分をして動きの取れないものとする事は、精神的にも身体的にも迷惑の次第なり」(三月十一日)
神聖化への、明らかな天皇の抵抗である。またこうもいった。
「天皇主権説も天皇機関説も帰する所同一なるが如きも、労働条約その他債権問題の如き国際関係の事柄は、機関説をもって説くを便利とする」(三月二十八日)
さらに追求する。
「憲法第四条の天皇は、”国家の元首”云々即ち機関説なり。之が改正を要求するとせば、憲法を改正せざるべからずこととなるべし」(三月二十九日)
こうした憲法遵守の天皇の鋭い指摘に、武官長は困惑しながらも、こう応じている。
「恐れながら、軍においては陛下を現人神として信仰申上げております。これを機関説によって人間なみに扱うがごときは、軍隊教育および統帥上至難のことと心得ます」
以下、四月から五月にかけても、機関説をめぐってこの天皇の詰問はつづくのである。しかし、恐らくは、こうして表明された意思はついに政治の中枢部へは伝わっていかなかったのであろう。畢竟、天皇と侍従武官長との会話は、大内山の宮廷内部に秘匿されるべきもので、内閣の奉仕や軍部の意思に反映してはならぬものであったからである。
結果は、四月二十五日の天皇の、「軍部にては機関説を排撃しつつ、而も自分の意思に悖る事を勝手に為すは、即ち朕を機関説扱と為すものにあらざるなきか乎」という言葉どおりに、明確直截な天皇の意思に一顧だに加えず、いや国民がしらぬが幸いと、軍部はかれらの希望する方向へ国家を動かしていった。皇室の尊厳を冒瀆するとか、陛下のご宸襟を悩ますとかいう言葉を楯にして。
昭和前半史の分水嶺は、よく指摘されるように、その意味でも、昭和十年から十一年にかけてのときにあったことは確かである。それ以後は危機の時代から破局の時代へと移っていった。そして破局の時代ではもはや、多くの文献でも天皇の人間らしい声は失われ、沈黙する天皇にして大元帥だけが存在するようになってくる。天皇その人に大きな政治的虚構が加えられ、神として崇め奉られるようになったのはもちろんであるが、その上に日本は”戦時下””非常時”となり、大本営が設営され、第一次近衛内閣のときに考えだされた大本営政府連絡会議が、「不可」をいわぬ天皇をつくりあげていったのである。
すでに書いたように、国政にたいしては輔弼の条項があり、憲法第五十五条にもとづいて天皇はノーということはなかった。しかし軍事にかんしては大元帥として、みずからの責任において直率する以上、天皇はあえて首を横にふることもしばしばであった。少なくとも昭和八、九年ごろまでは、大元帥として統帥部を叱咤することも多かった。軍はそのためしばしば恐懼して、奔馬(ホンバ)の手綱をしめざるをえなかった。
しかし、あまりに史家が指摘しないことであるが、昭和十二年末に大本営政府連絡会議(のち戦争指導会議となる)ができてからは、すっかり様相が変るのである。政府と陸海統帥部は、このときから、事前に議をつめて合意に達した国策(政戦略)を、天皇に奏上するようになった。しかも最重要なものは、天皇臨席の御前会議にかけられることになった。危機の時代に、あれほど軍部を押しとどめるために切望された御前会議が、破局の時代になって、天皇と大元帥を沈黙させるためかのように、ひらかれるようになったのである。何かと大元帥に掣肘(セイチュウ)されることの多かった軍部にとっては、近衛の提案は思う壺であったろう。軍部がねらった親政と親率の合体である。こうして天皇の自由意思が無になるにつれて、現人神として奉られた天皇の名のみが濫用され、絶対的な威力を持って君臨するようになっていく。
日中戦争勃発から太平洋戦争開戦まで、政府・軍部合同の御前会議は八回ひらかれている。いずれも昭和史を大きく破滅のほうへねじまげた決定が、そこでなされた。
第一回 昭和十三年一月十一日
「国民政府を相手とせず」の声明
第二回 昭和十三年十一月三十日
「東亜新秩序建設」の声明
第三回 昭和十五年九月十九日
日独伊三国同盟の締結
第四回 昭和十五年十一月十三日
汪精衛政府承認と対中国持久戦方略
第五回 昭和十六年七月二日
南方進出、対米英戦を辞せず
第六回 昭和十六年九月六日
戦争を辞せざる決意のもと外交交渉をおこない、要求通らぬときに開戦を決意
第七回 昭和十六年十一月五日
交渉不成立の場合、十二月初頭に武力発動
第八回 昭和十六年十二月一日
自存自衛のため対米英開戦決定
このいずれの会議の場合にも、天皇の肉声を聞くことはできなくなっている。御前会議の直前、連絡会議での決定事項を内奏するさいに、天皇(または大元帥)のかなりきびしい質問をみることはあっても、最高の国策決定の場であるかんじんの御前会議においては、天皇はまったく無言のままに、意見一致をみた国策を承認するだけとなった。わずかに第六回目の九月六日の会議において、明治天皇の御製「四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさはぐらむ」を誦し、外交交渉による日米関係の解決を念じた天皇の言葉が、稀有の例として残されている。
そして真珠湾奇襲攻撃によってはじまった対米英戦争においては、陸海軍を信頼し、国の自存自衛のため懸命に戦争指導する”戦う大元帥”の姿だけが、むしろ大きくクローズアップされる。『大東亜戦争肯定論』で論陣を張った作家林房雄の書いたように「天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦った」というのが、いちばん正しいいい方となる。
それゆえ、はじめに書いた「天皇の病気」が大きな意義をもってくる。六月二十日の、天皇のもつ講和の大権を強く前面に押したてることによって、徹底抗戦の大元帥命令を否定する──それこそが、対米英開戦いらい、”国際協調”を第一義とする天皇の、何年かぶりに聞く肉声であったということができるのである。
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