真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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善悪を逆様に見せる物語を紡ぎ出すのは、

2024年08月15日 | 国際・政治

 今回も「わたしは見たポル・ポト キリング・フィールズを駆けぬけた青春」馬渕直城(集英社)からの抜粋ですが、粛清や拷問や大量虐殺を行った独裁者とされているポル・ポトに関して、見逃すことのできない文章が多々あるのです。

 例えば、

米軍はその灌漑設備を狙い、爆撃で徹底破壊を行った。堰堤を切り、水路を破壊し、米の生産を阻止する。住民の直接殺害と並行して、飢餓の蔓延を図る非人道的な爆撃をカンボジア全土で、着々と行っていた

 ベトナム戦争に関わって、アメリカがカンボジア領土を猛爆撃した、こういう事実を知っている日本人は、ほとんどいないように思います。報道されなかったからです。

実際に起きた米国の爆撃により、各都市郊外で待機していた都市住民は市街地へ戻ることができなくなった。食料不足のなか、農村で馴れぬ農作業に従事し、病死者を多く出した一員である。後にポル・ポト時代に殺されたという難民証言の多くは、この時の病死者のことだった

 というのです。恐るべき粛清や拷問で亡くなった人たちの頭蓋骨というのは、実は、独裁者ポル・ポトの恐ろしさを強調するために、餓死したり病死したりした人たちの頭蓋骨を集めたものであったということだと思います。さらに、カンボジア側に拿捕された「マヤグェーズ号」に関し、

当時、『週刊現代』の「こもんせんす」というコラムに、評論家の江藤淳が、”公海上”で”一般商船”を襲うクメール・ルージュの”蛮行”というアメリカの蛮行を覆い隠す内容のことを書いたが、これも事実とは掛け離れていたわけだ

 ということを、”ある黒人マリーンが、彼は名を出さないという条件で、内実を語ってくれた”内容で、確認しています。「マヤグェーズ号」は一般商船の外観をしているが米海兵隊の持ち船で、普段は偵察、情報収集に従事するスパイ船だったというのです。そして、

後に見た海兵隊の広報誌にも、マヤグェーズ号は、過去に米国人をインドシナ半島より引き上げさせるイーグル・ブル作戦に参加した、と明記されていた。マヤグェーズ号は商船などではなく、まぎれもない海兵隊の軍用船だったのだ”

 と書いています。

 このように、西側諸国で知られているポル・ポトに関する情報は、不正確で、その多くが客観的事実とはいえないということだと思います。

 

 そして現在、ウクライナ戦争に関して、西側諸国に都合の良い情報が、くり返し流されている事実も見逃すことができないのです。

 811日、朝日新聞は、再び、「ニューヨークタイムズから読み解く世界」と題する記事を掲載しました。From The New York timesUkraine─Russia Peace Is Elusive as Ever. But in 2022 They Were Talking. ロシアによる侵攻直後の平和平交渉 NYTが文書入手「上」

 ”クライナ譲歩「中立国家化」提案したが”と題されていました。

 私は、朝日新聞の独自の取材に基づく報道をすべきで、「ニューヨークタイムズから読み解く世界」などとアメリカ大手メディアの報道を、何の批判も考察も加えずに掲載する姿勢が理解できません。受け売りの報道は、朝日新聞の主体性の放棄だと思います。そして、それは日本がアメリカの属国であることを受け入る姿勢だと言ってもいいのではないかと思います。

 朝日新聞がアメリカに追随するメディアではなく、独立したメディアであるというのなら、「NYT」が入手したという文書を、直接ロシア側に提示し、一般報道する前に、その内容をロシア側に確認する必要があると思います。

 第二次世界大戦後も、あちこちで残虐な戦争をくり返し、今も、ウクライナやイスラエルを支える戦争に加担しているアメリカの報道が、客観的事実に基づいているといえないことは、上記のような事実の数々が証明していると思うのです。

 また、NYTの記事の中に、

”交渉の席でウクライナ側は重要な情報案を提示した。NATOに加盟することも外国軍のウクライナ駐留を認めることも決してない「永世中立国」になる用意があると表明したのだ。この提案はプーチン氏の根源的な不満の解消を狙っているようだった。その不満とは、「西側諸国はウクライナを利用してロシアを破壊しようとしている」という、ロシア側が紡ぎ出した物語のことだ

 

 ノルドストリームに関わるアメリカの対ロ制裁や、マイダン革命、ドンバス戦争の事実を踏まえれば、 ”ロシア側が紡ぎ出した物語”は、決して「物語」ではないことがわかると思います。むしろ、ニューヨーク・タイムズの記事が、アメリカ・ウクライナに都合の良い物語を紡ぎ出そうとしているように思います。

 だから、私は、下記のような主張も踏まえ、片方の情報を鵜呑みにせず、両方の情報を得て考えることを心がけたいと思うのです。

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                    第三章 民主カンプチアの誕生

 B52──猛爆の下で

 ・・・

 カンボジアには明瞭な形で、雨季と乾季がある。乾季には雨量が極端に減少するため、その間、農耕は天水を溜めた用水に頼ることになる。管理された水が命の綱のだ。水がないと、米が育たない。  

 米軍はその灌漑設備を狙い、爆撃で徹底破壊を行った。堰堤を切り、水路を破壊し、米の生産を阻止する。住民の直接殺害と並行して、飢餓の蔓延を図る非人道的な爆撃をカンボジア全土で、着々と行っていた。

 そのため、クメール・ルージュが解放後に、まず取り組まねばならなかったことは、米軍の爆撃により破壊され尽くした灌漑設備の再構築だった。機械力に全面的に頼ることのできない農村部での土木工事は、必然的に下放による市民の労働が基本となる。米の収穫が遅れれば餓死者が出る。一刻の猶予もない状態から民主カンプチアは国造りを始めなければならなかった。それは0(ゼロ)からのスタートどころではない。アメリカがもたらした戦争による大量の負の要素を抱えた上での国の創建だったのだ。

 

 1975年、米軍がインドシナ半島から敗退し、共産化へと倒れ出したドミノ牌の方向を案じたタイ人たちの一部が米国へ逃げ出した。カリフォルニアにタイ料理の店が、雨後の筍のごとく多数できたのもこの頃だ。

 5月、シャム湾に面した新生カンボジアの沖で、米国籍の商船ヤマグェーズ号が領海を侵犯し、拿捕される事件が起きた。

 その前月417日にカンボジアをクメール・ルージュに解放されてしまったアメリカは、国内に残された親米勢力を救出するためか、潰された己のメンツを保つためか、ともかく”公海上”で拿捕されたヤマグェーズ号を救うという名目で一大軍事作戦を行った。

 太平洋を押さえる第七艦隊の空母がシャム湾に入り、ベトナム戦争中ずっと米軍に協力していたタイのウタバオを米軍基地からは多数の戦闘爆撃機やAC── 47対地攻撃用機ガンシップがやってきた。 拿捕現場近くのプーロワイ諸島には、戦争終結直後からのベトナムの海上国境拡大作戦がなければ配置する必要さえなかった国境警備兵が百人ばかりいた。米軍は、通常爆弾をはじめ、デイジー・カッターの名で知られる6トンもの燃料気化爆弾を、シハヌークビル(コンポン・ソム)、レアム海軍基地、そしてプーロワイ諸島に投下した。

 1973年のパリ和平会議の米側提供提案による同時停戦に応じなかったカンボジアに対してベトナムは圧力をかけ、もし賛成しなければ「アメリカに爆撃させる」と言っていた。それは73815日までの米軍秘密爆撃として行われた。まるでベトナムとアメリカの共同報復作戦のようだった。後に行われた徹底的な、反ポル・ポトの”大虐殺”キャンペーンも、この二国は共通の利害の上に不思議なほどの合致を見せる。

 

 あのプノンペン解放の日、解放軍の上部機関が、日本製軽トラックに乗りラウドスピーカーを通して伝えていた「アメリカによる爆撃あるかもしれません。市民兄弟たちはいったん街から離れてください」という警告は虚偽でも冗談でもなく、本当にあったのだ。それまでの戦闘において、クメールルージュはアメリカ人のやり口と爆撃の凄まじさを熟知していた。市民を救うためには爆撃目標となりそうな場所からは遠ざけなくてはならなかったわけだ。

 実際に起きた米国の爆撃により、各都市郊外で待機していた都市住民は市街地へ戻ることができなくなった。食料不足のなか、農村で馴れぬ農作業に従事し、病死者を多く出した一員である。後にポル・ポト時代に殺されたという難民証言の多くは、この時の病死者のことだった。

 ベトナムも解放後、カンボジアと同じように都市住民を国境方面に下放したが、結局失敗し、街には浮浪者が溢れた。この時の余剰人口が、後のカンボジア侵攻の際、兵力の一部として使われた。

 その後アメリカは、マヤグェーズ号が釈放された後も軍事攻撃を続けたが、プーロワイ諸島では上陸させた海兵隊員に百名以上の死傷者を出してしまい、結局退却せざるをえなくなった。

 当時、『週刊現代』の「こもんせんす」というコラムに、評論家の江藤淳が、”公海上”で”一般商船”を襲うクメール・ルージュの”蛮行”というアメリカの蛮行を覆い隠す内容のことを書いたが、これも事実とは掛け離れていたわけだ。

 この時、米軍が在タイ米空軍ウタパオ基地をタイに無断で使用したことに反発した当時の首相のクークリット・プラモートは、学生たちの反米デモに支持されて、米軍基地六ヶ所の一斉返還を決定した。インドシナ共産党の脅威を受けながらも、タイは米軍に頼ることをやめて自主独立精神を見せたのだ。

 日本にはまだ数百カ所以上の米軍基地がある。日本が実質上、アメリカの植民地であるのとは雲泥の差だ。

 数年後、私は報道写真家、桑原史成氏に誘われて沖縄へと向かった。

 ゴザ(現沖縄市)の海兵隊基地の近く、海兵隊員(マリンコー)相手のバー街でマヤグェーズ号のことを知っている者を探したのだ。取材を始めると、じきに事情を知る男に出会うことができた。ある黒人マリーンが、彼は名を出さないという条件で、内実を語ってくれた。マヤグェーズ号は一般商船の外観をしているが米海兵隊の持ち船で、普段は偵察、情報収集に従事するスパイ船だという。

 後に見た海兵隊の広報誌にも、マヤグェーズ号は、過去に米国人をインドシナ半島より引き上げさせるイーグル・ブル作戦に参加した、と明記されていた。マヤグェーズ号は商船などではなく、まぎれもない海兵隊の軍用船だったのだ。

 先の評論家はそうした事情など何一つ知らず、米軍発表の情報だけを垂れ流す日本のマスメディアによる情報を鵜呑みにしたのだ。

 元来保守的で温厚な性格のカンボジア農民を苛烈な反米闘争へと駆り立てたのは、米軍による73年の大々的な無差別爆撃であった。太平洋戦争で米軍が日本に落とした爆弾の総トン数16万トンの3.5倍、54万トンもの爆弾がカンボジア全土に落とされ、百万人にものぼる国民が殺害されたという。

 この非人道的無差別爆撃という、自国の軍隊が行った大虐殺の隠蔽を図るために、アメリカのマスメディアは必死にポル・ポト派の”大虐殺”を宣伝した。この姿勢は今でも変わっていない。「石器時代に戻してやる」と言って猛爆撃でカンボジア国民を殺戮し続けたのは米軍の方なのだ。

 それにしても、あれだけの凄まじい爆撃のなかを、兵士たちは一体どのようにして生き延びてきたのだろう。解放後にクメール・ルージュの兵士に尋ねた。

 兵士は「走るのだ」と言った。平坦な土地が多いカンボジアでは、兵士は飛来してくる爆撃機の飛行方向を注意深く見る。基本的に大型爆撃機は作戦行動中は進路を変えない。一直線に侵入してくる。兵士はその進路が自分の頭上を通過するようであれば、即座に進路に対して直角方向に全力疾走する。爆弾倉が開き、爆弾が投下され、地上に到達する前までに400m以上走ることができれば命は助かる。

 B─52が投下する通常爆弾は、飛行方向に従い直線上に落ちてくる。そしてその落下地点から少しでも遠くへと離れるには、直角方向に全力速力で走る以外方法はない。

 原始的ではあるが、これが爆撃から身を守る最も有効な手段だった。あれだけの猛爆撃を受けながらも兵士たちの損害が少なかった理由だ。

 爆撃で命を落としたのは老人と婦女子それに牛馬といった家畜が多かった。走ることのできなかった者たちが、肉片となって飛び散り、紅蓮の炎に焼かれた。


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