前稿で、尊王攘夷急進派を主導し、明治の元勲された木戸、大久保、岩倉らが、当時のヨーロッパにおける「民権論」を受け入れようとしなかったことを、津田左右吉の「明治維新の研究」で、確認しました。
彼らは、国王が、国家統治の実権をもたないイギリスなどの制度は”学ぶべからず”とし、天皇を現人神(現御神)として、”天皇自ら政治の実務を執られることが国体の精神である”としたのです。そして、王政復古の目標であった「天皇親政」を装い、「大日本帝国憲法」や「軍人勅諭」、「教育勅語」などを発布するとともに、諸制度を整えて、自らに都合のよい国家主義的な日本を確立したということです。
しかしながら、国王や天皇の”御一存”で、国家統治ができるものではないことは、津田左右吉のいう通りだと思います。そして何より、現実に、明治維新以後の日本の政治は、薩長を中心とするかつての尊王攘夷急進派の手により、彼らの都合のよいようになされたのであり、「天皇親政」の実態は、まさに「藩閥政治」でした。だから、「天皇親政」というのは、彼らが幕府から奪い取った権力を、末永く盤石なものにするための手段であり、見せかけに過ぎなかったと思います。
自らの政治が、”議会によって左右せられることを嫌いつつ政府の意のままになる政治を欲するのは、議会によって代表せらるべき民意を無視せんとするものであるが、そういうことが天皇の政治であるというならば、天皇は民衆をおのれに対抗するものとせられることになるではないか。”という津田左右吉の指摘に誤りはないと思います。
また、日本で「尊王」といわれた皇室への尊崇は、昔から政権の掌握者が、公家でも武家でも、変わらずにもっていた感情であり、皇室が権力と距離を置いて存在したが故の伝統であると思います。平安時代以来、公家や武家の諸権力者は、朝廷を滅ぼすだけの力を持っていても、決して、朝廷を潰そうとはしなかったと思います。徳川家康の一族も、朝廷の天皇から代々征夷大将軍に任命される道を選び、朝廷に逆らうことはしなかったのです。だから、欧米の圧力や国内体制の行き詰まりによって追い詰められた徳川慶喜は、大政奉還で、その権力を朝廷に返すことにしたのであり、それは、徳川幕府に「尊王」の精神が受け継がれてきた証しであるように思います。
だから、日本で長く受け継がれてきた皇室の精神的権威、国家統一の象徴としての権威が、王政復古によって、薩長の政治的権力と一つのものになってしまったとき、長く維持されてきた日本の伝統が潰えたのだと思います。
言いかえれば、日本の精神的権威、国家統一の象徴としての権威を長く維持してきた皇室が、突然、薩長を中心とする尊王攘夷急進派によって政治の表舞台に引きずり出された結果、人権や自由を制限し、外に対する膨張主義、侵略主義を正当化する「大日本帝国」になったということです。そして、”夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる…”というような、狂信的ともいえる考え方に基づく侵略戦争によって、日本を破滅の危機に導いたのが、薩長を中心とする尊王攘夷急進派やったことだ、と私は思います。
だから、津田左右吉がいうように、”いわゆる王政の復古は幕府の権力を破壊して皇室に政治上の権力をもたせようとする主張であったが、それは事実上実現せられず、また実現し得られることでもなかった。”ということが、現実であったと思います。
私が明治維新にこだわるのは、津田左右吉がいうような日本の歴史の事実が、現在もきちんと受けとめられておらず、日々、日本の戦前回帰が進んで行くように思うからです。
なぜ、日本の民間人戦争被害者の補償要求は受け入れず、逆に旧軍人・軍属やその遺族に対する経済的援護法案は承認し、戦前の「軍人恩給」をも復活させたのか、なぜ、憲法が変ったにもかかわらず、戦前の祝日である「神武天皇即位日(2月11日)」を「建国記念の日」としたのか、なぜ、「君」が天皇を意味する「君が代」を「国歌」とし、「日の丸」を「国旗」と定めたのか、なぜ、天皇の「時空統治権」を象徴するといわれる「元号」を法制化したのか、なぜ、天皇を「元首」とし、自衛隊を「国防軍」とするような「憲法」に変えようとするのか、なぜ、選択的夫婦別姓問題や非嫡出子の法的差別問題、こども庁の名称問題で、多くの人々の切実な声を無視し、「伝統的家族観」に固執するのか、…。
下記は、「明治維新の研究」津田左右吉(毎日ワンズ)の「第六章 明治憲法の成立まで」の、「七」の一部を抜粋しました。
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七
前節で述べた如く、民間ではイギリスの政体が立憲君主国の模範として考えられ、その国王には直接に政治の実務に与らない風習のあることと、国王は悪をなさずの格言の如く、政治の責任はすべて大臣が負い、そうしてその進退は議会の意向による慣例の存することとが、賛美せられた。我が国ではそういう慣例の生ずることによって、初めて宮廷と政府との区別が明らかにせられ、従って天皇に責任の帰することが避けられるので、特にこのことが重要視せられたのである。しかるに政府の要地を占めているとともに、いわゆる王政復古時代から伝承せられてきた天皇親政の観念に執着しているイワクラは、強硬にかかる主張に反対し、天皇自ら政治の実務を執られることが国体の精神であるというような考えから、一方では天皇と政府とを同一視するとともに、他方では議会の権力を弱くするような憲法を制定せんとし、それがためにプロシアの憲法を模範としようとした。これにはイノウエコワシ(井上毅)という策士めいた一官僚の助言が有力にはたらいていたといわれているが、イノウエにおいては、イギリスの政党内閣制、したがって内閣諸大臣が連帯責任をとることを非とし、大臣の任免は天皇の特権であること、その大臣の政策が議会の多数に容れられずともその地位を保ち得ること、大臣は天皇に対して責任を負うが国民に対しては責任のないものであること、議会の議に付すべき議案の発案権は政府のみにあること、上院の議院は勅命によるものと華士族の中から選挙せられたものに限ること、などが考えられていた。
なおイノウエは、憲法は内閣または宮内省が起草すべきこと(宮廷と政府との区別のない考え方である)、また政府本位のものたるべきこと、イギリスの憲法では国王は空名を抱くに過ぎずして実権をもたないから、その制度は学ぶべからず、また大臣の進退は民議に委ぬべからず、というようなことを主張し、交詢社起草の私案の如きものを極力排撃している。日本の天皇は政治の実権を握り実務に当たられるべきであるというのであるが、例えば大臣の任免にしても政府のしごとにしても、天皇の御一存でできることなのか、もし政府の補佐と施行とを要するとするならば、それはおのずから政府が逆に天皇を抑制することになりがちであるから、政治の実権を握るのは天皇ではなくして政府であることになるではないか。議会によって左右せられることを嫌いつつ政府の意のままになる政治を欲するのは、議会によって代表せらるべき民意を無視せんとするものであるが、そういうことが天皇の政治であるというならば、天皇は民衆をおのれに対抗するものとせられることになるではないか。イノウエは、士族には王室維持の思想をもつものが多いから、彼らを皇室の味方とすることを考えるがよく、そうしてそれがために旧藩諸侯の思想をよく指導せよ、といっているが、当時の旧藩諸侯に士族を制御する力があるように思っていることを除けてみても、これは明らかに士族以外の民衆を皇室の敵とするものではないか。イノウエの輩がこういう偏狭な考えで日本の憲法の制定ができると思っていたのはあまりにも奇怪な事実である。
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要するに、イトウはドイツの学者から与えられた知識とその助言とに満足して帰朝し、ロエスレルが起草した私案(憲法原規といわれたもの)をも参考にして、秘密裏に憲法の起草に着手した。そうしてそれとともに政府の組織を改革して新しい内閣制度を立て、みずから首相と宮内大臣とを兼ねて政府と宮廷に対する権力をその掌中に収めた(彼の思想においても政府と宮廷とがはっきり区別せられていない)。ところが民間人の間には、かかる秘密裏の憲法起草に対して種々の疑惑が生じ、それとともに、民間の政治運動に対する政府の甚だしき圧迫的態度に反感を抱くものが多く、彼らの論議は囂々として起こり、それに乗じて政府の顛覆を叫ぶもの暴動を起こすものが頻々として現われた。政府は国家を危険に陥れるものと速断して重大視し、遂にかの保安条例を設けて急速にそれを実行した。民間と政府とのかくの如き軋轢が生じたのは、要するに双方の疑惑と誤解と軽率な行動とによるものであるが、政府が一方で憲法の制定に従事しながら他方でかかる事態を惹起した罪は、甚だ大きいといわねばならぬ。
さて、ともかくも憲法の草案は一応でき上ったので、イトウは憲法の審議を主なる任務として新設せられた枢密院の議長の任に就いた。かくして明治二十二年における「大日本帝国憲法」の発布が準備せられたのである。この憲法が王政復古の目標とせられた「天皇親政」の思想を継承するとともに、プロシアの政治思想を取り入れたものであることはいうまでもない。
この憲法の根本は、天皇が祖宗から承けられた統治の大権をもっておられ、それによって国家を統治せられる、ということであり、君民同治という考え方が強く排斥せられている。
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だから発布の日の祖宗に対して誓われた告文(コウモン)には「皇室典範及び憲法を制定す」といい、前文には「茲に大憲を制定し」といい、『憲法義解』に「憲法は天皇の独り定むるところたり」といってある如く、憲法は天皇御自身の定められたもの、いわゆる欽定憲法である。特に告文には、皇室の家法である皇室典範が憲法よりも上位にある如き書き方をしてあり、憲法そのものの条文にも、第七十四条に「皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せず」と特に記され、また『憲法義解』の憲法第二条の解説においては、皇位の継承を憲法に掲げざるは「将来に臣民の干渉を容れざるを示す」といい放ってある、そのいい方に注意すべきである。摂政を置かれることいついての第十七条の義解に「摂政を置くの当否を定むるは専ら皇室に属すべくして、而して臣民の容議するところにあらず」または、両院が摂政の必要を議決することを憲法に掲ぐる如きは、「皇室の大事を以て民議の多数に委ね、皇統の尊厳を干涜(カントク)するの漸(ゼン=糸口)を啓ものに近し」とまで極限しているほどである。天皇の大権についても、あるいは「議会の参賛に仮らず」とか「議会の関渉によらず」(第十三条)とかいっている場合がある。
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そうして、上記の憲法の前文などや『憲法義解』において、憲法は天皇の独り定められたものとなっているにもかかわらず、それが政府者の意向によって起草審議せられたものであることの
明白な事実を、どう考うべきであるかは、『憲法義解』などの説明し得ないところである。審議には天皇が親臨せられたけれど、それによって天皇が独り定められたいわるべきものでないことは、と明らかであろう。これは天皇に関する憲法の多くの条文上の規定にについてもまたいい得られることであって、それは政府の起草者が起草し枢密院の審議を経たものである。条文のみならず、付属文書ともいうべき告文や勅語にもまた政府者の意見が盛られていることは、当然推測せられる。上に引いたような辞句のあるのも、「政府者の態度の現われとして見らるべきであろう。こういう点においても天皇と政府とが混一せられていることを見逃してはならぬ。また条文上の規定は、起草者などにおいては、ただ規定しておけばそれで国民がその通りに考えもし信じもして、すべてが規定のままに実行せられる思っていたかもしれぬが、それは大きな誤りである。後にいうように条文にどうなっていても、事実としてはそのままに行なわれない規定が天皇と政府との関係には多いことが、明らかだからである。
もう一つ注意すべきは、憲法において天皇の神聖不可侵の規定と大臣責任のとが切り離されていることである。この二つはいずれの立憲君主国の憲法にもその条項があり、互いに密接な関連を有するものとして記されていて、プロシアのですらそうなっているのに、この日本の憲法には、大臣の責任は国務大臣の章に輔弼の責任という意義で、従ってそれが天皇に対するものとして取り扱われ、国民
または議会にたいするものとはなっていない。国民または議会に対するものならば、それは天皇に代わって責任を負うことになるであろうが、そういうことは認められなかったらしい。現に『憲法義解』には「君主に代わり責に任ずるにあらざるなり」と明記してある。ある時期に書かれた『憲法義解』の稿本には、神聖不可侵の条項の解説に、至尊に代わって負う大臣の責任のことが述べてあったのに、公表せられたものにはそれが全く削除せられているが、これはそのためではなるまいか。従って天皇の神聖不可侵の規定には、天皇の政治上の御行動とは無関係な、何らかの神秘的な意義でもあるかの如くに感ぜられる。
多くの国の憲法には、神聖不可侵の国王の身体に関することとして記されているのに、日本の憲法に「身体」の語のないことも不可侵が法の上の問題とせられていないことをしめすものとして、またこの感じを強める。もっとも直接に身体にかんすることは、遠い昔には天皇流謫(ルタク)(※島流し)のことがあり、保元の乱や承久や元弘の変の場合などにも同じことがかつて行われた例があるのみで、その後は全く史上にその跡を断ったのみならず、これらの例はいずれも時の権家のしたことであり、それにはまた皇族間の紛争というようなことが機会となったものであって、国民の関することではなかった。天皇と国民の抗争というようなことは、我が国では建国以来かつてなかったのであるから、憲法にそれを規定する必要はなかったであろうが、しからばその「侵す」ということは何を考えて書かれたのか。…
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