真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡辺昇一)を読んで NO4

2016年02月15日 | 国際・政治

 「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があり、その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。
  ここでは、「なぜ、虐殺の目撃者が皆無なのか」と題された下記の文章(資料1)について、くり返しになる部分もありますが、問題点を4つ指摘したいと思います。
  まず第一に、テーマが問題です。「皆無」ではないからです。
 例えば、 当時東亜局長という立場にあった外交官、石射猪太郎は、その著書「外交官の一生」(中公文庫)の中で「南京アトロシティーズ」と題した文章を書いています。(資料2)。
 南京戦当時「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ」と書いていたのです。
 また、当時南京にいた同盟通信の前田雄二記者は、自身の著書「戦争の流れの中に」(善本社)に「南京大虐殺とは」と題した文章を、当時の日記をもとに書いています(資料3)。
 そして、渡部氏が名前をあげている作家の石川達三は、同書に「直接体験の新鮮さ」と題する文を寄せています。下記のような内容です。
前田雄二君とは一種の戦友である。太平洋戦争のはじめごろ、サイゴン(旧名)で会い、シンガポールで会い、私は夜になると彼の宿舎を訪ねて(払印進駐)当時 の彼の体験を聞かせてもらった。前田君は文字通り砲煙弾雨の中をくぐり抜けて報道の仕事に駆け回って来た人である。よく生きてきたものだと思う。
  あれから40年も経って、いまになって彼は従軍体験の手記を書いた。なぜ、もっと早く書かなかったのか、それは同君の性格によったものであっただろう。従軍記は無数に出版されていて、私もかなり多くを読んでいるが、しかし前田君のこの手記は、いささかも古くなっていない。一読してその新鮮さに驚く。のみならず私には、いくつかの新しい発見もあった。たとえば南京占領軍の総司令官松井石根大将は、戦犯のゆえをもって戦後処刑されているが、部下の残虐行為を大変厳しく叱責した人であったらしい。同大将を処刑したことは、戦犯裁判の誤りではなかったか。”
 さらに当時同盟通信映画部のカメラマン、浅井達三氏も
”… 同盟のことは前田雄二さんが書いた『戦争の流れの中に』(善本社)にあるとおりです。彼は毎日、夜に日記をつけてました。それを基にあの本を書いたので、正確だし、僕等が忘れている人の名前まできちんと出てきます。当時軍に対して言えなかったことも書いているし、同盟通信の中の争いも隠さずにそのまま 書いています。全くあの通りです。”
と書いているのです。
 したがって私は、渡部氏が「新兵教育」と称して、日本軍が新兵に突き殺させた捕虜の殺害が「合法」であり「虐殺」ではないと論証しない限り、「なぜ、虐殺の目撃者が皆無なのか」というテーマ自体が間違いということになると思います。
 こうした関係者の記述は他にもいろいろあります。渡部氏が読んでいないだけであり、聞いていないだけではないかと思います。

 また、「新聞記者やカメラマン120人」も南京陥落と同時に南京に入ったと書いていますが、その120人が、その後もずっと南京に留まったわけではないと思います。それは、渡部氏が名前を挙げておられる作家や評論家も同様です。「彼らには目がなかったのか。筆はなかったのか。舌はなかったのか。」とのことですが、南京陥落を取材し、入城式などの様子を報じた後は、大部分の人たちはその役目を終えて南京を後にしたのではないでしょうか。
 さらに言えば、軍がそうした人たちに、直接集団虐殺の場面を見せるとは思えませんし、軍の許可を得て南京に入った人は、例えうわさ話に聞いはいても、それを公言することはできなかったのではないでしょうか。
 「戦後はいくらでも日本軍の旧悪は書けたはずである」とも言っていますが、そうした人たちの当時やその後の人間関係を考えると、それほど簡単なことではないと思います。

 それから、戦時中、「軍機保護法」や「新聞紙法」、また、「陸軍省令第二十四號」や「海軍省令第二十二號」によって、厳しく報道が統制されていたことを忘れてはならないと思います。例えば、昭和12年7月31日施行の「陸軍省令第二十四號」には、「新聞紙法第二十七條ニ依リ當分ノ 軍隊ノ行動其ノ他軍機軍略ニ關スル事項ヲ新聞紙ニ揭載スルコトヲ禁ス 但シ豫メ陸軍大臣ノ許可ヲ得タルモノハ此ノ限ニ在ラス」とあり、省令施行後は、「我ガ軍ニ不利ナル記事」が禁じられ、報道されることはなかったのです。
 1937年8月には「軍機保護法」が改正され、「秘密漏洩罪」が新聞記者などにも適用されることとなったといわれます。南京に入った従軍記者や評論家、作家なども、ありのままに戦場の実態を伝えることなどできなかったし、「我ガ軍ニ不利ナル記事」を平気で書くような人物は最初から戦場に行くことすらできない状況にあったことを踏まえなければならないと思います。
 そして、陸・海軍両省にはそれぞれ「新聞(雑誌)掲載事項許否判定要領」もあり、「十一、我軍ニ不利ナル記事、写真ハ掲載セサルコト」のみならず、「十二、惨虐ナル写真ハ掲載セサルコト」と定められていたのです。
 国民に、戦争犯罪に関わるような日本軍の情報が伝わることはなかったということを、忘れてはならないと思うのです。
 さらに、「出版法」や「 出版条例」、「不穏文書臨時取締法」、「軍用資源秘密保護法」、「治安維持法」などもありました。「我ガ軍ニ不利ナル記事」のみならず、そうした事実を話すことすら、自由にできない状況にあったのではないでしょうか。
 戦後は、そうした過去を思い出したくない人や戦争に協力させられた自分をふり返りたくない人もいるようですし、加えて、戦後日本人自身による「戦争責任」に関わる裁判が行われなかったために、戦時中の日本軍の戦争犯罪を公言することが難しい側面が残されていることも見逃すことはできないと思います。

 次に、渡部氏は、国際連盟に「南京大虐殺の提訴」がなかったのは、「南京大虐殺」などなかったからだというようなことを書いておられますが、それは違うと思います。中国政府は1937年9月13日からの第18回国際連盟総会に日本の中国侵略を提訴しています。そして、国際連盟総会は9月28日に日本軍の「都市爆撃に対する国際連盟対日非難決議」を全会一致で可決しているのです。また国際連盟総会は、日本の中国に対する軍事行動が九カ国条約違反であり、不戦条約違反であると判定し、中国を道義的に支援することを採択しています。さらに、その後九カ国条約会議では、日本の中国侵略を国際法違反として非難し、警告する宣言を採択しています。「南京大虐殺」という言葉がないからといって、「南京大虐殺」がなかったかのようなことをいうのはいかがなものかと思うのです。

 1937年12月24日、蒋介石がルーズベルトへ手紙を送っていることも見逃してはならないと思います。日本軍による「無数の非戦闘員」の「虐殺」について訴えているのです。下記のような内容です。

 ”中国は有史いらい、現在進行しているような容易ならぬ危機に直面したことはかつてありませんでしたし、極東の平和が今日のように破滅的危機にさらされたこともありませんでした。この五ヶ月の間、中国は日本を相手に生死をかけて戦ってまいりました。

 最新鋭の武器で武装しながら、中世の野蛮さの特徴であるような残酷さを発揮した日本軍は、中国に上陸して以後、陸・海・空軍でもってつぎつぎに都市を攻略 し、この間、少なからぬ外国人も含めて、無数の非戦闘員を虐殺し、莫大な施設・財産、および宗教寺院、慈善施設さえも容赦することなく破壊してきました。・・・”

 また井上久士氏によれば、蒋介石は1938年7月7日日中戦争一周年に際し、「全国の軍隊と国民に告げる書」「世界の友邦に告げる書」「日本国民に告げる書」という三つの文章を発表したといいます(浙江省抗日自衛委員会戦時教育文化事業委員会発行 1938年初版 10月再販)。その「日本国民に告げる書」の中に、
貴国の出征将兵はすでに世界で最も野蛮、最も残酷な破壊力になっていることを諸君は知っているだろうか。貴国がいつも誇っている「大和魂」と「武士道」はせでに地を払い消滅してしまった。毒ガス弾ははばかることなく使用され、麻薬販売は公然とおこなわれ、すべての国際条約と人類の正義は貴国の中国侵略軍によって乱暴に踏みにじられてしまった。そのうえ一地区が占領されるごとに放火・略奪の後、遠くに避難できなかった無辜の人民および負傷兵に対し、そのつど大規模な虐殺をおこなった。
 とりわけ私が実に口にするのも耐えられないが、言わざるを得ない一事は、すなわちわが婦女同胞に対する暴行である。10歳前後の少女から5、60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人を裸にして一堂に並べ強姦してから惨殺した。… このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点を留めるものである。…”
とあります。蒋介石は明らかに南京における日本軍の蛮行を踏まえていたと思われますが、毒ガス弾の使用や麻薬の販売にも触れています。当時の中国にとっては、「南京」だけが特別問題なのではなかったのではないでしょうか。

 三つ目は、渡部氏が、田中正明の著書を引いて「南京は広い町ではない。首都と言っても北京や日本の京都といったものでなく、東京の世田谷区より小さく、鎌倉市とほぼ同じである」と書いていることです。そして、「そこに非戦闘員を20万人集めた安全区があり、そこは反日的欧米人が管理している。そんなところで、どうして市民の大量虐殺などありえよう。」と続けていますが、あまりにも勝手な議論ではないかと思います。「南京大虐殺」は鎌倉市ほどの広さの南京城内で行われた、などと誰がいっているのでしょうか。「市民」の「大量虐殺」と、いつの間にか虐殺の対象が「市民」になっていることも問題だと思います。
 南京城内の散発的な殺害も含めてでしょうが、南京城外の下関草蛙峡や紫金山山麓、また水西門外その他の場所で軍命令によって捕虜の「集団虐殺」がなされ、さらに、日本軍の「包囲殲滅戦」によって近郊農村にいた多数の市民が巻き添えとなって殺されたことが、「大虐殺」として問題にされているのではないかと思います。便衣兵狩りで捕らえられた敗残兵の中には、一般市民もかなり含まれていたようですが、虐殺の対象は基本的には中国兵だったのではないでしょうか。したがって、渡部氏の「市民の大量虐殺」という表現は適切ではないと思います。

 四つ目は、「あれほど宣伝 ─ デマ宣伝 ─ を得意とする中華民国政府代表が「南京大虐殺」を話題にしないわけはないのである。…」という表現や「東京裁判が始まってからは、いろいろな証言やら研究などが出てきたが、それはたどっていけば、すべて戦場の伝聞と、東京裁判の採用した崇善堂資料 ─ 今ではインチキと証明されている ─ あたりに落ち着くのである。」という表現についてです。
 中華民国が、「デマ宣伝」が得意という根拠は何でしょうか。また、「崇善堂資料はインチキと証明されている」という根拠拠は何でしょうか。きちんとした根拠を示すことなく、こうした表現をすれば、日中の関係改善は一層難しくなるのではないかと思います。
 渡部氏は、南京戦当時の戦闘詳報や陣中日日誌、陣中日記に残された虐殺の日本側資料や多くの元日本兵の証言には触れておられませんが、無視してよいとお考えなのかどうか、疑問に思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
               ─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか                            
(1) 敗者の悲劇 ────  「東京裁判」と「南京大虐殺」                              

なぜ、虐殺の目撃者が皆無なのか
 「南京虐殺事件」がはたしてほんとうに存在したのかと疑う第三の理由は、南京が当時は国際都市で、欧米人もかなり住んでいたということである。
 しかも、南京は決して広い町ではない。首都と言っても北京や日本の京都といったものでなく、東京の世田谷区より小さく、鎌倉市とほぼ同じである(田中・前掲書160ページ)
 そこに戦闘員を20万集めた安全区があり、そっこは反日的欧米人が管理している。そんなところで、どうして市民の大量虐殺がありえよう。それどころか、感謝状さえ残っている。当時きわめて反日的だったアメリカの『タイムス』誌も、むしろ日本軍の安全区の取扱いについて好意的である。
 日本軍のシナ大陸の行為に対してきわめて批判的であり、日本軍の空爆など日本非難の提案を満場一致で可決した国際連盟 ─ 日本はとっくに脱退していた ─ でも、「南京大虐殺」などは議題にも上がらず、提訴もなかった。南京陥落約半年後に開かれた国際連盟理事会には、中華民国政府代表も出席していたのだ。
 あれほど宣伝 ─ デマ宣伝 ─ を得意とする中華民国政府代表が「南京大虐殺」を話題にしないわけはないのである。市民の大量殺害ほど国際的同情を惹くものはないのにやらなかった。それは、実際になかったからである。

 また、日本に反感を持ち、中立を犯して蒋介石に援助していたアメリカもイギリスも、また、フランスも外交的に抗議していない。彼らの代表は南京にいあわせたのに、である。
 当時のシナ大陸のニュースを世界に送っていたロイターやAPやUPなどの大通信社の記者たちは、市民大虐殺のようなセンセイショナルなことが起こったならば、それをなぜ打電しなかったのか。
 日本の新聞記者やカメラマンも120人も南京陥落と同時に入った。それだけの人が、誰も知らないでいた。大宅壮一、西條八十、草野新平、木村毅(評論家)、林扶美子、石川達三、杉山平助(評論家)、など錚々たる評論家、作家も当時の南京に入っていた。彼らには目がなかったのか。舌はなかったのか。
 この人たちは、戦時中はそれを書けなかったと仮定しても、戦後はいくらでも日本軍の旧悪は書けたはずである。しかも、終戦直後は旧日本軍や日本軍人の諸悪を書くことは流行になっていたのに、「南京大虐殺事件」を書いた本はなく、それを記事にした新聞があったことは知られていない。
 南京大虐殺物が出てきたのは、すべ東京裁判にそれが持ち出された後である。(富士信夫・前掲書・下565パージ)
 しいて事件当時のものを探せば、「マンチェスター・ガーディアン」のティンパリイ記者の日本軍の暴行批判記事があるが、それは、すべて戦場のデマを反日プロパガンダの意図をもって書かれたものにすぎない。
 当時、彼は南京にいなかったのだから、何も目撃できるわけはなかった。
 東京裁判が始まってからは、いろいろな証言やら研究などが出てきたが、それはたどって行けば、すべて戦場の伝聞と、東京裁判の採用した崇善堂資料 ─ 今ではインチキと証明されている ─ あたりに落ち着くのである。

 第四には、住民に及ぼした被害、特に家屋などの被害があった場合の責任は誰か、ということである。
 日本軍は首都攻略の被害のだいなることを恐れ、オープン・シティ(非武装都市)にすることを蒋介石総統や唐生智将軍に勧告している。しかし、この勧告は拒否された。しかも、総統や将軍たちは市民や敗残兵を後に残して逃げてしまったのだ。日本軍が到達する前に秩序はなくなり、敗残兵の天国になっていたのである。
 この前の大戦で、パリの争議が行われたが、最初、敗れたフランスがオープン・シティ宣言をし、パリの町も無傷で残った。首都の死守は、防衛する側にもその被害の責任がある。この点、日本軍がマニラ死守をやって、市民や町に被害を与えたのは、日本軍の責任が大きい。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    東亜局長時代──中日事変

 南京アトロシティーズ

  南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危ないとさえ報ぜられた。1938年(昭和13年)1月3日の日記にいう。

 上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
 南京、上海からの報告の中で、最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。

  私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりにも大量な暴行なので、手のつけようがなかったのだろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員会なるものから日本側に提出された報告書には、昭和13年1月末、数日間の出来事として、70余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、60余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正 のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。

 これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。

  日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千子の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼讃するのみであった。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                  第二部 南京攻略戦
「南京大虐殺」とは
”処刑”
  翌日(12月16日)新井と写真の祓川らといっしょに、軍官学校で”処刑”の現場に行きあわせる。校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだ し、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が背後から突き貫く。悲鳴をあげて壕に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。
 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫びたてる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。

 私は、これから処刑されようとする捕虜の顔を次々に凝視していた。同じような土気色の顔で表情はなかった。この男たちにも父母があり兄姉があり弟妹があるだろう。しかし今は人間ではなく物質として扱われている。
 交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。
 私は辛うじて10人目まで見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。
 ・・・

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