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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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関東大震災 朝鮮人虐殺に関わる流言蜚語の真相

2012年01月30日 | 国際・政治
 関東大震災直後、政府は内務省警保局長名で、下記船橋送信所関係文書(資料2)にあるような電文を各地方長官宛てに打電した。そして、それを受けるように、埼玉県は各市町村に自警団の組織化を促す通達(資料3)を発した。それらが、朝鮮人に関わる流言蜚語を日本全国に伝搬させ、自警団員による朝鮮人虐殺を随所で発生させる導火線となったことは疑いない。

 しかしながら一方で、9月1日内務省警保局は「人心に不安をあたえるごとき報道」は自粛するよう懇談書をだし、9月3日に「朝鮮人の妄動に関する風説は虚伝に亘る事極めて多く非常の災害に依り人心昂奮の際如斯虚説の伝搬は徒に社会不安を増大するものなるを以て朝鮮人に関する記事は特に慎重に御考慮の上、一切掲載せざる様御配慮相煩度尚今後如上の記事あるに於ては発売頒布を禁止せらるゝ趣に候条御注意相成度」という警告書を出して言論統制に踏み切った。以後、新聞各社は官製資料をもらって記事にしたという。「正確なる事実を民衆に知らしめんが為毎日2回(午前10時・午後1時)検閲係に於て新聞記事材料を発表する事と為し即日之を各社に告示する」という方針に基づいたのである。その記事差し止めが解除されるのは、同年10月20日である。その間、船橋送信所から発せられた電文のような流言蜚語や、下記に見られるような新聞報道(資料4)の流言蜚語は、否定されることなく放置に近い状態だったようである。そこに民衆蜂起を恐れた官憲側関係者の作為が読み取れるという。

 考えてみれば、震災後の人心不安の中で、なぜ自然災害ではなく、「不逞鮮人の来襲」などというような流言蜚語が全国的に発生したのか不可解である。さらには、何故朝鮮人と社会主義者を結びつけるような流言蜚語が発生したのか。やはり、それらが一般民衆のなかから発生することは考えにくい。また、下記「流言状況」の中にも、作為を感じさせるものある。さらに、「流言者の検挙取締」の文書は発せられたが、それが現実に進められた気配がないことも気になるところである。「…流言はいづくまでも流言にして、事実の補足すべきものなかりし…」というのである。

 「信濃川水力発電所虐殺事件」以降、朝鮮人の労働運動と日本人の労働運動や社会主義者の運動等が、その結びつきを深めつつあった時期であることを踏まえれば、米騒動や三・一運動、五・四運動等を経験し、民衆蜂起を恐れていた官憲側の意図が透けて見えるのではないか、というわけである。下記は全て「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」(みすず書房)からの抜粋である。

資料1-------------------------------
          3 警視庁及び各警察署管内における流言状況
1 警視庁
 一、概 記 (略)
  
 二、流言の発生
 流言蜚語の、初めて管内に流布せられしは、9月1日午後1時頃なりしものの如く、更に2日より3日に亘りては、最も甚だしく、その種類も亦多様なり。
 今本庁及び各署にて偵察聞知せる、流言蜚語の大要を、日時を逐ふて列挙すれば左の如し。
  (A)9月1日午後1時頃
 「富士山に大爆発ありて今尚噴火中なり」
 「東京湾沿岸に猛烈なる大海嘯来襲して人畜の死傷多かるべし」
 「更に大地震の来襲あるべし」
     同日午後3時頃 
 「社会主義者及び鮮人の放火多し」
  (B)2日午前10時頃
 「不逞鮮人の来襲あるべし」
 「昨日の火災は、多く不逞鮮人の放火又は爆弾の投擲に依るものなり」
 「鮮人中の暴徒某神社に潜伏せり」
 「従来官憲の圧迫に不満を抱ける大本教は、其教書中に於て今回の大火災を予
 言せしが、今や其実現せられしを機として、密謀を企て、教徒数千名上京の途に
 あり。」
     同日午後2時頃 
 「市ヶ谷刑務所の解放囚人は、山の手及び郡部に潜在し、夜に入るを待ちて放
 火するの企てあり。」
 「鮮人約200名、神奈川県寺尾山方面のに於て、殺傷、掠奪、放火等を恣
 にし、漸次東京方面に来襲しつつあり」
 「鮮人約3000名、既に多摩川を渉りて洗足村及び中延附近に来襲し、今や住
 民と闘争中なり」

     同日2時5分頃
 「横浜の大火は、概ね鮮人の放火に原因せり、彼等は団結して到る所に掠奪を
 行ひ、婦女子を辱しめ、残存建物を焼毀せんとするなど、暴虐甚しきを以て、全
 市の青年団、在郷軍人団等は、県警察部と協力して、之が防止に努力せり」(横
 浜方面よりの避難者の流言)
 「横浜方面に於ける鮮人の集団は、数十名乃至数百名にして、漸次上京の途に
 就けるを以て、神奈川、川崎、鶴見、各町村に於ては、全力を挙げて警戒を厳に
 せり」(横浜方面よりの避難者の流言)
 「横浜方面より来襲せる鮮人の数は、約2000名にして、鉄砲、刀剣等を携帯し、
 既に六郷の鉄橋を渡れり」
 「軍隊は六郷河畔に機関銃を備へて、鮮人の入京を遮断せんとし、在郷軍人、
 青年団員等亦出動して軍隊に応援せり」
 「横浜方面より東京に向へる鮮人は、六郷河畔に於て軍隊の阻止する所となりし
 より、転じて矢口方面に向へり」
     同日午後3時40分頃
 「高田町、雑司ヶ谷なる○○○○は、向原○○○○方へ放火せしむとし現場に
 於て民衆の逮捕する所となれり」

     同日午後4時頃
 「大塚火薬庫襲撃の目的を有する鮮人は、今や将に其附近に密集せんとす」
 「鮮人、原町田に来襲して、青年団と闘争中なり」
 「原町田を襲へる鮮人200名は、更に相原、片倉の両村を侵し、農家を掠め、婦
 女を殺害せり」
     同日午後4時30分頃
 「鮮人200~300名横浜方面より神奈川県の溝ノ口に入りて放火せる後、多摩
 川、二子の渡を越え、多摩河原に進撃中なり」
 「鮮人、目黒火薬庫を襲へり」
 「鮮人、鶴見方面に於て婦女を殺害せり」
     同日午後5時頃
 「鮮人百十余名、寺島署管内四ツ木橋附近に集り、海嘯来ると連呼しつゝ戎兇器
 を揮ひて暴行を為し、或は放火を敢てするものあり」
     同日午後5時30分頃
 「戸塚方面より多数民衆に追跡せられたる鮮人某は、大塚電車終点附近の井水
 に毒薬を投入せり」
     同日午後6時頃
 「鮮人等は予てより、或機会に乗じて、暴動を起すの計画ありしが、震火災の突
 発に鑑み、予定の行動を変じ、夙に其用意せる爆弾及び毒薬を流用して、帝都
 の全滅を期せんとす、井水を飲み、菓子を食するは危険なり」
 「上野精養軒前の、井水の変色せるは毒薬の為なり、上野公園下の井水にも異
 状あり、上野博物館の池水も亦変色して金魚悉く死せり」
 「上野広小路松坂屋前へ爆弾2個を投じたる鮮人2名を逮捕せしが、其所持せる
 2枚の紙幣は、社会主義者より得たるものなり」

 「上野駅の焼失は、鮮人2名が麦酒瓶に容れたる石油を注ぎて放火せる結果な
 り」
 「鮮人約200名、品川署管内仙台坂に襲来し、白刃を翳して掠奪を行ひ、自警団と闘争中なり」
 「鮮人約200名中野署管内雑色方面より代々幡に進撃中なり」
 「代々木上原方面に於て鮮人約60名、暴動を為しつゝあり」
     同日午後7時
 「鮮人数百名、亀戸署管内に闖入し暴行を為しつゝあり」
 「鮮人40名、八王子署管内七生村より大和田橋に来襲し、青年団と闘争中にて
 銃声頻りに聞ゆ」
   (C) 3日午前1時
 「鮮人約200名、本所向島方面より、大日本紡績株式会社及び隅田駅を襲撃せ
 り」
       同日午前4時頃
 「鮮人数百名、本郷湯島方面より上野公園に来襲の状あるを以て、速に谷中方
 面に避難せよ、荷物等は持ち去るの要なし、後日富豪より分配する様取計ふべ
 し」

       同日午前10時 
 「兵士約30名、鮮人暴動鎮圧の為、月島に赴きたり」
   (D) 4日午後30分頃
 「鮮人、警察署より解放せられたれば、速に之を捕へて殺戮すべし」
       同日午後6時30分頃
 「鮮人市内の井戸に毒薬を投入せり」
       同日午後9時頃
 「青年団員が取押へて、警察署に同行せる鮮人は、即時釈放せられたり」
 「上野公園及び焼残地域内には、警察官に変装せる鮮人あれば注意すべし」

資料2-------------------------------
               2 船橋送信所関係文書

○呉鎮副官宛打電  9月3日午前8時15分了解
  各 地 方 長 官 宛                   内務省警保局長 出
 東京附近の震災を利用し、朝鮮人は、各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火をせんとするものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳格なる取締を加へられたし。

○呉鎮副官宛   9月3日午後10時10分了解
  山 口 県 知 事 宛                   内務省警保局長 出
 東京附近震災を利用し、内地在留鮮人は不逞の行動を敢てせんとし、現に東京市内に於ては放火をなし、爆弾を投擲せんとし、頻に活動しつつあるを以て、既に東京府下に一部戒厳令を施行するに至りたるが故に、貴府に於ては内地渡来鮮人に付ては厳密なる視察を加へ、苟も容疑者たる以上は内地上陸を阻止し、殊に上海より渡来する仮装鮮人に付ては充分御警戒を加へられ、適宜の措置を採られ度。


○9月2日午後8時20分      船橋 発電
騎20名、7時半警戒の任につきつつあり、附近鮮人不穏の噂。

○9月2日午後8時28分
  海 軍 大 臣 宛 横 鎮 長 官 発
 本日午前11時横浜着警備艇の状況報告左の如し。
一、1日午前11時58分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆破所々に
   起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海と化し、死傷数知れず。
二、(下略)

○9月3日午後4時30分
  船橋発電
 船橋送信所襲撃の虞あり至急応援頼む、騎兵1ヶ小隊応援に来る筈なるも未だ
来らず。

○9月4日午前8時10分  同10時電
 本所爆撃の目的を以て襲来せる不逞団接近騎兵2(20ならん)青年団、消防隊にて警戒中の右の兵員にては到底防禦不可能に付約150歩兵急派方取計ひ度当方面の陸軍には右以上出兵の余力なし。


資料3-------------------------------
              10 流言の流布と自警団

  埼玉県通達文
 東京における震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和
し以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候就ては此際警察力微弱であるから町村当局者は在郷軍人
分会、消防手、青年団員と一致協力して其警戒に任じ一朝有事の場合には速かに適当の方策を講ずるやう至急相当手配相成度き旨其筋の来
牒により此段移牒に及び候也。
                           (福岡日々新聞 大正12・10・19)

資料4-------------------------------
             11 全国主要地方紙流言記事

           4
  約三千人の不逞鮮人
     大森方面より東京へ
 (別紙)3日午後5時迄大森方面に約3千人の不逞鮮人横浜より東京に入り込み隊伍を組んで東京方面に向ひたりとの情報伝はりたるより歩兵一個小隊を出したるが同小隊と衝突し彼我の間に戦闘を開始されたるも一個小隊の総勢小勢なりしを以つて敵し難く全滅の恐れあるを以つて急を大崎方面警戒中の麻布三連隊に告げたるより同隊は歩兵一個中隊を自動車にて派遣したるがその後の報道詳ならず一説には鮮人の数は400人と称せらる(新潟経由東京電話)

  放火、強盗、強姦、掠奪
     驚くべき不逞鮮人暴行
 (3日午後1時土浦発)2日より上野附近にて不逞鮮人多数強盗強姦掠奪凄じく附近の井戸に毒を放ち各所に放火しつつあり日暮里に向ひ入京者を襲ふ為め人々は見つけ次第討殺しつつあり入京危険なり東京附近は今飢餓状態のため徴発令発せられん。

  爆弾と毒薬を有持する
     不逞鮮人の大集団
        2日夜暗にまぎれて市内に侵入
           警備隊を組織して掃蕩中
 不逞鮮人多数入り込み井戸に毒薬を投じて石油を屋上に注ぎ放火をなすの恐れあれば住民は直に警備隊を組織して久堅町、大塚仲町養育院前等において約十数名の鮮人を引捕へ一々厳重なる身体検査をなして官憲の手にこれを引渡し或は昂憤したる警備隊自ら適当の膺懲を加へ専ら放火の厄を免れんと努力しつゝあるを発見したり因に警備隊は日本刀棍棒等の各武器を携へ相言葉を使用不逞鮮人を発見するや呼子の笛を以て警備隊員を召集しこれを逮捕する等その行動極めて敏活を極めつゝあり右方面には騎兵砲兵等乗馬にて出動し警戒怠りなく前日来の奮闘に困憊し居るを以つて宇都宮66聯隊高崎15の両聯隊の応援を求めている(宇都宮経由東京電話)
                               (河北新報 大正12・9・4)

            9
  不逞鮮人凶暴を極め
     飲食物に毒薬や石油を注ぐ
        彼等は罐詰に似た爆弾を所持しつつあり
           警備隊は日本刀棍棒鉄棒等の武器を携帯
                (4日午前7時宇都宮経由)

  不逞鮮人の背後に主義者
          暴動言語に絶し風上に
            石油を注いで火を放つ

  鮮人十数名をを銃殺
     執れも爆弾の携帯者
         (3日午後10時40分函館運輸事務所着電)

 2日夜東京駅附近にて朝鮮人数十名警備隊の為せらる鮮人は爆弾携帯者ならん。   
                           (北海道タイムス 大正12・9・5) 
    
            10
  不逞鮮人の陰謀に
     御盛典を期す
        携帯短銃は露国式
                 (5日午前11時宇都宮経由)
 鮮人の陰謀は今秋行はるる御盛典当時行ふ事に着々進めたるもものらしく然るに今回の変災に乗じ遽かに之を行ひたるものらしく彼等の携帯せるピストルは露国方面より手に入れたらしく爆弾は未だ不明而して彼等の系統は重に上海朝鮮より入り込みたるものならんと此の大体の目星附きたる為当局が之が捜査をなしつつありて各駅にて取り押さえたるもの多し

  鮮人の暗号が判明したと全市に
     伝えられ警戒の度は益々厳重になつたが
 丸にAの印は爆弾を投げる箇所
 ヤの字は暗殺強盗
 カの字は井戸に毒薬を投入
 菱形は放火だと云はれ夫々チョークで鮮人連が目標をするもので芝公園では避難民に対し貴重な水を呉れる者があつたが夫には硫酸が混
入され其為死亡したものがあつた……

 殊に不逞鮮人の跋扈は言語道断で火災の半数以上は不逞鮮人の爆弾に遣られたのは事実である松阪屋前では手に爆弾を所持して居る鮮人が縛されて居たのを見受け帝大附近は火災に遣られたのより寧ろ爆弾に遣られたのが多い夫丈鮮人に対する市民の反感は頗る猛烈を極め鮮人と見ると一人も容赦せぬ気勢をみせ衝突は随所に行はれ浅草では鮮人一味が避難民の荷物を掠奪して行はれた者が多い2日夜は50人程の一隊が襲撃したが約20人程捕はれ鈴ヶ森には1500人の不逞鮮人が陣取つて居る附近の住民は在郷軍人警官等協力して警戒は物凄いと云はれて居るが真偽は判明せぬ。

  鮮人の陰謀は全国に亘る
     罹災の群衆は激昂して切捨御免の有様
 不逞鮮人の暴動はなかなか組織的根拠があるらしい本月2日朝鮮独立運動に関する大会を開催し御盛典の日に事を起す予定で既に横浜東京に参集して居つたが1日の変に遭会して幸ひとして活動を開始したのである。
 2日新宿に於て鮮人が巡査を殺して其被服帯劔を奪つて着用し自動車を操縦し群衆の間を馳駆して居たのもありました運転手を拳銃で脅迫し活動して居たものがあつたが皆群衆に捉へられ撲殺されて了つた。


 彼等はまた千住の陸軍製絨所深川の被服廠の一部に爆弾を匿蔵して置き之を運ばんとする処を発見した市内各所に爆音が聞え火の手の意外に早く広がつたのは彼等の所為と分つた小石川砲兵工廠の爆発も彼等の行為であつたされば民衆は激昂し今は鮮人と見れば切捨御免の状態である。

 彼等は巧みに変装して邦人間に混じ各方面に向はんとして居るが4日川口でも4人の鮮人が捕つた一人は殺され他は半殺しにされたが其一人の所持せる宣伝ビラでD上述の陰謀が判つた訳で尚ほ山形県赤湯に爆弾数百個及兇器が匿蔵して居ると自白したので直に憲兵は同道実地調査に向つた彼等の陰謀は各全国に亘り朝鮮人参其他行商人等間には脈絡相通じて居る筈で油断がならない。

  不逞鮮人を利根川にて銃殺
     死体今尚岸辺に横はる
 6日宇都宮特派員
 鮮人の警戒一層厳重となりたる為彼等は市中を逃出し遁走せんとした各所の警戒厳重の為殆んど捕へられ若しくは銃殺された然も4日の事8名の鮮人が在郷軍人青年団消防組の追撃を受け身体谷まり利根川にザンブとばかり飛込み泳いで逃げんとせし折丁度架橋中の工兵隊が之を見て直に銃殺した聞けば此地で約百名銃殺されたとのこと5日午後2時死体は未だ岸辺にあつた。
                          (北海道タイムス 大正12年・9・6)


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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15 コメント

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資料御紹介、ありがとうございます。 (Nao)
2012-05-24 22:56:10
資料御紹介、ありがとうございます。

昭和40年代に、私が当時を知る方から伺った話です。
場所は、大田区~川崎辺りです。

「(倒壊した建物から)朝鮮人達が物を盗っていたので、止めに入ったら暴れて暴動状態になり、その時には日本男児が居たので(戦争末期からの朝鮮人による被害時には出兵で居なかった)応戦したら、双方に死傷者が出た」

「朝鮮人達が水に混ぜ物(「毒」と聞いた気もしますが記憶が少し不明瞭ですので)をして水が飲めなくなった」

毒を混ぜたとの情報がデマだと、彼等の犯罪揉消し作業が入っていますが、彼等は気に入らないとすぐに意地悪な行動をする癖が在ります。その軽いものが、飲み物に唾や髪や陰毛を入れたりゴミ等を入れたり。酷い場合は、群団での恐喝脅迫虐待や強奪搾取や軟禁監禁や拷問や殺人に及んだりしています。その酷い例が、「コンクリート詰め殺人事件」等です。

物事が思うように行かないとすぐにイラついて、安重根が伊藤博文を暗殺したように、その少し前にづい朝鮮公使館のスティーブンス氏を暗殺したように、安易に殺人に及んでしまう事も少なくありません。

関東大震災時にも、そのように強盗を止めに入った人に逆上して、暴力を奮って来たそうです。

彼等は、特に戦後、日本人に対して暴行虐殺強姦強奪搾取ぼったくり詐欺など、膨大な犯罪を行い、GHQから特権を得て日本社会の上層部を獲得したり、情報を操作したりしていました。それは、GHQが帰ってから共産社会主義が台頭して仕切りだしてからも、ずっと続いて来ています。

戦後の朝鮮人らの行動を見れば、そして、李氏朝鮮時代以前の彼等の真実の歴史を見て、彼等の最近の美しく仕立て上げられたドラマを見れば、彼等がどのような事を遣って来ているかが判りますね。

貴重な情報をありがとうございました。
返信する
誤字が在り、失礼しました。文字訂正と、追加情報... (Nao)
2012-05-24 23:20:21
誤字が在り、失礼しました。文字訂正と、追加情報です。

誤:づい朝鮮公使館
正:在朝鮮アメリカ公使館


<追加>
飲み物の件では、私が朝鮮人系列の会社に行った時、会社の女の子達が「気に入らないやつの飲み物に、唾吐いて入れたり、洗剤混ぜて出す」って悪気も無く言って居て、余りにも酷くて一瞬、宇宙人語を聞いた気がしました。

私は、関東大震災時の話をして下さった方の「水に混ぜ物をした」との話も、事実だと思います。

また、最近の本等で出ている朝鮮人の虐殺被害者が数千人との情報も、「震災での死者数」だそうです。「犯罪がばれた時に逆のイメージが付いて居るようにしている」と、彼等自身が言って居た、その宣伝の様です。

彼等は、戦後のGHQ統治下の混乱期だけでも、日本人を数千人は虐殺しています。中には悪質な朝鮮人も居て、殺した日本人や、戦地から帰っていない人、戦死した人に成りすましたりも在りました。
戦後の日本での、ぼったくりや強奪搾取強姦虐待虐殺し放題だとの噂で、一獲千金を狙って来た密入国者も居ました。

全員とは言いませんが、彼等は群団で犯罪を行う癖が在り、かなりの人数の朝鮮人が、日本人に対する犯罪行為に関与しています。また彼等は、犯罪行為で拘留された仲間がまるで不当拘留されたかのように騒ぎ立てて暴動を起したり、交流場所を襲撃して時には破壊殺傷事件まで起こしています。

昭和50年代の高校でも、朝鮮学校生が凶暴な暴力団的行為を仕掛けてくるのに対応せざるをえなかった人達も居たとか。

彼等は、広範囲に渡って、彼等が犠牲者だと虚偽を触れ回っています。「先に虚偽宣伝を刷り込んで、ばれた時に逆のイメージ漬けをしていれば、本当の事が解るまでに時間が掛って、それまでは安全だ」と威張っていた人達も居ます。
他の人達は、「嘘も百回言えば本当になる」と威張られた事が在るとか。
世界大統領が就任されてから、更に偉さが増し、日本国内でも被害が絶えませんね。

日本人に対する迫害や弾圧等が、世界的に知られ、皆が真実を知る日が来ますよう祈っております。
返信する
ここでは、資料をもとにした事実の論証・反論・反... (syasya61)
2012-05-25 08:45:05
ここでは、資料をもとにした事実の論証・反論・反証をお願いします。単なる「お話し」はお断りしたいと思います。検証可能な資料の提起をもとにしてください。
返信する
■何故「三国人」が差別用語になったのか(左翼系在... ()
2012-05-25 12:09:09
■何故「三国人」が差別用語になったのか(左翼系在日朝鮮人騒乱史)

本来、戦争当事国の国民ではあるが、敗戦国民でも戦勝国民でもない第三のカテゴリーの国民という意味であった「三国人」にマイナスイメージが付着したのは、彼らが下記のような事件を続発させたことに原因があります。これらの事件は、どう考えても内海教授や梶村教授が言うような「精力的な活動」「解放人民として生きていくために不可避なこと」というレベルをはるかに超えており、外国人としての立場を弁えない横暴な行為であると言わざるを得ません。彼らは事あるごとに「歴史認識の共有」なるものを主張しますが、こういう歴史的事実も共有すべきでしょう。

■ 大阿仁村事件 (1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町 *1 の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。
午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。

■ 生田警察署襲撃事件 (1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。
その後1945年12月24日午後9時「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。
また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

■ 直江津駅リンチ殺人事件 (1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ! ホームに降りろ! 殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。
朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
【このような事例は全国各地で続発しており、蔡焜燦氏や北斗星氏の証言が他のサイトで紹介されています。】

■ 富坂警察署襲撃事件 (1946年1月3日)
1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。1月3日になって朝鮮人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。

■ 長崎警察署襲撃事件 (1946年5月13日)
1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。朝鮮人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(うち1名は死亡)。捜査の結果、60名の朝鮮人と7名の中国人を検挙した。

■ 富山駅前派出所襲撃事件 (1946年8月5日)
1946年8月5日、富山県警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。
ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所 *2 」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。

■ 坂町事件 (1946年9月22日)
羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮人約50名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。警察官は傷を負いながらも朝鮮人2名を逮捕した。
同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。そのとき、約15名の朝鮮人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。

■ 新潟日報社襲撃事件 (1946年9月26日~29日)
1946年9月26日に、朝鮮人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。29日に朝鮮人団体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。

■ 首相官邸デモ事件 (1946年12月20日)
宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。

■ 尾花沢派出所襲撃事件 (1947年10月20日)
1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表札を外して一旦逃走した。
その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。そのとき、さっきの朝鮮人7名と他の朝鮮人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。警察は進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。

■ 阪神教育事件 (1948年4月23日~25日)
1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側それに応じる気配を見せなかったので、3月15日に閉鎖勧告を行った。しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。
1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。
神戸では、翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。
しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。

■ 評定河原事件 (1948年10月11日~12日)
1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グラウンドにおいて、朝連と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。

■ 宇部事件 (1948年12月9日)
宇部市民会館において朝連系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。

■ 益田事件 (1949年1月25日)
島根県美濃郡益田町(現在の島根県益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

■ 枝川事件 (1949年4月6~13日)
東京都江東区枝川町の朝鮮人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。
その後の交渉で、警察は暴行者の引渡しを要求したが、朝鮮人側は刑事の処分と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。

■ 高田ドブロク事件 (1949年4月7日~11日)
新潟県中頚城郡新井町 *3 と同郡中郷町の朝鮮人集落では大掛かりな酒の密造をを行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。
その後、この摘発に抗議する朝鮮人約200名は新潟県高田市 *4 の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので、4名を検挙した。
翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり投石をしたため、1名を不退去罪で検挙した。
11日になると、朝鮮人約500名は高田市内をデモ行進した。警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。

■ 本郷村事件 (1949年6月2日~11日)
福井県大飯郡本郷村(現在の福井県大飯郡大飯町)の派出所勤務の巡査が戸口調査をするために、朝鮮人集落に赴いたところ、多数の朝鮮人が「我々を差別扱いする」と言っ
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>Nao氏 ()
2012-05-25 12:11:51
>Nao氏

ここのblogは真実を知りたいとは名ばかりで反日思想以外の不都合はスルーblogです。ライダイハンも日本人慰安婦も日本人引揚者も朝鮮進駐軍(朝鮮ヤクザ)もすべてスルーです。
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>テーマにしているのは、日本の「歴史認識」の... (syasya61)
2012-05-25 21:59:20
>テーマにしているのは、日本の「歴史認識」の問題です。日韓問題を論じているのではありません。
 日本は先の大戦で310万の尊い命を失いました。さらにいえば、将兵の7割近くが餓死や病死であったといいます。どう考えても異常です。なぜそんなことになったのか。過ちを繰り返さないために、それをしっかり踏まえ、近隣諸国との関係改善に役立てたいと思っているのです。
 論じていることに誤りがあれば、指摘していただければよいのですが、別の問題を持ち出したり、ただ韓国とのたたかいを煽るようなコピペはお断りしたいと思います。そういうことは、他のサイトでやってください。
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>テーマにしているのは歴史問題です。 (q)
2012-05-29 16:31:53
>テーマにしているのは歴史問題です。

日本が特段異常な歴史があるとは思いません。日本だけ異常な歴史があるとの決めつけこそ危ない思想です。

因みにスターリンは自国民を2000万以上、毛沢東はそれ以上の数の自国民を粛清しています。平行性に欠いた史観こそ国益を害するのです。
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>なぜそんなことになったのか ()
2012-05-29 17:00:03
>なぜそんなことになったのか

欧米ではすでに結論はでていますよ。日本にしろドイツにしろ当時の欧米先進国(米、英、仏)のように植民地を多くもたなかったにも関わらず近代化を急いだため、国益が相反し双方がナショナリズムのエゴむき出しの戦いになった。敗戦した国家は領土を失った代わりに平和を獲得し、戦勝国も2度の大戦を通し多くの植民地を失った。その結果双方にいわば不戦の暗黙了解ができ今日の先進国間では戦争以外の方法で問題解決を図られるようになった。
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>日本が特段異常な歴史があるとは思いません。... (syasya61)
2012-05-31 21:00:08
>日本が特段異常な歴史があるとは思いません。日本だけ異常な歴史があるとの決めつけこそ危ない思想です。

 あなたは自分で勝手な解釈をしていろいろ非難されるくせがあります。気をつけてください。わたしの文章のどこに「日本だけ異常な歴史がある」とありますか。歴史の「過ち」をしっかり見つめて、そこから学ぶ必要があると言っているのです。
 ロシアや中国にも「過ち」はあるでしょう。自国の問題を棚に上げて、他国を非難するようなことはやめたほうがいい。そんな姿勢こそが国益を害するのです。
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>自国の問題を棚に上げて、他国を非難するような... ()
2012-06-06 23:15:19
>自国の問題を棚に上げて、他国を非難するようなことはやめたほうがいい。

露中を非難しているわけではない。それも歴史の事実です。ところで露中は大量虐殺してなにを反省したのでしょう?
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