国際社会は、”二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害”を経験し、国際社会のトラブルを解決するために国際司法裁判所を設け、その基本方針を国連憲章に定めて、相互に”寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和および安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則”とすることを約束しました。
でも、大戦後世界を主導してきたアメリカは、世界中に米軍基地を置き、国際司法裁判所を利用することなく、戦争や武力行使をくり返してきたと思います。法に基づいてトラブルを解決してこなかったのです。
先日、「ウクライナ平和サミット」がスイスで開かれましたが、それは、ロシアを排除した一方的なサミットで、「平和」サミットといえるようなものでなかったと思います。発表された「共同声明」もそのことを示していると思います。
日本国憲法には第32条に、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と規定し、国民の裁判を受ける権利を保障しています。だからその考え方で、ロシアを排除した今回の「ウクライナ平和サミット」を捉えれば、その「共同声明」は、ロシアの権利や主張を考慮しておらず、法的には意味のないものだと思います。そういう意味で、サミットでのサウジアラビア外相の発言はきわめて重要だと思います。
なぜ、国際司法裁判所を利用し、国連憲章の基本方針に沿ってきちんと法的に争わないのか、と思います。「ウクライナ平和サミット」の「共同声明」では、
1、ウクライナを含むすべての国家の主権と領土保全の尊重
2、原発の安全確保と核兵器使用の威嚇禁止
3 、食料安全保障とウクライナ産農産物の安全かつ自由な輸出
4 、強制連行されたウクライナ市民の帰還
5、戦争犯罪の責任追及、
6、ウクライナの復興
7、紛争の平和的解決に向けた外交努力の継続
などが盛り込まれているといいます。でも、ウクライナとロシアのトラブルを、ウクライナの言い分だけで解決しようとすることには問題があります。上記の1~7のすべての内容に、ロシアは異議があると思います。そのロシアの異議を無視することは、法を無視することです。「法の支配」を認めないことです。
一例をあげると、プーチン大統領に逮捕状が出されたのは、ウクライナの占領地から違法に子どもを連れ去ったという戦争犯罪の嫌疑によるものでした。でも、ロシア側は、連れ去ったのではなく、保護したのだといっているのです。
ロシアは、アゾフ大隊を中心とするウウライナ軍の攻撃を受けているドネツク・ルハンシク州を中心とする地域で、両親を亡くし孤児院や社会福祉施設にいた子ども、また、父親が強制的に動員され、母親も出稼ぎに行くなどして、養育困難に陥っている子ども、さらに、祖父母や知人に預けられ、経済的な理由などから養育に適切な環境でない状況にあると思われる子ども、親が収容所に送られるなどして、親と離ればなれになっている子どもなどをロシアに移送し、保護したといっているのです。だから、「連れ去りではなく、保護」だと言っているのに、それを一方的に連れ去りと断定して、戦争犯罪だというのは、いかがなものかと思います。実態はわかりませんが、法に基づけば、裁判所がロシアの主張に耳を傾け、きちんと調査をして、結論を出すべきだというのです。
このロシア側の主張の詳細をもう一度確認し、情報源を示したいと思ってアクセスを試みたら、”404 Not Found 該当するページが見つかりません。ページは削除されたか、移動された可能性があります”と表示されました。だから今度は、グーグルの「Gemini(ジェミニ)」を使って、関連のサイトにアクセスし調べようとしたら、”ロシアによるウクライナの子ども連れ去り問題について、ロシア側の主張をそのまま伝えている日本語メディアは、情報公開の制限や検閲の影響もあり、現時点では確認できませんでした”という回答だったので驚きました。こんな情報でさえ、制限され、検閲の対象になるのかと思ったのです。ウクライナ側の情報はいろいろ出てくるのに、ロシア側の情報は制限され、検閲の対象になるというのは、なぜなのか、と思います。ずいぶんおかしな世の中になったように思います。
「ウクライナ平和サミット」には、およそ90カ国以上の首脳や代表が参加したといいますが、ロシアはもちろん、ラテンアメリカの国々や中国は参加していません。また、「ウクライナ平和サミット」で採択された「共同声明」には、サウジアラビアや南アフリカ、インドなどおよそ10か国が支持しなかったともいいます。なぜなのか、ということを理解することが大事だと思うのですが、報道はありません。
また、この「ウクライナ平和サミット」の報道が続いている最中、2024年06月13日、”タイの閣議で、BRICS加盟に向けた意向書が承認された”という報道がありました。BRICSはブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国によって2006年に設立されたということですが、2024年年1月からエジプト、イラン、エチオピア、アラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビアが加盟していると聞いています。かつて植民地支配をされた国々が手を結び、植民地支配をした国々に対抗しようとしているように見えます。そして、拡大が止まらないのです。
日本は、かつて植民地を支配をした国としてG7に加わり、アメリカのお手伝い外交をしているようですが、それは、国際社会の流れに逆行し、日本国民を疲弊させるものだと思います。
下記は、「日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ」青山透子(河出文庫)から、「第3部 乱気流の航空業界 未来はどこへ」の「第一章 過去からのメッセージ」「●米軍の証言記事 事故から十年後に見えた真実」を抜萃しました。
著者の青山氏が指導する学生たちの素朴な疑問と、素直な感情が、日航123便墜落事故の救助活動がすぐになされなかった問題の重要性を露わにしていると思います。
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第3部 乱気流の航空業界 未来はどこへ
第一章 過去からのメッセージ
●米軍の証言記事 事故から十年後に見えた真実
1995年の8月29日の新聞は、学生たちにもうひとつの衝撃と疑問を与える記事だった。この記事については、インターネット上で色々と付け足しの情報があるが、学生Gは、シンプルに新聞各紙を読んで考えてきた。
米軍の準機関誌である『パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス』(星条旗新聞)の8月
27日付号が報道した内容は次の通りである。証言をしたのは、当時、米空軍第345戦術空輸団に所属していた元中尉のマイケル・アントヌッチ氏だ。
「1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故直後の当日夜、6時40分ごろ、C130輸送機で沖縄の嘉手納基地から横田基地に戻る途中の大島上空にて、日航機の機長が緊急事態発生と告げる無線を傍受した。墜落の20分後には群馬県上野村にある御巣鷹の尾根の墜落地点に到達して煙が上がるのを目撃した」
この報告を受けて同日午後9時5分に米海兵隊救難チームのヘリが厚木基地から現場に到着して、隊員がロープで現場に降りようとしたのだが、在日米軍司令部がある横田基地に連絡をすると担当の将校が「日本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」という帰還命令を出したという。
事故の生存者のひとりで日航アシスタントパーサーだった落合由美さんの証言では、「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。手を振ったが気付いてくれなかった。自分の周りでは数人の子どもたちの声が聞えたがそのうち聞こえなくなった」と言っている。これについてアントヌッチ氏は、落合さんが見たのは海兵隊のヘリだった、と証言しているのである。
このことを伝える日本の各新聞記事をまとめると、在日米軍のヘリコプターが自衛隊より約12時間も早く墜落現場上空に到着しつつも、上官の指示で現場には降りなかったということである。
最後にこの元軍人は、「在日米軍は事故直後にすでに現場を発見しており、もっと多くの命を救えたはずだ}と述べている。
新聞記事はこの程度の内容でしかないが、この文章を読むと、一気に重い空気が教室中に流れた。
「信じられない!」
「冗談じゃないよ!」
「これじゃ、まるで見殺しじゃないか!」
「アメリカが知っていたのなら、日本も知ってたってこと?」
「墜落現場がコロコロ変わって不明だというのがNHKの報道だったんじゃないの?」
「落合さんが生きている人がもっといたって証言していたのに……」
「結局朝まで墜落現場が分からないと言ったじゃないか!」」
若い彼らの憤りは止まらなかった。彼らだけでない。恐らく、この事実を聞いた人、この記事を読んだ人たちの全ての気持ちは同じだ。怒り以外の何ものでもなく、心底驚いた証言である。こんな重大なことが事故後10年も経ってからはっきりとした形で明らかになったのである。
事故発生から深夜にかけて、確かに墜落現場は二転三転した。最終的には次の日の早朝、空が明るくなってから明確になったのだが、それでもまだNHKは異なる場所を繰り返し報道していた。
事故当初の報道では明け方まで墜落現場は分からなかったとあるが、報道機関に偽りの情報が知らされていたということか……なぜ日本側は分からないふりをしていたのだろうか?
しかし、十年後の元軍人のこの証言によれば、墜落のに20分後に墜落場所は群馬県上野村、御巣鷹の尾根付近とはっきりわかっていたことになる。
そうなのか。墜落地点は墜落後20分後にすでに分かっていたのだ……。
この日は米軍輸送機C130から連絡が防衛庁・空幕に入って、その直後、日本側は茨城県百里基地を緊急発進したF─4EJファントム戦闘機二機も場所を確認したという動きが記録されているが。正確な現場の位置を特定したのは翌朝であった。
緊急時、生存の可能性を考えて1分でも1秒でも早く救助しなくてはならないことは、私自身も何度も行ったエマージェンシー訓練で実感しているが、こんな事は誰でも分かる。
学生たちは怒りの声で叫んだ後、皆黙りこくってしまった。
そこに何か恐ろしい不作為を感じたのであろう。直感的におかしいと思うのは当然である。当たり前の救助が行われなかった理由がどうしても見えてこない。
あの時の報道で、自衛隊員が一生懸命生存者を救助し、ヘリコプターで吊り上げている写真は大変印象深かった。これほどまでに私たちのために頑張ってくれているのだという印象がとても強かった。実際に自衛隊員の家族がいる学生も多く、彼らはそれを誇りに思っていた。
しかし、なぜ米軍が帰還命令を出してせっかくの救出もせずに戻り、その連絡を受けている日本側はそれより10時間も後に現場に到着したのだろうか。
繰り返すが、落合さんの証言では、墜落直後は周りでたくさんの声がして、子どもも「頑張るぞ」と叫んでいたとのことである。多くの人たちが実際に生きていたのである。
まさかそれを見殺しにするつもりで、わざわざ遅く行ったわけではないだろう。
人命よりも大切な「何か」を守るためだったとでもいうのだろうか。
何かを隠している?
何のために?
学生たちは、それぞれの頭の中で、その疑問点を解決すべく、いろいろと考えをめぐらせていたいった。場所を教えられても、技術や装備がなくて、米軍のように充分対応出来る訓練された人もいなくて、残念ながら日本側はすぐに現場にたどり着けなかった、そのことを国民に知られたくないから隠しているのだろうか ……。
そこから見えてくる真実は、愚かな人間の単なるメンツなのか、浅はかな悪知恵なのか、ずるい人間の欲望なのか…。
次々と浮かぶ疑問に、新聞記事の切り抜きだけでは答えが見えてこないような気がする。
いずれにしても、10年後に見えた真実とは、墜落現場は墜落後20分ほどで分かっていたということだ。米軍が人命救助の為に現場に向かったヘリコプターから救助隊が降りる直前に帰還命令が出て降られなかった。日本側が断ったのか? それともそれは何らかの作為だったのか。誰かの指示によって、せっかく生き残っていた人たちがなくなったのか。消し去りたくても消せない疑問が次々に頭に浮かぶ。
なお、テレビでもこのことを取り上げた番組あった。アントヌッチ氏はこの事実を誰にも語るなと言われていたそうである。ご自身は事故を伝える翌日の報道を聞いて愕然としたという。
「なんと、あれからすぐに救助したのではないのか、朝まで墜落現場不明とは? なんということだ。もっと多くの人を救出できたのに…」と絶句した、と手記の中で、その胸の内を明かしている。(カリフォルニア州サクラメント市発行『サクラメント・ビー』、1995年8月20日付)
学生たちはあの機内写真を見た後だけに、墜落現場で救助を待っている人たちの果てしない苦しみ、生きる希望、深い絶望、それらすべて思い、乗客や乗員の気持ちを敏感に感じ取っている。さらに、当時その現場に直行した人間が、10年間も明らかに出来ずにいたことについては次のような意見がでた。
ある学生は、
「もし日本の証言によって。真実が明らかになるとするならば、堂々ともっと早く証言してほしかった。この人はまだ人間としての最後の勇気があったが、日本側には、未だに話す人がいない。話す度胸もない人がいるということが同じ日本人として信じられない。知っていたら、今からでも教えてほしい」と語り、別の学生は、
「もっともっと生きたかった人たちの叫び声を聞かないふりをする人とは、いくら任務だ、命令だと言っても信じられない人間だ。そのような人と結婚もしたくないし、同じ社会で暮らしたくない。万が一、生活のためや家族を守るためと言って、自分の父親が事実を沈黙するような人間だったなら、子供として許さない。だってもしかしたら自分の子供が犠牲になったのかもしれないじゃない!
子どものために黙っていたなどと言って欲しくない」と真剣に話す。
立場でものを言う人はいるが、立場で沈黙する人もいるということが分かったということだ。日本側の対応を追及する記事がひとつもないのが残念だ。記者魂もないのだろうか、と私も思う。
最後に学生Gは、
「そのことを証言した元軍人は人として当然の行為である。もし自分の父親がその軍事さんの立場だったとしたら、そのような発言した父親を心から尊敬する」と意見を述べた。
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