熱河平定作戦の経過を辿ると、この作戦の立案に関わった参謀や作戦を展開した司令官の手前勝手は、ここまでひどかったのかと驚かされる。「満州国と関東軍」(新人物往来社)からの抜粋である。
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事件でつづる満州事変
平塚柾緒(ジャーナリスト)
⑤強引に進められた
熱河平定作戦
熱河平定声明
熱河作戦が事実上軍事行動として動き始めたのは昭和7年(1932)6月17日、錦州ー朝楊間を結ぶ錦朝鉄道を走っていた列車から石本権四郎と(関東軍嘱託)が熱河省の抗日義勇軍に拉致され、行方不明になったことに起因している。
熱河省を支配していた湯玉麟は、満州国建国宣言にも署名していた一人であるが、北支那から張学良の軍隊の圧迫をうけ首鼠両端を持していた。そもそも熱河というのは、万里の長城によって、支那本土と満州を分離する満州の南西地域である。その熱河地方がなぜ討伐作戦の対象になったかといえば、満州と中国の国境地帯に中国軍が出没することは満州国の国防の上からいって関東軍には具合が悪かった。当時、関東軍の満州国建国の構想の中には、対ソ連構想が大きな比重を占めていた。そのため、背後の中国軍を長城の向かい側に追い払い、名実ともに満州を中国本土から分離しておく方が、都合がよいと考えられていたのである。さらに直接的な理由があった。それは次に掲げる熱河平定作戦についての回想「岡村寧次大将資料」からうかがえる。
「私どもの着任(昭和7年8月)後の満州の状勢は、治安大いに紊れ、10月には大興安嶺コロンバイルの蘇炳文軍に対する措置(同軍はついにソ連領に脱出し去った)などがあったが、この秋から翌春にかけて治安作戦上の最大問題は、熱河工作と長城線突破の二つであった。熱河省を領入しなければ満州国とて形を成さないという現地の空気と、熱河省を手に入れる必要はないという、ことに武力を使用して地域を拡大することはよくないという、東京辺りの空気とが、当時なんとなくせりあっていたように憶えている。武藤信義関東軍司令官のもとには、東京の最上層部から私信その他で東京の空気がひんぴんと伝えられてきたように想像され、軍司令官も、現地の必要性をも考えられて相当悩んでおられたようであった」と伝えている。
石本権四郎拉致事件も、石本が救出されなかったために様々な波紋を投げ、小紛争が続発し、熱河治安に悪影響を及ぼしていた。張学良は、この紛争を利用し、北支那駐在の自軍隊の中から4万名にのぼる精鋭を選抜して抗日義勇軍を編成し、古北口から熱河省に侵入させ、抗日侮日運動を展開していたのである。岡村資料は、”治安大いに紊れ”とはその辺の事情に触れている。
このような情況の続く昭和8年(1932)1月11日、武藤関東軍司令官は、熱河平定作戦を決定し、熱河討伐に他の干渉を許さずと声明した。そして2月4日、閑院宮参謀長からの熱河作戦裁可上奏に対して、天皇は「関内に進出せざること、関内をを爆撃せざること」の二条件を付して裁可された。また、満州国政府も対熱河総司令部を設け、熱河討伐の声明を出し(2月18日)、関東軍は熱河省内の中国軍隊に対し、24時間以内の撤退を要求(同22日)したが、翌23日中国側から、この要求を拒絶してきたため、関東軍、満州国軍は連合して熱河進攻作戦を開始した。
『岡村資料』はその間の事情を次のように説明している。
「関東軍は、張海鵬その他の中国要人を介して、熱河が円満に満州国に入るように工作を重ね大いに努力したが、数ヶ月を費やして成功の見込みなきに至ったので、武藤関東軍司令官も遂に武力を以て熱河を占領することに決心された。しかも、いとも厳重に、断じて長城を越えてはならないと規定され、特に私に口頭を以て、この規定の趣旨を関係各兵団長に内訓するように命ぜられたので、私は熱河作戦開始に先立ち、昭和8年2月20日、21日、奉天、錦州、通遼に飛行して、軍司令官の意図を各兵団長に伝達して歩いた」
以下、日付を追って作戦経過を見ると、2月25日関東軍は錦州省の朝楊占領、3月4日熱河省承徳を占領、3月7日長城線に到達。3月10日長城線一帯の総攻撃を開始。3月24日関東軍熱河入城。以上のように熱河作戦は順調に進捗して熱河省を平定した。関東軍はその意図するところの目的を達し、長城線を第一線として守備につくことになった。
再び『岡村資料』からその後の展開を見よう。
「関東軍は、熱河省を平定し、3月中旬、長城線を第一線として守備についたが、この頃以来、中国は数十個師の大軍を当面に集めてしばしば来攻するようになった。古北口から山海関にわたる約400キロの長城線には、ところどころ破壊して通行自由の部分もあり、わが方は第6師団、第8師団と混成第1旅団を以て、この長大なる第一線を守備するのであるから、敵の来襲に対しては兵力著しく不足し、また応戦に遑あらずという状態であったため、しばしば部分的に反撃に出でて長城線を越えて進出するの止むなきこともあり、これでは苦労が大変であるから、むしろ一時的に大進攻作戦を決行して、敵に一頓挫を与えるにしかず、という論が軍参謀内部に起こってきた。
しかし、それは長城線からは一歩も出ないという前記方針に背反するために、軍司令官もなかなか、この論を採用し難いのであった。それで、この点に関し、小磯参謀長(国昭、のちの内閣総理大臣)を上京せしめて、とくと中央部と協議せしめることにされ、同参謀長は、4月12日出発上京され、中央部と協議、5月3日、小磯参謀長が大連に上陸されると同時に、電話連絡の上、長城線突破進攻作戦の命令が発せられたのであった」
つまり、満州国防衛のために中国本土へ侵攻するというのである。満州事変勃発時と余りにも類似した関東軍の強引な手口であった。
これより先、4月10日に関東軍は長城線を越えて北支侵攻を開始し、12日には秦皇島を占領するが、4月18日に本庄侍従武官長を通じて関東軍の関内進攻について天皇の意志表示(作戦中止)があったと伝えられ、翌19日関東軍小磯参謀長から全軍に長城線へ帰還命令が出され、23日までに撤退を完了した。
しかし、前記『岡村資料』に見るように、その後、陸軍中央の同意を得た武藤関東軍司令官は、5月3日第2次関内作戦開始の命令を下すのである。その目的は、満州国国境地帯の中国軍の撤退と、華北の中国軍憲を屈服させることにあった。5月6日、参謀本部は「北支方面応急処理方案」を決定し、翌7日、関東軍は再び長城線を越えて中国本部河北省へ南下、進撃行動を開始する。
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事件でつづる満州事変
平塚柾緒(ジャーナリスト)
⑤強引に進められた
熱河平定作戦
熱河平定声明
熱河作戦が事実上軍事行動として動き始めたのは昭和7年(1932)6月17日、錦州ー朝楊間を結ぶ錦朝鉄道を走っていた列車から石本権四郎と(関東軍嘱託)が熱河省の抗日義勇軍に拉致され、行方不明になったことに起因している。
熱河省を支配していた湯玉麟は、満州国建国宣言にも署名していた一人であるが、北支那から張学良の軍隊の圧迫をうけ首鼠両端を持していた。そもそも熱河というのは、万里の長城によって、支那本土と満州を分離する満州の南西地域である。その熱河地方がなぜ討伐作戦の対象になったかといえば、満州と中国の国境地帯に中国軍が出没することは満州国の国防の上からいって関東軍には具合が悪かった。当時、関東軍の満州国建国の構想の中には、対ソ連構想が大きな比重を占めていた。そのため、背後の中国軍を長城の向かい側に追い払い、名実ともに満州を中国本土から分離しておく方が、都合がよいと考えられていたのである。さらに直接的な理由があった。それは次に掲げる熱河平定作戦についての回想「岡村寧次大将資料」からうかがえる。
「私どもの着任(昭和7年8月)後の満州の状勢は、治安大いに紊れ、10月には大興安嶺コロンバイルの蘇炳文軍に対する措置(同軍はついにソ連領に脱出し去った)などがあったが、この秋から翌春にかけて治安作戦上の最大問題は、熱河工作と長城線突破の二つであった。熱河省を領入しなければ満州国とて形を成さないという現地の空気と、熱河省を手に入れる必要はないという、ことに武力を使用して地域を拡大することはよくないという、東京辺りの空気とが、当時なんとなくせりあっていたように憶えている。武藤信義関東軍司令官のもとには、東京の最上層部から私信その他で東京の空気がひんぴんと伝えられてきたように想像され、軍司令官も、現地の必要性をも考えられて相当悩んでおられたようであった」と伝えている。
石本権四郎拉致事件も、石本が救出されなかったために様々な波紋を投げ、小紛争が続発し、熱河治安に悪影響を及ぼしていた。張学良は、この紛争を利用し、北支那駐在の自軍隊の中から4万名にのぼる精鋭を選抜して抗日義勇軍を編成し、古北口から熱河省に侵入させ、抗日侮日運動を展開していたのである。岡村資料は、”治安大いに紊れ”とはその辺の事情に触れている。
このような情況の続く昭和8年(1932)1月11日、武藤関東軍司令官は、熱河平定作戦を決定し、熱河討伐に他の干渉を許さずと声明した。そして2月4日、閑院宮参謀長からの熱河作戦裁可上奏に対して、天皇は「関内に進出せざること、関内をを爆撃せざること」の二条件を付して裁可された。また、満州国政府も対熱河総司令部を設け、熱河討伐の声明を出し(2月18日)、関東軍は熱河省内の中国軍隊に対し、24時間以内の撤退を要求(同22日)したが、翌23日中国側から、この要求を拒絶してきたため、関東軍、満州国軍は連合して熱河進攻作戦を開始した。
『岡村資料』はその間の事情を次のように説明している。
「関東軍は、張海鵬その他の中国要人を介して、熱河が円満に満州国に入るように工作を重ね大いに努力したが、数ヶ月を費やして成功の見込みなきに至ったので、武藤関東軍司令官も遂に武力を以て熱河を占領することに決心された。しかも、いとも厳重に、断じて長城を越えてはならないと規定され、特に私に口頭を以て、この規定の趣旨を関係各兵団長に内訓するように命ぜられたので、私は熱河作戦開始に先立ち、昭和8年2月20日、21日、奉天、錦州、通遼に飛行して、軍司令官の意図を各兵団長に伝達して歩いた」
以下、日付を追って作戦経過を見ると、2月25日関東軍は錦州省の朝楊占領、3月4日熱河省承徳を占領、3月7日長城線に到達。3月10日長城線一帯の総攻撃を開始。3月24日関東軍熱河入城。以上のように熱河作戦は順調に進捗して熱河省を平定した。関東軍はその意図するところの目的を達し、長城線を第一線として守備につくことになった。
再び『岡村資料』からその後の展開を見よう。
「関東軍は、熱河省を平定し、3月中旬、長城線を第一線として守備についたが、この頃以来、中国は数十個師の大軍を当面に集めてしばしば来攻するようになった。古北口から山海関にわたる約400キロの長城線には、ところどころ破壊して通行自由の部分もあり、わが方は第6師団、第8師団と混成第1旅団を以て、この長大なる第一線を守備するのであるから、敵の来襲に対しては兵力著しく不足し、また応戦に遑あらずという状態であったため、しばしば部分的に反撃に出でて長城線を越えて進出するの止むなきこともあり、これでは苦労が大変であるから、むしろ一時的に大進攻作戦を決行して、敵に一頓挫を与えるにしかず、という論が軍参謀内部に起こってきた。
しかし、それは長城線からは一歩も出ないという前記方針に背反するために、軍司令官もなかなか、この論を採用し難いのであった。それで、この点に関し、小磯参謀長(国昭、のちの内閣総理大臣)を上京せしめて、とくと中央部と協議せしめることにされ、同参謀長は、4月12日出発上京され、中央部と協議、5月3日、小磯参謀長が大連に上陸されると同時に、電話連絡の上、長城線突破進攻作戦の命令が発せられたのであった」
つまり、満州国防衛のために中国本土へ侵攻するというのである。満州事変勃発時と余りにも類似した関東軍の強引な手口であった。
これより先、4月10日に関東軍は長城線を越えて北支侵攻を開始し、12日には秦皇島を占領するが、4月18日に本庄侍従武官長を通じて関東軍の関内進攻について天皇の意志表示(作戦中止)があったと伝えられ、翌19日関東軍小磯参謀長から全軍に長城線へ帰還命令が出され、23日までに撤退を完了した。
しかし、前記『岡村資料』に見るように、その後、陸軍中央の同意を得た武藤関東軍司令官は、5月3日第2次関内作戦開始の命令を下すのである。その目的は、満州国国境地帯の中国軍の撤退と、華北の中国軍憲を屈服させることにあった。5月6日、参謀本部は「北支方面応急処理方案」を決定し、翌7日、関東軍は再び長城線を越えて中国本部河北省へ南下、進撃行動を開始する。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
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