日本の外務省は、尖閣諸島について「外務省・アジア 尖閣諸島の領有権についての基本見解」 として
「 尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。
同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。」
と表明しています。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/)
また、共産党まで2010年9月20日(月)「しんぶん赤旗」で日本の領有は正当として
「尖閣諸島(中国語名は釣魚島)は、古くからその存在について日本にも中国にも知られていましたが、いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。1895年1月に日本領に編入され、今日にいたっています。
1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。
所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議がとなえられたことは一度もありません。日本の領有は、「主権の継続的で平和的な発現」という「先占」の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。」
と書いています。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-23/02_02.html)
しかしながら、日本が領有を閣議決定した1895年は、不平等条約の典型ともいえる下関条約調印の年でもあります。
したがって、先ず1つ目は、尖閣諸島の領有が、日本の帝国主義的な領土拡張(侵略行為)の流れとは別の、正当な国家行為ととらえることができるのかという疑問です。
なぜなら、日本の琉球処分(1871年)に反撥していた中国(清)が、琉球処分を受け入れざるを得なくなったのは、日清戦争の敗北によってであり、日本は日清戦争後の講和会議(1895年4月17日)で調印された下関条約によって、遼東半島、台湾および澎湖諸島など付属諸島嶼の主権も得ているのです。尖閣諸島だけは帝国主義的な領土拡張(侵略行為)とは別で、平和的に「無主地先占」されたものであり、問題はないといえるのかという疑問です。
2つ目に、「無主地先占」が現地調査だけでなされてよいのかという疑問です。日本が領有を閣議決定した時、中国名「釣魚(チョウギョ)諸島」に「尖閣諸島」という日本名はなかったといいます。「尖閣諸島」と日本名で呼ばれるようになったのは、日本の領有が閣議決定されてから5年後の1900年だというのです。にもかかわらず、中国名「釣魚諸島」を中国や台湾、および琉球の人たちの領有意識、また、中国や台湾、および琉球の過去の文献にあたって調査することをせず、「無主地」と断定できるのかという疑問です。無人島といえども、領有意識があっても不思議はないのであり、領有意識があれば無主地と断ずることはできないのではないかという疑問です。
3つめは、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』や陳侃の後の冊封使、郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』、また、同時代の倭寇と対した名将、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本)の下記のような記述を、無視できるとする根拠は何かということです。以下は「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋です。
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三 釣魚(チョウギョ)諸島は明の時代から中国領として知られている
・・・
16世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、1534年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』がある。それによれば使節一行の乗船は、その年5月8日、福州の梅花所からに外洋に出て、東南に航し、鶏龍頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、10日に釣魚嶼などを過ぎたという。
「10日、南風甚ダ迅ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目按スルニ暇アラズ。(中略)11日夕、古米(クメ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」
琉球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使である。彼以前の10回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、── それ以外の航路はない ── その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらはもともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に1562年の冊封使となった郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
その郭の使録には、1562年5月29日、福州から出洋し「閏5月初1日、釣嶼ヲ過グ。初3日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再1日ノ風アラバ、即チ姑米(クメ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。
上に引用した陳・郭の2使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深2000メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は、琉球地方を界する山だというのは、同じ事を、ちがった角度から述べていることは明らかである。
そして、前に一言したように琉球の向象賢(コウショウケン)の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖(カセイ)甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に5月10日と11日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派の激しい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の既述がそのまま採用されていることは久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領でないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことをしめしている。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはない」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領でないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。
なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというときその「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう1日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。
こうみてくると、陳侃が、、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の既述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなど、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。
・・・
おそくも、16世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(1561年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。
本書の第1巻、「沿海山沙図」の「福七」~「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」「黄尾山」「橄欖山」「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当たるか、いちいちの考証はは私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の第1巻は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
「 尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。
同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。」
と表明しています。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/)
また、共産党まで2010年9月20日(月)「しんぶん赤旗」で日本の領有は正当として
「尖閣諸島(中国語名は釣魚島)は、古くからその存在について日本にも中国にも知られていましたが、いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。1895年1月に日本領に編入され、今日にいたっています。
1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。
所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議がとなえられたことは一度もありません。日本の領有は、「主権の継続的で平和的な発現」という「先占」の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。」
と書いています。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-23/02_02.html)
しかしながら、日本が領有を閣議決定した1895年は、不平等条約の典型ともいえる下関条約調印の年でもあります。
したがって、先ず1つ目は、尖閣諸島の領有が、日本の帝国主義的な領土拡張(侵略行為)の流れとは別の、正当な国家行為ととらえることができるのかという疑問です。
なぜなら、日本の琉球処分(1871年)に反撥していた中国(清)が、琉球処分を受け入れざるを得なくなったのは、日清戦争の敗北によってであり、日本は日清戦争後の講和会議(1895年4月17日)で調印された下関条約によって、遼東半島、台湾および澎湖諸島など付属諸島嶼の主権も得ているのです。尖閣諸島だけは帝国主義的な領土拡張(侵略行為)とは別で、平和的に「無主地先占」されたものであり、問題はないといえるのかという疑問です。
2つ目に、「無主地先占」が現地調査だけでなされてよいのかという疑問です。日本が領有を閣議決定した時、中国名「釣魚(チョウギョ)諸島」に「尖閣諸島」という日本名はなかったといいます。「尖閣諸島」と日本名で呼ばれるようになったのは、日本の領有が閣議決定されてから5年後の1900年だというのです。にもかかわらず、中国名「釣魚諸島」を中国や台湾、および琉球の人たちの領有意識、また、中国や台湾、および琉球の過去の文献にあたって調査することをせず、「無主地」と断定できるのかという疑問です。無人島といえども、領有意識があっても不思議はないのであり、領有意識があれば無主地と断ずることはできないのではないかという疑問です。
3つめは、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』や陳侃の後の冊封使、郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』、また、同時代の倭寇と対した名将、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本)の下記のような記述を、無視できるとする根拠は何かということです。以下は「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋です。
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三 釣魚(チョウギョ)諸島は明の時代から中国領として知られている
・・・
16世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、1534年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』がある。それによれば使節一行の乗船は、その年5月8日、福州の梅花所からに外洋に出て、東南に航し、鶏龍頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、10日に釣魚嶼などを過ぎたという。
「10日、南風甚ダ迅ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目按スルニ暇アラズ。(中略)11日夕、古米(クメ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」
琉球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使である。彼以前の10回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、── それ以外の航路はない ── その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらはもともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に1562年の冊封使となった郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
その郭の使録には、1562年5月29日、福州から出洋し「閏5月初1日、釣嶼ヲ過グ。初3日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再1日ノ風アラバ、即チ姑米(クメ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。
上に引用した陳・郭の2使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深2000メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は、琉球地方を界する山だというのは、同じ事を、ちがった角度から述べていることは明らかである。
そして、前に一言したように琉球の向象賢(コウショウケン)の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖(カセイ)甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に5月10日と11日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派の激しい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の既述がそのまま採用されていることは久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領でないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことをしめしている。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはない」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領でないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。
なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというときその「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう1日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。
こうみてくると、陳侃が、、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の既述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなど、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。
・・・
おそくも、16世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(1561年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。
本書の第1巻、「沿海山沙図」の「福七」~「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」「黄尾山」「橄欖山」「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当たるか、いちいちの考証はは私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の第1巻は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
↑
年が間違っていますよ。
また、牡丹社事件にかかわって、清国が日本に賠償金を支払ったのはどのように考えるべきでしょうか。
チベット問題は大問題です。でも、私は今、「日本の正しい歴史認識は?」ということで、特に戦争に関わる歴史を中心に学んでいます。