敗戦前後の軍命による文書の焼却処分で、日本は戦後処理に多くの問題を残した。棄兵・棄民としてのシベリア抑留は、その代表的なものの一つである。シベリア抑留にかかわる「生き証人」といわれた瀬島龍三は、語らずに逝った。したがって、日本政府が関連資料を全て公開し事実を明らかにするか、ロシア側から決定的な証拠が出てこない限り、棄兵・棄民としてのシベリア抑留の真実は闇の中である。しかし、総合的に考えると、真実は限りなく黒に近いグレーである。戦争に関する様々な書物を残しながら、問われていることには答えなかった瀬島龍三の姿勢が真実を物語っているように思われる。「瀬島龍三 参謀の昭和史」保阪正康(文春文庫)からの抜粋である。
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第1章 シベリア体験の虚と実
瀬島には、まだ歴史上の証人として証言しなければならない重要な問題がのこされている。それは、これまで述べてきたシベリアの悲劇の原点ともいえる、シベリアに連行された軍人、民間人約57万人余の「法的決着」に関わった当事者としての証言である。「大本営の2000日」で、瀬島は、関東軍総参謀長の秦彦三郎とハルビン総領事の宮川舟夫の3人で、敗戦時に、ソ連軍との停戦交渉にあたった経緯を話している。ここでの瀬島の証言は比較的長いが、その主要部分をぬきだしてみる。
「それで17日(注・昭和20年8月)に秦総参謀長のお伴をして、ソ連総領事館のあるハルビンへ行きました。わが天皇陛下からこういう命令(注・停戦命令のこと)が出たので、関東軍としてはいち早くソ連極東軍司令官と連絡をとって停戦交渉をしたい、その斡旋をしてくれということを総領事に申し入れて、いったん新京へ戻りました」
「翌日、ソビエトの飛行機をハルビンに入れるから、権限をもった軍使がそれに乗ってくれという連絡があって18日の夕方、またハルビンへ行きました。今度は私をふくめて3人の参謀がお伴をしました」
「その晩、総領事の公邸で翌日の交渉のいろんな項目を、ぼくが陸軍罫紙に書く、宮川さんがそれをチェックする、ほとんど徹夜でした。たとえば、日本軍において軍刀は魂である。拳銃はとりあげても軍刀の佩用はは認めてくれとか、一般将兵、市民はなるべく早く帰国させろとか、いろんなことですな」
そして19日の夜明けにソ連の輸送機でジャルコーポに行き、ソ連の5人の元帥と停戦交渉を行ったというのが骨子である。瀬島は、交渉場所への道筋や要した時間、交渉相手の5人のソ連軍元帥の名前や職掌などもくわしく紹介しているが、交渉の模様やどのような取り決めがなされたかについては、なにも語っていない。
・・・(以下略)
シベリアに抑留され、現在、全国戦後強制抑留補償要求推進協議会(全抑協)事務局長をつとめる高木健太郎は、次のように語る。
「わたしたち兵隊は、ソ連に抑留され、酷寒と粗食と重労働で筆舌に尽くしがたい苦労をなめてきました。現にこのわたしも、シベリアの厳寒で、夏期のコルホーズの炎熱の叢のなかで重労働を強制されました。わたしの作業大隊には千人の抑留者がいたのに、強制労働と飢えと栄養失調で半数以上がバタバタと死んでいきました。死んだ仲間を丸裸にして穴を掘って埋めましたよ……。一説では、われわれ兵隊がシベリアに連行されたのは、終戦のときに『国家賠償』として連れていかれたというんです。うちの会のある理事は、瀬島さんたちがソ連との話し合いでそれを認めた疑いがある、といっています。瀬島さん、あなたはソ連側との交渉でどのような話し合いをしたのか、一言だけでいいからわれわれに話してください。それがわれわれ抑留者全員の願いなんです。でも瀬島さんはこの件に関してはいまだに一言も話していないんです」
高木をはじめ、全抑協の幹部に話を聞いていくと、事態はきわめて深刻なことがわかってくる。理事の甲斐義也も、懇願するような口調で、
「われわれは、瀬島さんが歴史の生き証人として、停戦交渉の協定の内容を話してくれることを心の底からお願いしているんです。ここに書かれている条項を、ソ連側と話し合ったんじゃないですか」
といって、一枚の紙切れを示した。それは、「対ソ和平交渉の要綱(案)」のコピーだった。
・・・(以下略)
外務省の『終戦史録』にも記されているこの要綱(案)は、4項目から成っている。
第1項は、「聖慮を奉戴し、なし得る限り速やかに戦争を終結し、以てわが国民は勿論世界人類全般を迅速に戦禍より救出し、御仁慈の精神を内外に徹底せしむることに全力を傾倒す」とあり、第2項には、「これがため内外の切迫せる情勢を広く達観し、交渉条件の如きは前項方針の達成に重点を置き、難きを求めず、悠々なる我国体を護持することを主眼とし、細部については、他日の再起大成に俟つの宏量を以て交渉に臨むものとする」とあるたしかに、これでは抽象的すぎる。ソ連との交渉に、このような態度でのぞんでも「具体性に欠ける」と一蹴されても仕方がないかもしれない。
ただし、第3項の「陸海軍軍備」のロの項には、次のように書かれている。
「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」
そして第4項の「賠償及其他」のイ項にも、次のような記述がみられる。
「賠償として一部の労力を提供することには同意す」
日本政府は、ソ連側に海外にある軍隊は「現地に残留せしむることに同意」し、戦時補償として、「一部の労力を提供することには同意」するつもりでいたのだ。ソ連はこの条項の意味を見抜いていた、というのが甲斐をはじめ全抑協の理事たちの見解であった。
その後、瀬島らがソ連軍と停戦交渉にはいったときに、ソ連軍はこの条項を日本側に示し、その履行を迫ったにちがいなく、秦総参謀長や瀬島はこれを受けていれているはずだ、というのが全抑協の主張である。
・・・(以下略)
秦と瀬島、それにハルビン総領事の宮川の3人は、ワシレフスキー元帥と停戦協定を話し合った。ここで秦は、関東軍の一般状況を説明したあとで、とくに「日本軍の名誉を尊重されたい」と「居留民の保護に万全をつくされたい」の2点を訴えている。しかしその話し合いの細部は、いまもって正確な記録としてはのこされていない。防衛庁戦史室編の戦史叢書によれば、話し合いの結果、7ヵ条の協定ができあがったとある。この7ヵ条の協定のうち、最後の第7条は、なぜか「略」となっている。なぜ第7条だけを明らかにしないのか不思議なのだが、とにかく戦史叢書に書かれている第6条までには、一般抑留者を国家賠償としてさしだすといった条項は見あたらない。
全抑協の会員が秘密協定があるはずだというのは、この第7条の「略」とある部分が実はそれにあたるのではないかと疑い資料の公開も要求しているのである。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換 えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
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第1章 シベリア体験の虚と実
瀬島には、まだ歴史上の証人として証言しなければならない重要な問題がのこされている。それは、これまで述べてきたシベリアの悲劇の原点ともいえる、シベリアに連行された軍人、民間人約57万人余の「法的決着」に関わった当事者としての証言である。「大本営の2000日」で、瀬島は、関東軍総参謀長の秦彦三郎とハルビン総領事の宮川舟夫の3人で、敗戦時に、ソ連軍との停戦交渉にあたった経緯を話している。ここでの瀬島の証言は比較的長いが、その主要部分をぬきだしてみる。
「それで17日(注・昭和20年8月)に秦総参謀長のお伴をして、ソ連総領事館のあるハルビンへ行きました。わが天皇陛下からこういう命令(注・停戦命令のこと)が出たので、関東軍としてはいち早くソ連極東軍司令官と連絡をとって停戦交渉をしたい、その斡旋をしてくれということを総領事に申し入れて、いったん新京へ戻りました」
「翌日、ソビエトの飛行機をハルビンに入れるから、権限をもった軍使がそれに乗ってくれという連絡があって18日の夕方、またハルビンへ行きました。今度は私をふくめて3人の参謀がお伴をしました」
「その晩、総領事の公邸で翌日の交渉のいろんな項目を、ぼくが陸軍罫紙に書く、宮川さんがそれをチェックする、ほとんど徹夜でした。たとえば、日本軍において軍刀は魂である。拳銃はとりあげても軍刀の佩用はは認めてくれとか、一般将兵、市民はなるべく早く帰国させろとか、いろんなことですな」
そして19日の夜明けにソ連の輸送機でジャルコーポに行き、ソ連の5人の元帥と停戦交渉を行ったというのが骨子である。瀬島は、交渉場所への道筋や要した時間、交渉相手の5人のソ連軍元帥の名前や職掌などもくわしく紹介しているが、交渉の模様やどのような取り決めがなされたかについては、なにも語っていない。
・・・(以下略)
シベリアに抑留され、現在、全国戦後強制抑留補償要求推進協議会(全抑協)事務局長をつとめる高木健太郎は、次のように語る。
「わたしたち兵隊は、ソ連に抑留され、酷寒と粗食と重労働で筆舌に尽くしがたい苦労をなめてきました。現にこのわたしも、シベリアの厳寒で、夏期のコルホーズの炎熱の叢のなかで重労働を強制されました。わたしの作業大隊には千人の抑留者がいたのに、強制労働と飢えと栄養失調で半数以上がバタバタと死んでいきました。死んだ仲間を丸裸にして穴を掘って埋めましたよ……。一説では、われわれ兵隊がシベリアに連行されたのは、終戦のときに『国家賠償』として連れていかれたというんです。うちの会のある理事は、瀬島さんたちがソ連との話し合いでそれを認めた疑いがある、といっています。瀬島さん、あなたはソ連側との交渉でどのような話し合いをしたのか、一言だけでいいからわれわれに話してください。それがわれわれ抑留者全員の願いなんです。でも瀬島さんはこの件に関してはいまだに一言も話していないんです」
高木をはじめ、全抑協の幹部に話を聞いていくと、事態はきわめて深刻なことがわかってくる。理事の甲斐義也も、懇願するような口調で、
「われわれは、瀬島さんが歴史の生き証人として、停戦交渉の協定の内容を話してくれることを心の底からお願いしているんです。ここに書かれている条項を、ソ連側と話し合ったんじゃないですか」
といって、一枚の紙切れを示した。それは、「対ソ和平交渉の要綱(案)」のコピーだった。
・・・(以下略)
外務省の『終戦史録』にも記されているこの要綱(案)は、4項目から成っている。
第1項は、「聖慮を奉戴し、なし得る限り速やかに戦争を終結し、以てわが国民は勿論世界人類全般を迅速に戦禍より救出し、御仁慈の精神を内外に徹底せしむることに全力を傾倒す」とあり、第2項には、「これがため内外の切迫せる情勢を広く達観し、交渉条件の如きは前項方針の達成に重点を置き、難きを求めず、悠々なる我国体を護持することを主眼とし、細部については、他日の再起大成に俟つの宏量を以て交渉に臨むものとする」とあるたしかに、これでは抽象的すぎる。ソ連との交渉に、このような態度でのぞんでも「具体性に欠ける」と一蹴されても仕方がないかもしれない。
ただし、第3項の「陸海軍軍備」のロの項には、次のように書かれている。
「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」
そして第4項の「賠償及其他」のイ項にも、次のような記述がみられる。
「賠償として一部の労力を提供することには同意す」
日本政府は、ソ連側に海外にある軍隊は「現地に残留せしむることに同意」し、戦時補償として、「一部の労力を提供することには同意」するつもりでいたのだ。ソ連はこの条項の意味を見抜いていた、というのが甲斐をはじめ全抑協の理事たちの見解であった。
その後、瀬島らがソ連軍と停戦交渉にはいったときに、ソ連軍はこの条項を日本側に示し、その履行を迫ったにちがいなく、秦総参謀長や瀬島はこれを受けていれているはずだ、というのが全抑協の主張である。
・・・(以下略)
秦と瀬島、それにハルビン総領事の宮川の3人は、ワシレフスキー元帥と停戦協定を話し合った。ここで秦は、関東軍の一般状況を説明したあとで、とくに「日本軍の名誉を尊重されたい」と「居留民の保護に万全をつくされたい」の2点を訴えている。しかしその話し合いの細部は、いまもって正確な記録としてはのこされていない。防衛庁戦史室編の戦史叢書によれば、話し合いの結果、7ヵ条の協定ができあがったとある。この7ヵ条の協定のうち、最後の第7条は、なぜか「略」となっている。なぜ第7条だけを明らかにしないのか不思議なのだが、とにかく戦史叢書に書かれている第6条までには、一般抑留者を国家賠償としてさしだすといった条項は見あたらない。
全抑協の会員が秘密協定があるはずだというのは、この第7条の「略」とある部分が実はそれにあたるのではないかと疑い資料の公開も要求しているのである。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換 えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
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