安倍首相は「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)のなかで、「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)に掲載されている特攻隊・第20振武隊・穴沢利夫少尉の日記を引き、下記のようなことを書いていることに、前回ふれました。
”たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。
わたしたちは、いま自由で平和な国に暮らしている。しかしこの自由や民主主義をわたしたちの手で守らなければならない。そして、わたしたちの大切な価値や理想を守ることは、郷土を守ることであり、それはまた、愛しい家族を守ることでもあるのだ。”
私は、事実に基づけば、こうした理由で先の日本の戦争を正当化することは歴史の修正だと思いますし、再び戦争を想定して”日本を守る(?)ためには、命をなげうって戦うべきだ”というような安倍首相の考えに驚き、「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)を読んでみました。そしてそれは、著者の思いとは異なるものであると思いました。著者は、自らの死を従容として受け入れ、取り乱すことなく特攻機で飛び立っていった若者の思いに心を寄せつつも、だからといって、先の大戦を美化するようなことは言っていないからです。
解説で高田宏氏も触れていますが、穴沢少尉と同じ東京陸軍航空学校で学び、生き残ったことに後ろめたさがあるという「今日われ生きてあり」(新潮文庫)の著者・神坂次郎氏は、下記の様に書いています。
”父に逢いたくば蒼天をみよ
国華隊の隊員たちは、十八、九歳から二十三、四歳までの若者であった。かれらは師とも兄とも仰ぐ歴戦の名戦闘機乗り渋谷大尉の行動そのままに、出撃にあたっては殊更に遺書を残すこともなく、まるで飛行訓練にでも出かけるように、永訣の盃を酌みかわし、同期の桜を唄ってたがいに肩を叩きあい、悪天候の沖縄海域の米機動部隊にむかって突入していったのである。
「われは石に立つ矢……」
いま、四十年という歴史の歳月を濾(コ)して太平洋戦争を振り返ってみれば、そこには美があり醜があり、勇があり怯(キョウ)があった。祖国の急を救うため死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ、戦況不利とみるや戦線を放棄し遁走した四航軍の首脳や、六航軍の将軍や参謀たち(冨永恭次・陸軍中将や稲田正純・陸軍中将)が、戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿と……。”
著者は、安倍首相と違い、多くの若者を”石つぶての如く修羅に投げ”こんだ、先の戦争の”醜”の部分をしっかりと見ているのです。
また、「素裸の攻撃隊」と題した文章の中では、
”このB29の白昼の東京上空侵入の屈辱に歯ぎしりした第十航空師団は、みずからの面目をたてるために11月7日、隷下の各戦隊に特別攻撃を命じた。特別とは、「一死をもってこの任(B29撃墜)を達成せよ」という百中百死の攻撃命令であった。
一、敵B29は昨今しばしば高々度をもって、帝都上空に来襲す。
一、師団は特別攻撃隊を編制し、これを邀撃せんとす。
一、各部隊は四機をもって特別攻撃隊を編成し、高々度で来襲する敵機に対して体当たりを敢行し これを撃墜すべし。
この特攻隊は、防衛総司令官東久邇宮稔彦王大将により「震天制空隊」と命名された。
だが、特攻は戦術ではない。指揮官の無能、堕落を示す”統率の外道”である。”
と書いています。先の戦争で、思いやりに満ちた誠実な若者が、”統率の外道”によって命を投げ出すことになったのだということだ思います。
同書は大部分、特攻基地知覧を飛び立っていった特攻隊員の手紙や日記、遺書と彼等を見送った人たちの文章で埋められていますが、ところどころに著者がこうした思いを綴っています。下記もその一節です。
”マラリアの発作の起こる直前の、昏(クラ)くなる意識のなかで、青野の躰が、ぐらっとよろめいた。
草の根を踏んだ足が滑って、重心を失った青野は、そのまま仰向けざまに泥の川に倒れた。
(サルミへ、早く行かねば……)
──だが、そのサルミ基地への転進を叫んで戦隊員たちに希望をを与えた垂井大尉は、すでにこの世にいない。半月まえ、P51の銃撃をうけて密林のなかに斃(タオ)れている。そしてそれよりも、六十八戦隊員たちが目指したサルミ基地に、航空部隊七千人の最高指揮者で第六飛行師団長稲田正純少将の姿はなかった。
敵前逃亡であった。はるか以前の4月22日、アメリカ軍のホーランディア上陸に恐怖した稲田師団長は、ニューブリテン島からニューギニアへ展開して苦闘をつづけている航空部隊を置き去りにして、サルミからマニラへ遁走(トンソウ)してしまっていたのだ。
将軍の敵前逃亡、戦場離脱はこの稲田だけではなかった。おびただしい数の若者の命を、石つぶてのごとく特攻に投じ、その壮行にあたっては、
「大丈夫ひとたび死を決すれば、ために国を動かす。諸子ひとりの死は皇国を動かし、世界を動かすものである。諸子の尊い生命と引きかえに、勝利の道を開けることを信じている。それでもなお敵が出てくるならば、第四空軍の全力をもって、諸子の後につづく。この富永も最後の一機で行く決心である」
と刀を振りあげ、口舌にまかせて激励し、いったん戦況不利となるや将兵をすて、フィリピン、エチャーゲ飛行場から護衛機四機に守られ台湾に逃走し、北投温泉に逃げた四航軍司令官富永恭次中将もいる。
陸軍刑法
第四十二条 司令官敵前ニ於テ其ノ尽すへき所を尽サスシテ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス
・・・
※
ニューギニア戦線の銀蠅街道から生還する者、第十八軍の将兵十四万のうちわずか一万三千。航空部隊七千のうち五百。そのほとんどが餓死であった。
安倍首相は、こうした記述には関心がないのでしょうが、著者が、なぜここで”死刑ニ処ス”という陸軍刑法を引いたかを、また、わざわざ※印で区切って、”餓死”の事実を明らかにしているのかを、深く受け止める必要があると、私は思います。
下記の 手紙や日記や遺書の文章はどれも、誠実で思いやりに満ちた穴沢少尉の人間性が感じられます。
だから、私は、穴沢少尉などが命を投げ出す決心をした戦争は、日本軍や政府の指導者が都合好く粉飾し美化したまやかしの戦争であって、現実の戦争とは異なるものだったと思います。日本の戦争の実態や不都合な事実は、報道統制や検閲その他によって、全く国民に知らされていなかったわけですし、軍命や日本の戦争の正当性を疑うようなことが許される世の中でもなかったと思います。同書に、著者が”統率の外道”と断じた特攻作戦の是非を疑ったり、問うたりする特攻兵の記述がないのは、そのためだと思います。
当事、報道班員として数多くの特攻隊員を見送ったという作家の戸川幸夫が”彼らは神々しいまでに純粋だった”と述べたといいますが、そうした特攻兵は、指導者によって都合よく粉飾され美化されたまやかしの戦争を、”御国(日本)”のための戦争と信じ、”国護る身”であるので”大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ”の思いを抱いて、飛び立っていったのではないかと思います。
そうしたことは、穴沢利夫にかかわる「第一話 心充(ミ)たれてわが恋かなし」だけでも察せられるのではないかと思います。下記は、その全文NO1です。
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第一話 心充(ミ)たれてわが恋かなし
岩尾光代の語る──
「タバコの吸いさしが二ツ。戦後38年経って、巻紙は変色し、銘柄ももう定かではありません。
伊達智恵子にとって、この”吸いさし”が婚約者だった第二十振武隊の穴沢利夫少尉(特操一期)の遺品なのです。
ふたりが交際を始めた昭和17年1月。その前年、当時、文部省図書館講習所の生徒だった智恵子は、夏季講習の東京高等歯科医学校図書館で、二つ年上の利夫と知り合いました。利夫は、図書館講習所を卒業して、中央大学の学生でした。
交際といっても、ほとんどが手紙の往復。学生の男女がつきあうなどということは『はしたないこと』とされていた時代のことでした」
穴沢利夫(少尉、第二十振武隊)の手紙──
<智恵子へ
陸鷲志望について「我儘ばかり申して申訳なく……」とあなたに言わせた僕は全く果報者でした。僕は今自分の希望を達し、十月一日に陸鷲として入校することに決定しました。採用許可の喜びに心は踊りながら、電車の吊革に下りながら窓に映る自分の顔を睨み続けてゐるうちに、魂の底深く焼きつけられたあなたの顔が何度となく重なり合ってきました。
万葉集にこんな歌がありました。
ますらをと思へる吾や水茎の水城の上に涕(ナミダ)拭はむ
(ますらおだと思っていた僕も、あなたとの別離が悲しく、〔水茎の〕(枕詞)水城<みずき>のうえで、涙を拭わざるを得ないというような意味の、大伴旅人の歌)
かつてなかった喜びに言い現すべくもない気持ちでありながら僕は今この歌と同じ気持ちを味はつてゐます。
でも僕は安心して行くのです。
僕が唯一最愛の女性として選んだ人があなたでなかったら、こんなにも安らかな気持ちでゆくことは出来ないでせう。亦とない果報な男であつたと再び言ひます どんなことがあっても、あなたならきつと立派に強く生きてゆけるに違ひないと信じます。
山本元帥の尊い死、近くは竹の園生(ソノフ)の御生れでありながら一将士として散華された伏見伯、どうして僕等が生きてゐられませうか。若い熟しきつた今にも奔流せんとする血潮をどうして押へておくことが出来ませうか。
僕等が現在、祖国の運命を左右せんとする航空決戦に赴かんとするのは全く自然の勢いです。已むに已まれぬものなのです。
僕は今あなたとの交りを一つ一つの思い出で以て生き生きと甦らせようとしてゐます。
あなたが、”ぐらぢをらす”を持って来て図書室の花瓶にいけてくれた日の夜、僕は誰もゐない部屋でそれを写しました。(同封します)
今年に入って一月二十四日の日曜のことは……「大事なこと」と前置きして話してくれたこと。……僕はやつぱり、あなたとの生活を夢見続けてゐたのでした。馬鹿なことだつたとあなたは言い切れますか。
でも、僕にとつては自分の将来の生活は、あなたとの家庭生活以外に想像し得なかつたのです。
然し、いまの僕は未来の世界を信じませう。きつとそこで結ばれるに違ひない未来の世界を信じます。
病気で九州へ去つた時、僕は生まれて初めて祈りの心を知りました。祈らずにはゐられない気持ちを。
実に幸福感に満ちた一日一日を送り得た一年半の生活でした。すべてはあなたがあつた為に。
わずかな時間を見付けて図書室へ度々寄つてくれたあなたに何と言つて感謝してよいものでせうか。
「もう帰ります」と言はれてがつかりはするものの、その後にこみ上げて来る嬉しさ。
あなたの魂のみはしつかり胸に抱いて、他はすべて地上に還して、あの大空へと飛び立ちませう。
一年後の今日、僕の姿を北か南か大陸か果たしてその何れに見出し得るでせうか。
すでに時刻はかっきり十二時、今夜もまたあるかなしかの微風が部屋に涼しく流れこんで来てますし、蟋蟀(コオロギ)が暗闇の中で鳴いている晩です。
あなたの面影のみ去来する頭を、そつと休ますべき時刻になつてゐます。
ひたすら御自愛を祈りつつ。
決意
数ならぬ命なれどもおほろかに思ひはすまじ国護(マモ)る身なり
去り行きて行き極めなむ吾がゆくはみなますらをの道にしあらば
あなたに献(ササゲ)げます。
冬来なば春遠からじといふものを雄々しく生きよ我護(マモ)らむぞ。
昭和18年9月6日夜>
岩尾光代の語る──
昭和18年10月1日、中央大学を繰り上げ卒業した利夫は、陸軍特別操縦見習士官第一期生として、熊谷飛行学校相模教育隊へ入隊。
やがて、昭和19年春、利夫は台湾高雄の台湾第四十部隊に配属されて赴任。半年後に内地へ戻って飛行第二四六戦隊に転属。ここから選抜されて特別攻撃隊である第二十振武隊員となりました。
このころには二人の結婚話が現実化していましたが、福島県駒形村に住む利夫の両親は、この結婚に反対していました。陸軍将校は、教育総監の許可がなければ、正式な結婚は出来ない。申請には親の同意が必要でした。
……智恵子は、2月13日の夜汽車で三重県亀山に利夫を訪ねました。利夫を訪れた智恵子を見て第二十振武隊の長谷川実隊長は、なんとか二人を結びつけたいと旅館、朝日屋に別室をとってくれました。
別室とはいつても、大広間。部屋に入るとポツンとふとんが一組だけ敷いてあり、突然のことで、二人はびっくりしましたが、智恵子は、連日の猛練習で疲れ切っている利夫を、一刻もゆっくりと休ませたいと、ふとんに利夫を寝かせ、傍らに座ったまま、夜通し子守歌を唱(ウタ)いつづけました。智恵子は、着たきりスズメのモンペ姿。母の心づくしで、モンペとしては最上等の絹の茶絣(チャガスリ)。物のないときのこと、なけなしの香水がなによりの身だしなみでした。
翌朝6時、まだ暗いうちに、軍服を身につけた利夫は兵営に帰っていきました。凍てついた2月の空に輝く明けの明星が、智恵子の目にいまも焼きついています。帰京後、智恵子は利夫に宛てた手紙の末尾に歌を書きました。
わかれてもまたもあふべくおもほへば心充たれてわが恋かなし 智恵子」
穴沢利夫の手紙
<智恵子へ
8日の朝は最後の面接にしては余りに短かすぎた。その上、万感胸に迫り、語らんとして語り得なかった。
しかし、自分の気持ちはきつとあなたの心に響いてくれたに違ひない。自分は心から「智恵子よ強く、そして明るく生きよ」と祈りつづける。いつまでもいつまでも、自分はあなたの生きてゆく正しき姿を見守ってゆく。
いまさら言ふべきこともない。自分は過去に於て想像もし得なかった最大最高と誇り得る任務につき得た事を喜ぶのみ。
あなたからのマスコットはあなたの分身に違ひない。常に懐中に秘めて力の限り愛機を駆らう。
最後に、前途の多幸を希(ネガ)ひつつ、”さようなら”を告げる。
昭和19年3月11日 >
<智恵子へ
小雨の中に(あなたを)送つたあとに、しょんぼりした。たまらなく物足りない。しかもいらいらした感情の交錯に情けない程弱くなった自分を見出す。
任官間もない天下の見習士官が、戦闘健児が、かつて南十字星を望み友と感傷を語り合つた時も、黝(クロ)い山腹に見る蛮舎の火を眺めて虫の声に耳をかたむけた時も、今日ほど弱い自分を見出したことはなかった。
しかし自分は、明日からの生活に今日の感情の残りが見られる程の生ぬるい鍛え方をされて来なかったことを幸に思ふ。じつに台湾での生活は、飛行機が参るか人間が参るかといふ劇(ハゲ)しい毎日だったのである。自分は無駄にその毎日を経て来はしなかったのである。
明日から又、今日の感傷を洗い去り、”マスコット”を抱いて勇敢に訓練するであらう自分を信ずることができる。
わざわざ遠く一人で訪ねてくれた心に対し、なにも言い得ない程の感謝の念で一杯である。
お互ひの感情が、自分がここにかうしてゐる以上は、かならず実を結ぶに違ひない。自分は形となつて現はれたる結実が、自分の私的面の最大の希(ネガ)ひであることを明らかに茲でつけ加へねばならぬ。
満月の晩の月をみる件は、清らかな月を二人で同じ気持ちで眺めるといふ率直な解釈をして次の十五夜を待たう。
久し振りで懐かしいペンを握つて実に嬉しいと思ふ。
ひとりとぶもひとりにあらずふところにきみをいだきてそらゆくわれは
昭和19年9月23日 >
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