真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ソ連の北海道分割占領計画とシベリア抑留

2009年03月14日 | 国際・政治
 満州における権益の確保・拡大のために、人の命や人生を物ともしないで、次々に戦線を拡大した関東軍もさることながら、満州に攻め入ったソ連も、質の悪いヤクザか暴力団の如く理不尽な振る舞いをしたように思われる。こんな愚かな戦争のために、数え切れない人達が命を落とし、人生を狂わせられなければならなかったのかと思うとやるせない。「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。(斎藤六郎-満州で軍法会議録事を務めていたが、敗戦後シベリアに抑留される。帰還後、シベリアに抑留された人々の組織化に取り組み、1977年に全国抑留者補償協議会会長に就任。ソ連に滞在し「関東軍文書」を発見・解読、棄兵・棄民政策の背景を暴露した人)
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                第4章 スターリンの犯罪

 北海道分割占領計画

 斎藤六郎と親交があり、シベリア抑留問題の研究者であるロシア最高軍事検察庁ウラジミール・A・ボブレニョフ法務大佐は、この史実に注目した。なぜなら日本人捕虜のシベリア抑留をめぐって、この前後に相異なる命令が発せられ、両者の食い違いを解く鍵が、
スターリンの北海道分割占領(釧路と留萌を結ぶ線の北半分)の断念にあると見たからだ。ではこのことを事実によって、確かめてみよう。
 ソ連の対日参戦から一週間後の45年8月16日、ワシレフスキーはモスクワから、内務人民委員会ベリア、国防人民委員会ブルガーニン、参謀総長アントノフの3人の連名による次のような暗号電報を受け取った。


 日本・満州軍の軍事捕虜をソ連邦領土に運ぶことはしない。軍事捕虜収容所は可能な限り、日本軍の武装解除の場所に組織されなければならない。収容所は、方面軍司令官の命令によって組織すること。また、収容所の警備と軍事捕虜の警護のために、必要数の軍を選出すること。軍事捕虜の食事は、満州に布陣している日本軍の現在の基準量に準じて現地の物資によりとり行うこと。収容所における軍事捕虜の維持に関係する諸問題の組織化と指導のために、ソ連邦内務人民委員部から内務人民委員部軍事捕虜担当総局長・中将クリベンコ同志が、将校グループとともに派遣される。

 ところが、この一週間後の8月23日に、日本軍捕虜の取り扱いについて、上記の方針を根本的に覆す「国家防衛委員会決定(No9898)」が発せられた。同委員会議長のスターリンが内相ベリヤやワシレフスキーなど極東戦線の各司令官に宛てたもので、俗に「スターリン極秘指令」と呼ばれており、日本軍捕虜50万人のソ連移送とその強制労働利用を命令していた。このスターリン極秘指令は8月24日にその大要が、9月2日にその詳細がそれぞれ関係各方面に暗号電報で伝えられた。ザバイカル地方のチタには極東ソ連軍の満州進攻作戦を後方で支援する兵站基地があり、兵站機関本部次長ビノグラードフ大将は、同3日にこのスターリン極秘指令(詳細)を受け取った。斎藤六郎が独自に入手したビノグラードフ宛てのスターリン極秘指令はかんり長文だ。だが、シベリア抑留問題を考えるうえで非常に重要な文書なので、本文の末尾にその全文を掲げる。(別に抜粋)

 スターリンが対日参戦を構想する過程で、日本軍捕虜のシベリア抑留とその強制労働利用をいつ思いついたか、それを裏付ける具体的な歴史的文書はまだ発見されていない。しかし、斎藤は、スターリン極秘指令の内容を仔細に検討した結果、それが綿密に作成された計画であると断定。「8月14日の日本のポツダム宣言受諾よりかなり早い段階で、日本将兵のシベリア抑留に関する決定が行われたのではないか」と推測している。ただし、日本人捕虜の取り扱いに関する決定がわずか一週間の短期間で180度転換した本当の理由は、「当時の国家国防委員会の議事録を検討して見ない限り、判然としない」が、現段階では斎藤も含めだれもまだ、議事録の入手に成功していない。

 ボブレニョフは問題の二つの歴史文書を比較検討し、なぜ日本軍捕虜に関する取り扱いがわずか一週間という短期間のうちに180度転換したか、その理由を考えた。このとき着目したのが、この間に北海道の分割占領をめぐってトルーマンとスターリンの秘密外交折衝が行われ、最後はトルーマンの強い反対によって、スターリンの野望が挫折に追い込まれた事実であった。ボブレニョフはこの経過を綿密に点検した結果、スターリンはトルーマンによって北海道の分割占領を阻止された腹癒せに、日本人捕虜のシベリア抑留を決定したに違いないとの確信を持つに至った。ボブレニョフは斎藤の斡旋によって、日本で出版した『シベリア抑留史』の中で、北海道分割占領をめぐるトルーマンとスターリンによる上記の秘密外交折衝の経過を紹介したうえで、こう結論している。

 このように見てくれば、日本人捕虜が東京ダモイ(帰還)から一転してシベリア抑留強制労働に狩り立てられることに至った経緯は明らかである。北海道占領の断念が転じて捕虜の強制抑留に連なったことは歴史の示すところである。結果的に日本人捕虜は北海道本土を自らの労働によって償ったものとみてよい。

  
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