アムレトー・ヴェスパは、関東軍のリットン調査団を欺くための工作について明らかにしました(「リットン調査団を欺く関東軍」)。ここでは、ヴェスパの満州事件以来の関東軍謀略工作の暴露が国際連盟に与えた影響と、ヴェスパに対する関東軍の仕打ちに関する部分を「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)から抜粋します。インドでは独立運動を率いたボースを怒らせ、東チモールでは中立を守っていたサラザールを怒らせた日本軍の現地人無視の姿勢が共通だと思います。
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特務機関員・ヴェスパの満州脱出
元満州日報支配人 太原要
ヴェスパ銃殺の決定
1936年9月。関東軍特務機関員アムレトー・ヴェスパの軍用機による満州脱出は内外に衝撃を与えた一大事件であった。しかも彼によって関東軍の満州事件以来の謀略工作が英国の代表的新聞紙上において暴露され、国際連盟がこれをとりあげるに至って、満州国が日本の傀儡政府なることを実証することになった。当時この事件は軍によって報道を禁ぜられ、そのまま今日まで未発表となっている。
「参謀部会議は君を抗日軍の内通者として銃殺と決定した。一刻も早く満州から脱出しなければならない。君はまだ軍の証明書を持っている筈だ。すぐ飛行場へとんでいって飛行機をつかまえ給え」
ヴェスパが参謀部のR大尉からこんな通報に接したのは1936年9月3日の未明であった。彼は即刻、市内に潜伏している抗日軍将領張作舟大佐に家族の保護を頼んで大連へ飛び、そこから海路、上海へ着いた。これを知った関東軍は跡を追うヴェスパの妻子を青島で逮捕、ハルビンに押送投獄する一方、満鉄情報部嘱託チャールズ・キーナンを上海に急派して、
「貴君が関東軍の内情を公表するようであれば、家族はこの世から消されるでしょう。だが、貴君はそんな馬鹿なことはなさらんと信じます。貴君は中国に帰化されたが生まれはイタリア人です。イタリアと日本とは盟邦です。もし日本に不利なことを発表されるとイタリアの不利を招くわけですから」
と説かせた。だがヴェスパは関東軍が強制徴用の4年半の間、幾度か生命の危険にさらされる仕事を強いながら約束の報酬を逃亡を防ぐため払わなかったうえ、家族を人質同様の扱いをし5万ドルに値する財産を押えた。今なお同じ圧制下に苦しんでいる諸外国人や過去半生を送った愛する満州のため、関東軍の謀略行為を発表して世界の世論に訴えるのが私の義務だ、と耳をかさない。
そこで、当時、悪名の高かった憲兵隊の中村通訳にロシア人凶徒団を率いて上海に潜行させ、ヴェスパの暗殺をはかったが成功しなかった。それのみか、張作舟が捕虜とした関東軍将兵取り戻しのため、ヴェスパの家族釈放の余儀なきに至ったのであった。しかも、関東軍の満州における謀略工作は、排日紙マンチェスター・ガーデヤンに「中国侵略秘史」と題して暴露されてしまった。
アムレトー・ヴェスパは在満30年。新聞記者仲間では中国名の鳳弗斯(フオヴス)で通っていたが、彼に会った者は少ない。何故かというと、彼の活動は夜陰に限られ、張作霖との会見の場合も黒の中国長衿に黒眼鏡、黒い中国帽という黒装束で裏門からであったからだ。
私は仕事の関係上、彼と知り合いであったが、彼自身の語ったところによると、22歳のとき故国イタリアをとび出してメキシコのマデラ将軍の革命軍に投じた。そこで負傷2回、大尉に昇進した。1912年に退官しフリーランスのジャーナリストとしれ米、濠、仏印、中国、東部シベリアをを歴遊した。
1916年、第1次大戦中、連合軍の諜報機関に属し日本軍に従いアムール、バイカル、ニコライエフスクにも潜行した。戦後、彼の国際知識と優れた語学や諜報の才能に着目した張作霖に招聘されてその私設特務機関に入り、満州政治の裏舞台での有力者となった。爾来張の帷幕にいること8年余、信任ことのほか厚く、張の寝室に入ることができたのは、彼と黒竜江省長呉俊陞の2人だけであった。
彼は寧ろ親日家であった。日満協約による武器密輸取り締まりでは、母国軍艦密輸のものさえ押収し、上海のイタリア総領事館に捕えられ暗殺されんとした。また、満州関係の日本人高官中に多くの知友ををもち、武藤元帥の崇拝者であり、満州在留邦人の勤勉さに讃辞を惜しまなかった。それなのにどうして反逆するに至ったか。
それは、張政権時代のライバルであった土肥原賢二大佐に対する私怨と、大佐が張作霖爆殺の黒幕だとしての報復が主な原因のようだ(彼はハルビン特務機関長白武中佐の洩らした一言で、土肥原大佐が張爆殺の主謀者だとの確信を得たと私に語った)。では何故、土肥原がハルビン特務機関長に就任早々、ヴェスパを徴用して外人諜報班主任にしたか。それには2つの理由があった。第1は、ハルビンは所謂満州の上海で十数カ国の外国人雑居の国際都市であるから、その統治は容易ではない。それに財力の豊かなこの都市から軍資金調達という重大な役目があった。
それにはこの内情に通じ、在留外人に信用のあるヴェスパを利用する必要があった。第2は、その頃梟雄馬占山は板垣参謀と駒井総務長官の決的な海倫(ハイロン)のり込みで、満州建国に参加させることに成功したものの、李徳、丁超、張作舟ら10万余の抗日軍の蠢動甚だしく、鉄道地域外へ一歩でも離れると危険で、関東軍守備隊の損害は夥しかった。それに彼等のバックには東支鉄道管理局クズネツオフがおり、武器弾薬を与えて扇動していた。
過小な関東軍の力ではとても早急な鎮撫は不可能であった。ところが、ヴェスパは彼等将領とはみな張政権以来の旧知である。そこでヴェスパを使って説得帰順させようというのである。だが、それだけにこの大物を使いこなすのはひと仕事で、また逆効果をもたらす危険が感じられた。そこで家族に厳重な監視をつけ、かつまた、約束の報酬を払わず逃亡を防いだ。だが、それはヴェスパに多大の恥辱と反感をいだかせることとなった。
一方、ヴェスパの活動で憲兵隊の悪事が次々に摘発されると、特務機関と憲兵隊の確執は昂じ、その結果、ヴェスパ一身に糾弾の矢が集中されるようになった。そこへ、彼の部下の馬賊頭目建基が憲兵隊の弾圧に堪えかね、関東軍の軍用金輸送列車を襲って、それを強奪するという事件がおき、彼が内情を知ってのうえのこととの疑惑をうけたのである。
事ここに至るまでには、いろいろの問題があったが、関東軍参謀会議がヴェスパ銃殺を判決した直接の原因は、かれが関与した横道河虐殺事件隠蔽のためであった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
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特務機関員・ヴェスパの満州脱出
元満州日報支配人 太原要
ヴェスパ銃殺の決定
1936年9月。関東軍特務機関員アムレトー・ヴェスパの軍用機による満州脱出は内外に衝撃を与えた一大事件であった。しかも彼によって関東軍の満州事件以来の謀略工作が英国の代表的新聞紙上において暴露され、国際連盟がこれをとりあげるに至って、満州国が日本の傀儡政府なることを実証することになった。当時この事件は軍によって報道を禁ぜられ、そのまま今日まで未発表となっている。
「参謀部会議は君を抗日軍の内通者として銃殺と決定した。一刻も早く満州から脱出しなければならない。君はまだ軍の証明書を持っている筈だ。すぐ飛行場へとんでいって飛行機をつかまえ給え」
ヴェスパが参謀部のR大尉からこんな通報に接したのは1936年9月3日の未明であった。彼は即刻、市内に潜伏している抗日軍将領張作舟大佐に家族の保護を頼んで大連へ飛び、そこから海路、上海へ着いた。これを知った関東軍は跡を追うヴェスパの妻子を青島で逮捕、ハルビンに押送投獄する一方、満鉄情報部嘱託チャールズ・キーナンを上海に急派して、
「貴君が関東軍の内情を公表するようであれば、家族はこの世から消されるでしょう。だが、貴君はそんな馬鹿なことはなさらんと信じます。貴君は中国に帰化されたが生まれはイタリア人です。イタリアと日本とは盟邦です。もし日本に不利なことを発表されるとイタリアの不利を招くわけですから」
と説かせた。だがヴェスパは関東軍が強制徴用の4年半の間、幾度か生命の危険にさらされる仕事を強いながら約束の報酬を逃亡を防ぐため払わなかったうえ、家族を人質同様の扱いをし5万ドルに値する財産を押えた。今なお同じ圧制下に苦しんでいる諸外国人や過去半生を送った愛する満州のため、関東軍の謀略行為を発表して世界の世論に訴えるのが私の義務だ、と耳をかさない。
そこで、当時、悪名の高かった憲兵隊の中村通訳にロシア人凶徒団を率いて上海に潜行させ、ヴェスパの暗殺をはかったが成功しなかった。それのみか、張作舟が捕虜とした関東軍将兵取り戻しのため、ヴェスパの家族釈放の余儀なきに至ったのであった。しかも、関東軍の満州における謀略工作は、排日紙マンチェスター・ガーデヤンに「中国侵略秘史」と題して暴露されてしまった。
アムレトー・ヴェスパは在満30年。新聞記者仲間では中国名の鳳弗斯(フオヴス)で通っていたが、彼に会った者は少ない。何故かというと、彼の活動は夜陰に限られ、張作霖との会見の場合も黒の中国長衿に黒眼鏡、黒い中国帽という黒装束で裏門からであったからだ。
私は仕事の関係上、彼と知り合いであったが、彼自身の語ったところによると、22歳のとき故国イタリアをとび出してメキシコのマデラ将軍の革命軍に投じた。そこで負傷2回、大尉に昇進した。1912年に退官しフリーランスのジャーナリストとしれ米、濠、仏印、中国、東部シベリアをを歴遊した。
1916年、第1次大戦中、連合軍の諜報機関に属し日本軍に従いアムール、バイカル、ニコライエフスクにも潜行した。戦後、彼の国際知識と優れた語学や諜報の才能に着目した張作霖に招聘されてその私設特務機関に入り、満州政治の裏舞台での有力者となった。爾来張の帷幕にいること8年余、信任ことのほか厚く、張の寝室に入ることができたのは、彼と黒竜江省長呉俊陞の2人だけであった。
彼は寧ろ親日家であった。日満協約による武器密輸取り締まりでは、母国軍艦密輸のものさえ押収し、上海のイタリア総領事館に捕えられ暗殺されんとした。また、満州関係の日本人高官中に多くの知友ををもち、武藤元帥の崇拝者であり、満州在留邦人の勤勉さに讃辞を惜しまなかった。それなのにどうして反逆するに至ったか。
それは、張政権時代のライバルであった土肥原賢二大佐に対する私怨と、大佐が張作霖爆殺の黒幕だとしての報復が主な原因のようだ(彼はハルビン特務機関長白武中佐の洩らした一言で、土肥原大佐が張爆殺の主謀者だとの確信を得たと私に語った)。では何故、土肥原がハルビン特務機関長に就任早々、ヴェスパを徴用して外人諜報班主任にしたか。それには2つの理由があった。第1は、ハルビンは所謂満州の上海で十数カ国の外国人雑居の国際都市であるから、その統治は容易ではない。それに財力の豊かなこの都市から軍資金調達という重大な役目があった。
それにはこの内情に通じ、在留外人に信用のあるヴェスパを利用する必要があった。第2は、その頃梟雄馬占山は板垣参謀と駒井総務長官の決的な海倫(ハイロン)のり込みで、満州建国に参加させることに成功したものの、李徳、丁超、張作舟ら10万余の抗日軍の蠢動甚だしく、鉄道地域外へ一歩でも離れると危険で、関東軍守備隊の損害は夥しかった。それに彼等のバックには東支鉄道管理局クズネツオフがおり、武器弾薬を与えて扇動していた。
過小な関東軍の力ではとても早急な鎮撫は不可能であった。ところが、ヴェスパは彼等将領とはみな張政権以来の旧知である。そこでヴェスパを使って説得帰順させようというのである。だが、それだけにこの大物を使いこなすのはひと仕事で、また逆効果をもたらす危険が感じられた。そこで家族に厳重な監視をつけ、かつまた、約束の報酬を払わず逃亡を防いだ。だが、それはヴェスパに多大の恥辱と反感をいだかせることとなった。
一方、ヴェスパの活動で憲兵隊の悪事が次々に摘発されると、特務機関と憲兵隊の確執は昂じ、その結果、ヴェスパ一身に糾弾の矢が集中されるようになった。そこへ、彼の部下の馬賊頭目建基が憲兵隊の弾圧に堪えかね、関東軍の軍用金輸送列車を襲って、それを強奪するという事件がおき、彼が内情を知ってのうえのこととの疑惑をうけたのである。
事ここに至るまでには、いろいろの問題があったが、関東軍参謀会議がヴェスパ銃殺を判決した直接の原因は、かれが関与した横道河虐殺事件隠蔽のためであった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
「中国侵略秘史」で検索してお邪魔しました。
古書を扱う会社でパートをしている者です。
先月、イタリア人の方からメールをいただきました。
「アムレトー・ヴェスパについて研究をしている」
「彼の著書をいろんな言語で集めている」と言われ、
何回かメールのやり取りをしたのですが
「アムレトー・ヴェスパは日本語で何冊本を出しているのか?」
「彼の日本語の著書を調べると、大岩和嘉雄という名前が出てくるが、彼の別名か何かか?」
と、聞かれました。
私なりに調べて見たものの、歴史に詳しいわけでもなく
就業中に調べるには時間が足りず
まだきちんと返信をしていません。
仕事だから、と調べ始めたのですが
調べれば調べるほど興味が沸いてきて
もっとアムレトー・ヴェスパについて知りたい、
お客様の役に立つことがしたいと思うようになりました。
林様の知っていることがあれば、教えていただきたいです。
私は、リットン調査団を欺くための関東軍の工作について学んでいるときに「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)の中で、アムレトー・ヴェスパについて知りました。したがって、同書に書かれていること以上のことは、残念ながら知りません。
でも、興味ある人物の一人であり、いずれ調べてみたいとは思っています。お役にたてず申し訳ありません。
ありがとうございます。
「目撃者が語る日本史」シリーズ、とても興味があります。
もっと学生の頃に勉強していたらよかった~、と
最近しみじみと感じております。
これからもちょこちょこお邪魔させていただきます♪
>これからもちょこちょこお邪魔させていただきます
とのこと、うれしく思います。
ドイツは戦後、自国の歴史の恥部から目をそむけず真正面から対決し、戦後補償することによって、周辺諸国の信頼を回復し、欧州連合(EU)の事実上のリーダーになりました。でも、日本は相変わらず周辺国と歴史認識や戦後補償の問題をめぐって対立しています。だから、「過去を克服できたドイツ、できない日本」という言い方をする人もいます。
先だって安倍総理は、「戦争には関わりのない子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」などと言いましたが、戦争責任や歴史認識、戦後補償の問題をきちんと解決しないで、過去の加害の歴史を消し去るような主張をする姿勢には問題があると思っています。
広島の原爆慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」とありますが、何が「過ち」であるのか、日本では共有されていないのではないでしょうか。
だから、日本には文書の焼却によって隠蔽された戦争犯罪の事実や加害の事実がいまなお多く残されているのではないかと思います。
ご参考まで。
案内を4087ありがとうございました。機会を見て読ませていただきたいと思います。