真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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天皇が靖国神社に参拝しなくなった理由について

2021年08月03日 | 国際・政治

 天皇が靖国神社に参拝しなくなった理由について、「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)は、三つの説をあげています。
 その一つは、横井権宮司が、”昭和天皇の参拝を中止したのはGHQである、と証言している”というものです。
 二つ目は、GHQの文書の中に、”靖国神社への天皇の参拝を禁じたのは、日本政府である”と記されいるものがあるというものです。
 三つ目は、GHQ民間教育局宗教課長ウィリアム・バンス氏が、”それは、昭和天皇がお決めになったことです。あれは陛下ご自身の判断でした”と答えたというものです。
 
 私は、この三つがどれも間違ってはいないような気がします。というのは、昭和天皇の参拝中止が、GHQ側からの一方的な命令ではなく、政府や天皇との間に、それぞれ何らかのかたちで合意があったのではないかということです。そして、天皇の靖国神社参拝中止に対する反発を和らげるために、あえて、その決定サイドをはっきりさせなかったのではないかということです。
 そんな気がしたのは、GHQの 「神道指令」立案に関わったウィリアム・P・ウッダードが、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)のまえがきで、次のように書いているからです。
占領軍がその政策と施策を実施できたのは、有名無名を問わず、多数の日本の官僚や指導者が共感をもって理解し、責任をもって協力してくれたからであった。日本側の賢明な協力がなかったら、占領軍の使命達成ははるかに困難だったろうし、場合によっては不可能だったであろう。したがって、本書のはじめに、その努力によって占領軍の宗教政策の実現を可能にした文部省、とくに宗教課の担当官と都道府県庁の職員、そして宗教界の指導者たちに謝意を表わすことが適切だと考える
 これは、ウッダードの作り話ではなく、天皇も含め、多くの日本人が、あまり抵抗を感じることなく「神道指令」や「天皇の靖国参拝中止」受け入れることができた、ということではないかと思います。海軍兵学校出の米内海相でさえ、御前会議の席で、東郷外相のポツダム宣言受諾案に賛成したのですから、そういう雰囲気はあったのではないかと思うのです。

 また、「神道指令」立案の中心となったGHQ民間教育局宗教課長ウィリアム・バンスは、同書に「最適任者による貴重な記録」と題する文を寄せていますが、その中で
”「神道指令」の狙いは神社神道そのものにあったのではないし、多くの人々が考えたように、それを誹謗することにあったのでもない、その対象となったものは、政府によって支援された自国の政治組織を崇敬する宗教的なしくみ、ないし著者の好む用語を用いるならば「国体のカルト」であった。また、指令のもう一つの主要目的は、総ての宗教の平等の原則に立った信教の自由の確立と、宗教と国家との分離であったが、…”
 と書いていますが、「国体のカルト」を排除しようという考え方を歓迎する日本人も少なくなかったのではないかと、私は思います。

 天皇自身にも、陸軍を中心とする人たちの「国体のカルト」につながる「神話的国体観」一本やりの考え方に距離を置く考え方をしていたと思われる発言や記述があります。
 例えば、八月九の御前会議で、天皇は、ポツダム宣言受諾案に同意し、”彼我戦力ノ懸隔上、此ノ上戦争ヲ継続スルモ徒ラニ無辜ヲ苦シメ、文化ヲ破壊シ、国家ヲ滅亡ニ導クモノニシテ、特ニ原子爆弾ノ出現ハコレヲ甚シクス、依テ終戦トスル”というような発言をされたことが「機密戦争日誌」に記されていました。特に、”無辜ヲ苦シメ”というような言葉は見逃すことができません。
 さらに、「終戦の詔書」には、”…曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝國ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
 とあります。”他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス”というのは、「神話的国体観」からは出て来ない考え方ではないかと思います。無辜”や”陸海将兵”の人命を考慮し、文化・文明の破壊があまりに大きいことに思いを致すことも同様です。こうした考え方は、「新日本建設に関する詔書」いわゆる天皇の「人間宣言」にも貫かれていると思います。「人間宣言」には、”大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。”などとあります。さらに、”朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス”というような、様々な人たちの苦難に思いを致す記述に、欧米の人命や人権尊重の考えかたがうかがえると思います。したがって、天皇が、自ら靖国神社参拝をやめたということも、十分考えられることだと、私は思います。

 前天皇(明仁上皇)は、過去の戦争にゆかりのある多くの地を訪問し、日本人だけでなく、米国人や韓国人の戦没者も慰霊して歩きましたが、それは、昭和天皇の思いを受け継いでいるからだろうと思います。
 それは、2009(平成21)年4月8日、「天皇皇后両陛下御結婚満50年」に際して行なわれた、「天皇皇后両陛下の記者会見」で、下記のような戦禍に苦しんだ様々な人たちに思いを致す内容でも察せられます。
”…結婚後に起こったことで、日本にとって極めて重要な出来事としては、昭和43年の小笠原村の復帰と昭和47年の沖縄県の復帰が挙げられます。両地域とも先の厳しい戦争で日米双方で多数の人々が亡くなり,特に沖縄県では多数の島民が戦争に巻き込まれて亡くなりました。返す返すも残念なことでした。一方,国外では平成になってからですが,ソビエト連邦が崩壊し,より透明な平和な世界ができるとの期待が持たれましたが,その後,紛争が世界の各地に起こり,現在もなお多くの犠牲者が生じています。

 だからといって、昭和天皇の戦争責任がなかったことにはならないと思いますが、軍人を中心とする人たちの「神話的国体観」一本やりの考え方に距離を置く昭和天皇の、いわゆる「御聖断」によって、日本が滅亡を免れたということも、われわれは忘れてはならないと思います。

 また、上記の会見で、時代にふさわしい新たな皇室のありようについて、前天皇(明仁上皇)は、”私は即位以来,昭和天皇を始め,過去の天皇の歩んできた道に度々に思いを致し,また,日本国憲法にある「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるという規定に心を致しつつ,国民の期待にこたえられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず,その望ましい在り方を求めて今日に至っています。なお大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば,日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合,伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。”と語っています。だから、昭和天皇の意思を受け継ぐ天皇は、これからも日本国憲法に反する「神話的国体観」に基づく「靖国神社」には参拝しないだろうと、私は思います。

 そういう意味で、神道政治連盟や日本会議や創生「日本」などの組織の、戦前回帰の活動は、すでに、その思想的根拠がなくなっているはずだと、私は思います。また、多くの日本国民も、個人の尊厳を基本原理とする国際法と相容れないような考え方の戦前回帰は望んではいないと思います。戦前回帰の活動を続ける人たちの脱皮が望まれます。

 下記は、「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)から「第七章 昭和天皇 参拝禁止の衝撃」の一部を抜粋しました。
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            第七章 昭和天皇 参拝禁止の衝撃 

 再開された合祀
 昭和二十一(1946)年は、靖国神社にとって苦い一年となった。
 神道指令によって、予想される最悪の事態、すなわち「閉鎖」という事態は免れた。靖国神社は宗教法人という新たな一歩を踏み出すはずだった。しかし、GHQの手は決して緩められてはいなかったのである。
 靖国神社にとっての急務は、臨時大招魂祭で「招魂」した二百万人の戦没者を、正式に「合祀」することであった。
 陸海軍省が、その廃止の直前・高級副官・美山要蔵大佐らの尽力で、200万人を超す戦没者の臨時大招魂祭を行ったことはすでに触れた。「招魂」された魂は、「招魂殿」に留め置かれ、正式な調査を経て合祀されるのを”待っている”状態だった。
 合祀のための調査については、すでに国が動き始めていた。
 大原康男氏の『神道指令の研究』によれば、神道指令の発令直前、陸軍省の業務を引き継いだ第一復員省が、「靖国神社合祀未済ノ者ニ関スル件(昭和二十年十二月十三日 一復第七十六号第一復員次官通牒)と題する通牒を発して、臨時大招魂祭で招魂された未合祀者の調査を開始していたが、神道指令によって靖国神社が国家管理を離れたため、合祀のための調査を国が継続すべきかその当否が検討された。
 その結果、「この調査は復員業務に関連して初めて調査が出来るので、今復員機関以外に於て実行することは到底不可能なばかりでなく、軍として戦争犠牲の最も大きな死者に対する道義上、復員業務中の重要業務として実施するを至当とする」(『靖国神社合祀者資格審査方針綴三、四』靖国神社蔵)という見解に立って、従来どおり調査を続けた。
 つまり、神道指令によって国家と切り離されたはずの靖国神社だが、合祀の調査については国の協力が継続されていたのである。

 昭和二十一(1946)年四月二十二日には、靖国神社宮司・筑波藤麿から宮内大臣・松平慶民あてに、調査が済んだ二万六九六九柱の合祀名簿が上奏された(前掲『靖国神社百年史 資料篇 上』)。四月三十日に予定された春季例大祭および合祀祭で、いよいよ正式な合祀が始まろうとしていた。ちなみに、宮内大臣・松平慶民とは、のちにA級戦犯合祀に踏み切り物議を醸すことになる、靖国神社宮司・松平永芳の父である。
 ところが、この後、わずか数日の間に、思いもかけない展開が待ち受けていた。四月三十日付の靖国神社の文書には、こうある。

 例祭並合祀祭
 四月三十日午前八時三十分 晴
 一 今回は当初、当時の例祭並合祀祭(陸軍省解体、社制改更以降初度)に勅使参向の上同日或は後日行幸の事仰出さる筈なりしも(神社側より兼日祭式及行幸の件伺出たり)、二十七日に至り諸種の事情の為御取止めとなり、例祭にも勅使参向無く当社限りにて祭典奉仕、別に幣饌料御奉納と云う異例となりたり。
                        (前掲 『靖国神社百年史 資料篇 上』)

 合祀祭には、昭和天皇の行幸、すなわち参拝も予定されていたが、直前になって「諸種の事情」で取りやめとなったと記されている。しかも、天皇の使いである勅使の参向も実現しなかった。「異例」と靖国神社側は無念をにじませている。
 陸軍省の管轄下にあった前年の臨時大招魂祭のときは、昭和天皇の参拝が実現している。なぜ、いまさら取りやめになったのか。

 

 昭和天皇参参拝禁止の謎
 横井権宮司は、昭和天皇の参拝を中止したのはGHQである、と証言している。
「春の例祭だね。結局陛下の行幸を中止した。もう要するに(靖国と)皇室とのつながりを遮断しようというわけなんだね。アメリカはいやにやかましいんですよ。これは問題だ、と。菊の御紋は取り除けとかね。エンペラーメッセンジャー(勅使)はいかんとか言って、皇室とのつながりを遮断しようというわけなんですよ」      (前掲、横井時常への照沼好文インタビュー、1996年)

 靖国神社に合祀された”神々”は、それまで天皇の裁可によって決定されてきた。新たな”神々”に天皇が参拝することで、合祀という一つの”輪”が完成されてきたのである。靖国神社にとって、天皇の参拝はなくてはならないものであった。
「天皇参拝中止」に関しては、今回の取材でGHQの文書も新たに見つかった。そこには、靖国神社への天皇の参拝を禁じたのは、日本政府であると記されていた。
 オレゴン大学ウッダード資料の中に残されていた1946(昭和二十一)年八月五日付の文書。宗教課のバンス課長から民間情報教育局(CIE)のダイク局長にあてた、「戦没者追悼式典」と題するこの文書には次のように記されている。

 戦没者追悼式典に関し、日本政府は以下を指示した。
a 戦没者追悼式典には、公的な財政援助および支援は禁止する
b 村落の戦没者追悼に関して、村長は国旗掲揚を命じてはならない
c 小学校の教師が児童を駅に連れて行って、戦闘の犠牲となった兵士の遺骨を出迎えることは禁止する
d 天皇は、「私人」としても(even in his private capacity)、靖国神社の式典に参加してはならない。
e 天皇は、靖国神社の式典に、奉納品や声明文を携えた勅使を送ってはならない。
f 式典以外の日であれば、天皇は私人として(as an individual)靖国神社を参拝することができる。

 特にd、e、f、が靖国神社に関係することであるが、例大祭(合祀祭)における天皇の靖国神社参拝と勅使の参向を、明確に禁じている。指示したのは日本政府であると記されているが、当時の意思決定のシステムを考えれば、GHQの何らかの指示を受けて日本政府が通達したと考えるのが適当である。実際、ウッダートは著書『天皇と神道』の中で、この件を決めたのは民間情報教育局(CIE)であると記している。
 では、なぜ、GHQは昭和天皇の参拝を禁止したのか──。
 メリーランド州の老人ホームで取材に応じてくれた、九十八歳のバンス氏にその質問をぶつけたところ、バンス氏からはまったく予想もしなかった答えが返ってきた。
──GHQは昭和二十年の臨時大招魂祭では昭和天皇の参拝を認めながら、その後、参拝は中止されました。なぜでしょうか?
「それは、昭和天皇がお決めになったことです。あれは陛下ご自身の判断でした」
──ご自身が参拝したくないとお考えになったのですか?
「昭和天皇は、物事を穏便に運びたいとお考えになったのだと思います。靖国神社を参拝しないというのは、ご自身の判断でした」
──では、あなた自身は天皇の参拝についてどう考えられたのですか。
「もちろん私なりの意見はありました。しかし、それは昭和天皇のご判断とは何の関係もありません。もし、昭和天皇が靖国神社に参拝なさりたければ、そのようにできるようにしておいたはずです」
 自ら靖国神社に参拝しないと決めたという昭和天皇。
 この件に関して、昭和天皇の意思を確認できる資料は残されていない。しかし、「物事を穏便に運びたかった」のではないか、とバンス氏が推測したように、当時の日本、そして昭和天皇を取り巻く状況は、決して安閑としていられるものではなかった。

 対日理事国の対立
 この時期、占領政策を巡って、連合国内でアメリカとアメリカに批判的な国々の間に不協和音が生じ始めていた。
 例えば、昭和二十(1945)年末に設置された対日理事会(Allied  Council Japan)などの場では、マッカーサーが主導する占領政策に対して、オーストラリア、ソ連、中国などの国々が、もっと日本に対して厳しく臨むべきだと主張していた。マッカーサーが連合国に介入されることを嫌がったことや、東西冷戦の開始に伴う米ソ間の対立で、その亀裂は修復し難いものになりつつあった。
 また、昭和天皇の戦争責任についても、アメリカと異なる意見が噴出していた。昭和天皇の参拝が取りやめとなった合祀祭の前日、四月二十九日には、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯二十八人が起訴されたのだが、連合国の中には、昭和天皇も訴追すべし、と強く訴える国々もあった。アメリカ内部でさえ、その存廃をめぐって議論があった靖国神社に昭和天皇が参拝すれば、国際的な波紋が生じる可能性は決して少なくなかった。
 
 バンス氏は、連合国内の確執について、当時マッカーサーと次のようなやり取りをしたことを、鮮明に記憶していた。
 「確かに対日理事国では、『アメリカは日本に寛大すぎる』という声が多かったと思います。マッカーサー最高司令官はそのことを快く思っていませんでした。マッカーサーが私にこう尋ねたことがあります。『日本におけるアメリカの占領を、人々はどう思っているのか?』と。私はこう答えました。『オーストラリアや他のニ、三か国の代表は、あなたや私のやり方に批判的な見方をしています』と。するとマッカーサーは『やつらは共産主義者だからな』と言ったのです」
 バンス氏はそう言って、声を出して笑った。マッカーサーの共産主義者嫌いは有名だが、「共産主義者だからな」という言い方が、よほどおかしかったのだろう。
「天皇制を維持すべきか、廃止すべきかの選択について、多くのオーストラリア人やイギリス人から、天皇を戦犯として裁判にかけるべきだとの意見が出されました。しかしアメリカ政府はずっと前から、それが賢明な措置ではないと決めていたのです」
 結局、靖国神社への昭和天皇の参拝が「外交問題」となるのを避けるために、GHQは参拝の中止を日本政府と靖国神社に示唆した。
「天皇の宗教活動と宗教的関心は、連合国最高司令官によって占領にかかわりのない私的事項とみなされていた。(中略)
 ただ一つの例外は、一年に二度行われる靖国神社の例大祭に参拝できないことだった。占領中にただ一回だけ天皇が靖国神社の例大祭に参拝したことがあったが、それは1945年十一月十九日であった。それ以後は民間情報教育局の示唆により、例大祭への天皇の参拝の問題は、靖国神社からも政府からも、まったく提起されなかった。
 連合国最高司令官の政策にかんするかぎり、天皇が例大祭の際に参拝してもいっこうに構わなかったのだが、中国とソ連が反対を唱え、東京の連合国対日理事会やワシントンの極東委員会で国際問題化する可能性があるのに危険を冒すほどのことはないと考えられた。」
                  (前掲、ウィリアム・P・ウッダード『天皇と神道』) 
 占領が終わるまでの間、昭和天皇が靖国神社に参拝することはなかった。

 


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