真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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靖国神社とGHQの「神道指令」

2021年08月01日 | 国際・政治

 「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)(下記資料1)、よれば、GHQが、日本における”「軍国主義・超国家主義の除去」を達成すると同時に、アメリカ政府の掲げる「信教の自由」を日本で確立するために、熱心に、そして慎重に取り組んだことがわかります。

 「神道指令」立案を中心になって進めたウィリアム・バンス(William Kenneth Bunce)は、戦前、島根県の松山高等学校に勤務したことがあるという日本を知る歴史学博士です。また、GHQの民間情報教育局で、「神道指令」における宗教法人法などの宗教政策に関する部分の提言をしたウィリアム・パーソンズ・ウッダード(William Parsons Woodard)も、戦前、宣教師として来日し活動したことのある歴史学者で、日本の宗教の研究者だといいます。そうした専門家の「神道指令」作成のための調査・研究の範囲は、神道だけでなく、天皇制や政治、軍事、そして教育にまで及んだということです。したがって、「神道指令」は、闇雲に指令されたのではなく、日本の実態を正確に把握して、「軍国主義・超国家主義の除去」と「信教の自由」の確立というジレンマに苦しみつつ、日本人の意見も聞いて、慎重にそのジレンマを乗り越えて出されたように思います。
 
 それに比して、日本側の受け止め方が、私は十分ではないと思います。ここでは、「靖国神社が消える日」宮澤佳廣・元靖国神社禰宜(小学館)から、その一部を抜粋しましたが(資料2)、あくまでも「神話的国体観」にこだわり、「神道指令」の内容に関してはもちろん、その背後にある欧米の考え方を踏まえて、靖国神社のあり方を考えるという姿勢がほとんど見られないことが分かると思うのです。

例えば、昭和天皇は、 昭和二十一年一月一日の詔書で、自らの「神聖」を否定し、
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
といういわゆる「人間宣言」を発しました。そして、「神道指令」も、国家や天皇と靖国神社の関係を切り離したのですから、もはや
天皇が祀るべき祭神を、宗教法人となった靖国神社の宮司の自由な判断で祀ることなど許されるはずもない。祭神に対してはもちろんのこと、それでは遺族にも相済まないとする心情は、祭神と遺族の中執持(ナカトリモ)ちとして日々、神前に奉仕する祭祀奉仕者のみが実感する苦痛にも似た感情だったはずです。”
などという主張は、心情的には理解できなくはありませんが、ほとんど意味がないのではないかと思います。
 「神道指令」をしっかり受け止め、その背後にある欧米の考え方も踏まえて、靖国神社のあり方を根本的に考え直すという姿勢がほとんど見られないのは、処刑されたA級戦犯を靖国神社に合祀した側の人たちにもいえることだと思います。
 神道指令によって、国家と切り離された神社は、すぐに神社本庁を組織し、後にその政治組織である神道政治連盟を結成して、「神道精神を国政の基礎に」というような活動を展開したようですが、私は、いかにして「神話的国体観」を乗り越えるのかを考えないと、日本は、再び国際社会で孤立したり、衝突する国になるような気がします。
 個人の尊厳あるいは個人の尊重は、国際社会では、最高の価値基準であり、そうした価値基準と相容れない「神国日本」の復活は、アメリカはもちろん、国際社会が受け入れないと思うのです。 

 下記資料1は、「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)から「第六章 幻の”靖国廟宮”」を、資料2は、「靖国神社が消える日」宮澤佳廣・元靖国神社禰宜(小学館)から<第七章 「富田メモ」と[A級戦犯合祀」>の一部を抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             第六章 幻の”靖国廟宮”

 GHQと靖国
 昭和二十(1945)年十一月二十六日。GHQと靖国神社の直接の交渉が初めて行われた。
 臨時大招魂祭が終わった直後、横井は初めてGHQ宗教課のバンス(William Kenneth Bunce、GHQ民間情報教育局宗教課課長、国家神道の解体を指示したGHQの神道指令策定に大きな役割を果たした人物)と面会し、近々に「直接会う」との約束を取り付けていたが、それが早くも実現した形となった。
 それまで靖国神社に関する交渉は、政府各省庁が行ってきたため、靖国側が直接GHQとやり取りすることは画期的なことであった。横井はこのときの交渉について、「向こうからの呼び出しに応じていくという形をとった。終戦連絡中央事務局をないがしろにして行ったのでは、いろんな点で差し障りがあった。だから、GHQ側に呼び出してもらった」(前同、横井時常への照沼好文インタビューより、1966年)と語っている。
 靖国神社のその日の社務日誌には、次のように記されている。
 月曜日 晴後曇
一、神社問題に関し横井権宮司 坂本主典随行 マッカーサー司令部を訪問 バーンズ大佐に面接せり 宮地博士並に岸本帝大助教授会同す
一、社務連絡の為、権宮司、池田、坂本、大場各主典 陸軍省官房へ出向す 
 ・・・

 GHQの真意
 GHQ宗教課は、当初から大きなジレンマを抱えていた。つまり、日本占領の究極の目標である「軍国主義・超国家主義の除去」を達成すると同時に、アメリカ政府の掲げる「信教の自由」を確立することがはたして可能なのか、ということである。
「靖国廟宮」案が浮上してきたころ、GHQ宗教課ではバンスを中心に、のちに「神道指令」として発令されることになる指令の作成が”突貫工事”で進められていた。「国家神道の廃止」という占領の大きな目標を実行する「神道指令」は、靖国神社を含む神社神道界にとって、その後の運命を決める重要な指令であった。
「神道指令の成立過程に関する一考察」(高橋四朗、「神道宗教」115号所収)によれば、「神道指令」は草案だけでも第六次のものまで存在するとされているが、この重要な指令作成のための調査・研究の範囲は、神道だけでなく、天皇制や政治、軍事、そして教育にまで及んだ。バンスはそうした調査・研究の結果を、指令案に添付するための「スタッフ・スタディ」としてまとめた。その結論部分から、当時のバンスの思惑が見える。

(前略)神道を宗教として廃止することはできない。その可能性は、信教の自由の原則ならびに宗教それ自体の本質によって排除される。実際、神道を宗教として廃止することや天皇から神道を分離することを企てたりする必要はない。それは実際に同じことである。国家神道の危険性は次の点にある。
(a)政府による出資、支援・普及
(b)政府や神道国家主義者による天皇・国民・国土を神聖視する神話の利用
(c)神道の儀式を遵守することや神道の前提を表向き事実と認めることを全日本国民が厳しく強制されたこと

 危険なのは天皇と神道の相互関係に存在するのではない。危険は名目的には文武の権力を祭祀王(priest-king)の手中に預けながらも、実際は国家の機構を支配している権力集団によって行使することが許されている政治制度の特殊な性質に存在する。(後略)

「スタッフ・スタディ」からは、バンスらが、「統帥権」という言葉に象徴される日本国家の特殊性を感じとっていたことが分かる。
 しかし、神道指令の中でより強く意識されたのは、国家との結びつきを断つということもさることながら、「信教の自由」を侵さない、という点であった。
 大量のGHQ宗教課関連の資料が見つかったオレゴン大学にも、この時期のバンスの覚書が残されている。「国家神道の政治的要素と宗教的要素の区別」と題する昭和二十(1945)年十二月十二日の文書である。神道指令の作成にあたって、バンスが国家神道における「政治的要素」と「宗教的要素」をえり分けることに腐心している様子が見てとれる。

一、国家神道は、主に政治的要素と宗教的要素から構成される。
 a 政治的要素
 この要素は、国家に対する絶対的忠誠心と服従を確保する目的で、政府が作り上げたカルトの中に具体化され、天皇家は太陽神──天照大神の神聖なる子孫であるという神話が中心になっている。その教えは、神道を中心に据えた教育、神社への強制参拝、その教義と神話の公言、信仰を強要する全日本人の義務などを通じて、日本人一人一人の心に植え付けられている。この国家的カルトとその神話を受け入れることは、善良な市民の試金石となってきた。政府がすべての神社の役人、神官を指名、管理し、統一儀式を指示するなどして、解釈は一つに絞られてきた。
 b 宗教的要素
 この要素は、地理的地域によって異なる。さまざまな土着の儀式、慣習、祭事などを反映している。人々の農耕的な暮らしに密接につながり、共同体の社会的、宗教的生活の重要な一部となっている。

二、指令は国家神道の政治的要素を標的にし、宗教的要素には干渉しない。国家が駆り立てたカルトは消滅する。しかし、庶民の聖域として神道は、国家からの分離によって影響を受けることはほとんどなく、さらに政府の限定的規制からは自由になるという付加価値を備えて、将来も今まで通り持続する。政治的要素の排除によって、宗教的要素が途絶えることはなく、今後神道は、「国家的」「愛国的」というより、「聖域としての」「民衆の」神道として持続する。

 バンスは、すべての宗教が平等に扱われるべきだ、という考えを強く持っていた。それは「国家神道」も例外ではなかった。アメリカが戦時中から「国家のカルト」と呼び危険視してきたとはいえ、「宗教的要素」持つ靖国神社については、早急な処分を下すことに慎重だった。
 歴史の興味深いところではあるが、日本政府は戦前、「神社は宗教ではない」という立場に立っていた。もしGHQが日本側の理屈をそのまま利用したならば、「信教の自由」に関係なく靖国神社の処分を決定できたであろう。しかしGHQは当初から、「神社は宗教である」という立場を崩さなかあった。そういう意味では、GHQは物事を厳密にとらえようとしていたといえる。
 しかしその結果として、GHQ宗教課は、占領期間中を通じ、「軍国主義」「超国家主義」の除去と、「信教の自由」の確立を両立させるというジレンマを抱え続けていくことになる。そのことについてのちに岸本は、「ある意味では、神道を宗教と考える建前のおかげで、それが救われることにもなった」(前掲 岸本英夫「嵐の中の神社神道」)と記している。

 国家神道の終焉
 昭和二十(1945)年十二月十五日正午、国家神道の廃止を宣言したGHQの覚書が、日本政府に手交された。「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」、いわゆる「神道指令」である。
 神道指令は、国家と宗教を切り離し、「軍国主義ないし過激なる国家主義的イデオロギー」を広めることを一切禁止した。
「神道の理念や信仰を歪曲して、日本国民を欺き侵略戦争へ導いたように、軍国主義ないし過激なる国家主義の宣伝に利用させることのないよう、国民を再教育し民主主義の理念を基礎に置く新しい日本を実現する」ことが冒頭にうたわれた。
 具体的には、まず神道への公的財政援助を停止し、公務員が神道にかかわることを禁止した。そして神道やそれ以外の宗教において、「軍国主義ないし過激なる国家主義的イデオロギー」という言葉は、次のように定義された。すなわち、「日本の支配を次のような理由のもとに他国民や他民族に及ぼそうとする日本の使命を援護し正当化する教え、信仰、理論を包含する」次のような考え方である。
(1)日本の天皇はその家系、血統あるいは特殊なる起源の故に他国の元首に優るとする主義
(2)日本の国民はその家系、血統あるいは特殊なる起源の故に他国民に優るとする主義
(3)日本の諸島は神に起源を発するが故に、あるいは特殊なる起源を有するが故に他国に優るとする主義
(4)その他日本国民を欺き侵略戦争へ乗り出さしめ、あるいは他国民の論争の解放の手段として武力の行使を謳歌せしめるに至らしめるが如き主義

神道指令によって、神道に関する「十一の勅令と十一の省令」(前掲、ウィリアム・P・ウッダード『天皇と神道』)が廃止され、「二十一の法令の撤廃ないし修正」が命じられた。国家神道の象徴的組織であった神祇院は廃止され、学校の教科書から神道の教義に関連した記述が削除された。公的機関による神道の文書配布が禁止され、「大東亜戦争」「八紘一宇」など軍国主義を連想させる言葉は公文書から追放された。
「『神道指令』が果たしたことは『国体のカルト』を存在せしめ、かつ維持した国および公的機関によるその援助と強制の撤廃であり、これによって国体のカルトは解体した」(前掲、ウィリアム・P・ウッダード『天皇と神道』)とウッダードは記している。
 神道指令作成の中心的役割を担ったバンスは、神道指令についてこう語っている。
「ダイクは、のちに『占領下でわれわれがやったことの中では、これが最高の仕事だった』と言っていました。ですから、どちらかといえば神道指令を誇りに思っていたようです。(竹前栄治氏によるバンス氏へのインタビューより、1984)
 GHQでは指令を”爆弾”とも呼んでいたが、実際「神道指令」がどれほどの衝撃を与えるのか、未知数であった。なかには、日本人の反応を危惧する声もあったという。
「総司令部では、指令が出れば強い反発がおこるに違いないと予想されていた。その結果を心配する人も少なくなかった。ダイク代将や私は、指令の中を流れている政教の分離、信教の自由の精神を、日本人は正しく理解してもらいたいとねがっていたが、それが掴めずに強い反発があるのではないかと案じていた。しかし結果的には、何等の混乱もおこらなかった」
           (バンスへのインタビュー、前掲『戦後宗教回想録』新宗教新聞社)

 神道指令が、実際に日本の新聞紙上に発表されたのは、発令の二日後、十二月十七日のことであった。岸本英夫は日記にこう記している。

(前略)本朝の新聞に指令発表、その扱い方、概して見当を外れ、「現神」「天皇絶対権否認」等、センセーショナルなり。

 岸本が発表を受けて向かったのは、靖国神社だった。

 靖国神社に立寄り、その存続したるを告ぐ。

 「神道指令」によって、少なくともこの時点で靖国神社が廃止されることはまぬがれた。しかし、陸海軍省の廃止によってすでに軍の所管を離れていた靖国神社は、国家という最大の庇護者をも失うことになったのである。”自活”の道を探すことが靖国神社の急務となあった。
「神道指令」の二週間後、昭和二十一(1946)年の元日に、昭和天皇のいわゆる「人間宣言」が出された。天皇自らが神の子孫であることを否定、つまりその「神格性」を否定したのである。「神道指令」と「人間宣言」によって、現御神(アキツミカミ)としての天皇を頂点とする戦前の国家神道体制は完全に崩壊した。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー         
         第七章 「富田メモ」と[A級戦犯合祀」

 東京裁判史観否定の構図
 そしてこの問題でもう一つ、私が気になっていたのは、「A級戦犯」合祀が歴史認識と絡めて論じられる傾向です。遊就館の歴史記述にも関連しますが、「A級戦犯」合祀が東京裁判史観の否定を意味し、その分祀が東京裁判史観の肯定を意味するといった二者択一的な硬直化した議論に象徴されているのです。
 それは「A級戦犯」と称される方々が政治指導者であったことにもよりますが、松平宮司の言説の影響が極めて大きいように思われます。そうした言説に引きずられて、この問題の核心がぼやかされてしまったような印象を私は抱いているのです。
 靖国の祭神合祀は、創建以来、「国事に殉じた公証(公認)」が前提とされてきました。戦後、一宗教法人となった靖国神社は、二百万を超える神霊を合祀してきましたが、その際の「国事に殉じた公証(公認)」は厚生省の「公務死裁定」であり、その合祀は送達された祭神名票に拠らなければなりませんでした。ですから私は、「祭神名票が送達されているのに靖国神社が合祀の手続きをいつまでも行わなければ、靖国神社が独断で祭神を選別していることになる。それは宗教法人の恣意独断的な行為と批判されうるものだから、あの時点で合祀することにしたのだ」と説明してきたのです。
 おそらく、松平宮司もそうした説明をしてきたのでしょうが、「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。(それで就任早々)思い切って、十四柱をお入れしたわけです」(前掲の「誰が御霊を汚したのか 靖国奉仕十四年の無念」)といった言説だけが取り上げられるようになってしまいました。そこには、松平宮司が命名した「昭和殉難者」という呼称(政府は「法務関係死没者」と称するのに対し、靖国神社では「A級戦犯」として刑死された方々をこう呼称する)も影響しているのでしょう。
 この呼称は、創建以来の祭神の合祀基準(その基礎に据えられた慶応四年の「殉難者布告」と「戦死者布告」とは明らかに矛盾します。「所謂戦犯刑死者が戦没者と総て同等」として、合祀の根拠を「公務死裁定」に求めるなら、それは「戦死者布告」に言う戦死者であって、「殉難者布告」に言う殉難者には当たりません。ですから松平宮司が「殉難者」と呼称したことにも、「特別な思い入れや政治的な意図があったのではないか」といった疑念を生む要因があったとみるべきです。占領政策の置き土産と言っていい宗教法人法の手続きによって「A級戦犯」を合祀し、それをもって東京裁判史観を否定しようという構図は、どうみても論理の一貫性に欠けます。

 「富田メモ」が問いかけたもの
 私は「富田メモ」が問いかけたもの、ぼやかされてしまったこの問題の核心とは、「靖国の英霊祭祀の主宰者は誰なのか」という問いかけそのものにあったような気がしています。それは深層において「昭和天皇の不快感」にまでつながっているのだと思うのです。「其の合祀は戦役事変に際し国家の大事に斃れたる者に対する神聖無比の恩典」とは、昭和十五年八月十四日の陸軍次官通牒に見える表現ですが、靖国の祭神合祀を「神聖無比の恩典」たらしめるのは天皇の存在を措いてほかにないからです。
「私の靖国神社国家護持論は、確固たる神社の切望と同意とを前提とし、創建以来の祭儀の伝統を固守することを条件としたものであった。それは、靖国神社は『宗教法人として存在し進退することは忍びがたい』との神社の強い意思を前提にして、はじめて成立し得るロジックであった」と葦津氏は指摘しましたが、これは、神社創建以来の祭祀の伝統を護持(固守)することの意味合いを、形式的な側面からではなく、より本質的かつ精神的な側面から問い直すことの重要性を示唆したものであったと私は理解しています。
 国家護持に向けた靖国神社の強い意思が「忍びがたい」という言葉で表現されているのは、宗教法人に移行してもなお、国事殉難者の人霊を神霊(靖国の神)となし得るのは自分たちではないことを靖国の祭祀奉仕者たちが知悉していたことの証左なのでしょう。天皇が祀るべき祭神を、宗教法人となった靖国神社の宮司の自由な判断で祀ることなど許されるはずもない。祭神に対してはもちろんのこと、それでは遺族にも相済まないとする心情は、祭神と遺族の中執持(ナカトリモ)ちとして日々、神前に奉仕する祭祀奉仕者のみが実感する苦痛にも似た感情だったはずです。
 私が「忍びがたい」という言葉にこだわるのは、こうした理由からです。そして国家護持の仏妖精を主張する理由もここにあります。私は、現御神とされた天皇の神秘性によって神とされるというよりは、むしろ、国家と国民統合の象徴としての天皇、「common」の中心軸としての天皇の存在によって、国家と国民の守り神として公認されるといった平易な理解をしているのですが、筑波宮司から松平宮司への交替に際して、この「忍びがたい」という意識が継承されていたのかどうか、そこが問われているのだと思います。万が一にでも、その意識が欠落して、松平宮司自らが靖国の英霊祭祀の主宰者になったといった錯覚に陥っていたとしたら、宗教法人である靖国神社の宮司によって国事殉難者の御霊が神霊とされ、「靖国の神」に合祀されたことになります。宗教法人前の本態としての靖国神社の祭神とは本質的に異なる祭神ということになりはしないか。これは「信仰的確信」の領域での話です。
 宗教法人として存続することを余儀なくされた靖国神社にとって、この「忍びがたい」という意識は、靖国の将来と「靖国の公共性」の維持に重大な影響を及ぼすように私には思えるのです。そしてそれは、靖国神社の宮司という地位に就く人物によって決定的に左右されます。だからこそ靖国神社の宮司は、皇室の藩屏と称される人々の中から選ばれているといった理解が一般認識として存在するのでしょう。
 天皇(皇室)との法制度上における関係を切断された靖国神社にとって、創建以来の祭祀の伝統を継承するためには、天皇との精神的なつながりや信頼関係の深い、そうした関係者を宮司に招くのが得策という判断は妥当といえます。しかし、「富田メモ」が提起したこの疑念は、松平宮司に起因するものです。それは一見、皇室との近さからくる「何か」によってもたらされたと見えなくもありません。靖国の内部に意識変化があるように、そうした関係者にも同様の意識変化がありはしないでしょうか。

 ・・・     


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