台湾沖航空戦において、実際は、撃沈した敵艦は一隻もなく、空母二隻にかすり傷らしきものを与え、巡洋艦二隻を大破させたにすぎなかっただけなのに、なぜ、”撃沈撃破したものは、航空母艦(空母)が十九隻、戦艦が四隻、その他が二十二隻、合計四十五隻”などと、アメリカ海軍の主力を全滅させたかのようなでたらめな大戦果が発表されるに至ったのか、「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHK出版)が、丹念にその過程を追っています。
その大戦果の大本営発表には、無理もないいつかの錯誤も含まれていたようですが、考えなければならないことは、錯誤では説明できない大戦果の認定とその後の対応です。特に、殲滅したはずのアメリカ軍空母部隊の進撃を確認し、極秘の判定会で大戦果の誤りがわかったにもかかわらず、その事実を、国民はもちろん、関係者にさえ明らかにしなかったこと、その結果、さらなる悲劇的な作戦が展開されていくことになったということは、見逃されてはならないと思います。
『大本営報道部』平櫛孝 (図書出版)には、下記のようにあるといいます。孫引きします。
”……日本国民をあれほど狂喜させ、興奮に追い込んだ「台湾沖航空戦」の戦果は、(中略)はなはだ怪しいものであることがわかってきた。偵察機の報告に疑問をもった大本営海軍部が調査したところ、大戦果として発表した大本営発表は、いくら有利に見ても「空母四隻撃破」した程度だという結論となった。ところが、この結論は故意か過失か、大本営陸軍部に通報されなかった”
また、佐藤賢了著『大東亜戦争回顧録』(徳間書店)には、下記のようにあるといいます。 こちらも孫引きです。
”……詔勅をいただき、国民を熱狂させたあとで「アレはまちがいだ」といえない気持ちはわかる。しかし一般はともかく、ともに国運を背負って作戦指導に任じている参謀本部に真実を通報しなかったことは、いかに非難しても非難しすぎることはあるまい。しかし、この通報洩れは、何らかの手違いによって生じたもので、よもや故意ではあるまいと思う。
海軍と陸軍の関係における諸問題ついては、いろいろな研究者が明らかにしていますが、「幻の大戦果 大本営発表の真相」は、さらに突っ込んで、関係者の証言をもとに、大本営や日本軍の組織の構造的問題として考察しています。そして、幻の大戦果発表やその後の対応は、大本営が二重に分裂していた結果であると結論付けています。それは、海軍と陸軍の対立のみならず、陸海軍ともに、作戦部が情報部や報道部の上に立ち、実権を握って作戦部の都合のいいように情報を判断し、報道を操作する組織になっていたということです。
また、同書は、「付記──台湾沖航空戦の教訓」のなかで、現代に通じる問題点として三つ挙げています。
第一は「情報の軽視」、第二は「身内の利害を優先する姿勢」、第三は「リーダーシップの不在」です。
安倍政権の「身内の利害を優先する姿勢」には目に余るものがありまが、先日の朝日新聞には、「技術判断を経営判断で覆す」と題して、「幻の大戦果」発表に至った日本軍組織の問題と似通った問題を抱える東京電力の福島原発事故に関する裁判記事がありました。東京電力原子力設備管理部の土木調査グループ元課長は、15.7メートルの津波対策を実行に移す段取りをしようとする段階で、”津波の想定高さの算定方法を研究する”との方針(常務・武藤栄の発案)が決定されたので、「力が抜けた」と証言しているのです。土木調査グループ元課長は、沖の防波堤や敷地の防潮壁など様々な検討を重ねていたのに、それが「保留」のような状態になってしまったので、「力が抜けた」というわけです。”算定方法を研究するとの方針”は、常務が15.7メートルの津波を認めたくなかったので打ち出した方針だと思います。実権を握る素人の常務が、専門部署の設備管理部土木調査グループの取り組みを無視して、自らの都合のよいように方針を変更したということが、台湾沖航空戦における幻の大戦果の大本営発表やその後の作戦決定のありようと同質ではないかと、私は思います。
さらに重大なことは、事故直後には「想定外」が強調され、津波に対するこうした取り組みが進んでいた事実はほとんど国民に知らされず、原発の事故原因に関する国民の関心が薄れた中での裁判で、責任ある立場の人たちが無罪になるという現実です。
政治や経済で日本を牽引するひとたちが、旧日本軍と同じような体質をもっており、司法もそれに追随しているということではないかと、私は思うのです。
原子力安全・保安院の原子力発電安全審査課班長小野祐二氏は、女川やスマトラ島沖で起きた大地震を考慮し、東京電力の八人の技術者を前にして、「できるだけ早く想定外事象を整理し、弱点の分析、考えられる対策などを教えてほしい」と要請しているのです。そうしたことを踏まえ、東京電力土木調査グループ元課長が15.7メートルの津波対策を実行に移す段取りを考えていたのだと思います。でも、常務が逆戻りさせて、”津波の想定高さの算定方法を研究する”という方針に変更したことが、「技術判断を経営判断で覆」したということなのだと思います。幻の大戦果の発表と同様、大きな問題だと思います。
情報を自らに都合のよいような解釈したり、不都合な事実をなかったことにするような姿勢が、さらなる悲劇を生むことにつながるのではないかと思います。
下記は「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHA出版)から、プロローグの部分を抜粋しました。
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大本営発表の変質
幻の大勝利
大本営発表と言えば「嘘の代名詞」とまでいわれている。しかし、大本営発表は、最初から嘘の固まりであったわけではない。その最初は、むしろ正確無比であり、迅速かつ確実な上、わからないことはわからないと正直に言い、誤りがわかったあとには、すぐにそれを訂正するといった誠実なものであったのだ。
やがて、その真摯な姿勢は、しだいに変化し、みずからの損害を隠したり、不確実なものも戦果に加えるようになるが、それは、あくまで作戦遂行のためや士気高揚のための、一種の情報操作にもとづくものであった。
ところが、その大本営発表は、ある時を境に決定的な変質をとげることになる。太平洋戦争末期の台湾沖航空戦という戦いを境にしてのことである。
「台湾沖航空戦」とは、なにか。
今ではもう知る人も少なくなったが、昭和19年(1944)10月におきた、日本軍航空部隊とアメリカ軍空母部隊の戦いである。この戦いで、日本軍は、アメリカ軍に対して大勝利をおさめたと報じられた。
大本営発表(昭和19年10月19日18時)
我が部隊は、10月12日以降連日連夜、台湾及び「ルソン」東方方面の敵機動部隊を猛攻し其過半の兵力を壊滅してこれを潰走せしめたり。
(一)我が方の収めたる戦果総合、次の如し
轟撃沈(ゴウゲキチン)航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、巡洋艦もしくは駆逐艦一隻。
撃破 航空母艦八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、巡洋艦もしくは駆逐艦一隻、艦種不詳十三隻
その他 火災、火柱を認めたるもの、十二を下らず。
撃墜 百十二機(基地に於ける撃墜を含まず)
(二)我が方の損害
飛行機未帰還三百十二機
註 本戦闘を台湾沖航空戦と呼称す。
撃沈撃破したものは、航空母艦(空母)が十九隻、戦艦が四隻、その他が二十二隻。合計四十五隻。
アメリカ海軍の主力を全滅させたに等しい大戦果である。この時より40年ほど前の明治38年(1905)、日本海軍は、日露戦争における日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに葬り去るという歴史的大勝利を遂げた。
台湾沖航空戦は、まさに、その再現ともいうべき快挙だった。
当時、大本営海軍部第三部(情報)の参謀だった吉田俊雄さん(93歳)は、そのころの海軍部内の雰囲気をこう語る。
吉田 もう、重箱の底をひっくりかえしたような格好で騒ぎましたよ。なにしろ凄い大勝利をやったというから、しかも相手はハルゼーの空母部隊ですからね。航空母艦三隻をやったとか五隻やったとか言って、みんな沈めたというものだから、それはもう、ちょっと目の色変わったですね。
だって空母を何隻もやっつけたなんていうのは、戦争はじまってからほとんど一度も聞いたことない。もう、喜ばないはずはないですよ、手の舞い足の踏むところを知らずというやつですよ。
日本は、もう戦争に勝ったも同然だと思ってね。喜んだですよ。
ハルゼーとは、アメリカ海軍の主力空母部隊である第三十八任務部隊をひきいる提督の名前である(任務部隊とは、Task Force の訳語。日本では、同様の部隊を、機動部隊と称していた)。
昭和19年のそのころ、太平洋戦争開戦から四年目を迎えていた日本は、まさに、そのアメリカ海軍空母部隊の怒涛の進撃に追い詰められつつあるといってよかった。6月には、マリアナ沖海戦で、日本の空母部隊がアメリカの空母部隊に惨敗を喫し、7月には絶対国防圏の要であった中部太平洋のサイパン島が陥落、つづいてテニアン(旧テニヤン)島の守備隊も玉砕といったぐあいに、戦局の悪化を示す徴候が、次々に、かたちをとって現れはじめていたのである。絶対国防圏とは、文字どおり、日本軍が本土と南方の要地防衛のために、絶対に守り抜かなければならないと定めていた地域であり、そこが突破されるということは、太平洋戦争における日本の劣勢は、だれの目にも明らかになったといってよかった。サイパン陥落の責任によって、東條英機首相は退陣に追い込まれた。絶対国防圏を突破したアメリカ軍は、その空母部隊を駆使して、フィリピン、台湾、沖縄の要地に、激しい空襲を加えつつあった。いよいよ、日本本土にも侵攻の手が及んでくるのではないか、そんな不安が募りつつあった時期だったのである。
そこにもたらされた台湾沖航空戦大勝利の知らせは、したがって、日本中を狂喜させた。作家の菊池寛と将棋名人の木村義雄がおこなった対談は、大戦果に対する国民感情をよく表している。
菊池 サイパンやテニヤン等に対する無念を、こういう機会に晴らしてくれるだろうということは全国民期待していたが、こんなに早く来るとは思わなかったね。
木村 それは飛行機が足りないということを聞いていたし、サイパンの時でも切羽扼腕していたのが、やはり力をぐっと貯えていたということが、ここにきて国民になるほどと納得させたからね。戦いは、やっぱり専門家だね。(中略)
菊池 とにかく、日本は絶対に負けないという確信を国民全体が改めて持ったね。
これで戦争は勝ったも同然との気分が広まり、新たに作られた『台湾沖の凱歌』という歌が連日ラジオから流された。
『台湾沖の凱歌』 サトウハチロウ・作詞/古関裕而・作曲
その日は来れり その日は遂に来た
傲慢無礼なる 敵艦隊捕え 待ってたぞ 今日の日を
拳を振り 攻撃だ 台湾東沖 時十月十二日
海鷲陸鷲 捨身の追撃戦
慌てて遁がれ行く 敵艦めがけて 撃たずば 還らじと
体当たりの 突撃 忽ち沈み行く 我が翼の凱歌
闘魂燃え立ち 勝ち抜くこの力 昼から夜中へと 轟沈 撃沈
今こそ 荒鷲は 神鷲とも 言うべきぞ 薫るぞその勲 我涙の感激
沈みし敵艦 その数 数えみよ 五十八機動部隊
(そのころ、日本はアメリア海軍の第三十八任務<機動>部隊の名称を第五十八任務部隊と誤認していた)
殲滅だ見よや。
この眼に、この耳に、報(シラセ)を受け 一億が 兜の緒を締めて 猶ひたすら誓う
秋空晴れたり 心も晴れ渡る 諸人忘するるな 心に刻めよ
決戦の 第一歩 輝かしき 大戦果 応えて皆励まん ただ皇国の為に
この曲のレコードは、現在、CDで復刻されたものを聴くことができる。
一聴、軍歌というものにありがちな、暗くもの悲しいイメージとはかけはなれた、明るい、ほとんど天真爛漫とすらいってよい、朗らかな曲調であることに驚かされる。戦争の先行きに、どうやら明るい兆しが見えたと、この歌の作曲者も作詞者も信じていたことがうかがえる。
いやこの歌の作者ばかりではない。当時の国民のほとんどが、日本の大勝利を信じて疑わなかった。昭和19年10月という日付をもつ日記から、いくつか、そのころの人びとが抱いた思いを書き写してみると、次のようになる。
「空母十三隻を含み撃破じつに三十五隻という大戦果(この数字は途中発表のもの)の新聞を読んで、胸がふくらむ思い」(徳川夢声著『夢声戦争日記<五>』中央公論社より)
「……この度の台湾沖海戦によって、敵が本土沿岸に取りつくのではないか、敵の力を撃摧することが不可能ではないかというような、この頃、しきりに国民の頭に浮かんだ恐怖は霧消し去った。悪夢のように国民を圧迫していたこの頃の暗い空気は一度にとり去られ、我々には戦って勝つだけの力があるという確信が、国民の胸に甦った」(伊藤整著『太平洋戦争日記<三>』(新潮社より)
昭和天皇は、台湾沖航空戦で大戦果をあげた部隊に対し、御嘉尚(ゴカショウ)の勅語、すなわちお褒めの言葉を賜った。
「朕が陸海軍部隊は緊密なる協同の下、敵艦隊を邀撃し奮戦、大いにこれを撃破せり。朕深くこれを嘉尚す」
日本中が万歳の連呼につつまれ、提灯行列が企画された。これで日本は戦争に勝てると誰もが思ったのだ。
ところが……
この大戦果の数字には、奇妙なところがあった。
その当時、ハルゼー大将ひきいる第三十八任務部隊に所属する航空母艦は、大型正規空母九隻、巡洋艦改造軽空母八隻の合計十七隻。
一方、日本海軍航空部隊が台湾沖航空戦で撃沈した航空母艦は、合計十九隻。
実際に存在していたよりも多くの敵艦を沈めてしまっていることになる。
これは、いったいどういうことだろう。
なにか数え間違いがあったのか、実際には沈めていないのに沈めたと勘違いしたものがあったとか、あるいは、同じ艦を重複して数えてしまったとか。
もうおわかりであろう。
数え間違いがあった、どころではない。
そもそも、敵空母十九隻撃沈破という大戦果は、まったくの幻だったのである。
現実には、撃沈した敵艦は一隻もなかった。空母には、二隻にかすり傷らしきものを与えただけ。戦果らしい戦果といえば、巡洋艦二隻を大破させたにすぎなかったのである。
その代償として日本軍は、この時に備えて練成してしてきた航空部隊の過半を失ってしまった。
しかも、この幻の大戦果を、現実のものとして信じた日本陸軍は、既定の方針を変更して、アメリカ軍に対し無理な決戦を挑み、悲惨な敗北を喫することになる。
そればかりではない。
実は、海軍の一部は、ある時点で、この戦果が幻であることに気づいていた。
にもかかわらず、それを、国民に対してはおろか、首相にも、天皇にも、ともに戦う陸軍にさえも知らせなかったのである。
いったい、どうして、こんなことが生じたのだろうか。
忘れられた戦い「台湾沖航空戦」
人間のすることである。まして戦場という特殊な環境下である。間違うこともあろう。多少の希望的観測もあろう。また、戦争の常として情報操作も用いられるべき手段ではあろう。しかし、この場合は、その度合いがひどすぎる。
そこには、単なる錯誤や過失にとどまらない、もっと深い理由が隠されているにちがいない。
問題の焦点はふたつある。
ひとつは、このような空前絶後というべき幻の大戦果が、いかにして生み出されたのかということ。実際の戦場で、報告の現場で、そして戦果確認の過程で、なにがおこなわれていたのかということである。
もうひとつは、その大戦果が幻であるとわかったにもかかわらず、なぜ、その事実が看過され、誇大な数字がひとり歩きしたのか。その結果、そこには、単なる錯誤や過失をこえた、構造的な問題が潜んでいることがわかった。
そして、その構造的問題は、日本の組織に特有の欠陥であり、今日頻発する企業や官庁の不祥事を生み出す土壌として、台湾沖航空戦から60年近い歳月がたった今も、私たちの社会に温存されつづけているものだということも痛感せざるをえなかった。
台湾沖航空戦において幻の大戦果を生み出した事実誤認の実態は、解明されることなく葬り去られた。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、サイパン、レイテ、沖縄など、太平洋戦において、日本の運命を決定づけた戦いはあまたある。しかし、それらの戦いに比して、台湾沖航空戦という戦いの名は、ほとんど知られていない。
世に溢れる戦史や戦記のたぐいにも、この戦いをとりあげたものは、少ない。
この戦いに関わった人びとは、この戦いのことを、あえて忘れようとしたともいえる。戦史を書く人びとも、この戦いには、実体がほとんどないと見たのか、あるいは、あまりにもばかばかしいと考えたのか、なんらかの理由で見すごしてしまっているのだろう。
しかし、私たちは取材を進めるにつれ、この戦いこそが、太平洋戦争と日本の運命について、きわめて重要な意義をもつ戦いであることを知った。
戦術的には、日本軍の航空部隊が、アメリカ軍空母部隊の前に、もはや無力の存在となってしまっていることを示した戦いだった。戦略的には、日本軍が航空兵力を消耗しつくしてしまったことが、その後の戦局に決定的な不利をもたらした。以後、日本軍航空部隊は、正面きっての決戦を互角に戦う力を喪失し、生還を期さない体当たり攻撃──いわゆる”特攻”が常態化することになっていく。
だが、そうした戦術的あるいは戦略的な意義だけではない。それ以上の意義、すなわち、日本人の本質とでもいった部分に関わる重大な問題提起が、台湾航空戦には内包されている。
太平洋戦争を遂行する、実質的な責任部署であった大本営。その大本営が国民に戦況を伝えるためにおこなった大本営発表は、昭和17年のミッドウェー海戦で味方の敗北を押し隠したあたりから変質を始め、昭和19年のこの台湾沖航空戦で決定的な腐食をきたして嘘の固まりとなったのである。
過去を知らぬ者は、永遠に過ちを繰り返すという。
今こそ、私たちは、あの時なにがあったのか。あらためて振り返ってみる必要がある。日本人がもつ欠点が集約的に表れているこの戦いを、見つめなおす必要がある。
日本人が半世紀前と同じかたちの過ちを繰り返しつつあるかに見える、今こそ。
そこにどれほど醜悪な現実が見えてこようとも、目をそらすことなく見つめつづけなくてはならない。
台湾沖航空戦の戦果発表は、どのようになされたのか。なぜ、それが誤りとわかったあとも周知されることがなかったのか。
これらの疑問を解くために、まずは、初期の大本営発表がどのようなものであったのか、そして、台湾沖航空戦という戦いは、どのようにして生起したのか。そこから歴史の検証を進めていくことにしたい。
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