安重根は、ハルビンで伊藤博文を殺害する前、黒龍江の山岳地帯でゲリラ的な義兵闘争を続けていたが、厳しい取り締まりによって、しだいに押さえ込まれていく状況を打開しようと、仲間と離れウラジオストクに向かったという。その途上、ロシア領の「ポセット」の同志の家で、11人の同志と共に、左手の薬指を切断し、「断指同盟」を誓っている。そして、安重根が太極旗に「大韓国独立萬萬歳」と血書したという。伊藤殺害の前年、1908年12月30日のことである。
しかしながら、各地の韓国人による義兵闘争は、その後も、次々に日本軍によって潰され、追い詰められた安重根は、最後の手段として、伊藤博文暗殺を計画することなったという。
裁判における彼の「…韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきている…」という主張や、「…、私が3年前から国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として独立戦争の最中に伊藤さんを殺したのです。個人の犯罪ではなく、あくまで参謀中将という資格で計画したのですから、そもそもこの法院で、殺人罪の被告人として取調を受けるのは間違っているのです。…」という主張は、そこからくるといえる。「万国公法」で裁けというわけである。
安重根ほか3名の裁判は、旅順の関東都督府地方法院で、明治43年(1910)2月7日に開始され、2月14日には判決が言い渡されている。判官・真鍋十蔵、検察官・溝淵孝雄、国選弁護人・水野吉太郎および鎌田正治、通訳・園木末吉であった。ウラジオストーク居住の韓国人たちが、安重根を気づかい依頼した、ロシア人弁護士ミハイロフやイギリ人弁護士ダグラスの弁護届けが、判官・真鍋十蔵に提出されていたが、最終的にそれは却下され、通訳も含めてすべて日本人であった。
そして、日韓併合の対韓政策上、「無期徒刑」になってはうまくないと考えた韓国統監府倉知鉄吉政務局長の
「検察官ハソノ後訊問ヲ継続シタレドノ別ニ新事実ヲ発見セズ、境警視ノ調ベモサシタル結果ヲ得ルニ至ラズ、サレバ今後、浦塩方面ニナンラカ有力ナル事実ヲ発見セザルカギリ、当地ニオケル取調ベハ実際著シキ効果ヲミルコトナカルベシト思考サエラル。
シタガッテ、今両3日ヲ経タル後ハ、アルイハ今後ノ方針ニツキ、当地ニオケル関係者協議ヲ遂グルヲ要スル時期ニ達スルコトアルベク、ヨッテ左ノ点ニ関して何分ノ電訓ヲ請ウ」(「安重根と伊藤博文」中野泰雄〔恒文社〕)
に対して、小村寿太郎外相が、
「政府ニオイテハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大ナルヲ以テ、懲悪ノ精神ニヨリ極刑ニ処セラルルヲ相当ナリト思考ス」(同書)
との返電を送ったため、それまであった「無期徒刑」の考え方は、関東都督府地方法院からは消えたという。この事件を政治事件とはせず、あくまでも安重根個人の犯罪として、当時の状況や安の思想、暗殺の動機などは不問に付すことになったのである。安重根も、それまで同情的な側面をみせていた検察官溝淵孝雄の態度の変化に気づき、何らかの力が働いたと感じて次のように書いている。
「ある日、検察官がまた審問にやってきたが、その言葉や態度が前日とはまったく違い、自分の考えを圧制しようとし、また発言を抑えようとし、侮蔑する様子があらわれた。私がひそかに思うに、検察官の思想がこのようにたちまち変わったのは、本心ではあるまい。外から風が大きく吹いて、道心がおとろえれば、人心が危うい。という言葉があるが、まことに誤りなく、このことを伝える文字である」(同書)
関東都督府地方法院には、安重根の求める国際裁判を指示する意見もあったというのに、当時の日本政府の力が作用したようで残念である。義兵とはいっても、個人的に要人を暗殺するという行為には、問題があるであろうが、伊藤博文が中心となって進めたともいえる韓国の保護国化や日韓併合に至る諸政策、初代韓国統監として実行したこと、また、当時の韓国人がおかれた状況などを不問に付したまま、彼を凶漢と呼び、犯罪者と断じるのでは、日韓の溝は埋まらないと思う。
下記は「わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯」斎藤泰彦著(五月書房)から安の最終陳述の部分を抜粋したものである。
---------------------------------
雨の日の処刑
・・・
判官真鍋は両弁護人の弁論のあと、各被告に最終の陳述を求めた。
劉東夏と曹道先はともに、本事件とは関係のないことを述べた。また禹徳淳は「伊藤は日本と韓国の間に障壁をつくる人なので殺そうと思い、自分の意志でこの事件に加担することになったのだから、別に異論はない。ただ、今後は日本の天皇陛下が日本人と韓国人とを均等に取り扱い、韓国の保護を確実にしてほしいと思います」と述べた。
最後に安が立った。長文にわたる安の陳述記録をそのまましるしてみると──。
「私が、検察官の論告を聞いて思うには、検察官は私を誤解しているということです。例えば、検察官は、ハルピンで今年5歳になる私の子どもに私の写真を見せて”父である”との確認をしてもらったと申しますが、私が国を出たとき子供はまだ2歳で、その後は会っていませんから私の顔を知っているはずはないのです。
そもそも、今回の伊藤公殺害は私人としてやったものではなく、韓日関係から致したものなのです。しかし、事件の審理については、判官はじめ弁護人および通訳までも日本人のみによって取り扱われております。韓国から弁護人もきているので、弁護の機会を与えてくださるのが至当と思うのです。また弁論なども大要のみを通訳してきかせられるので、私は不満でありますし、他から見ても片寄っているとの非難を受けるにちがいありません。
検察官や弁護人の言い分を聞いていると、みな伊藤公の統監としての施政方針は完全無欠であり、私が誤解しているとのことですが、それは不当であります。私は誤解しているのではなく、かえってよく知りぬいていると思いますから、公爵の統監としての施政方針についてその大要を申し述べてみます。
明治38年(1905)における五ヵ条の保護条約のことでありますが、あの条約は韓国皇帝はじめ国民一般は保護を希望したのではありません。しかし、伊藤公は韓国皇帝および上下臣民の希望で締結すると言って、一進会(日本への合邦運動を推進した韓国の親日団体)をそそのかして運動させ、皇帝の玉璽や総理大臣の副署がないのに、各大臣を金で瞞着して締結させてしまったのです。だから、伊藤公のこの政策については当時、志ある者はみな大いに憤慨し、紳士たちも皇帝に上奏し伊藤公にも献策しました。
日露戦争についての日本天皇陛下の宣戦詔勅には、東洋の平和を維持し韓国の独立を強固にするということがありましたから、韓国人民は信頼して日本と共に東洋に立つことを希望していました。が、伊藤公の政策はそれと反対でしたので、各所に義兵が起こりました。第1は、崔益鉉(チェイクヒョン)が献策して宋秉畯(ソンビョンヂェン)のために捕えられ、対馬に拘禁中に死にました。それで起きたのが最初の義兵であります。
その後、献策しても方針が変えられませんので、当時(明治40年=1907)ヘーグの平和会議に、皇帝が密使として李相・を派遣し訴えたのは、五ヶ条の条約は伊藤公が武力をもって強制したものであるから万国公法にしたがって処分してほしいということだったのです。しかし、当時、同会議では物議が起きていたのでものになりませんでした。それから伊藤公は、夜中に刀を抜いて皇帝に迫り7ヶ条の条約(第3次日韓協約)を締結し、皇帝を退位させて日本に謝罪使を派遣することにまでなりました。
そんな状態で、京城(ソウル)付近の韓国民は上も下も憤慨し、なかには切腹する者もありました。人民も兵も素手や兵器をもって日本兵と戦い、京城の変が起こりました。
その後、十数万の義兵が各地に起こったので、太上皇帝が詔勅を下して、国の危急存亡に際して袖手傍観するのは国民たるもののとる道ではないということがありましたので、韓国民はいよいよ憤慨して今日まで日本兵と戦い、今になっても治まりません。これで十万以上の韓国民が殺されました。これらの者がみな、国事に尽くして倒れたのなら本懐でありましょうが、いずれも伊藤公のために虐殺され、ひどいのは頭から縄を通して社会の見せしめにするからといって、残虐無道のことをされました。そのため、義兵の将校も少なからず戦死しました。伊藤公のこのような政策で。1人殺せば10人、10人殺せば百人義兵が起こるという有様ですから、施政方針を改めなければ韓国の保護はできぬと同時に、日韓両国の戦争はとこしえに絶えぬと思います。
伊藤公その人は、英雄ではなく、奸雄で奸智にたけているから、その奸智でもって、韓国の開明は日に月に進歩をしていると新聞に掲載させ、また日本天皇陛下や政府に対しても、韓国は円満に治まっており、日に月に進歩していると欺いています。そのため韓国同胞はみな、その罪を憎み伊藤公を殺害しようという心を起こしていました。人間はだれでも生の楽しみを願い、死を好むものではありません。まして韓国民は十数年来、塗炭の苦しみに泣いてきましたから、平和を希望することは日本国民よりも一層深いものがあるのです。
さらに私はこれまで、日本の軍人や商人や道徳家ら、いろいろな階級の人々とも会って話をしたことがありますので、次にその話を申し上げます。
軍人との話というのは、韓国に守備隊としてきていた人と会ったときのことです。その軍人に、このように海外にきておられるが国には父母妻子もおられ、夢の間にも家族のことは忘れられず苦労の多いことでしょう、と私が慰めましたところ、その人は、国には妻子もいるが国家の命令で派遣されているので、私情としては堪えられぬけれども致し方ないと泣いて話しました。それで私は、もし東洋が平和で日韓のことが無事でさえあれば守備にこられる必要もあるまい、と申しました。するとその人は、そのとおり個人としては戦いを好まぬけれど、軍人であるゆえに必要があれば戦わねばならないのだ、と申しました。それで私は、守備隊としてきておられる以上、帰国することは容易にできますまいと話したら、その人は、日本には奸臣がおって平和を乱すので自分らは心にもなく遠いこんなところにまできている、伊藤公のような人は自分一人ではきないが何とかして殺してやりたい思いだ、と泣きながら申していました。
それから農夫との話もありました。その人は、韓国は農業に適し収穫も多いということでやってきたが、いたるところ暴徒が起こって安心して仕事もできない。かといって、国へ帰ろうにも、昔の日本はよかったが今では戦争のため財源を得ることに汲々として、農民に課税を多くするので農業もできない。このようなわけで、自分らはまったく身の置きどころがない、といって嘆いていました。
商人との話でも、韓国は日本の製品の需要が多いと聞いてきたが、前の農民の話と同じように、いたるところ暴徒があって交通は途絶され生活さえできない。伊藤公をなきものにしなければ商業もできない。自分一人の力でできることなら、殺してやりたいくらいだ。とにかく、平和になるのを待つよりほかない、と言っておりました。
道徳家の話というのは、キリスト教の伝道師のことですが、私はその人に対し、これだけ何の罪もない人を虐殺するような日本人が伝道なんてできますか、と質問してみたのです。すると彼は、道徳には彼我の区別はない、虐殺するような人はまことに憐れむべきもので、天帝の力によって改善させるよりほかないから、このような者どもはむしろ憐れんでくれと申しておりました。
私が伊藤公を殺したのは、公爵がおれば東洋の平和を乱し、日本と韓国との間を疎隔するのみであるから、韓国の義兵中将の資格をもってやむを得ず殺したのです。もともと私は、日韓両国がますます親密になって平和に治まり、やがて五大州にもその範が示されるよう念願してきました。私は決して誤解によって伊藤公を殺したのではありません。いま言ったような私の目的を達成させるために、あえてやったのであります。それゆえ今、伊藤公の施政方針が誤っていたことを天皇陛下に奏上していただけるなら、天皇も必ず私のことをよく理解し喜んでくださるだろうと思っております。今後は陛下の聖旨にしたがい、韓国に対する施政方針を改善されたならば、日韓間の平和はまちがいなく万世にわたって維持されるであろう、と期待しておるのです。
弁護人によれば、光武3年(明治32年=1899)に締結された韓清通商条約によって、韓国民は清国内において治外法権を有し、本件は韓国刑法大全に基づいて治罪すべきものであるけれども、その韓国刑法には(外国における韓国人の犯罪について)罰すべき規定がないというのですが、それは不当な愚論というべきものだと思います。今日の人間はすべて法によって生活しているのに、現に人を殺した人間が罰せられずに生存するという道理はありません。それならば、私はどのような法によって処罰されねばならないかという問題ですが、それは韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきているのですから、すべては万国公法によって処断されるべきものである、と思うのであります」
安の陳述は1時間を超えた。
その論旨は一貫して、この十数年、つまりあの日清開戦から日露戦後の今日まで、わが日本がひたすら歩みつづけてきた”韓国侵入への道”を心底から剔抉するようなものだった。検察官がどんなに言いつくろうとも、公判そのものがすべて日本人のみによって取り仕切られている状況では、伊藤公らがタテマエとして掲げてきた、”仁政”どころか”韓国の保護”にもならなかったのである。それを検証するように述べつづける安の言葉は、まるで暗黒の彼方からひた押しに迫ってくる海の満ち潮がやがて海辺に棄てられたあらゆる残骸を呑み込んでしまうような不気味な光景にも見えた。…
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。
しかしながら、各地の韓国人による義兵闘争は、その後も、次々に日本軍によって潰され、追い詰められた安重根は、最後の手段として、伊藤博文暗殺を計画することなったという。
裁判における彼の「…韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきている…」という主張や、「…、私が3年前から国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として独立戦争の最中に伊藤さんを殺したのです。個人の犯罪ではなく、あくまで参謀中将という資格で計画したのですから、そもそもこの法院で、殺人罪の被告人として取調を受けるのは間違っているのです。…」という主張は、そこからくるといえる。「万国公法」で裁けというわけである。
安重根ほか3名の裁判は、旅順の関東都督府地方法院で、明治43年(1910)2月7日に開始され、2月14日には判決が言い渡されている。判官・真鍋十蔵、検察官・溝淵孝雄、国選弁護人・水野吉太郎および鎌田正治、通訳・園木末吉であった。ウラジオストーク居住の韓国人たちが、安重根を気づかい依頼した、ロシア人弁護士ミハイロフやイギリ人弁護士ダグラスの弁護届けが、判官・真鍋十蔵に提出されていたが、最終的にそれは却下され、通訳も含めてすべて日本人であった。
そして、日韓併合の対韓政策上、「無期徒刑」になってはうまくないと考えた韓国統監府倉知鉄吉政務局長の
「検察官ハソノ後訊問ヲ継続シタレドノ別ニ新事実ヲ発見セズ、境警視ノ調ベモサシタル結果ヲ得ルニ至ラズ、サレバ今後、浦塩方面ニナンラカ有力ナル事実ヲ発見セザルカギリ、当地ニオケル取調ベハ実際著シキ効果ヲミルコトナカルベシト思考サエラル。
シタガッテ、今両3日ヲ経タル後ハ、アルイハ今後ノ方針ニツキ、当地ニオケル関係者協議ヲ遂グルヲ要スル時期ニ達スルコトアルベク、ヨッテ左ノ点ニ関して何分ノ電訓ヲ請ウ」(「安重根と伊藤博文」中野泰雄〔恒文社〕)
に対して、小村寿太郎外相が、
「政府ニオイテハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大ナルヲ以テ、懲悪ノ精神ニヨリ極刑ニ処セラルルヲ相当ナリト思考ス」(同書)
との返電を送ったため、それまであった「無期徒刑」の考え方は、関東都督府地方法院からは消えたという。この事件を政治事件とはせず、あくまでも安重根個人の犯罪として、当時の状況や安の思想、暗殺の動機などは不問に付すことになったのである。安重根も、それまで同情的な側面をみせていた検察官溝淵孝雄の態度の変化に気づき、何らかの力が働いたと感じて次のように書いている。
「ある日、検察官がまた審問にやってきたが、その言葉や態度が前日とはまったく違い、自分の考えを圧制しようとし、また発言を抑えようとし、侮蔑する様子があらわれた。私がひそかに思うに、検察官の思想がこのようにたちまち変わったのは、本心ではあるまい。外から風が大きく吹いて、道心がおとろえれば、人心が危うい。という言葉があるが、まことに誤りなく、このことを伝える文字である」(同書)
関東都督府地方法院には、安重根の求める国際裁判を指示する意見もあったというのに、当時の日本政府の力が作用したようで残念である。義兵とはいっても、個人的に要人を暗殺するという行為には、問題があるであろうが、伊藤博文が中心となって進めたともいえる韓国の保護国化や日韓併合に至る諸政策、初代韓国統監として実行したこと、また、当時の韓国人がおかれた状況などを不問に付したまま、彼を凶漢と呼び、犯罪者と断じるのでは、日韓の溝は埋まらないと思う。
下記は「わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯」斎藤泰彦著(五月書房)から安の最終陳述の部分を抜粋したものである。
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雨の日の処刑
・・・
判官真鍋は両弁護人の弁論のあと、各被告に最終の陳述を求めた。
劉東夏と曹道先はともに、本事件とは関係のないことを述べた。また禹徳淳は「伊藤は日本と韓国の間に障壁をつくる人なので殺そうと思い、自分の意志でこの事件に加担することになったのだから、別に異論はない。ただ、今後は日本の天皇陛下が日本人と韓国人とを均等に取り扱い、韓国の保護を確実にしてほしいと思います」と述べた。
最後に安が立った。長文にわたる安の陳述記録をそのまましるしてみると──。
「私が、検察官の論告を聞いて思うには、検察官は私を誤解しているということです。例えば、検察官は、ハルピンで今年5歳になる私の子どもに私の写真を見せて”父である”との確認をしてもらったと申しますが、私が国を出たとき子供はまだ2歳で、その後は会っていませんから私の顔を知っているはずはないのです。
そもそも、今回の伊藤公殺害は私人としてやったものではなく、韓日関係から致したものなのです。しかし、事件の審理については、判官はじめ弁護人および通訳までも日本人のみによって取り扱われております。韓国から弁護人もきているので、弁護の機会を与えてくださるのが至当と思うのです。また弁論なども大要のみを通訳してきかせられるので、私は不満でありますし、他から見ても片寄っているとの非難を受けるにちがいありません。
検察官や弁護人の言い分を聞いていると、みな伊藤公の統監としての施政方針は完全無欠であり、私が誤解しているとのことですが、それは不当であります。私は誤解しているのではなく、かえってよく知りぬいていると思いますから、公爵の統監としての施政方針についてその大要を申し述べてみます。
明治38年(1905)における五ヵ条の保護条約のことでありますが、あの条約は韓国皇帝はじめ国民一般は保護を希望したのではありません。しかし、伊藤公は韓国皇帝および上下臣民の希望で締結すると言って、一進会(日本への合邦運動を推進した韓国の親日団体)をそそのかして運動させ、皇帝の玉璽や総理大臣の副署がないのに、各大臣を金で瞞着して締結させてしまったのです。だから、伊藤公のこの政策については当時、志ある者はみな大いに憤慨し、紳士たちも皇帝に上奏し伊藤公にも献策しました。
日露戦争についての日本天皇陛下の宣戦詔勅には、東洋の平和を維持し韓国の独立を強固にするということがありましたから、韓国人民は信頼して日本と共に東洋に立つことを希望していました。が、伊藤公の政策はそれと反対でしたので、各所に義兵が起こりました。第1は、崔益鉉(チェイクヒョン)が献策して宋秉畯(ソンビョンヂェン)のために捕えられ、対馬に拘禁中に死にました。それで起きたのが最初の義兵であります。
その後、献策しても方針が変えられませんので、当時(明治40年=1907)ヘーグの平和会議に、皇帝が密使として李相・を派遣し訴えたのは、五ヶ条の条約は伊藤公が武力をもって強制したものであるから万国公法にしたがって処分してほしいということだったのです。しかし、当時、同会議では物議が起きていたのでものになりませんでした。それから伊藤公は、夜中に刀を抜いて皇帝に迫り7ヶ条の条約(第3次日韓協約)を締結し、皇帝を退位させて日本に謝罪使を派遣することにまでなりました。
そんな状態で、京城(ソウル)付近の韓国民は上も下も憤慨し、なかには切腹する者もありました。人民も兵も素手や兵器をもって日本兵と戦い、京城の変が起こりました。
その後、十数万の義兵が各地に起こったので、太上皇帝が詔勅を下して、国の危急存亡に際して袖手傍観するのは国民たるもののとる道ではないということがありましたので、韓国民はいよいよ憤慨して今日まで日本兵と戦い、今になっても治まりません。これで十万以上の韓国民が殺されました。これらの者がみな、国事に尽くして倒れたのなら本懐でありましょうが、いずれも伊藤公のために虐殺され、ひどいのは頭から縄を通して社会の見せしめにするからといって、残虐無道のことをされました。そのため、義兵の将校も少なからず戦死しました。伊藤公のこのような政策で。1人殺せば10人、10人殺せば百人義兵が起こるという有様ですから、施政方針を改めなければ韓国の保護はできぬと同時に、日韓両国の戦争はとこしえに絶えぬと思います。
伊藤公その人は、英雄ではなく、奸雄で奸智にたけているから、その奸智でもって、韓国の開明は日に月に進歩をしていると新聞に掲載させ、また日本天皇陛下や政府に対しても、韓国は円満に治まっており、日に月に進歩していると欺いています。そのため韓国同胞はみな、その罪を憎み伊藤公を殺害しようという心を起こしていました。人間はだれでも生の楽しみを願い、死を好むものではありません。まして韓国民は十数年来、塗炭の苦しみに泣いてきましたから、平和を希望することは日本国民よりも一層深いものがあるのです。
さらに私はこれまで、日本の軍人や商人や道徳家ら、いろいろな階級の人々とも会って話をしたことがありますので、次にその話を申し上げます。
軍人との話というのは、韓国に守備隊としてきていた人と会ったときのことです。その軍人に、このように海外にきておられるが国には父母妻子もおられ、夢の間にも家族のことは忘れられず苦労の多いことでしょう、と私が慰めましたところ、その人は、国には妻子もいるが国家の命令で派遣されているので、私情としては堪えられぬけれども致し方ないと泣いて話しました。それで私は、もし東洋が平和で日韓のことが無事でさえあれば守備にこられる必要もあるまい、と申しました。するとその人は、そのとおり個人としては戦いを好まぬけれど、軍人であるゆえに必要があれば戦わねばならないのだ、と申しました。それで私は、守備隊としてきておられる以上、帰国することは容易にできますまいと話したら、その人は、日本には奸臣がおって平和を乱すので自分らは心にもなく遠いこんなところにまできている、伊藤公のような人は自分一人ではきないが何とかして殺してやりたい思いだ、と泣きながら申していました。
それから農夫との話もありました。その人は、韓国は農業に適し収穫も多いということでやってきたが、いたるところ暴徒が起こって安心して仕事もできない。かといって、国へ帰ろうにも、昔の日本はよかったが今では戦争のため財源を得ることに汲々として、農民に課税を多くするので農業もできない。このようなわけで、自分らはまったく身の置きどころがない、といって嘆いていました。
商人との話でも、韓国は日本の製品の需要が多いと聞いてきたが、前の農民の話と同じように、いたるところ暴徒があって交通は途絶され生活さえできない。伊藤公をなきものにしなければ商業もできない。自分一人の力でできることなら、殺してやりたいくらいだ。とにかく、平和になるのを待つよりほかない、と言っておりました。
道徳家の話というのは、キリスト教の伝道師のことですが、私はその人に対し、これだけ何の罪もない人を虐殺するような日本人が伝道なんてできますか、と質問してみたのです。すると彼は、道徳には彼我の区別はない、虐殺するような人はまことに憐れむべきもので、天帝の力によって改善させるよりほかないから、このような者どもはむしろ憐れんでくれと申しておりました。
私が伊藤公を殺したのは、公爵がおれば東洋の平和を乱し、日本と韓国との間を疎隔するのみであるから、韓国の義兵中将の資格をもってやむを得ず殺したのです。もともと私は、日韓両国がますます親密になって平和に治まり、やがて五大州にもその範が示されるよう念願してきました。私は決して誤解によって伊藤公を殺したのではありません。いま言ったような私の目的を達成させるために、あえてやったのであります。それゆえ今、伊藤公の施政方針が誤っていたことを天皇陛下に奏上していただけるなら、天皇も必ず私のことをよく理解し喜んでくださるだろうと思っております。今後は陛下の聖旨にしたがい、韓国に対する施政方針を改善されたならば、日韓間の平和はまちがいなく万世にわたって維持されるであろう、と期待しておるのです。
弁護人によれば、光武3年(明治32年=1899)に締結された韓清通商条約によって、韓国民は清国内において治外法権を有し、本件は韓国刑法大全に基づいて治罪すべきものであるけれども、その韓国刑法には(外国における韓国人の犯罪について)罰すべき規定がないというのですが、それは不当な愚論というべきものだと思います。今日の人間はすべて法によって生活しているのに、現に人を殺した人間が罰せられずに生存するという道理はありません。それならば、私はどのような法によって処罰されねばならないかという問題ですが、それは韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきているのですから、すべては万国公法によって処断されるべきものである、と思うのであります」
安の陳述は1時間を超えた。
その論旨は一貫して、この十数年、つまりあの日清開戦から日露戦後の今日まで、わが日本がひたすら歩みつづけてきた”韓国侵入への道”を心底から剔抉するようなものだった。検察官がどんなに言いつくろうとも、公判そのものがすべて日本人のみによって取り仕切られている状況では、伊藤公らがタテマエとして掲げてきた、”仁政”どころか”韓国の保護”にもならなかったのである。それを検証するように述べつづける安の言葉は、まるで暗黒の彼方からひた押しに迫ってくる海の満ち潮がやがて海辺に棄てられたあらゆる残骸を呑み込んでしまうような不気味な光景にも見えた。…
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。
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