真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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一国独占主義 と国際協調主義の対立

2025年02月23日 | 国際・政治

 下記は、「鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルースカミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から、米ソによる38度線南北分割占領の経緯を記した部分を抜萃した。当時アメリカには、「一国独占主義」と「国際協調主義」の対立があったことがわかります。

 そして、現在、その性格をまったく逆にした「孤立主義(一国独占主義 )」と「国際協調主義」の対立が表面化しているように思います。

 アメリカのバイデン前政権は、自由主義的な国際主義liberal internationalism)進めていたと言えるのでしょうが、その内実は、圧倒的な軍事力や経済力によって、アメリカを中心に強固に統制された反共的政策であったと思います。逆にトランプ大統領は、圧倒的な軍事力や経済力を背景としつつ、世界中に配置された軍隊や組織その他に費やす費用をすべて国内に向け、国内を豊かにし、戦争を終息させる平和の回復政策を進めていると思います。

 この対立は、行き詰まるアメリカの経済を維持し、復活させる方法の違いであると思います。

 資本主義経済は、マルクスが指摘したように、必然的に窮乏化(現代風に言えば格差の拡大)する体制です。

 企業家(資本家)は常に、競争に負ける恐怖と闘い、少しでも多くの利益を上げるために必死だと思います。また、企業家(資本家)は、常に労働者からより多くの利益を引き出すために、労働者に薄給を強い、労働組合に圧力をかけて分断支配したり、懐柔したりするのだと思います。

 そうしないと資本主義経済体制が維持できないという苦難にも直面し続けているということです。でも、そうした 企業家(資本家)の努力は、必然的に窮乏化(現代風に言えば格差の拡大)をもたらすのです。

 だから、格差の拡大を防ぐ法律や制度を、国際的にしっかり確立しない限り、企業家(資本家)は、生き残りをかけて闘わざるを得ないのだと思います。それが、ロシアを挑発し、ウクライナ戦争によってロシアの政権を転覆したり、台湾有事を誘発し、習近平政権を転覆したりして、アメリカの苦境を打開しようとするバイデン政権の戦争政策の実態だと思います。生残りをかけた政策なのだということです。

 でも、皮肉なことに、法や道義・道徳を尊重しているとは思えない「孤立主義(一国独占主義 )」のトランプ大統領が、そうした戦争政策をやめて、そのために必要な莫大な費用を国内に還流させ、生き延びようとしているのだと思います。根本的な解決策ではないと思いますが、アメリカは、かなりの期間生き延びることができるだろうと思います。

 

 そういう意味で、”ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogordで原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定をすべて反故にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もっと実質的にロシア人を封じ込める絶好のチャンスだと判断した”という「一国独占主義」によるアメリカの朝鮮政策の決定過程は、見逃すことができないことだと思います。

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                      第一部 物語りの背景

                   第四章 坩堝(ルツボ)の中の対朝鮮政策  

             アメリカにおける一国独占主義と国際協調主義の対立 1943年─1945

 

 ヤルタとポツダム──宙に浮く信託統治案

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 朝鮮に対するアメリカの戦時計画は複雑で矛盾に満ち、しかも明確性を欠いたものであるが、この状態は日本の敗戦の時まで続いた。国務省内に一致した見解などなく、あれやこれや競合的な多くの見解が混在していただけであったのは、1945年夏に編纂されたある一つの驚くべき文書を見れば明らかであるが、この中にはアメリカ軍が占領後朝鮮とった施策とは似ても似つかないいくつかの優れた試案が含まれている。つまり、米軍政庁がとった実際の政策は、この中に含まれている対立的な代案の中から賢明でない方を選び取った結果であったのだ。この文書のタイトルは「極東における戦争が終結したあとアジア太平洋地区で起こりうる情勢の予測と、アメリカ合衆国の目的及び政策」(An Estimate of Conditions in Asia and the Pacific at the Close of the War in the Far East and the Objectives and Policies of the United Statesであるが、この文書はす「凡ての人民が自らの政府の形態を選択しうる権利」の保障を謳っている。この文書はその考え方においては反帝国主義と相通じるものを持っており、西欧諸国が「戦争、戦争の脅かし、そして相手の無知につけ込むやり方」を通じて行ってきたアジアに対する侵略の歴史を説いている。この文章では、日帝支配が終わった時の朝鮮における農村状況が的確に把握されており、朝鮮農民の大多数が日本人もしくは朝鮮人地主による「苛酷な搾取」の下に苦しんできた小作農である事実が指摘されている。また、これらの農民は恐らく「抜本的な農地改革を要求するだろうし、日本人であれ朝鮮人であれ、地主階級による支配体制を破壊するべく決定的な行動をとるのは疑いを容れない」ということが述べられている。この文書は、ソ連が朝鮮でどのような態度に出てくるかについて早まった予測を立てることをしていない。ただソ連はいわゆる「友好的政府」の樹立を欲するかも知れないが、これような政府は「非常にたやすく一般大衆の支持を受けるだろう」と予測し、それは「朝鮮が経済的に政治的に共産主義理念を受け入れるのに都合のよい状況にあるから」という指摘がなされている。そして朝鮮に関する章の終りに、アメリカは「朝鮮の軍政と過渡政府の両方に関わり」朝鮮人を助けて「安定した民主的独立国家」を樹立することに力を藉(カ)すべきだということを勧告している。しかしながら、この文章は、どのようにして反帝国主義とアメリカの東アジアにおける戦後目的とを合致させることができるのか、どのようにして抜本的農地改革をアメリカの利害関係及び民主主義の定義と一致させることができるのか、アメリカとソ連がどのようにして両者のいずれとも対立しない政府を朝鮮に樹立しうるのかについては言及がない。このような点に対する曖昧さがはっきりしてくるのは、それから先の様々な出来ごとまで待たざるをえなかった。

 

 戦後最初のコンテインメント(封じ込め)作戦──朝鮮の分断 19458

 太平洋における戦況からすれば、1945年の夏の時点では、アメリカが朝鮮問題に積極的に介入する可能性はそう大きくはなかった。日本本土(九州)に対する米軍の上陸作戦は大体111日を期して始まる予定になっており、朝鮮に注意を向けるのは本土が平定されたあとだというのが軍部の構想であったからである。19457月ポツダム会談のとき、軍事状況が無視できなくなった情勢の中で、もし朝鮮に対する侵攻作戦がとられるならその責任は全面的にソ連軍に任せるというのが事実上の考え方であった。ポツダム会談の記録を検討すれば、アメリカ軍の参謀たちは日本に対する軍事作戦にはソ連の参戦が必要だという点において、まったく見解が一致していたのが分かる。重要な文献の中の一つは「アジア大陸における掃蕩作戦に関して言うならば、満洲(もし必要があれば朝鮮)におけるジャップの一掃はこれをロシア人に任せるというのを目標とすべきである」とも述べている。括弧の中に言及されたような朝鮮における軍事行動については、724日で開かれた三国〔米英ソ〕軍事会談においてより明確に話し合われたが、その時米陸軍参謀総長マーシャルは、朝鮮で米ソの共同作戦が取られる可能性を問うたソ連側の、あの質問に対し、アメリカ上陸作戦について「何も考えておらず、特に近い将来にそれを決行する計画は全くない」と答えている。彼はまた「アメリカ側には朝鮮に対する上陸作戦に廻しうるほど攻撃船艇に余裕がなく、対朝鮮作戦の可能性は九州上陸が終わった後じゃないと決められないとも付け加えた。

 19456月の時点で、満洲と朝鮮にある日本軍の実勢は875千であるとアメリカの秘密文書を判断している(しかもアメリカ人は、満州にある関東軍には畏怖の念を抱いていた)。九州における日本軍の実勢は30万と考えられていた。後日このような判断は過大評価であったのが判明するのであるが、しかし朝鮮における軍事行動とこれに対するソ連軍の参加に関するアメリカ側の構想は、19457月の時点における彼等の情勢判断を抜きにしては考えられない。あのと、本土上陸作戦に要する人員の損失は甚大なものであろうと予期されていたが、満洲と朝鮮に対する侵攻作戦にはそれ以上の損失が要求されるものと考えられていたようである。したがってアメリカ人は満州・朝鮮における軍事行動とそれに伴う損失を、ソ連軍に引き受けさせたいと望んでいたわけだ。勿論ソ連軍のこの犠牲に対しては、それなりの代価を支払うというのがアメリカ側の肚づもりであった。これより数カ月前、マッカーサーはソ連が対日戦に参加した場合の結果について、次のように述べている。ソ連は「満洲・朝鮮の全域と、恐らく華北の一部をもその支配下に収めることを望むだろう。このような領土の占拠は避けられない。しかし、アメリカは、もし

ロシアが、これだけの報酬を得たいと望むなら、一日も早く満洲に対する侵攻作戦を開始することによって、その代価を支払うよう主張しなくてはならない」ポツダム会談の段階に至ってもアメリカの軍部はまだ、かりにソ連が実際に上記のような領土的な野心を抱いているにしても、それに相応する犠牲を払う限りにおいて、その野心を許容するつもりであった。というのは、彼らは「もしソ連がすでに絶望的状況にある日本に対して参戦に踏み切るならば、それが決定的な打撃となって日本は降伏せざるを得なくなるだろう」と考えていたからである。

 アメリカの軍部は、まさか日本が一夜のうちに崩壊するだろうとは予期していなかった。8月の最初の週に至ってさえ、広島と長崎に落とされた原爆と、ソ連軍の満州における迅速な作戦行動がどのような効果を持つものであるか、予測することができなかった。恐らくソ連もこのとき同じような状況であっただろう。ポツダムでソ連の陸軍参謀総長アレクセイ・アントーヌフは「ソ連の極東地区における目標は、満州にある日本軍を消滅させることと、遼東半島を占領することだ」と述べているが、この発言はあの時点でソ連が何を目ざしていたかをかなり明確に示したものといえるだろう。

 先ほども述べたように、当時の軍事情勢から考えて、ポツダムにおいては朝鮮の中立化についての合意は十分成立しえたと思われる。勿論両者間の合意がいかになるものであるせよ、それは朝鮮内における軍事行動がソ連軍の一手に任されるものであるという事情を考慮した上でのものであっただろう。もし討議が具体的に展開したとすれば、ソ連は参戦の代価として、朝鮮における自由行動の権利を要求したかもしれない。またしかし、もしアメリカが朝鮮問題に介入しないことを約束すれば、ソ連は朝鮮の国内に足を踏み入れないことに同意したかも知れない。ともかく、ポツダムにおいてのみならず、朝鮮内で軍事力を使用する問題が討議されたときは常に──19506月ワシントンのブレア・ハウス〔大統領の迎賓館〕会議のときまで──アメリカの軍部は、世界的な大戦の中で朝鮮半島はアメリカにとって何ら戦略的価値をもたないという立場をとり続けた。もし朝鮮の防衛任務も引きうけるならば、アメリカは自らの兵力を極限まで使い果たさざるを得ないし、防衛線を引くとすればもっと有利な地点が見つかるはずだというのがその理由であった。ある一部の自由主義的国際主義者たち(liberal internationalist)は、1940年代になされた朝鮮に対する決定をアメリカの軍部のせいにし、非難の矢をそちらに向けたいと思うかもしれないが、責任を負うべきは、むしろ政策担当官たちである。ポツダム会談の真最中、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogordで原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定をすべて反故にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もっと実質的にロシア人を封じ込める絶好のチャンスだと判断したのは、他ならぬこれら政策担当官や大統領側近の顧問ないし大統領自身であったのだ。アメリカ86日と9日、広島と長崎に続けて原爆を投下したが、ソ連は間髪を入れず、アメリカの予測していなかった軍事行動をアジア大陸で開始し──そして日本は崩壊した。このような目まぐるしい事態の直後、朝鮮に38度線が引かれ、南北二つの分割地区が米ソ連両国軍の占領下におかれることになる。

 北緯38度に線を引くというそもそもの決定は全くアメリカが下したものであって、この決定が下されたの810日の夜から翌11日の未明で続いた国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(SWNCC)の徹夜会議のときであった。この会議の模様については幾つかの報告がなされているが、その中の一つを紹介すれば次の通りである。

 810日から11日にかけての深夜、チャールズ・H・ボンスティール大佐〔後に将軍として駐韓国連軍司令官に就任〕とディーン・ラスク少佐〔後にケネディ、ジョンソン両大統領の下で国務長官に就任〕は…… 一般命令(Gneral Orderの一部として朝鮮において米ソ両軍によって占領されるべき地域確定について文案を起草し始めた。彼に与えられた時間は30分であり、作業が終わるまでの30分間、三省調整委は待つことになっていた。国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであったが、陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重であった。ボンスティールとラスクは、ソウルの北方を走る道〔県〕の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。そのとき手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ボンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。

 その場に居合わせたラスクの話も大体において以上の記述と一致している。ラスクの書いたものによると、マックロイ(SWNCCにおける陸軍省代表)は自分とボンスティールの2人に「隣の部屋に行って、アメリカ軍ができる限り北上して日本国の降伏を受諾したいという政治的要望と、そのような地域にまで進出するにはアメリカ軍の能力にはっきりした限界があるという二つの事実を、うまく調和させる案を考えて欲しい」と求めたという。以上二つの述懐の中で注目すべき大事な点は、朝鮮分断に関するこの決定の性格は本質的に政治的なものであって、しかも国務省の代表はこの分断をもって朝鮮を二つの勢力圏に分割することの政治的利益を主張したのに反し、軍部の代表は朝鮮に足がかりを確保するだけの兵力は無いかも知れないということについて注意を促したという事実である。

 ラスクの言によると、38度線は「もしかしたらソ連がこれを承諾しないかも知れないということを勘案した場合……アメリカ軍が現実的に到達しうる限界をはるかに越えた北よりの線」であったのであり、あとからソ連がこの分断線の提案を承諾したと聞いたとき、彼は「若干驚きを感じた」ということである。もう一つの説明によると、アメリカの提案がソ連に伝達されたあと、ソ連が果たしてどう返答するだろうかについて、アメリカは「暫くの間落ち着かない状態」にあったのであり、もし提案が拒否された場合は、構わず米軍を釜山に急派すべきだという意見もあったという。こう考えてみると、38度線の選定は、ソ連の出方を試そうとするはっきりした意図を含むものであったことが分かる。ソ連軍は南下を停止するだろうか。このテストはうまく目的を果たしたと言うべきだろう。ソ連軍が朝鮮に侵入したのはアメリカ軍が上陸する一ヶ月前のことであり、もし彼らがそう欲したとすれば、ソ連軍は簡単に朝鮮半島の全土を入手しうる立場であった。しかし彼らはアメリカに与えた同意事項を遵守した。そのためにアメリカ軍はおくれて来たにも拘らず首都ソウルと人口の三分の二、それに軽工業の大部分と穀倉のほとんどを含む地帯をその占領下に収めることができた。このような結果をもたらした議論の席に、D・ラスクのような根っからの封じ込め政策の信奉者が参加していたの思い返すと、成る程という気にならざるを得ない。それより20年あと、「ベトナムにおける」17度線の不可侵性はどんな事があっても回復しなければならない」と執拗に主張しつづけたのはラスクであった

 スターリンがアメリカとの合意事項を遵守したのは、それなりの理由があったと思われる。38度線の目的は、代価として得られるはずの勢力範囲を厳格に規定することであると、彼は考えたに違いない。歴史を遡って見れば、ロシア人と日本人は1896年〔日清戦争終結の翌年〕、38度線を境界線として朝鮮を分離する交渉を進めたことがあり、同じような交渉は再度1903年〔日露戦争の前年〕にも行われた。スターリンは1945年、日露戦争で失われたロシアの権益は回復されなくてはならないと、はっきり言明している。アメリカと同様、ソ連もまた、自国に対して友好的な、統一された朝鮮の方がより好ましいと思っていたかも知れない。しかしたとえ朝鮮が分断されたにしても、それがソ連に対する攻撃の基地とはならないことが保障される限り、ソ連の基本的な安保の利害は充足されると考えただろう。ウィリアム・モリスが論じたように、朝鮮おけるソ連の動きにスターリンが制約を加えたのは、連合軍との協調関係を維持したいという考えからであったのかも知れない。ともかく理由はなんであれ、スターリンにとって朝鮮は完全に自らが軍事的に支配しうる国であったにも拘らず、彼はアメリカに対し共同行動を許容したのであった。

 朝鮮はいわばつい何日か前、ポツダムで事実上ロシア人に譲り渡した国であったわけであるが、突然日本が崩壊したことにより、アメリカ軍は予期さえもしていなかったチャンスをつかんで朝鮮に侵入することができた。この短い期間中に二年間にわたる戦後朝鮮に関するアメリカの計画にいつもつきまとっていた曖昧さが一気に解消したようなものだ。軍事戦略がより確実な方法であり、共同管理や信託統治は信頼性に欠けるというわけで、軍隊が現場に急派されるということになった。この決定は8月中旬のあるどさくさの中で取られたいわば突発的な、ある意味においては軽率とさえ言ってよいものであるが、しかしすでに194310日月時点で、朝鮮半島の支配を太平洋の安全に関連付けて考えていたアメリカの計画からすれば、全く辻褄の合った論理的な帰結であった。全面的にソ連の手中にある朝鮮は、太平洋の安全に対する脅威と見なされていたのである。朝鮮に軍隊を派遣するという決定は、「単に」日本軍の降伏を受諾するための便宜上のものであったというのが、1945年以来、アメリカが一貫して口にしてきた公式的な弁明であるが、実際においてこのような弁明は、一体何が当時問題であったかという点をぼやかし、糊塗するものだと言えよう。東アジアにおける国際的な力関係の発展は、どの国が、どこで日本軍の降伏を受諾するかということと密接な繋がりを持っていたのであり、またこのことは「軍事的な勝利が現地の政治を左右する」という原則に基づくものであった。

 かくして朝鮮を舞台とする第一回戦は一国独占主義の勝利に終わった。もしも国務省が、以前はアメリカの関心外の 遠い周辺地域に過ぎなかった朝鮮半島を、戦後における太平洋の安全に不可欠なものと規定しなかったとすれば、国際協調主義者たちの意見が通ったのかもしれない。すでに見てきたように、いざというときになるといつも現実主義者となる軍部の参謀たちは、もしソ連が逆らえば朝鮮半島を占領しうるような兵力は、アメリカにはないということを熟知していた。ところが国務省は、ソ連軍の南下を食い止めるという政治的な目的のために、軍に対しできる限り半島の北方に兵を集めるよう要求した。要するに国務省は、ソ連を排除し、朝鮮の全土を独り占めにするという二つの目的を同時に達成したいと望みながら。19458月、実際に手に入れることができたのは、望んだものの半分にすぎなかった。


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