私は、「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)を読んで、随分前に読んだ「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(角川文庫)を読んだ時と同じことを感じました。
それは、特攻兵もひめゆり学徒隊の女生徒も、天皇崇拝の徹底した社会環境のなかで育ち、日本の戦争の現実的な動機や実態についてはほとんど知らされることなく、言われるままに、ただひたすら”皇国日本の聖戦”を信じていたということです。
その”聖戦”を、昭和天皇の「人間宣言」と呼ばれる「新日本建設に関する詔書」の言葉を借りて表現すれば、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”に基き、粉飾され美化された戦争であり、実際に戦われている戦争とは違ったものであったということです。
沖縄戦で地獄の苦しみを味わったひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子学徒隊)女生徒の手記は、そうしたことを感じさせます。
例えば、米軍が間近にせまって来た時の上原当美子の手記には、
”皇国の女性だ、死ぬのならいさぎよく死にたい。亡くなった学友に対して恥ずかしくないように…”
とあります。
また、福地キヨ子の手記には
”勝つまでがんばると思っても、いつ死ぬかわからない。どうせ御国にささげた命だ。先生や学友の敵(カタキ)をとってから死にたいと思うわ”
とあります。
久田祥子の手記には
”この十三名は月に向かって「海ゆかば」を歌った。明日は喜屋武の海で水漬く屍となるか、あるいは上里の草むらで草むす屍となるかもしれない。全霊を込めて歌った。人生わずか二十年。祖国日本のため大君の御楯として立つことのできる誇りがあった。私たちの気持ちは大きかった。死にも光明をいただいていた。”
とあります。”大君の 辺にこそ死しなめ”という「海ゆかば」を本気で歌っているのです。
また、山城信子の手記にある下記の文章も見逃せません。
”座波千代子は看護婦合格者であったので、看護婦と行動をともにしていた。宮崎久江婦長は三十余名の看護婦を集めてはかった。
「まことにみなさまにご苦労をかけました。いよいよ解散となりましたが、われわれはみんなそろってこの壕で玉砕すべきでしょうか、それとも解散したほうがいいでしょうか」
あまりに重大な最期の決断に、誰もがちゅうちょして答えなかった。しばらく沈黙がつづいた。
「兵隊といっしょに、ここで玉砕したほうがいいと思います」
一人が口をきった。
「そうです、私たちは解散するのはいやです。このまま壕にとどまりたいと思います」
誰一人として反対する者はいなかった”
軍人ではなく、人の命を救うことが仕事の看護婦の集団が、逃げきれないと判断して、そろって玉砕することを選んでいるのです。降伏すれば、誰一人死ぬことはないのに、玉砕を選んだのは、”天皇ヲ以テ現御神”とした皇国日本の架空の観念によるのだと思います。
歴史の事実を無視した皇室神話によって構築された皇国日本の人命軽視は、本当に恐ろしく、私は明治維新によって、日本という国が野蛮なカルト集団に乗っ取られた結果のような、そんな気がしています。
さらに、垣花秀子の手記には
”米軍は野獣だ。婦女子をはずかしめる。陸軍病院の壕の中で、兵隊からたえず聞かされていた”
とか、
”「デテコイ! デテコイ!」
と米兵の異様な声音と口調。
「大和撫子が捕虜に? とんでもない。死のう」
私たちはとっさに死を決心した。いつの間にか十二名が車座になり、三個の手榴弾が適当に配られた。ひと思いに死ぬ。これが最期の願いであった。”
とか
” 神国日本に生まれ、捕虜になる! こんなことがあってたまるものか。死に倍する恥辱だ”
とかあるのです。
米軍の戦争行為の不当性に対する怒りや、米軍と戦わなければならない理由などはどこにも書かれていませんが、女生徒にとっては、日本の戦争は”聖戦”だったのだと思います。それは、皇室神話に基づく軍国教育が徹底していた結果ではないかと思います。
しかしながら、実際に米兵と接触すると、
” そのときであった。私の近くで、とうちゃん、とうちゃん、といって子どもの泣き声がした。見ると、やっとヨチヨチ歩きのできるぐらいの男の子である。両足を開いて銃口をかまえているもう一人の米兵の片方のズボンのはしにつかまって泣いていた。
私はハッとした。邪険に米兵にけ飛ばされる男の子の無惨な姿を思って目をつむった。ところが意外に、米兵は銃口はそのままにして、温顔をほころばせながら、ドント クライ ベビー、ドント クライ ベビーと、男の子をふり返り、ふり返り、まるで鼻歌を歌っているように、リズミカルにやさしくささやくのである。
・・・
これが鬼畜米兵か……。私の先入観は、頭の中でぐらついた。が、すぐまた否定した。偽善だ。勝者が敗者に対する優越感からくるみせびらかしであると──”
と、教え込まれた”鬼畜米英”を疑うことになるのです。
比嘉園子の手記にも
”そこからまたジャングルにはいり、草原を通ってあるについた。そこには、すでに捕らわれた人々がいっぱいあふれていた。その中を、米兵があちこちとかけまわって、せわをやいているようであった。子どもが泣けば菓子をやってなだめ、水といえばニ、三人の兵隊がいちどにコップを持って来る。このふしぎな光景に、全くとまどった”
とあります。多くの女生徒が、実際に米兵と接触して、教えられていた”鬼畜米英”に、疑問を感じるようになったのだと思います。
また逆に、”聖戦”と信じて来た日本の戦争の現実に触れた思いも綴られており、金城素子の手記には、
”生きるか、死ぬかという瀬戸際にあっても、男性というものは野獣みたいに欲望をまる出しにしてくるので、とてもこわかった。しかし、わたしたちは、引率の先生がいちいち監視して下さり、また軍医がとても厳しい方だったので、その点では安心であった。戦場での女性の一人歩きは、その意味でもこわいものであった”
とあります。
また、座波千代子の手記には
” 南風原陸軍病院壕にいたときから、満州の戦いに疲れて転進し、人間性をすっかり失い、獣欲にうえた兵隊のみにくい姿をいやというほど見せつけられた。看護のつらさや、砲弾よりもくされきった兵隊のほうがもっとこわかった。
あるとき、壕の中で近くにいる兵隊の軍刀をこっそりぬいて見た。鋭いきっさきに肝をひやすものとおそるおそるぬいた私は、驚きあきれた。刀はまっかにさびついているのである。刀も兵隊もくされきっている。これが皇軍か。これで戦争に勝てるものかとつくづく思った”
とあります。
否応なく沖縄戦に巻込まれ、現実の戦争を知って、”聖戦”にも”鬼畜米英”にも、疑問を感じるようになっていったのだと思います。
下記は、前頁の「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)の「第一話 心充(ミ)たれてわが恋かなし」の続きです。
どこを読んでも、穴沢少尉が誠実で優しく、優秀な若者であったことがわかります。
でも、そんな彼が命を捧げた日本の戦争は、皇室神話に基づき美化され粉飾された戦争であって、実際の戦争は、欲深い日本軍や政府の一部指導者が”天皇=現御神”を利用して画策した”野蛮で醜い侵略戦争”であったと思います。
だから、「今日われ生きてあり」(新潮文庫)の著者の、下記の記述はきわめて重要だと、私は思います。
”いま、四十年という歴史の歳月を濾(コ)して太平洋戦争を振り返ってみれば、そこには美があり醜があり、勇があり怯(キョウ)があった。祖国の急を救うため死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ、戦況不利とみるや戦線を放棄し遁走した四航軍の首脳や、六航軍の将軍や参謀たち(冨永恭次・陸軍中将や稲田正純・陸軍中将)が、戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿と……。”
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<智恵子へ
12月に入つてから思ひもかけず大阪の地から手紙を差しあげるといふ、ただそれだけに非常な喜びを感じつつ、二人の間にどこまで偶然がつきまとふだらうかとも考へながらしたためてゐます。
さうした自分が思ひがけぬ時、しかも何時(イツ)までとも測り知られぬ時に恵まれて、ゆつくり筆を執ることが出来ました。
所詮、いつとはわからぬまでも、おそらく近い中(ウチ)に還らざる任務に就く自分には、話したいことのみ多く、筋を立てて話すことは出来ないまでも、やはりあなたと直(ヂ)かに二人きりでお話する意外に手はないやうです。
こちらからお訊ねすることの出来ないのを非常に残念に思ひます。
昭和19年12月7日 >
<智恵子へ
柏原の駅に(あなたを)送つた翌日、轟々(グワウグワウ)たる爆音を生駒、二上、金剛の懐かしき峰々に沁み込ませつつ由緒深き河内を後にしました。途中、雲と悪気流に悩まされはしたものの士気旺盛にて到着。白雪におほはれたる鈴鹿の山々を渡り、谷に荒び吹き寄せる寒気激しき空つ風の中を連日猛訓練に精進中。御安心のほど。
幸ひ、亀山の町に戦友と二人で下宿をもとめ、一日の疲労を家族的雰囲気の中に慰して畳の上での地方気分を楽しんでゐます。
襟巻は現在持つてゐるものの中で、唯一のあなたの身につけたもの。感ひとしほで四六時中愛用致しをり、戦友の冗談も馬耳東風(マフラーになりたい等と言ふ勿れ)。元気で。
昭和19年12月16日 >
<智恵子へ
取敢へずしたためます。
あなたの書面に接し感謝の心でいつぱいでした。
読みながら、読んだ後、唯々あなたと小生の誠心を、かたい絆を以てしても頑迷な(両親の)心を動かし得なかつたことを改めて知り、悲痛に近い無念さを感ずるばかりです・・・
小生は一つ一つと世代を形成してゆく無限の時の流れを思ひます。小生は心の慰安所をひたすらに無限のもの、悠久なもの、広く大きなものに求めます。
すべての些事を忘れ去り、没我の境にあつて縦横に愛機を駆り得る大空の広さを喜びます。
「大空は魂の故郷」といつかあなたは言ひました。
愛機は操縦者の魂を宿します。飛行機は確かに生き物です。小生は愛機と共に「大空を飛び廻つてみろ」と世の人に叫びたい気持ちです。あらゆる私心と欲情をきれいさつぱりわすれさせたいものです。
筆は中心を外れましたけれど、小生は自己の考へを両親の考へ──広くは大人たちの考への中にまるめ込まうとは思ひません。
許されねば許されぬでもよい。自分の考へを押し通して、きれいに見事に散つてゆきたいばかりです。
小生は今までの生活を胎児時代としか考へません。これからを永久に生きる魂の躍り出す時代と信ずるのです。
「別個のはつきりした方針は見出されない」と先に言ひましたけれど、小生は策は弄しません。
あなたの来られるまで明瞭な解決を見付け出しておきます。
それまでは考へを整理しておきませう。電報さえ打つて頂ければ喜んでお待ちします
昭和20年2月(初旬) >
<智恵子へ
短時間ながら、あなたの家の雰囲気の中であなたと共にあつたといふことが、どんなに私の心を満たしてくれたことか。
ほんとに良い人びとを持たれて羨ましく思ひます。
昨日の晩、品川駅までの途(ミチ)すがら”ヨイショ、ヨイショ”と荷物の片方を持ちながら”ああ面白い”とも言ひながら雪を浴び、積つた雪を踏んでゐたあなたの姿が、遠い昔に読んだ童話の中にでも現れて来さうな気がしてなりません。
まつたく素晴らしい楽しい一時でした。
あなたと共にあることが、私にとつて最上の幸ひであることを改めてしみじみ感じてゐます。そして私自身の気持ちをみえないもので伝へてくれる神、それらを私は今しづかに信じてゐたいと思ひます。
ありつたけの感情に、乏しい理と知を交へて、あなたを愛しつづけて来た私が、どうしてこのままで……
わたしの気持にひきかへ、あたりは余りに静かすぎます。
安着の報のみに留める筈だつたのに、例によつてまとまりのつかぬ儘(ママ)かきました。
今朝お訪ねした大平少尉、小島伍長、共によろしくとのことでした。御元気で。
昭和20年2月26日 >
<智恵子へ
書くこともなしに筆をとつたが、つまりは手紙を書くことによつて幾分でもたまらない気持を和げたいと希(ネガ)つたからに他ならぬ。
昨夜来、いまだに降りつづける小雨も春の訪れを告げる。誰かが言つた「かうなると、あの素晴らしい青葉、若葉の頃までみて死にたくなつた。段々欲が深くなつて困る」と。
大事の前には未練がましいと捨てさるものではあるが、誰しも心底に抱いてゐる真のそして悲しい願ひであると思ふ。
いま丁度二十時。傍らの大平がよろしくとのこと。今晩は三人だけ。静かである。呉々(クレグレ)もお元気で。
わが生命につらなるいのちありと念(オモ)へばいよよまさりてかなしさ極む
粉とくだく身にはあれどもわが魂(タマ)は天翔(アマガ)けりつつみ国まもらむ >
岩尾光代の語る──
「二人の結婚話は、三月に入ってようやく両親の許可を得ました。
その報告に利夫が、東京港区の智恵子の家を訪ねたのは3月9日。利夫はその足で目黒の親戚へまわりました。その晩、東京大空襲です。二時間四十分のあいだ十万人近くの生命を奪ったB29ニ三四機が、東京の空を蹂躙し、智恵子は利夫の身を案じてまんじりともしませんでした。
夜明けとともに目黒へ歩いて向かった智恵子は、大鳥神社のあたりで、向こうから歩いてくる利夫にバッタリ出会い、二人はそのまま目黒から国電に乗りました。電車は、もうあふれるほどの混雑で、身体(カラダ)は斜めになったまま離れ離れ、あまりの息苦しさに、智恵子は大宮飛行場へ戻る利夫を車中にそのまま残し、池袋駅で降りてしまいました。これが二人の最後の別れになりました。この最後の訪問のときに智恵子は、ムシが知らせたのか利夫のタバコのすいさしを二つ、大切にとっておきました。
……だが、智恵子はそれを知るのは、まだ先のことです。
結婚式は3月15日、亀山で、と決まりましたが、3月16日、隊長夫人から速達が来ました。隊が都城へ移転したこと、都城で一ヶ月は暮らせるはずだから連絡するまで智恵子と亀山で待つように、という隊長の言葉を伝え、急ぎ亀山に来るように、との内容でした」
穴沢利夫の日記──
<昭和20年3月16日
北伊勢(亀山)を離る。
ますらをの首途(カドデ)送るか梅の花
<昭和20年3月16日
一昨16日より演習のため大分飛行場に出張せり。
本払暁より警報。機動部隊来襲せるなり。
午後、爆撃を受く。おほむね四十分にわたり反復附属施設爆撃され、一挙にして姿無し。
来襲機数十余機にして取るに足らざるものなるも、われに遊撃機一機としてなく、彼のほしいままに任せざるを得ざる状況にして無念やるかたなし。
せめて二機なりとあらば、不十分なるも妨害し得たるものを、返す返すも残念なり。投下爆弾は五十キロ、二百五十キロの両種と想像せらる。
十六時頃、グラマン五、六機来り、掃射を加ふ。大型機数機、被爆炎上せり>
<昭和20年3月19日
警報。B29、艦載機、中国、近畿地区を襲ふ。
二機来る(山本《英》、滝村)。
梅が香に小径たどれば海開く >
<昭和20年3月22日
朝来、春雨にけぶり、四囲の山々ことごとく薄雪におほはる。昼近く隊長殿以下三機来る。午後、演習準備せるも雨のため中止。夕刻にいたりバス利用、防府(ボウフ)市にいたり駅前、石田屋旅館に投ず。一行、隊長殿以下五名なり。(吉田《市》、山本、滝村、小官《穴沢》)。窓をひらけば小山真近に迫り、春雨に濡れる。
街の屋並は恰も温泉町を思はせる風情ひとしほなり。茶を啜りつつ之を眺むる吾人は近く出撃の神機を捉へ華と散る身なりやと怪しむばかりなり>
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