外交文書の公開を受け、朝日新聞はこのところ”「若泉文書」をたどる”と題して、沖縄返還にかかわる日米「密約」の問題を続けて掲載しています。その[3]では、沖縄返還後の、緊急時に沖縄に核兵器を持ち込む密約のみならず、「糸と縄」と呼ばれた日本の「繊維輸出規制に関わる密約」もあったことが明らかにされています。
下記の文章は、「対米従属の構造」古関彰一(みずず書房)から抜萃しましたが、同書には、「指揮権密約」、「安保改正での核密約」そして、今回朝日新聞が取り上げている、「沖縄返還と核密約」が取り上げられています。日本という国のあり方にかかわる重要な問題が、民主的な話し合いではなく、「密約」で決定されているということがわかります。
アメリカという国が、大戦後、手を結んだ朝鮮の「李承晩」、インドネシアの「スハルト」、フィリピンの「マルコス」、ベトナムの「ゴ ・ディン・ジエム」は、いずれも「独裁者」とされている人物です。
そうしたアジア諸国の独裁者と手を結んだアメリカは、日本では、戦時、東条内閣で商工大臣を務めた岸信介と手を結んでいます。
だから私は、アメリカという国が、以前のような、直接権力を行使する植民地支配ではなく、相手国の権力者と手を結び、相手国の合意を取り付けて支配するという、新しいかたちの「植民地支配」をするようになったのだと思います。
「密約」は、そのことを示しているのだと思います。アメリカが他国の独裁者と手を結び、民主的な組織やその代表者と手を結んでこなかったのは、民主的な相手では、「密約」を交わすことが難しく、思うように影響力を行使できないからだと思います。
アメリカは、自国の政治や外交や諸政策が、民主主義に基づくものであることを装うために、直接権力を行使せず、相手国の独裁者と手を結び、搾取や収奪で得られた富を独裁者と共有するという、新しいかたちの「植民地支配」をしているのだと思うのです。
そうしたことを踏まえてウクライナ戦争をみれば、Tucker Carlson Tonight の報道(https://twitter.com/i/status/1613110091104022531)が伝えている、
”ゼレンスキー大統領が野党の活動を禁止し、反対派を追放し、「統一情報政策」と称してメディアを掌握し、主要な政敵を逮捕させて、その資産を押収させ、事実上一党独裁国家にしている”
、というようなことも頷けるのです。
何より、事前にアメリカと通じていなければ、ゼレンスキー大統領が、大国ロシアを相手に戦争を始めることなどできるわけはなかったと思います。また、バイデン大統領がロシアの「ウクライナ侵攻」をくりかえし予言していたのに、それを止めるために動かなかったことも、ゼレンスキー大統領が、事前にアメリカの意図する、ヨーロッパに対するロシアの影響力拡大を阻止するための戦争に合意していたからなのではないかと思います。
日本では、先日、岸田首相が2023年~27年度の5年間の防衛費について、総額43兆円とするように浜田防衛相と鈴木財務相に指示したという報道がありましたが、私は、敵基地攻撃能力の保有のみならず、防衛費の大幅な増額を、何の話し合いもせず、首相が防衛相や財務相に指示したという手続きにも驚きました。民主主義の国家では考えられない独裁的な決定だと思います。
その決定が、アメリカ、バイデン政権からの何らかの要請に基づくものか、あるいは、岸田首相のバイデン政権に対する忖度かはわかりませんが、中国の影響力拡大を阻止し、自国の覇権と利益を維持しようとする、アメリカの戦略に基づくものであることは間違いないだろう、と私は思います。
下記の、「指揮権密約」は、現在も有効であり、日本有事の際は、自衛隊は、米軍司令官の指揮に従うことになるのだと思います。だから、万が一戦争が始まれば、日本が戦線の拡大を避けたいと思っても、自衛隊はそれを決定することはできないということだと思います。
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第一章 指揮権密約
第一節 二度にわたる指揮権密約
1950年6月にはじまる朝鮮戦争は、朝鮮半島はもとより、隣国日本にも重大な政治的変更をもたらすことになった。時は連合国の占領下にあり、しかも出来たばかりの憲法は「戦争の放棄」と「軍備不保持」を掲げていた。
もちろん、米国政府は朝鮮戦争が始まる前の1948年初めから、すでに「民主化から再軍備へ」と対日占領政策の転換を始めていた。しかし、米国政府が日本政府に正式に「密約」を迫ったのは、他の連合国との関係もあり、日本が独立し、講和条約が発効した直後のことであった。この密約にいたる以前にも、占領期から「軍隊(自衛隊)創設に先立ち米国の指揮権掌握は必須」という構想があったが、本章ではこの点は第三節に譲って、まず「密約」の内容について紹介したい。
クラーク米極東司令官から吉田首相へ
自衛隊は、講和条約発効後に、警察予備隊から保安隊を経て1954年に設立された。その2年前に保安隊が生まれるが、その直後から、米陸軍は日本の再軍備を前提に日本の「新しい軍隊」が設置された際には、その指揮権を米軍が持つ必要があると考えていた。必ずしもよく知られた事実ではないが、米国政府は、軍隊を創設する以上、軍隊の規模以上に「その軍隊を誰が指揮するか」ということこそ譲ることのできない軍の性格の基本にかかわる問題である、と考えていた。
日本再軍備にあたって軍隊指揮権を米軍が掌握するというこの問題は、米軍が日本再軍備を提起するにあたって、ただ日本再軍備のためのみならず、アジアの安全保障政策の一環としてその、必要性が米陸軍内部を中心に構想されたと見られる。
こうした背景を前提に、指揮権密約の内容そのものをまず紹介することにしたい。
米極東軍司令官クラーク(Mark W.Clark Commander in Chief of USForce)は、1952年7月26日、米統合参謀本部(Joint Chief of Staff:JCS)につぎのような電文メッセージを送っている。
私は7月23日夕刻、吉田(茂)氏(首相)、岡崎(勝男)氏(外相)、マーフィー(Robert D.Murphy)駐日大使とともに、自邸で夕食をともにしたあと会談した。私はわが国政府が有事の際の軍隊(military force)の投入にあたり、指揮関係(command relationship)に関して、日本政府との間に明確な了解が存在することが不可欠であると考えている理由を(吉田、岡崎両氏に)ある程度詳細に示した。
吉田氏は即座に有事の際に単一の司令官(a single comr)は不可欠であり、現状のもとでは、その司令官は合衆国によって任命されるべきである、ということに同意した。氏は続けて、この同意は日本国民に与える政治的衝撃を考えると、当分の間、秘密にされるべきである、と表明し、マーフィーと私はこの意見に同意した。(Message No.C-52588,283.21JAPAN(3-13-45)Sec.30. 古関彰一「日米会談で甦る30年前の密約㊤」「朝日ジャーナル」1981年5月22日、23頁。前記の「司令官」commanderの英文がcomrとあるが、電文のための縮小である)
アリソン米駐日大使から吉田首相へ
さらにその2年後の1954年、自衛隊設立の直前にも密約が行われている。ジョン・アリソン駐日大使(Ambassador to Japan,John M.Allison)が、合衆国下院外交委員会(U.S.House of Representatives Committee on Foreign Afairs)の聴聞会で行った証言が同委員会の議事録に記録されている。
それによると、アリソンは米極東軍司令官のジョン・ハル(Gen.John Hull,Commander of U.S.Forces in the Far East)を伴って2月8日、吉田首相と会見したという。そこでの内容をアリソンはつぎのように証言している。
われわれがかかえている問題のひとつは、米軍との共同計画にたいして、(日本政府から)無責任な口約束は数多くなされてきたが、いままでなんらの実際の計画はなされておらず、いま始まったところである、ということです。
一週間前の先週の月曜日の夜、ジョン・ハルと私が吉田首相に離日のあいさつをした時、(吉田)氏がこの問題をとりあげ、共同計画担当官は アメリカ人の担当官とともに作業を開始することになろう、とわれわれに確証をあたえました。そこでわれわれは、日本軍ならびに在日米軍の使用を含む有事の際には、これに先立ってなんらかの計画をもち、なしうることをあらかじめ知っていることになりましょう。
またこれは、日本国内の政治状況により、いかなる方法においても公表できないことでありますが、吉田首相はハル将軍と私にたいし、在日米軍使用を含む有事の際に、最高司令官はアメリカ軍人がなるであろうということはまったく問題ない、との個人的な保証を与えました。しかしながら政治的理由により、これが日本において公然たる声明となった場合、現時点ではうまくないことは明白であります。ハル将軍はこの点に関し吉田首相から与えられた保証にきわめて満足し、将軍はなんら公然たる声明もしくは文書を要求しない、と述べました。
(U.S.HOUSE OF Representatives,Committee on Foreign Affairs,Selected Executive Session H
earing of the Committee,1951-56 Vol.XVⅡ、US policy in the the Far East,Part1,1980,p,79
,古関彰一「日米会談で甦る30年前の密約㊦」『朝日ジャーナル』1981年5月29日、88頁以下)
一回目のクラークの場合も、ニ回目のアリソンの場合もどちらも吉田からの回答は内容的にはほぼ同一であったが、それはまた米国側が日本側に要求した内容も同一であったと見ることができよう。内容は有事の際に(in emergency)日本の軍隊はアメリカの単一の司令官の指揮下に入るということと、それを内密にするという二点であった。
こうした重要な、まさに一国の「大事」にかかわる要求を、吉田首相はなぜじつに簡単容易に受け入れたのであろうか。一つには、後述するごとく米陸軍は「単一の指揮権」は不可欠と考えており、しかも日本政府に正式に日米安保条約の米側条約案のなかですでに日本政府に手交していたからであり、さらにまた、そもそも日米安保条約も日本再軍備も、単に「日米の問題」とは米国側は考えておらず、吉田にとって引くに引かれぬ問題だと認識していたからではないだろうか。
そう推測できるのは、このアリソン証言からは、指揮権問題は有事の際の日米の共同計画が同時に進んでおり、それに吉田が「確証を与えて」いることである。つまり、日米の有事計画の一環として出されてきているということである。
あるいはまた、同じ内容の密約をなぜ米側は二度も日本側にもとめたのであろうか。保安隊から自衛隊への組織変更があったためであろうか。それとも、吉田が日本の軍隊を有事の際に「アメリカ人の司令官」とすることについて何の条件も付けずに、即座に認めたことが、二人あるいは三人だけの密約というかたちの合意であったために念を押さないと不安だったのであろうか。たしかにその必要もあったであろうが、米側にとってそれにも増して密約を必要とする主要三点ほどの明確な理由が存在していた。
そこで、こうした一見唐突な密約がつくられたように見える背景を、米国政治の視点から解明してみたい。
第二節 占領政策の転換
米国の「国家安全保障」
占領政策の転換は、驚くほど急速に進んだ。日本国内では戦争の放棄を定め、限定的でない人権条項を定めた日本国憲法が公布され、その後施行されたのは1947年5月のことであったが、アメリカ本国政府では、その2ヶ月後の7月に冷戦に備えた「国家安全保障法(NSA)」がつくられた。
この法律は、ヨーロッパから始まったソ連の共産主義体制を封じ込めるため、軍事組織の「総合化と統合化」を目指してつくられた。したがって、この法律のもとで、陸海空三軍の省を統括する国防総省(ペンタゴン)が、また閣議とは別に軍事組織の中核を担う国務(外交)・国防を中心に大統領が主宰する最高政策決定機関である国家安全保障会議(NSC)が、そしてさらに外国の情報・諜報を中心に扱う中央情報局(CIA)が新たに創設されたのであった。
対日「限定的再軍備計画」
一方、日本との関係では1948年2月にはロイヤル陸軍長官が「日本を反共の防壁にする」と宣言し、5月には陸軍部内部で起案し、統合参謀本部(JCS)で決定された「限定的再軍備計画」(JCS1380/48)が完成にいたり、それを受けて米国政府は国家安全保障会議によって「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)を決定したのである。
先の「限定的再軍備計画」は、日本の経済復興とともに日本軍が米国の統制下で防衛を分担する組織と位置づけて、こう結論づけている。「日本の限定的軍隊は米国によって組織され、主として訓練され、厳重に監視されるできであり、国内の安全を維持し、外部の侵略に対する局地的防衛行動に従事し、国威の再興に貢献する目的のために存在すべきである」。米国から見て日本再軍備は、その最初の計画から米国に従属するよう運命づけられていたことになる。
その際、米国は、日本の限定的軍隊を日本国憲法との関係でどのように見ていたのであろうか。同計画は以下のように述べている。「法形式上は憲法は防衛的軍隊を禁止するものではないということが論議されよう。しかしながら、憲法の前文ならびに今日まで発せられてきた占領諸命令は、憲法の意図が無条件に戦争を放棄し、軍隊を禁止し、平和を愛する諸民族の信義に日本の安全を託することにあることを明らかにしている」
これに対し、この計画案のため東京に派遣された米陸軍の高官から、この計画案に対する見解を質された連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、米陸軍による日本軍の再軍備計画に反対して、こう述べている。「日本人はもはや軍隊を支持しないであろう。彼らは、真剣かつ無条件に政治の手段として戦争を拒否している」。といってもマッカーサーは決して平和主義者であったわあけではない。マッカーサーは「沖縄基地があるではないか」とこう続けている。沖縄を要塞化すれば「日本本土に軍隊を維持することなく、外部の侵略に対し日本の安全を確保することができる」、と(Limited Military Armament for Jjapan, JCS1380/48,May18,1948. 古関彰一「米国における占領下日本再軍備計画」『法律時報』1976年9月号、69頁以下)
こうしてマッカーサーは、「本土に平和憲法を! 沖縄に基地を」もたらしたのであった。したがって、マッカーサーのこうした見解もあり、JCSの日本再軍備計画はJCSの政策に国務省(外交)の見解を加え、国家安全保障会議の「対日政策」として、民主化よりも経済復興に力点を置くことになり、再軍備には否定的で「警察力の強化」を提言していた。(NSC/13/2)のであった。
いずれにしても「ポツダム宣言」を中心とした連合国による「非軍事化と民主化」の政策から生まれた日本国憲法の公布からわずか2年にして、米国の対日政策は「再軍備と経済復興」の方向へと急展開したのであった。
第三節 米国にとっての日本軍
安保条約草案における指揮権
1950年10月末、朝鮮戦争たけなわの頃、米陸軍省は日本占領下で日米安保条約草案を作成している。それは「日米相互安全保障協定の条文に含まれるべき諸点案(Draft of Points To Be Included in the Formlation of Terms of the United States-Japanese Birateral Agreement on Security)」と題し、その「第14項 日本軍(Japanese Armed Forces)の中には、以下のような規定がある。
この規定が有効な間は、日本政府は陸海空軍を設置しない。これらの軍隊の兵力、軍事形態、構成、軍備、その他の組織上の特質に関し、合衆国政府の助言と合意がともなった場合、さらには、日本政府との協議のもとに合衆国政府の決定に全面的に従属する軍隊の創設計画(any schedule for their cration being in all respscts subject to the determation of United States Goverment) の場合は、その限りではない。
敵対行為、もしくは差し迫った脅威をともなう敵対行為に対して、すべての日本軍は、海上保安庁も含めて、合衆国政府によって任命された最高司令官の統一指揮下(under the unified command of a Supreme Commander)に入る。(The Special Assistant for Occupied Areas in the Office on the Secretary of the Army(Magruder) to the Assistant Secretary of the States Far Eastern Affairs(Rusk),FRUS,1950,VL.Ⅵ VI,P.1341)
この政策は、米国陸軍にとって、この段階での日本再軍備に対する基本政策を示していたといえよう。ただし、この協定案は、マグルーダー国防省占領地域担当特別補佐官の起案で、国防省の承認を得たものではなく、結果的には、安保条約にも行政協定にも含まれていないが、先述したその後の密約に生かされたのである。改めて確認しておきたいのは、創設されるべき軍隊は米軍の従属軍隊であり、米国の指揮下の軍隊である、ということである。
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