朝日新聞「取材考記」に、ベルリン支局長、寺西和男氏の下記のような文章が掲載されていました。
私は、その内容にとても問題があると思いました。
寺西氏は、単にSNSで個人的感想を発信しているのではなく、現地に行って取材し、多数の読者を持つ朝日新聞の「取材考記」の記事を書いたのですから、客観的事実に基づいた情報を読者に届ける責任があると思います。朝日新聞の読者は、購読料を支払って記事を読んでいるのです。
私は、「情報戦を仕掛けるロシアの黒い影だ」などと、ロシアを敵視し、悪者とするような記事を書くのでのであれば、ただ聞いたことを書くだけでなく、その根拠を示す責任があると思うのです。
スロバキアに、ウクライナ戦争に関する相反する主張があったのであれば、それぞれの主張の根拠を問い、その根拠について検証したり、考察したりする作業が必要だと思います。その作業なしに、片方を偽情報に基づく主張であると断定するような記事を「取材考記」に書いてはいけないと思います。
ウクライナのいわゆる「ユーロマイダン革命」はなぜ起きたのか、また、その実態はどういうものであったのか、さらに、ウクライナの西部地域と南東部地域の間でどんな戦いがあったのかを無視して、ロシアの情報を「偽情報」と断定し、「情報戦を仕掛けるロシアの黒い影」などというのはいかがなものかと思うのです。
それは、アメリカを中心とした西側諸国の主張なので、あまり抵抗がないのかも知れませんが、朝日新聞を含む日本のメディアは、大本営発表を鵜呑みにし、偽情報を流し続け、先の大戦で多大の犠牲者を出すに至った過去を忘れてはならないと思います。
私は、西側諸国の人々は、都合よく演出された世界を、あたかも客観的世界であるかのように認識して、ウクライナを支援することに同意しているように思います。でも、ウクライナ戦争に関わる「偽情報」の多くは、ロシアではなく、アメリカを中心とした西側諸国の情報だと思っています。
だから、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也(明石書店)から、「52 ユーロマイダン革命とクリミア ──内部から見たクリミア併合の真相─」を全文抜萃しました。ウクライナ軍によってもたらされた東部ドンバス地域の悲惨な実態には触れていませんが、なかに、下記のような文章があるからです。
”2014年の初めから、クリミアの活動家・市民は、ローテーションを組んで数百人単位でキエフに行き、ヤヌコビッチ大統領を応援するし示威行動を展開していた。2月18日には本格的な武力衝突が始まり、クリミア出身の3人の警官が犠牲となった。2月20日、身の危険を感じたクリミアの活動家たちはバス8台に分乗してクリミアに帰ろうとしたが、キエフからクリミアへ向かう途上に位置するチェルカースィ州のコルスンで、銃で武装したユーロマイダン勢力にバスを止められ、数時間にわたって拷問を受けた。犠牲者の数は不明だが、死者が出たこと自体は当時のウクライナ警察も認めた。被害者によれば、ユーロマンマイダン派はクリミア人にバスの窓ガラスの破片を食べさせた。暴行の映像は、こんにち(2018年)でもユーチューブ上でいくらでも見ることができる。元々は加害者側が撮影してアップロードしたのだから、やはりまともな神経ではない。”
こうした文章を踏まえて、寺西氏の下記の「取材考記」を読むと、根拠薄弱であることがわかると思います。スロバキアの第1党になったスメルの人たちの軍事支援に反対する主張には、それなりの根拠があり、ウクライナ戦争の実態をとらえているのであって、偽情報に踊らされているという寺西氏の指摘は、安易に過ぎると思います。
9月初旬、スメルの集会に足を運んだ。支持者に話を聞くと、ウクライナ支援に否定的な声が多かった。精肉店主のルボール・ユエチャクさん(49)は「米国がウクライナを使ってロシアに戦争を仕掛けているからだ」と、その理由を話した。
スロバキアのシンクタンクの調査では、今回の戦争で第一に責任があるのはロシアだとする人は40%。一方西側諸国だとする人は34%、ウクライナは17%で、後者二つ合わせるとロシアと答えた割合より多い。スロバキアは熱心なウクライナ支援国であり、信じがたい調査結果だと思っていたが、その通りの傾向を現地で実感した。
調査した研究員のカタリーナ・クリンゴバ氏(37)は旧共産圏時代のロシアとスロバキアの歴史的なつながりに加え、ロシア側による情報操作の影響があると分析する。数年まえからスロバキアのSNSに「ウクライナにネオナチがいる」などの偽情報が目立つようになったとし、背後にロシア当局の関与があると見る。
選挙でも、一部政党が支持拡大のために偽情報を利用した。スメルのプラハ副党首はウクライナへの軍事的支援に反対する理由を説明する際、「ウクライナ東部のロシア系住民が、ウクライナのネオナチに殺されたから戦争が始まったのだ」と、プーチン政権とまったく同じ主張した。
ポピュリズム的な「選挙戦術」であるスメルの反ウクライナ姿勢が、ロシアの情報戦の一端を担ったことは間違いないと専門家を見る。
スロバキア外務省は選挙後、ロシア対外情報局が選挙中に流した情報に虚偽があり、民主的な選挙を阻害しかねないとして、ロシアの介入に強く抗議した。今回改めて感じたのは、ロシアとの戦いはウクライナだけで起きているのではないということだ。ウクライナを支援する各国の選挙が、今後、狙われる可能性もある。
欧州各地で、ウクライナ支援の長期化に不満の声が出ている。「反ウクライナ」の動きに火がつかれないか心配だ。ロシアの情勢戦への対応は、待ったなしの状況だと感じる。”
下記は、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也(明石書店)から「52 ユーロマイダン革命とクリミア」の全文抜萃です。
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52 ユーロマイダン革命とクリミア
──内部から見たクリミア併合の真相──
第51章では、クリミアがドネツク州から派遣された指導者=「マケドニア人」によって、言わば植民地化された事情について見た。クリミア土着のリーダーたちは、マケドニア人がクリミアの人々を心中では馬鹿にしていることに苛立っていた。しかし、マケドニア人が現に有能であり、2010年の大統領選挙の結果成立したヴィクトル・ヤヌコビッチ政権から多額の予算を引き出すことに長けていた為、その指導に服従していた。ところが、キエフでユーロマイダン革命が過激化するとアナトーリー・モギリョフ首相をはじめとするマケドニア人とウラジミール・コンスタンチノフ最高会議議長をはじめとするクリミア土着のリーダーたちとの対立が前面に出て来た。マケドニア人は、たとえユーロマイダン革命政権が成立しても妥協が可能だと考えた。クリミア土着のリーダーは、キエフでの暴力沙汰が続くなら、ロシアに帰属換えすることもあり得ると考えるようになった。
コンスタンチノフは、2013年12月ごろからロシアのクレムリン指導者と盛んに接触するようになった。モギリョフ首相はクレムリンに協力することを拒否したため、2014年2月10日ごろには、クリミア土着リーダーたちはモギリョフをやめさせるしかないと決意した。しかし、ヤヌコビッチ政権がまだ存続している間は、モギリョフ解任、ロシアへの編入を目指す運動を本格化させるわけにはいかなかった。
2014年の初めから、クリミアの活動家・市民は、ローテーションを組んで数百人単位でキエフに行き、ヤヌコビッチ大統領を応援する示威行動を展開していた。2月18日には本格的な武力衝突が始まり、クリミア出身の3人の警官が犠牲となった。2月20日、身の危険を感じたクリミアの活動家たちはバス8台に分乗してクリミアに帰ろうとしたが、キエフからクリミアへ向かう途上に位置するチェルカースィ州のコルスンで、銃で武装したユーロマイダン勢力にバスを止められ、数時間にわたって拷問を受けた。犠牲者の数は不明だが、死者が出たこと自体は当時のウクライナ警察も認めた。被害者によれば、ユーロマンマイダン派はクリミア人にバスの窓ガラスの破片を食べさせた。暴行の映像は、こんにち(2018年)でもユーチューブ上でいくらでも見ることができる。元々は加害者側が撮影してアップロードしたのだから、やはりまともな神経ではない。
3人の警官の死とコルスンでの集団暴行で、クリミア住民はウクライナにとどまる気をほぼ失ってしまった。2月21日深夜にヤヌコビッチ大統領がキエフから逃亡すると、ウラジミール・プーチンロシア大統領はクリミアを併合する決心をした。そのためには、住民投票を実施する政権をクリミアにうちたてなければならない。コンスタンチノフ議長は、クリミア最高会議を2月26日に召集した。コンスタンチノフらがその場でモギリョフ首相を解任して親露的な政権を立てるつもりであることは明白だったので、クリミア・タタールの政治団体メジリスが活動家を多数動員し、議会建物前で衝突となった。ここでまたスラブ系住民に死者が出たため、クリミアはパニック状態になった。26日の最高会議が流会となったが、翌日、ロシアの特殊部隊が警護する中で最高会議は成立し、それまでロシア人政党のリーダーだったセルゲイ・アクショーノフがクリミア首相となった。モギリョフだけでなく、マケドニア人のほとんどが短期間に解任されてクリミアを去った。
このように親露政権が成立しても、住民投票の目的は「ウクライナ内におけるクリミアのオートノミーを強める」ためと説明され続けたが、約1週間後の3月6日、最高会議は投票日を3月16日(つまり10日後)に繰り上げ、質問内容をロシア編入の是非を問うものに変えた。プーチンがクリミア併合を決意したのが、ヤヌコビッチの逃亡時なので、クリミアに親露政権が成立してから住民投票の内容を変えるのに1週間かかったことの方が奇妙であるが、ロシア指導部の気が変わらないという確証をクリミア指導部が得るのに時間がかかったのだろう。実際、住民投票をやった後にロシア指導部が怖気付いて併合を拒否したりしたら、クリミアは非承認国家になってしまう。これはクリミアの指導者たちが絶対に避けたいシナリオであった。
クリミア・タタールが住民投票に参加していれば、それなりの反対票も入っただろうが。メジリスはタタール系住民に投票ボイコットを命じたため、セヴァストーポリで95.6%。クリミア自治共和国で96.8%という高率でロシアへの編入が支持された。その2日後、3月18日にクレムリンで華々しく調印式が行われ、コンスタンチノフ、アクショーノフらがプーチンとともに編入条約に調印した。3月27日、国際連合総会は住民投票の効力を否定し、クリアは法的にはウクライナ領であり続けるとした。2017年11月、最高会議は改選され、国家会議という名の新しい共和国会議が成立した。
ロシア編入後のクリミアの最大の課題は、主要産業である観光の振興である。そもそもソ連の解体によって、クリミアの観光業は衰退した。ソ連時代は800万人以上の観光客が毎年訪れていたのに、ウクライナ時代の末期にはそれが約600万人に減少していた。ロシアの編入によってウクライナからの観光客も激減し、2014年の観光客は約250万人であった。主にロシア人しかクリミアで保養しなくなり、しかも陸路は事実上封鎖されていたので、飛行機で行くしかなかったという状況を考えれば、この数が2016年に560万人まで回復したのは驚くべきことである。しかし、この数のなかには本当にクリミアで遊びたいからでなく、クリミアを助けなければならないという義侠心から行く人がかなり含まれていると考えられるので、ブームがいつまで続くかはわからない。ロシア人にとっては、クリミアで保養するよりも、エジプトやトルコで保養する方が安いと言われる。鉄道や自動車を使って安価で便利にクリミアで行けるように、ロシア政府はケルチ海峡に橋を架ける巨大プロジェクトに乗り出し、道路部分は2018年5月に開通した。
第2の大きな問題は、先住民であるクリミア・タタールの処遇である。ウクライナ時代の民族団体であったメジリスの指導者は、ロシア編入後にクリミアから出てしまい、残ったタタール指導者は親露的な新団体を作った。ロシア政府は2016年にメジリスを過激団体として禁止した。これは国際司法裁判所によっても非難されている。ただ、ウクライナ時代のメジリスは非常に政治的な団体だったので、幹部が一般のクリミア・タタールの気分や願望を代表していたとは言えない。メッカ巡礼の枠がウクライナ時代の十倍近く拡大されるなど、ロシア政府はタタールを懐柔する政策を採っている。(松里公孝)
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