すでに「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)より、三島由紀夫の「檄」および「武士道と軍国主義」の一部を、また、「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)より三島の「決起呼びかけの演説」を抜粋したが、ここでは同じ「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)から、憲法について、三島と同じような思いを表現している、中曽根康弘の「憲法改正の歌」を抜粋する。
中曽根康弘は、三島事件当時、防衛庁長官という立場にあった。したがって、立場上、「直接行動は容認できない」と主張せざるを得なかったようであるが、「その思想の純粋性は理解できる」と自らの思いを告白している。三島も中曽根も、現在の日本国憲法を占領憲法として受け入れず、戦死したり、自決したり、また処刑されたりした「帝国軍人」(陛下の赤子)の意志を受け継ごうとしている点で共通であるように思われる。「憲法改正の歌」のような考え方が、現実の「憲法改正の動き」を陰で支える力だとすれば恐ろしいと思う。二度と戦争を繰り返してはならないと思うからである。
下段2は、元第五区隊長 村内村雄大尉が、陸軍省陸運部長中村肇少将とともに阿南陸軍大臣自刃の連絡を受けて大臣官邸に駆けつけたときの様子を書いたものの一部抜粋である。阿南陸軍大臣の自刃を批判的に受け止めることができなければ、日本国憲法を受け入れることも難しいのではないかと思われる。
1---------------------------------
Ⅱ 発展───1955~1974
12 中曽根防衛庁長官
・・・
政治家・中曽根康弘が、保守政治家のなかでもひときわ調子の高い改憲論者として聞こえていた。吉田茂によって形成された親米「保守本流」との間に一線を画し、保守合同後もとくに防衛・安保政策に関して改進党時代以来の主張を改めようとはしなかった。1956年に「憲法改正の歌」を作詞し発表しているが、当時にあってもそれはかなり時代がかった印象を人々に与えた。占領期間中、「国家の死」に服喪する意味をこめて黒いネクタイを外したことがなかったという青年政治家・中曽根康弘の心情吐露ともいえる。
一、嗚呼戦いに打ち破れ
敵の軍隊進駐す
平和民主の名の下に
占領憲法強制し
祖国の解体計りたり
時は終戦六ヶ月
二、占領軍は命令す
若しこの憲法用いずば
天皇の地位請け合わず
涙をのんで国民は
国の前途を憂いつつ
マック憲法迎えたり
五、この憲法のある限り
無条件降伏つづくなり
マック憲法守れるは
マ元帥の下僕なり
祖国の運命拓く者
興国の意気挙げなばや
心中にこのような思いを抱く中曽根にとって、保守本流の安保政策や自衛隊の位置づけはいかにも微温的なものとうつったにちがいない。彼は一時、日本独自核武装論を展開し、日米安保体制に批判的な立場をとって安保条約採決の衆議院本会議にも欠席、棄権したほど、この分野における政治姿勢をきわだたせていた。のちに書いた「私の政治生活」と題する英文版の文書で、この時期の言動をつぎのように説明している。
「私は占領下でも、日本がみずから統治し防衛でき、他国の安全と福祉に何らかの形で貢献できるようになって初めて日本の独立が達成できると信じ、独立に伴って直ちに憲法を改正すること、文民統制にもとづく独自の防衛組織を作ることを要求していた。今でもこれらの主張が全く理にかなったことだと思っている。しかし、アメリカ人は私を過激な国家主義にかぶれた危険人物とみなした」
このような再軍備積極論の持ち主を吉田茂の後継者たる佐藤栄作が防衛庁長官に登用したことじたい不可解に思えてくるが、佐藤にしてみれば、党人派閥・河野派を引き継ぎ非主流の立場を守る中曽根派を手元に引き寄せるには、中曽根の望む防衛庁長官の椅子を差し出すのが政権運営のうえから得策と計算したのであろう。それに、えてして人間得意の分野でつまづくものだ──「首相の度胸」をうんぬんする新長官就任の弁を聞いて、「人事の佐藤」は心中そうつぶやいていたのかもしれない。
・・・(以下略)
2-----------------------------
床の間には切腹のとき短刀をまいた和紙が置かれ、ベットリと血がにじんでいて、毛筆で、
「一死以て大罪を謝し奉る
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣 阿南惟幾 花押」
と書かれていた。
もう一枚の和紙には
「大君の深き恵に浴し身は言ひ遺すべき片言もなし
八月十四日夜陸軍大将 惟幾」
鮮烈な文字が読みとれた。
・・・
私達が弔問したのは、大臣絶命後二時間位たってのことであったろうか。
その日、この大臣の自決の報が伝わると、全陸軍の血が引いた。陛下のお言葉に従えよ、決して暴走してはならぬぞ、と。死はこの陸軍大臣一人でいいのだ、日本の国体の存続を歯をくいしばって守れよ、との大臣のご意志は陸軍軍人全員に直感的に理解された。そしてその為に大過なく終戦の幕は引かれた。尊く偉大なる大臣の自決だった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
中曽根康弘は、三島事件当時、防衛庁長官という立場にあった。したがって、立場上、「直接行動は容認できない」と主張せざるを得なかったようであるが、「その思想の純粋性は理解できる」と自らの思いを告白している。三島も中曽根も、現在の日本国憲法を占領憲法として受け入れず、戦死したり、自決したり、また処刑されたりした「帝国軍人」(陛下の赤子)の意志を受け継ごうとしている点で共通であるように思われる。「憲法改正の歌」のような考え方が、現実の「憲法改正の動き」を陰で支える力だとすれば恐ろしいと思う。二度と戦争を繰り返してはならないと思うからである。
下段2は、元第五区隊長 村内村雄大尉が、陸軍省陸運部長中村肇少将とともに阿南陸軍大臣自刃の連絡を受けて大臣官邸に駆けつけたときの様子を書いたものの一部抜粋である。阿南陸軍大臣の自刃を批判的に受け止めることができなければ、日本国憲法を受け入れることも難しいのではないかと思われる。
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Ⅱ 発展───1955~1974
12 中曽根防衛庁長官
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政治家・中曽根康弘が、保守政治家のなかでもひときわ調子の高い改憲論者として聞こえていた。吉田茂によって形成された親米「保守本流」との間に一線を画し、保守合同後もとくに防衛・安保政策に関して改進党時代以来の主張を改めようとはしなかった。1956年に「憲法改正の歌」を作詞し発表しているが、当時にあってもそれはかなり時代がかった印象を人々に与えた。占領期間中、「国家の死」に服喪する意味をこめて黒いネクタイを外したことがなかったという青年政治家・中曽根康弘の心情吐露ともいえる。
一、嗚呼戦いに打ち破れ
敵の軍隊進駐す
平和民主の名の下に
占領憲法強制し
祖国の解体計りたり
時は終戦六ヶ月
二、占領軍は命令す
若しこの憲法用いずば
天皇の地位請け合わず
涙をのんで国民は
国の前途を憂いつつ
マック憲法迎えたり
五、この憲法のある限り
無条件降伏つづくなり
マック憲法守れるは
マ元帥の下僕なり
祖国の運命拓く者
興国の意気挙げなばや
心中にこのような思いを抱く中曽根にとって、保守本流の安保政策や自衛隊の位置づけはいかにも微温的なものとうつったにちがいない。彼は一時、日本独自核武装論を展開し、日米安保体制に批判的な立場をとって安保条約採決の衆議院本会議にも欠席、棄権したほど、この分野における政治姿勢をきわだたせていた。のちに書いた「私の政治生活」と題する英文版の文書で、この時期の言動をつぎのように説明している。
「私は占領下でも、日本がみずから統治し防衛でき、他国の安全と福祉に何らかの形で貢献できるようになって初めて日本の独立が達成できると信じ、独立に伴って直ちに憲法を改正すること、文民統制にもとづく独自の防衛組織を作ることを要求していた。今でもこれらの主張が全く理にかなったことだと思っている。しかし、アメリカ人は私を過激な国家主義にかぶれた危険人物とみなした」
このような再軍備積極論の持ち主を吉田茂の後継者たる佐藤栄作が防衛庁長官に登用したことじたい不可解に思えてくるが、佐藤にしてみれば、党人派閥・河野派を引き継ぎ非主流の立場を守る中曽根派を手元に引き寄せるには、中曽根の望む防衛庁長官の椅子を差し出すのが政権運営のうえから得策と計算したのであろう。それに、えてして人間得意の分野でつまづくものだ──「首相の度胸」をうんぬんする新長官就任の弁を聞いて、「人事の佐藤」は心中そうつぶやいていたのかもしれない。
・・・(以下略)
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床の間には切腹のとき短刀をまいた和紙が置かれ、ベットリと血がにじんでいて、毛筆で、
「一死以て大罪を謝し奉る
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣 阿南惟幾 花押」
と書かれていた。
もう一枚の和紙には
「大君の深き恵に浴し身は言ひ遺すべき片言もなし
八月十四日夜陸軍大将 惟幾」
鮮烈な文字が読みとれた。
・・・
私達が弔問したのは、大臣絶命後二時間位たってのことであったろうか。
その日、この大臣の自決の報が伝わると、全陸軍の血が引いた。陛下のお言葉に従えよ、決して暴走してはならぬぞ、と。死はこの陸軍大臣一人でいいのだ、日本の国体の存続を歯をくいしばって守れよ、との大臣のご意志は陸軍軍人全員に直感的に理解された。そしてその為に大過なく終戦の幕は引かれた。尊く偉大なる大臣の自決だった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。