真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ディープステートとトランプ前大統領

2024年07月24日 | 国際・政治

 【米大統領選2024】討論会や銃撃事件によって、いままで囁かれていた「もしトラ」が「確トラ」に変わったと言われています。日本でも、その「確トラ」に対応すべく、準備が進められているようです。

 ふり返れば、アメリカの大統領で、トランプ前大統領ほど、大手メディアの非難や批判を浴びた大統領はいなかったと思います。重要問題でアメリカに追随する日本でも、トランプ前大統領に関してだけは、非難や批判が許され、民主主義の危機であるかのように、非難や批判がくり返し行われました。過去に例のないことであったと思います。

 

 アメリカの連邦最高裁判所は先日、ドナルド・トランプ前大統領ら歴代大統領について、刑事責任が部分的に免責されるとの判断を示しましたが、その判断に反対した判事の一人は、「法の上に立つ者はいないという、わが国の憲法と行政制度の根幹をなす原則を愚弄するものだ」との考えを示したといいます。法的には、それは正しいと思います。政敵の暗殺を命じたり、政治権力を保持するためにクーデターを組織しても、刑事訴追を免れるというようなことはあってはならないことです。

 だからこそ、この件に関するオーナ・ハサウェイ・イェール大学ロースクール国際法教授の下記の指摘は見逃せません。

「世界の他の国々にとって、米大統領は常に法の上にある」にあるように、「何十年もの間、アメリカの大統領は違法な戦争を行い、外国の指導者の暗殺を企て、人々を不法に拘束し、拷問し、民主的な政府を倒し、抑圧的な政権を支援してきた」のである。”

For the Rest of the World, the U.S. President Has Always Been Above the Law

Americans Will Now Know What a Lack of Accountability Means

By Oona A. Hathaway

July 16, 2024


 トランプ前大統領は、法を犯しているという大手メディアの非難・批判の報道をフェイクだと切り捨て、大手メディアと一体となった「ディープステート(DS」の解体を掲げています。

 だから、日本を含めて、西側諸国の大手メディアは、過去に例がないようなかたちで、彼を非難し、批判するのだと思います。

 ディープステート(DSは、「闇の政府」ともいわれますが、アメリカ合衆国政府の一部(特にCIAFBI)が、大手企業(特に軍事産業やエネルギー産業)・金融機関の上層部、軍部、大手メディア(CNNMSNBC、ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト)等と協力して極秘でネットワークを組織し、政府を動かしたり、時には密かに権力を行使する「もう一つの政府」だと言われています。

 日本の政府や主要メディアは、そうした「ディープステート」は存在せず、「陰謀論」だと切り捨てていますが、その切り捨て方が、私は逆に、その存在を裏づけているように思います。実態がはっきりしないから「ディープステート」は陰謀論だというのも、いかがなものかと思います。

 また、ドナルド・トランプは世界を支配する「ディープステート」と戦う救世主であるとしている極右Qアノンの言動と結び付けて、「ディープステイト」の存在を「陰謀論」だと切り捨てることが、私は気になるのです。「ディープステート」は存在せず、そういう「陰謀論」を信じてはいけない、と多くの人に信じ込ませる情報操作は、CIAお得意の技術だと思います。 

 

 アメリカは、第二次世界大戦後も戦争をくり返してきましたが、大統領が変わっても、政権が変わっても、「戦争屋」と揶揄されるような外交政策や対外政策が変わらないのは、やはり、ディープステートの存在があるからだろう、と私は思います。戦争や武力紛争によって利益を得ることができるような企業や組織が、ネットワークスを構成し、米国政府を戦争に駆り立てている側面は否定できないだろうと思うのです。

 トランプ前大統領は、自らの退任演説で「私は新たな戦争を始めなかった、ここ数十年で初の大統領となったことを特別に誇らしく思う」と述べたことはよく知られていますが、かつて上院民主党の院内総務であったチャック・シューマー氏が、CIA批判を繰り返したトランプ前大統領を「本当に間抜けだ」と罵り、「言っておくが、情報機関を敵に回すと徹底的な復讐にあうぞ」と述べたといいます。そうした発言は、ディープステートの存在を裏づけるものだろう、と私は思います。

 また、トランプ政治を阻止するために、裁判所・司法省・報道機関などが連携したから、トランプ前大統領はしばしば、その苛立ちを過激な言葉で表現したのではないかと思います。実態ははっきりしませんが、アメリカ政府内外の利害関係者のネットワークが、アメリカ政府の表向きの政治活動とは別に、アメリカ政府の政策に決定的な影響力を行使していることは否定できないと思います。誰がアメリカ大統領になっても、そうした利害関係者のネットワークが要求する政策を拒否することは難しいのだと思います。先日のトランプ前大統領銃撃事件は、単なる個人の犯罪であったかどうか、銃撃犯が射殺されていますので、真実はわかりませんが、疑わしいと私は思います。

 元NSA職員で内部告発者のエドワード・スノーデンも、ディープステートが存在し、一部職員が関わっていると主張していました。

 

 だから、トランプ前大統領の”政府の官僚機構が「ディープ・ステート」に牛耳られている”という主張は、大統領だった4年間、みずからの政策が、官僚の抵抗によって阻まれたことによるものであり、陰謀論で片付けることのできない問題だと思います。

 2020年の「大統領令(Schedule(区分)F”」を再び発令し、政府機関の職員を大幅に入れ替えると主張するのは、そういうことだと思います。

 

 下記は、「新・現在アフリカ入門 人々が変える大陸」勝俣誠(岩波新書)から「第三章 独立は誰のために」の 「1 早すぎたのか、遅すぎたのか」 の一部を抜萃しましたが、西側諸国の植民地支配は、アフリカ諸国の独立後、”「独立」を与えるが、富は渡さない”というような新植民地支配に変わっただけであったことがわかります。

 そして、下記のような記述が、オーナ・ハサウェイ・イェール大学ロースクール国際法教授の指摘が正しいことを示していると思います。

” この間、西側にとって危険人物と見做されたナショナリストのルンバは、61117日ベルギー当局と米国の了解のもとに2人の同志とともに殺害された。加えて、事態の収拾に当たろうとした国連の事務総長ダグ・ハマーショルドは、国連軍の介入によってカタンガ州の分離独立はかろうじて中止させたものの、61917日ルムンバ政権の支援要請には応えられないまま、乗っていた飛行機が墜落し、死亡している。

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                      第三章 独立は誰のために

                    1 早すぎたのか、遅すぎたのか

 

 キューバン・ミュージックで始まった「独立」

 一国の独立ということが、その国の統治がその時代の列強による植民地支配から国内出身者による統治へと移行することを意味するならば、今日、アフリカのすべての国々は、紛れもなく「独立」国ということになる。まがりなりにも、国家元首はアフリカ人によって占められているからである。

・ 他方で、「独立」が、旧宗主国との政治的・軍事的・経済的・文化的見直しを通じて、国際社会の中なか、何よりも国民の利益のために自らの国の方向を主体的に選び取れることを条件とするならば、今日のアフリカは、世界のどの地域に比べても、限りなくグレーゾーンに突入している国々が続出している地域と言えよう。

 アフリカ近代史については、アフリカ人の間で、「アフリカには富があったが、十字架はなかった。しかし、ヨーロッパ人が来てから、富はなくなり、十字架だけが残った」という巷間の評価がある。 

 木材、銅、金、ダイヤモンド、ニッケル、石油、天然ガス、そしてひたすら「北」の諸国の食卓へ供されるコーヒー、カカオ、茶……。アフリカには、今日も膨大な天然資源がある。にもかかわらず、なぜアフリカはかくも貧しいのか。アフリカの富はなぜ、アフリカ人のために利用されないのか。半世紀前、アフリカ人の人々の圧倒的熱気に支えられた、指導者たちの描いた「独立」の青写真は、今日のアメリカの現実ないし実像とどう乖離してしまったのいるのだろうか。「独立」とは果して何だったのか。

 アルジェリアに次いで、アフリカで二番目の国土を有する、赤道をはさんで広がるアフリカ中央部のコンゴ民主共和国(1971─96年は、ザイール共和国)を見てみよう。

 1000万人以下の国々が圧倒的に多いアフリカ諸国のなかにあって、7000万人近い人口を擁する同国は、その豊かな天然資源からして、本来大国の名にふさわしいはずの存在である。

 まずはアフリカ三大河川の一つ、コンゴ川流域の高温多雨のコンゴ盆地に位置しているため、主食のコメやトウモロコシやイモ類から、輸出もできるバナナ、コーヒー、パイナップルまで農業生産の潜在力は限りなく高い。そして鉱産物、とりわけ航空機などの先端技術に必要なチタン、コバルト、タルタル、ダイヤモンドは世界有数とされている。

 しかし、2009年の推計では、一人当たり国民総所得は100ドル弱で、この国はアフリカ諸国のなかでも最下位を占めている、世界の最貧国のである。

 今日のアフリカ大陸の富と貧困についての基本的な問いを考えるのに、コンゴ民主共和国ほど、その富の膨大さと貧困の広がりという矛盾の大きさからして、現代アフリカの半世紀にわたる「独立」の矛盾に満ちた軌跡を強烈に示している国はない。

 19591月、ベルギー国王は、1885年のベルリン会議以来、当初は王の私有地、次はベルギーの植民地として支配してきたコンゴに独立を与えると宣言した。それに向けて、翌年1月から3月にかけて、ベルギー政府とベルギー領コンゴの領内のアフリカ人諸政党との間で円卓会議が開催された。 

 当時のコンゴ人の独立に向けての喜びの歌は、リンガラという同国の西方地域で話される言葉で歌われ、今でも、60年代のアフリカ諸国の独立を象徴する歌として広く聞かれている。

 そのテンポはキューバンミュージックのチャチャで歌詞はざっとこんな内容だ。

 ・・・(略)

 ポリカンゴ、カサブブ、ルムンバ、チョンベは、いずれも当時の政党リーダーの名で、これ歌は円卓会議でともに一つの国づくりに集結したことへの賛歌であった。

 ジャン・ポリカンゴは赤道州出身で、独立前年、ベルギー植民地行政職で二人しかいないアフリカ人最上級職に就き、独立後は親ベルギー派として反ルムンバ議員として活動。

 ジョセフ・カサブブは、1950年、コンゴ川下流域のバコンゴ人の伝統を守ろうとする「文化団体」として、「バコンゴ同盟(ABAKO)」を結成した。同同盟はその後、この地域を基盤とする地域政党として、ベルギーの植民地支配を公然と非難するようになる。60年の議会選挙では、三位の得票数を得て、カサブブは「独立」時には大統領に任命される。

 パトリス・ルムンバは、ベルギー領コンゴからの「独立」の内実をもっと明解に理解し、しかもそれをただちに実現しようとした人物であった。50年代、反植民地運動に身を投じたルムンバは、独立プロセスにおいて、地域を基盤とする運動よりも全国レベルの運動を重視する「コンゴ民族運動(MNC)を結成する。円卓会議後の議会選挙では過半数に達しなかったものの、最大の得票数を得て、彼は首相に任命された。

 モイゼ・チョンベは、カタンガ州の裕福な家庭に生まれた。高校も大学も出ておらず、60年にベルギーのブリュッセルで開催された円卓会議に参加するまで国外に出たことすらなかった。カタンガ州ある大鉱山会社とベルギー当局によってもっとも重用された人物で、やがてルムンバの殺害に直接手を下すことになる。

 こうした新しい国のリーダーが出席する1960630日の独立式典において、ベルギー国王ボーデゥアンとカサブブ大統領およびルムンバ首相の三者が行ったそれぞれの演説のトーンは、この国のその後の有り様を極めて予言的に示していた。

 まず、国王が、今回の「独立」は、コンゴ自由国を創ったレオポルドⅡ世の偉業の到達点であると位置づけた。そしてベルギーの残した諸制度をそのまま活用して、性急な改革はしない方がアフリカ人にとって得策であると、まるで教師が教え子の卒業式にはなむけの言葉として与えるような説教じみた演説を行った。

 次のカサブブ大統領は、国王に向かって、この”与えられた独立”に感謝の意を表し、臨席していたベルギー人たちを安心させた。

 

 これだけは言いたかった

 一方で、ルムンバの演説は、先の二人の演説のトーンとはまったく異なるものであった。ルムンバは国王たち、旧植民地において支配する側にいた人々に向けてではなく、「コンゴの男性、女性諸君」とアフリカ人に向けた原稿を読み出した。

 彼は、コンゴの独立は、ベルギーによって寛大にもたらされた贈り物などではなく、何よりもコンゴ人が自ら多大な犠牲を払って勝ち取ったものであることを強調し、その屈辱的植民地時代を克明に描写した。

「我々が経験したのは、まともに食べることも衣服を身につけることも住むこともできないような低賃金と引き換えに要求された過酷な労働であった。……我々は、黒人であるというだけで、朝も昼も、軽蔑・罵倒・体罰を味わってきた」

 彼の演説は会場にいたコンゴ人たちによる拍手喝采で、8回にわたり中断された。この演説は同国の津々浦々までラジオで流され、聞いていた数千のコンゴ人は、ルンバこの発言を歓迎し、口々に語り伝えたと報じられている。

 ベルギー国王の方は、感謝を示される場となるはずであった独立式典が逆に植民地支配への告発の場となったことに対し不快感を隠さず、ルンバの登場に強い危機感を抱いた。また出席した多くのベルギー人や、米国を筆頭とする西側外交団は、この発言を自分たちへの脅威と受けとめ、やがて彼の抹殺計画が着々と準備されていく契機となった。

 実際、独立とは言っても、とりわけ旧ベルギー領コンゴの場合、形式としての主権はアフリカ人側に渡すが、旧宗主国と西側が開発投資した鉱物資源などのコンゴの富の配分に関しては、アフリカ人側の関与はほとんど認めないというものであった。したがって、ルンバに代表されるような、独立を実質的なものにしようとするアフリカ・ナショナリズムは、「文明をもたらしてやった」と自負する植民地行政側にとっても、キリスト教を伝導することでアフリカ人を救済するとする教会側にとっても、自分たちが開発した資源は自分たちのものであると考える欧米大企業側にとっても、到底受け入れがたものであった。

 

 「独立」を与えるが、富は渡さない

 同国最大の鉱物資源である銅の産出地カタンガ州は、この観点からしてベルギー側にとって決して手放すことができないものであった。そのため、地元CONTACT党の党首モイゼ・チョンベによる州独立宣言からわずか11日目の711日、特権を維持しようとベルギー軍が地元のアフリカ人勢力を利用して動き出し、一方的に同州の分離独立宣言を行ったのであった。

 つづく89日には、ダイアモンドの主要産地である南カサイ州で、MNCの州リーダーのカロンジが独立を宣言した。同州では、ベルギーのソシエテ・ジェネラル社の子会社であるコンゴ森林鉱山協会が絶大な利権を独占していたため、この国には、同協会略称ッフォルミエール(Formiere)をとって「フォルミエール共和国」というあだ名が付けられたくらいであった。

 他方、6074日には、独立後も留任したベルギー人将校のもとに置かれていたコンゴ人兵士らが昇格・昇給を求めて蜂起し、その一部が暴徒化したため、ベルギーは自国民保護を口実に、新国家に相談することなく、一方的に軍を投入した。

 それ結果、ルンバ政権は独立十数日にして早くも主権の侵害を受けることとなったのである。

 この旧ベルギー領コンゴは、独立直後のこの6月から以降、冷戦下に西側への奉仕者として絶大な支援を受ける軍人ジョセフ・デジレ・モブツがクーデターにより全権を掌握する1965年まで、国連を巻き込んで政情不安が続くことになる。この期間は日本人では「コンゴ動乱」と呼ばれる時期にあたる。

 この間、西側にとって危険人物と見做されたナショナリストのルンバは、61117日ベルギー当局と米国の了解のもとに2人の同志とともに殺害された。加えて、事態の収拾に当たろうとした国連の事務総長ダグ・ハマーショルドは、国連軍の介入によってカタンガ州の分離独立はかろうじて中止させたものの、61917日ルムンバ政権の支援要請には応えられないまま、乗っていた飛行機が墜落し、死亡している。

 コンゴの、コンゴ人による、コンゴ人のための独立は、早すぎたのか、遅すぎたのか……、コンゴ動乱のコンゴは、その答えを出せないまま、今日も現代史に名を残す未完の国づくりの典型例として残り続けている。


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