真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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国民の思いから離れる広島平和記念式典

2024年07月27日 | 国際・政治

 広島市は今年の平和記念式典で、入場規制エリアを昨年まで対象外だった原爆ドーム周辺を含む公園全体に広げる「安全対策」を発表しました。当日は、午前59時に入場規制し、6カ所のゲートで手荷物検査を行うといいます。

 併せて発表された、園内での禁止行為は、平和記念式典が、被爆国日本の国民の手を離れ、アメリカを中心とする西側諸国のための式典に変わりつつあることを示しているように思います。

 「式典の運営に支障を来す」としてマイクや拡声器のほか、プラカード横断幕の持ち込み、はちまきゼッケンの着用まで禁じ、従わなければ退去を命令することがあるというのです。

 松井一実市長は記者会見で、「参列する市民の安全を最優先に考えての措置」と強調したということですが、驚きました。市民の安全のために、どうしてプラカードや横断幕の持ち込み、はちまきやゼッケンの着用まで禁じる必要があるのか、と思ったのです。

 私は、”市民の安全”を口実に、被爆国日本の平和記念式典の在り方を変える意図を感じました。「原爆ドームや供養塔の周辺で毎年、慰霊に関する行事をしている団体もあると思うが」と問われた松井市長は、「今までのような集会はできなくなるかと思いますね」と淡々と応じたということですが、そうした発言にも、平和記念式典の在り方を変える意図が示されているよう思いました。

 

 さらに、今年の平和記念式典に広島市がパレスチナではなくイスラエルの代表を招待していることにも、そうした姿勢があらわれていると思いました。

 先日、国際司法裁判所(ICJは、”イスラエルによるパレスチナ自治区の占領および入植活動は国際法に違反であり、可能な限り早期に明け渡すべき”、との勧告的意見を出しました。法に基づけば、当然の勧告だと思います。

 また、国際刑事裁判所(ICCは、パレスチナ自治区ガザでのイスラエルの戦闘に関し、イスラエルのネタニヤフ首相ガラント国防相戦争犯罪などの容疑で逮捕状を請求しているのです。

 駐日パレスチナ代表部は、「被害者が招待されず、加害者が招待されている」として広島市の対応を非難したといいいます。

 被爆から79年となる原爆の日の平和記念式典に、ロシアとベラルーシの代表は招待せず、ガザ地区での戦争犯罪を続けるイスラエルの代表を招待するというのは、明らかに広島の平和記念式典が、アメリカを中心とする西側諸国の政治的意図に基づく式典に変わるということだと思います。

 極論すれば、原爆の日の平和記念式典で、アメリカが糾弾されたリ、非難されたリしないように、核兵器廃絶運動や反戦運動につながる考え方を抜き取り、消し去ろうとする意図があるように思うのです。そういう意味で、広島平和祈念式典は、「原爆投下終戦記念式典」にされつつあるとも言えるように思います。

 そのアメリカを中心とする西側諸国が、アフリカで何をやってきたのか、を知るために、今回は、ザイールの独裁者モブツ大統領の支援に関する部分を「新・現在アフリカ入門 人々が変える大陸」勝俣誠(岩波新書)の「第三章 独立は誰のために」から抜萃しました。ザイールの独裁者モブツ大統領支援は、なかったことにしてはいけないと思います。

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                     第三章 独立は誰のために

                    2 欧米を信じたモブツ大統領

 

 冷戦が独裁大統領を生んだ

 モブツ体制は、1997年に、ルムンバ派の流れをくむロラン・カビラがコンゴ民主解放勢力同盟(AFDL)を率いて東部から侵攻し、主要都市を制圧するまで続いた。

 30年以上にわたってモブツ体制下、フランスと米国は、旧宗主国であったベルギー以上に熱心にモブツ政権にテコ入れを行った。とくにフランスは、68年以来分離独立を唱えていた「カタンガの憲兵」と呼ばれた反政府組織が、77年アンゴラ領から外国企業は操業していたザイール南部のシャバ州(71年に改名されたが、97年に再びカタンガ州戻る)に侵攻して、鉱山都市コルベジを占拠するに至ってベルギー軍と共に軍事介入している。フランスによるザイールへの2回目の軍事介入は、91年夏、モブツ大統領が一度は約束した民主化が混迷をきわめ、生活苦から生じた首都キンシャサにおける都市暴動に際して、自国フランス人の避難を名目として実行された。

 

 西側諸国はそこまでモブツ体制を支えたのは、冷静下、この国の”スキャンダラスなまでの”豊富な鉱物資源を何としても東側に渡してはならないとされたからである。その背景には、アフリカ大陸における米国とフランスの確執を超えた西側同盟国としての了解があった。

 実際、モブツ大統領ほど、米ソの対立において西側陣営に貢献しようとした人物はいない。もともと、モブツ大佐(当時)は、60年代初頭のコンゴ動乱において、親ソ連政権の誕生を抑えるために米国の肝いりで登場した人物であった。彼は60年代に展開されたポルトガル領アンゴラの反植民地闘争においては、独立を成就した東側の解放組織に対抗して、当時、親米・親中国の解放組織に加担し、アパルトヘイト体制をしいていた南アフリカ白人政権とともに、西側陣営にとっての南部アフリカの。橋頭堡役を務めたのである。

 

 このように、コンゴの独立はコンゴ動乱を経て、親欧米モブツ体制のもとで、欧米によって”外から支えられた”独立であったと言えよう。

 しかし、冷戦が終わりを告げる90年代に入るや、アフリカ諸国に広がっていた折からの民主化の嵐の中で、四半世紀にも及んだモブツ体制の経済的・政治的ほころびが目立ち出す。それを機に、この国は、対外的には一応主権国家として位置づけられるものの、国内においては、領域内の国民に安全と福祉を提供する近代国家の役割を果たすことができなくなっていく。

 以下では、97年にモブツ体制が完全に崩壊する前夜の90年代のこの国家の実情を見ていこう。

 

 国家はこうして崩壊する

 半世紀以上国内で直接動乱を経験してこなかった我々には、国家が崩壊の危機に瀕するとは具体的にどんなことなのか想像しにくいが、政治と経済の破局が同時進行する国が多いアフリカではかなり容易にその兆しを目にすることができる。

 ザイールは、アフリカの中央部に位置し、広大な国土面積を擁し、九つの国境(コンゴ共和国、中央アフリカ、スーダン、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、ザンビア、アンゴラ)を有する。その地政学的位置づけに加えて、世界有数の主要鉱物資源の産出国でもあり、その意味ではいまだ古典的大国の条件を備えている。その「大国」が崩壊することによって周辺諸国に与える経済的、政治的、社会的影響の大きさは計り知れないものがある。

 まず挙げなければならないのが、国家財政の完全なる破綻であった。ザイール国家が重度の対外累積債務を抱え、返済不能に陥りながら何ら改善努力をしていないとして、早くも92年にはIMFとの関係はほとんど断絶され、世界銀行も94年初頭に、駐在事務所を閉鎖した。

 

 これら二つの国際金融機関から見放されるということは、欧米日からの新たな資金の流入は得られないことを意味した。国家の体制を少しでも立て直すには、紙幣を大量に印刷し、年一万%のハイパーインフレ(94年)を覚悟するか、住民や企業から税金を取り立てる選択しかなかった。しかし、徴税能力は衰退し、歳入は94年には国内総生産の2.3%という水準にまで下がっていた。ちなみに税圧力が弱いとされるサハラ以南のアフリカ諸国でさえ、この比率は平均して16%前後であった。

 

 第二の兆しは、この極端な財政難で、公共と名のつく住民へのサービス機能がほとんど停止してしまうことであった。公務員の給料の支払いはもとより、初等・中等教育は機能低下をおこし、保健・医療はたとえ医師が診断したとしても、薬品・資材不足で治療はできないというありさまであった。当時の『世界の軍事支出と社会支出 1996年』(ワールドプライオリティー社)によれば、ザイールは94年において一人当たりの公共支出はわずか1ドルで世界最下位を占め、保健サービスにアクセスできる人々は人口の四分の一程度に過ぎなかった。

 

 第三は、やはり絶望的な財政収入の不足により、軍と警察という治安機構が住民の財産を守るどころか、逆に財産や人権を侵害する、いわば「合法的」暴力犯罪組織となったことである。ザイールモブツ元帥・大統領はこの軍の統制にさえ給与未払いで失敗し、軍人はそのユニフォームを使って、村民や通行人から生活資金を調達するはめとなった。

 当然ながら、こうした軍の規律は乱れ、戦闘における士気は低い。96年末に生じたザイール東部での反乱軍との戦闘で、ザイール国家軍がいとも簡単に潰走してしまったのは、国軍とは名ばかりで、その内実は毎日、住民や通行人からの金品を強奪することばかりに熱心で、よく訓練された敵軍と戦った経験は皆無に近かったからである。モブツ大統領自身もこうした国軍を信用できず、同郷人でまとめた親衛隊をつくっていたほどである。

 こうして「ネーション」の軍隊を作ることに失敗した同政権は、政権末期には反乱軍の侵攻に対し、蓄財を崩して、外人傭兵を投入すること以外、軍事的窮地を打開することはできなくなっていた。

 

 第四の兆しは、国内交通網が未発達であり、そのうえ補修がないためズタズタにされ、領土の実質的分権化が進行していたことである。

 ザイールの公用語はフランス語であるが、西部ではリンガラ語が広範に話され、東部ではタンザニア、ウガンダ、ケニアル、ワンダ、ブルジンなどでも通用するスワヒリ語が存在している。他方、交通の面では、首都キンシャサから北部の農業地帯を通ってザイール第二の都市キサンガニまでのザイール川(現コンゴ川)の航路と、南部の鉱物資源を南アフリカ方面に搬出する鉄道路という二つの主要網しか存在しないと言っても過言ではなかった。

 独立以来、「南」の国々の指導者が夢見た、単一かつ同質空間を目ざす「ネーション」ないし「国民」の形成は、何よりもまず、モノとヒトが国内において不自由な形でしか移動できないことによって著しく妨げられていたのである。

 

 それでもザイールは残る

 西側諸国は「内政不干渉」という都合のよい外交用語で、国内における正当性の根拠は不問に付した。軍事援助から政府開発援助資金による民生援助まで、ひたすらモブツ政権を支援し続け、内乱に対しては軍まで送って政権維持に努めた。

 実際、ザイールのみならず、旧フランス植民地を中心とするアフリカにおいて、ヨーロッパの権益には正面切って手をつけない政権は、たとえ民衆の支持をどんなに失っていたとしても、こうしたフランスの軍事的・経済的支援によって維持されてきたのである。

 モブツ政権が存続の危機に直面する緊急時の支持の手段を軍事介入とするならば、平常時において国内の徴税能力が極めて低いこの政権に栄養剤を与えてきたのが、国際金融機関や商業銀行からの資金借り入れ、外国援助実施にまつわる「手数料」ないしヤミ資金の流れである。実際、この国では製鉄工場から巨大な橋や水力発電所まで、外国援助よって建設され、施設が未利用のまま放棄され、後には借金のみが残った例をいくつも見ることができた。

 モブツ体制による公的資金の不正流出の暴露情報は、欧米のジャーナリストによってたびたび報じられていた。元ザイール亡命政府高官や外交官を経てザイールの中央銀行に出向したIMFのスタッフまで、告発材料には事欠かなかった。モブツ大統領自身、国内の集会で、私的蓄財について「諸君もうまくやれ、しかしやり過ぎは良くない」と、公務員の汚職を容認するともとれる発言をしたエピソードがある。

 このようなモブツ体制の汚職、特に大統領個人の権力欲や資質を批判することは容易い。しかし、根本的に問われなければならなかったのは、むしろそういったモブツ体制の存続を支えたのはいったい何であったのかということではないか。探るべきは、政治指導者個人の行為に対する道徳的判断を越えて、その行為を見ないふりをしたり、可能にしてきた国際的仕組みの方ではないか。金を渡す側なくして、受け取る側は存在しないことも事実である。

 その意味で、冷戦後、西側にとって、もや地政学的な価値も、資源確保のための利用価値もなくなり、見放されたセセ・セコ・モブツの存在こそ、西側が管理・運営する国際的仕組みの論理に最も翻弄された「南」の地域の被害者としても位置づけられないだろうか。

 そして今日もこの仕組みの下では、「南」の政治指導者が国内で「北」社会では到底許されないことを犯しても、政権が「北」にとって有用である限り、黙認するか、それに抗議する声の弾圧に協力さえするが、いざそれを有用性がなくなれば、いとも簡単に交渉先を変え、それ以前の「北」の共犯ないし協力関係は問われることはない。問われるのは生き残った「南」の不運なリーダーたちばかりなのである。

 

 

 

 

 

 

 


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