下記の「弘道館記述義」は、水戸藩主・徳川斉昭の命を受けて藤田東湖が起草した「弘道館記」に対する藤田東湖自身による解説で、水戸学の代表的著作として、各藩藩校などで教科書として使用されたといいます。
だから、明治維新はもちろん、先の大戦における敗戦に至るまで、日本人に大きな影響を与え続けた著作であるといえます。
藤田東湖の水戸学の思想に共鳴した幕末の志士は、倒幕によって明治維新を成し遂げると、古事記や日本書紀などの建国神話を基に、日本を天皇親政の皇国(スメラミクニ)にしました。その皇国は、日本の敗戦まで続きました。だから、日本の戦争にも深くかかわる思想であったのです。
それは敗戦後、徳富蘇峰が『頑蘇夢物語』に”此頃ハ藤田東湖も松陰モ 説ク人モナク聴ク人モナシ”と、戦後の日本を嘆く歌を載せていたことや、二・二六事件蹶起将校の一人、磯部浅一が裁判の陳述の中で、”兵馬大権干犯者を討取ることに依つて藤田東湖の「苟明大義正人心 皇道奚患不興起」(大義を明にし、人心を正さば、皇道なんぞ興起せざるを憂えん)が実現するものと考えます”などと主張したことによっても分かります。
その藤田東湖の代表的著作が「弘道館記述義」ですが、明治日本は、彼の思想によってつくられたといっても過言ではないようなことが書かれています。
外国との行き来がほとんどなく、学問的な交流もなかった当時の状況を考えれば、藤田東湖の思想や、また彼の思想が多くの人に受け入れられていった現実に、それなりの必然性があるのでしょうが、彼の記述は、『古事記』や『日本書紀』の「神代の物語」、すなわち「神話」に基づいており、日本は「神州」であり、他国より優れた国であるという考え方で貫かれています。日本の文化や伝統を、他国のそれと比較して、客観的に見るという社会科学的な視点は、ほとんどありません。
だから、彼のような国粋主義的な思想が、長州藩を中心とする過激な倒幕派下級武士の考え方と結びついていったことは、日本にとってとても不幸なことであったと思います。
”長州藩は毎年正月に、徳川家打倒の計画を一族で語り合うほどに、徳川家を恨みぬいていた”などといわれていますが、藤田東湖などの水戸学の尊王思想は、長州藩を中心とする過激な下級武士の考え方と結びついて、強硬な倒幕の思想となっていったのではないかと思います。
大政奉還を上奏した徳川慶喜は、孝明天皇による「将軍宣下」によって、日本の統治大権を行使する征夷大将軍職にありました。したがって、大政奉還後は、諸侯会議によって新しい政権が生み出されるべきであったと思います。だから、倒幕派による王政復古のクーデタは、大政奉還後の公式の政治日程を無視し、武力で御所を固めて天皇親政を宣言したもので、諸侯会議の存在や孝明天皇が望んだ公武合体の政策を暴力的に潰すものであったと思います。
そして、いわゆる「佐幕派」の勢力を徹底的に壊滅させる「戊辰戦争」までやって、倒幕派がつくった明治の日本は、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”(官報號外 昭和21年1月1日 詔書 [人間宣言]) 国であり、薩長出身者が要職を固め、その後、戦争をくり返すことになる「皇国日本」でした。
藤田東湖は、”父子・君臣・夫婦は人道の最大のもの”で、”斯の道(神道)以外に別な道はなく”というようなことをくり返し書いていますが、それは、軍人勅語や教育勅語に発展していった考え方だと思います。
また、”仏といい、僧といい、いずれも未開の蛮人のものであって、わが神州にもともと存在するものではない”と書いていますが、この考え方が、明治維新後の「廃仏毀釈」の運動につながっていったと思います。
また、”尊いわが国の神々は、もとよりかの西方漢土の牛首にして蛇身(伏羲・神農のこと)というような奇妙な存在ではない。そして皇統の始まりと、神器の伝わる由来とは、およそ日本に生まれたものとして、その起源を詳悉しなければならぬことである”とか、”天照大神が高天原を統御したまうや、その光明は天地四方に照りとおり、その御盛徳・御大業は至らぬくまもなかった”とかいう日本中心の考え方も、その後の日本にいろいろな影響を与える考え方あったと思います。
下記は、「藤田東湖」(日本の名著29)橋川文三責任編集(中央公論社)から一部抜粋しました。
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「弘道館記述義」 巻の上
臣 藤田彪 謹述
弘道トハ何ゾ。人能ク道ヲ弘ムルナリ。道トハア何ゾ。天地ノ大経ニシテ、生民ノ須臾(シュユ)モ離ルベカラザルモノナリ。(弘道とはどういう意味か。人間が道を広めることである。道とは何か。天地の大原理で、人間が一刻も離れることができないものである)
謹んで解し奉るに、古代の日本は社会は質朴、人間は素直で、まだ文字というものがなく、いわゆる道などということもまだはっきり口にするものはなかった。それなら道はもともと、上古にその源をもたなかったのであろうか。否、どうしてそのようなことがあろう。当時はただ、そのような名がなかっただけである。その事実にいたっては、すべて神々にはじまらないということがないのである。どうしてそのようにいえるのか。そもそも父子・君臣・夫婦は人道の最大のものであり、上代においても父子・君臣・夫婦の分は厳として定まっていること、あたかも天は尊(タカ)く、地は卑(ヒク)い
のと同じである。上位者が命令して下位者がこれに従い、男が唱えて女がこれに相和したことは、あたかも天が万物生成の気を地に及ぼして地が万物を生育し、万物おのおのその性を展開するのと同じである。神代のことは茫漠としているが、古典の記されたところははっきりしており、疑問の余地はない。さきに「その事実にいたっては、神々に始まる」としたのは当然ではなかろうか。
思うに道というのは、大路のようなものである。人々はその大路に従って歩み、終始この道以外の道を歩むことはないとするなら、この道を特別に道として意識することもない。この道はただ一つであって、分れ道が存在しないとするならば、どうしてこの道に名まえをつけたりしようか。天地はじまって以来斯の道(神道)以外に別な道はなく、君臣も上下も喜び満ち足りてこの道に従い、これを行い、異端邪説が混じり込むことはたえてなかったとすれば、斯の道に名まえがなかったのも当然ではなかろうか。
百済から博士が渡来して、はじめて儒教というものが知られるにいたった。この儒教の教えは、もっとも五典を重んずるものである。この五典のいわゆる親・義・別・序・信の道はみなわが国に固有のものであり、ただ、儒教の文明化した理論によって、これをおしひろめ、これをわが国の父子、君臣に適用し、わが国の夫婦・長幼・朋友に応用しただけであって、斯の道の純一性はなんら変わらないのである。しかし仏教が西方から渡来してからは事情が異なる。その教えは何よりも三宝を尊ぶものである。しかし仏といい、僧といい、いずれも未開の蛮人のものであって、わが神州にもともと存在するものではない。ここにおいて斯の道にも名まえをつけて、それと区別しなければならなかった。筋からいっても成行きからいっても、必然のことである。そこであるいは神道〔『日本書紀』の「用明記」に神道という用語がはじめてあらわれる〕と称し、あるいは古道〔「皇極記」〕と称し、あるいは上古聖王の迹〔「孝徳紀」〕と称したが、いずれも異邦(インド)の教えから区別するためである。
後世の誇大を論ずるものは、その事実に証拠をさぐろうとしないで、いたずらにその名まえから事実をさぐろうとする。名まえが存在しないと、すぐに古代にはまだ道がなかったなどという。道が純一性を保てばこそ、その名がないということを知らないだけである。『詩経』に「天蒸民(ジョウミン)を生ず、物あれば則(ノリ)あり」(天は人類を作り出したが、その作られた人間の間にはおのずから法則がある)という言葉がある。すなわち、天地があれば、そこに天地の道があり、人間があればそこに人間の道があるということである。神々は人類発生の根本であり、天地は万物の始原である。してみれば、人類の道は天地にもとづいており、また神々にもとづいていることは明らかである。わが斉昭公は早くから古典に深く親しまれ、斯の道の根本に関して直観的に御理解をもたれていた。だから一語でその本質を断じて「天地ノ大経ニシテ、生民ノ須臾(シュユ)モ離ルベカラザルモノ」と述べたもうたのである。実にゆきとどいた御洞察である。
弘道ノ館ハ何ガ為ニ設ケタルヤ。恭(ウヤウヤ)シク惟(オモン)ミルニ、上古神聖、極ヲ立テ統ヲ垂レタ
マイ、(弘道館は何のために設けられたのであろうか。うやうやしく思うに、古代の神々が悠久の道を立てたもうて、後世の天皇にこれを伝えたまい)
謹んで解し奉るに、天つ神・国つ神の記紀にあらわれ、祀典(シテン)に記載されたものは数えきれな
い。それを斉昭公は「神聖」の二字によって包括したもうたが、思うにこれには理由がある。いまそれを私見によって論じてみよう。天地のはじめのとき、神々の生じたもうた前後・順序を詳らかにすることはいまでもむずかしい。舎人親王が『日本書紀』を撰述したもうたときは、国常立尊(クニノトコタチノミコト)をもって最初になりいでたもうた神とし、以後あいついで神々があらわれ伊弉諾尊・伊弉諾尊にいたるまでを神代七代(カミノヨナナヨ)と称している。さらにその下に諸説が掲げてあるが、それには異同もあれば、詳細・簡略の差異もある。それ以前に太安万侶が『古事記』を撰し、その神世七世は『日本書紀』の本文と大同小異であるが、ただとくに別天神(コトアマツカミ)と名づける神々があって、これは天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)をもって最初にあらわれた神とし、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)・神皇産霊神(カミムスビノカミ)などの四柱の神々がこれにつづき、これを神世七世の前にあげている。そのため後世の古代を論ずるものは、あるいは『書記』により、あるいは『古事記』に従い、あるいは両者を折衷して天御中主神と国常立尊とは同体異名の神であるとしたりする。神外の先後・同異の論でさえなおこのように不定であるが、その功徳・事業の点になると諸説紛々、牽強付会の解釈はとどまるところを知らない。
いったい上代のことは悠遠の過去のことであるからもともと一説に固執して論ずることはできない。『日本書紀』は神代を取り扱う際、かならずみな諸説をあげて、異同の存在を示しているが、親王の時代、すでに詳細はわかりにくかったのである。親王は厳密慎重を期され、あえて軽軽しい決定を下されなかったが、後世の人は千数百年後に生まれながらあれこれ穿鑿し、想像で断定して信ずべき事実を確定しようとしている。大それた話である。
・・・
うやうやしく思うに、尊いわが国の神々は、もとよりかの西方漢土の牛首にして蛇身(伏羲・神農のこと)というような奇妙な存在ではない。そして皇統の始まりと、神器の伝わる由来とは、およそ日本に生まれたものとして、その起源を詳悉しなければならぬことである。しかし現代の考えで古代を推し測り、みだりに微妙な事柄を誇大に主張したりすれば、荒唐無稽におちいらないですむことはめったにない。ゆえに光圀公の歴史記述は神武天皇に始まり、神代の大要は巻首に掲げてもって皇統の根源を明らかにしている。思うに例の牽強付会におちいることを正そうとされたのである。〔世間に流布している『大日本史』の「紀伝」はかなり脱誤があるから、わが藩の版本をもって正本とすべきである。「紀伝」は神武天皇に始まるが、神祇・氏族・職官・兵・刑の類でおよそ太古に起源をもつものは、ことごとくこれを「志」の記述に収録しているから、神代の事柄もおのずからその中にあらわれている。よく完備したものといえる〕
・・・
天地位(クライ)シ、万物育ス(天地はその所を得て定まり、万物はその生を遂げる)
謹んで解し奉るに、神々の盛徳・大業の古典に記されたものはたいてい不可思議で測り知れず、もとより常識では論じがたい。しかし思うに、天地始まって以来伝えてきた説であるから、けっして疑ってはならず、またこじつけによって真実を混乱させるべきでもない。
中世以降、あつく古代を信ずる心がうすれ、みだりに私知でもって神代を推し測り、古典に記載するところはすべてが現実にあったことではない、と考えるようになった。そこで比喩としてこれを解釈し、陰陽五行の術にこじつけるか、でなければ荒唐無稽な虚無(老荘思想)・寂滅(仏教思想)の説などにこじつけるようになった。そしてややもすると秘訣と称してその愚劣な考えを掩(オオ)い隠し、ついには神々の支配の御事蹟を言葉の謎ときのようなものと同じにしてしまった。まことに嘆かわしい次第である。
近世になって国学者というものがあらわれ、よく上述したような誤りを改め、事柄を比較考証し、諸資料を総合研究してた多年の間違いをときほぐした。その古典研究の功績は大いなるものがある。しかしまた弊害もあって、太古のことを論ずるにあたり、あたかも自分がその時代におり、現実にそのことを目撃しているかのように、譬えを引いたり、類推したり、とめどもなく弁論分析を述べたて、例の古典を疑うものたちを説服しようとするものがある。やはりこれは私知をもって神代を推し測るものである。曲がったものを直そうとして、まっすぐにしすぎたといえなくもないであろう〔はじめて国学を唱え出した人は、なおいくらかは疑問は疑問としておくという態度があった。それでもすでにそこにでたらめの端緒は始まっていたのであるが、その亜流にいたっては老荘の影響をうけたりして、素朴ということだけを強調して文化ということを無視するものであり、はなはだしいのはこっそり西洋の学問を取り入れて神代のことを論じたりする。その気ままさはすでに相当なものである。慎まなければならぬ〕
斎部広成(インベノヒロナリ)はかつて述べて「上古のことを説くのは盤古の伝説に似ている夏の虫が氷の
存在を信じないと同じように、疑う心はなかなかに信じがたいものである。しかし国家の神器や霊跡はみないまも現存しているのだから、虚偽ということはできない」といった。また北畠親房は「伊弉諾尊・伊弉冉尊が大八洲と山海・草木を生みたもうてからそれらにみな神名がついた。しかし神がまず天より降って物を生みたもうたものか、または物がまず発生してから神がそれに依りたもうたものか、神代のことはもともと測りがたいのである」と述べた。実に味わい深いものである。
むかし、子思は『中庸』を作り、その極致を論じたところで「天地位し、万物育ス」と述べた。斉昭公はこの言葉を援用してもって神々の御功業の事跡を讃美したもうたのである。その古代を信じたまう心はもとより広成以上であり、その御見識もまた親房以下ではない。読む人がうっかり見過ごし、ただ神々の功業を形容する修辞だと思うならばそれはただしくない。あるいはまた穿鑿・想像を事として、天地はいかにしてわかれたかとか、万物はいかにして生育したかなどと考えるなら、それはさらに公の真意から遠ざかるものであろう。
其ノ六合(リクゴウ)ニ照臨シ、愚内ヲ統御シタマウ所以ノモノ、未ダ嘗(カツ)テ斯ノ道ニ由ラズンバアラザルナリ。(天地に君臨し、世界を統治したまう所以は、すべて斯の道によらぬということはないのである)
謹んで解し奉るに、天照大神が高天原を統御したまうや、その光明は天地四方に照りとおり、その御盛徳・御大業は至らぬくまもなかった。いまそのすべてを讃えようとしても、その測り知れないことがわかるだけである。したがってここではあえてひそかに古典にもとづきその片鱗だけを論ずることにしたい。思うに、祖先を祭る道と親に孝敬をつくす義とは天照大神に始まっている〔『書記』『古事記』いずれにも天照大神が新嘗を行ないたまうこと、神衣(カンミソ)を作りたまうことを記している。ただ古史は簡単すぎて何という神を祭り、何んという神に供えたもうたか知ることはできない。そのため後世のものはいろいろこじつけの説をとなえているが、すべて信用するに足りない〕
その証拠はなにかといえば、天孫がこの国に降臨したまうとき、天照大神はお手に宝鏡をささげてこれに授けたまい、祝福していわれたのは「わが子よ、この鏡を見るときは私を見るようになさい。同じ御殿におき、同じ寝所においてお祭りしなさい」というお言葉であった。まことに目のさめるようなみごとなお教えであり、事実代代の天皇のまもりたもうたところであるばかりか、祖先の祭り孝敬の道はここにつくされているのである。いったい父母があってのち子孫があるのだから、子孫は父祖に対して生きている間はこれに仕え、亡くなってからはこれを祭るのはもとより自然の道であり、子々孫々と生まれついでたとえ千万年になろうとも、そのもとが始祖に始まるということは少しもかわらないのだから、遠い祖先を偲び、その始祖に報ずるということもまた、千万年へようとも怠ってはならないことである。
海外の国々のうち、文明のもっとも進んでいるのは西土(中国)にまさるものはない。その西土の教えもまた一つに孝を根本としていること、その天子から庶民にいたるまで同じである。ただし天子はいわゆる「天を敬し」「上帝に事(ツカ)える」ということがある。日本の祭祀の道は遠く神代に始まっているが、しかし天といい、上帝というものは古代にはなかった。思うにこれには理由がある。〔中世以降、もっぱら異国の制度を模倣したので、ついに上帝を祀る儀式が生じたが、これは古代の心を失ったもののように思われる。その他、下文にいうように、「此を捨て、彼に従う」という例は枚挙にいとまがないが、深く慨(ナゲ)くべきことである〕
恐れ多いことながら天照大神は天においては太陽と同体にましまし、地においては霊を宝鏡に留めたまうている。してみれば輝かしい太陽、壮麗な伊勢神宮は、実に天照大神の精霊のましますところである。歴代の天皇がこれを尊び、これを祭りたまうことで天を敬し、祖先に仕えるという意味はかねそなわっている。中国の天子が天と上帝を果てしもない青空の中にもとめるのとはもとより比較にならない。神の御子孫がよくその明らかな徳をうけつがれ、臣下たる公卿士庶のものがみなその広大な御恩に感じ、孝と敬の道をひたすらつくして天照大神の御威霊をおしひろめるならば、ひとり日本の人民がかぎりない徳化に浴するばかりでなく、遠く海をへだてた外国の国々もまた、わが国の徳を慕い、その恵みを仰ごうとしないものはなくなるであろう。実にすばらしいことではないか。
宝祚之ヲ以テ窮リナク、(皇位はこの道によって無窮であり)
謹んで解し奉るに、天照大神がその御大業を子孫に伝えたまい、天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が国の基礎をきずきやもうたのはみな神代のことである。その在位年数や御年齢はいまは明らかにし得ない。しかしその年月はおそらく長久であったと思われる。〔神武天皇は百三十七歳、その祖父火遠理尊(ホオリノミコト=彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)は五百八十歳であった。思うに、古い時代ほど寿命は長かったのであろう。しかしその詳しいことはいまは考定し得ない〕。正史の紀年にしたがえば神武天皇の辛酉(シンユウ)の年を元年としている。その年からいまにいたるまで、さらに二千五百有余年であるが、神代を通算するとおよそ幾千万年になるかわからない。その悠久な御歴代の間には栄えたことも衰えたこともあったが、天皇の御尊厳には万世かわることなく、あたかも太陽が天にかかるのと同じであった。地方の身分低き一臣下としてあえて論ずべきことではない。しかしながら幸いにも神国に生まれ、世々その恵みに浴して生きるものとして、その起源が何かを知らないでいいわけはない。
はじめ天孫が地上に降臨したもうたとき、天照大神は三種の神器をこれに授けたもうた。玉と鏡と剣の三つがそれである。…
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古代には天皇を「すめらみこと」と申し上げた。「すめら」の意味は統御であり、「みこと」というのは尊称である。すなわち天下を統治したまうもっとも尊貴のお方というほどの意味である。また天業のことを「あまつひつぎ」とよぶ。「あまつひ」は太陽である。「つぎ」は継承のことである。すなわちかならず太陽神の血統が皇位を継承したまうべきことをいったものである。…
それ以後、天照大神の御子孫が代々、三種の神器を奉じて万民の上に君臨したまい、群神の子孫たる諸氏もまたその職を世襲し、もって皇室を輔翼し奉った。これが神州の建国事情の概略である。天照大神と皇孫瓊瓊杵尊が後世に伝えたもうた御創業は、まことに崇高きわまりなく雄大なものであった。皇統連綿として栄えること天地とともに無窮というのはけっして偶然ではないのである。
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日本という国号は中世に始まっているが、その由来もまた久しいものがある。なぜそれがわかるかというと、むかし天孫がこの国に降臨したもうたとき、朝日、夕日の輝りかがやく土地を選ばれ、この地は非常に良いとお考えになって、そこに最初の皇居を造営したもうた。景行天皇は子湯県(コユノアガタ=日向の子湯郡)に行幸したとき、「この国は太陽の出る方向に直面している」と仰せられ、そこで日向という名がつけられた。成務天皇が国郡の区域を定められたとき、東西を「日の縦(ヒノタタシ)」となし、南北を「日横(ヒノヨコシ)」となしたもうた。天孫や天皇が明るい太陽の輝く土地を愛したもうたことは、このような例からもすでにわかる。さらに太陽の運行によって国や郡を区分したまい、日本はその根本の場所に位置し、あらゆる異民族はすべてその余光をあおぐのであるから、日本という国号は、事実においてここに始まったということができる。
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後世にいたっても、武士はなお廉恥を重んじ、怯懦を軽蔑し、名を汚し祖先をはずかしめることを最大の戒めとして、忠義孝烈の人々が少なくなかった。鉄石をも貫くような強烈な真心を行動にあらわしながら、その振舞が少しもこせつかず、匂うような優雅さと好もしい余韻を残すのは、みな古代の風俗の影響であって、要するにそこにはいうにいわれぬおおらかな気分があり、海外の国々にはとうてい真似のできないところである。思うに国体の尊厳はかならず天地正大の気にもとづいている。
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崇神天皇は神祇を崇敬して天業を発展せしめたもうた。ここにおいて任那の国は蘇那喝叱知(ソナカシモチ)を派遣して朝貢し来たった。海外の民族がわが皇化になびくにいたったことで史書に録されているのはおそらくこれがはじめてである。崇神・景行の二帝はあいついで服従しない民族を討伐し、その威武をふるいたもうた。仲哀天皇は熊襲を御親征の中途で崩じたたもうた。神功皇后は神々の教えにより、仲哀天皇の御意志を奉じ〔…〕意を決して遠征したもうた。神兵の向かうところ、異民族のものたちはみな怖れ従い、三韓は属国と称して朝貢してきた。このころ国威は日一日とその光輝を高め、新羅国王の子(天日槍-アメノヒンボク)のごとき、秦主嬴政(始皇帝のこと)の後裔(始皇帝五世の孫、弓月君(ユヅキノキミ)のごとき、はるばると海を越え、日本の威風を慕って渡来してきた。東西の異民族は争って日本のために奉仕し、金銀・綾や錦の朝貢はひきもきらず、諸国はまるで日本の海外倉庫のごとき観を呈した。まことに壮観を極めたものであった。
思うに人民が安らかに生を送るがために皇位は無窮であり、皇位が無窮であるがために国体は尊厳、国体が尊厳であるがために四方の異民族は服従する。この四者は循環して一つとなり、それぞれ相互に関連してみごとな一体をなしている。そしてそのしかる所以はといえば、元来斯の道によってもたらされなかったものというのはないのである。
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輝かしい日本は、天照大神が天孫に命じたもうて以来、皇族連綿として皇位を無窮に伝えており、皇位の尊厳はあたかも日月の侵すべからざるのと同じである。したがって万世にわたって、たとえ徳が舜や禹に比適し、知が湯王武王にひとしいものがあらわれようとも、ただひたすら上に奉じてその天業を翼賛するばかりである。万一、禅譲の説を唱えるものがあれば、いやしくも大日本の臣民たるもの、堂々とこれを攻撃してよろしい。まして禅譲・放伐を口実に皇位をねらうものたちは、けっしてこの日本に生かしておいてはならない。ましていわんや下等の異民族にわが国土の周辺を狙わせるようなことがあってはならない。ゆえに「資(ト)リテ以テ皇猷(コウユウ)ヲ賛ク」と述べたもうたのである。もしあちらの長所を採用しながら、その短所までも一緒に取り入れてしまい、ついにはわが国の万国に冠絶する所以のものを失うようなことがあれば、大業を賛助するという意味はどこにもないことになるのである。
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中世以降、異端邪説、民ヲ誣イ世ヲ惑ワシ、(中世以降、異端の教えが人民をあざむいて世を惑わし)
謹んで解し奉るに、異端の教えで人民をあざむき、世を惑わす流派は一つではないが、インドの仏教の教えは、そのもっともはなはだしいものである。(西北のヨーロッパの教えの害毒は仏教よりも大きい。しかし祖先の決断によっていっさい禁止せられているから、ここでは再論しない)。いったい、ものがまず腐ってからのちに蛆虫(ウジムシ)が発生する。道がまず廃れてからのちに異端の教えが入ってくる。漢土でも三代の政治が衰えてから、老・荘・楊・墨の邪説がおこった。
・・・
…蘇我稲目(ソガイナメ)が大臣(オオオミ)に任ぜられはじめて仏教普及の端緒をひらいた。…そのうえ、さらに聖徳太子がひたすら仏教を信奉してこれに呼応したため、蘇我氏の悪謀がしだいに実をむすび、邪教が広まったのは怪しむに足りない。こうして最終的には用明天皇が仏教に帰依され、崇峻天皇が突如として崩御され、推古天皇は多くの寺を建てて、大いに仏教を広めたもうた。また天智天皇の英明と藤原鎌足の知略をもってしても、その禍の究極をあらかじめ見抜いてその根本を絶つことはできなかった。こうして聖武天皇がみずから三宝の奴と称され孝謙天皇が妖僧道鏡に法王の位を授けられるにいたって、邪教の氾濫は極点に達した。「道まず廃れて、しかる後異端入る」といったことは、日本でも漢土でもまったく同様であり、それが世を惑わし、民心をあざむいて永くこの道の大害となっているのは、まことに嘆くべきことである。
そもそも仏教の害は古人が詳細にこれを論じている。その奇怪極まる空論は元来論ずるにも足りない。思うに愚民はこれを信奉し、知恵者は実用上これを利用し、純正剛毅の人は嫌悪してこれを排撃し、狡猾な悪党は私欲のためにこれを悪用している。これを排撃するものはかならずしもその骨子をとらえていないのに、悪用するものはかえってよく私欲を遂げることがある。仏教の隆盛は主としてそのような理由によるのである。
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…考えてみるに、この天地の間において、同じ血統が連綿と幾千万年も続いて変わらないのは、上にあっては皇室であり、内においては春日明神の御子孫(藤原氏とその系統)であり、国外においてはただ一つ孔子の子孫があるだけである。孔子もまた偉大な存在である。
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…もし、わが国の神道があたかも氷と炭のように儒教とまったく相反するものである、とするならばそういってもいい。しかしもし、わが国の道と儒教が同じ気から生じた花と実のように共通したものであるとするならば、儒教を排することはすなわちわが神道を矮小化することである。そればかりでなく、忠孝仁義という実質は天地はじまって以来、人類の生まれつきに備えたところのものである。
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神州ノ道ヲ奉ジ、西土ノ教ヲ資(ト)リ (わが国の古道を遵奉し、漢土の儒教を助けとし)
謹んで解し奉るに、わが斯の道が不明確になってからもうずいぶん長いことである。また儒教が諸派に分裂してからも久しいことである。したがって古道を守り、儒教を助けとするためには、慎重に考察し明白に理解することが必要である。わが国の神道は僧侶がこれをわがものとしてゆがめてしまい、俗流の儒者たちはこれをかき乱し、宗派神道の輩はこれを矮小化し、国学者たちはこれをほとんど明らかにしかけたがついにはまたこれを曖昧化してしまった。なぜこのようなことをいうかといえば、神を敬い祭りを重んずるのは斯の道においてもっとも重大なことであるのに、僧侶たちは本地垂跡説などを唱えだして、あらゆる神々はすべて仏の末流に属するものと見なし、いたるところの神社に仏寺を建て、神と仏をあわせて祭り、神官と僧侶が隣合せに雑居するするようになった。はなはだしい場合には、表面は神道でありながら実体は仏教で、僧侶だけが祭りを主管しているのもある。また朝廷の儀式や行事においても、しばしば仏教の礼式を用い、ついには御大葬とか祖先の祭りのような重大事までもすべてこれを僧侶にゆだねることになった。
「僧侶がこれをわがものとしてゆがめてしまった」というのはそのことである。
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