「藤田東湖」(日本の名著29)橋川文三責任編集(中央公論社)によると、水戸学を代表する思想家の一人、会沢正志斎の「新論」に通じない者は、維新の志士の間では肩身が狭い思いをしなければならなかったといいます。
その「新論」の記述は、藤田東湖の文章以上に過激です。特に、「はじめに」に書かれていることは、現在の常識では考えられないほど、非科学的であり、排外主義的です。
学問的業績を評価されて、将軍に謁見する機会もあったという会沢正志斎が、なぜ、 太陽のさしのぼるところの神国日本は、頭部に位置し尊い国で、西洋は世界の末端に位置する下等の存在であると断定するのか、どうして地理的位置で民族の優劣を決定するような考えを持つに至ったのかはわかりませんが、西洋人を”北方の蛮族、肉食の毛唐ども”と断定するような会沢正志斎の差別的な考え方が、幕末のいわゆる「異人斬り」に、少なからず影響を与えたのではないかと思います。
また、維新以後の侵略戦争の背景には、国体中に書かれている、”天皇の御稜威(ミイツ)がたえず四方に広がること”を目標とするような考え方があったのではないかと思います。
ここでは省略しましたが、国体中の「兵制の急務」にも、”かくして政治の基を立て、教えを明らかにして、兵はかならず天つ神の命を受け、天人一体、億兆一心、祖宗の徳をあらわし、功業を掲げて国威を海外にひろめ、夷狄を駆逐して領土を開拓すれば、天祖の御神勅と天孫の御事業に含まれた深い意味ははじめて実現されのである”と書いています。”億兆一心”という言葉は、教育勅語にも使われていますが、教育勅語は、その考え方はもちろん、その言葉も「新論」が基になっているのではないかと思えます。
ただ、徳川御三家の一つである水戸藩の藩士、会沢正志斎は、当然のことながら、幕藩体制の再編強化がねらいで、倒幕を主張していたのではありません。天皇を祭主とし、欧米列強に対抗できるような幕藩体制の確立を主張していたのです。でも、会沢正志斎に会うために水戸を訪れ、大きな影響を受けたという吉田松陰や松下村塾に学んだ志士たちは、孝明天皇も望んでいた公武合体の政策を意図的に潰し、武力討幕に血道を上げました。
また維新後、開国政策を進めた明治新政府は、会沢正志斎が知り得なかった西洋文明の実態や諸学問の詳細を知ることができたにもかかわらず、”天祖の御神勅と天孫の御事業”の実現を目標とする会沢正志斎の排外主義的な尊王思想を、修正することなく、そのまま新政府の方針にしたように思います。
だから私は、薩長を中心とする尊王攘夷急進派が、会沢正志斎の「新論」を都合よく読みかえ、権力を奪取するとともに、天皇の政治利用の意図をもって、会沢正志斎の尊王思想を取り入れたように思うのです。
下記は、「藤田東湖」(日本の名著29)橋川文三責任編集(中央公論社)から、その一部を抜粋しました。
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会沢正志斎 新論
上
はじめに
謹んで思うに、神国日本は太陽のさしのぼるところであり、万物を生成する元気の始まるところであり、日の神の御子孫たる天皇が世々皇位につきたもうて永久にかわることのない国柄である。本来おのずからに世界の頭首の地位にあたっており、万国を統括する存在である。当然にこの世界に君臨し、天皇の御威徳の及ぶところは遠近にかかわりなかるべきものである。しかるにいま西の果ての野蛮なるものどもが、世界の末端に位置する下等の存在でありながら、四方の海をかけめぐり、諸国を蹂躙し、身のほど知らずにも、あえて貴いわが神国を凌駕せんとしている。なんたる驕慢さであろうぞ。〔大地が天空の中に存在する状態は、渾然とした円のようで四方の隅というものはないはずである。しかしおよそすべてのものは、、自然にその形体があって存在している。そして神国日本はその頭部に位置している。したがってその広さはそれほど大きくはないが、しかも四方に君臨する理由は、いまだかつて易姓革命のことがないからである。西洋の諸蛮は大地の形でいえば股(モモ)や脛(スネ)の位置にある。だから船舶を乗り回して、どんな遠くにまで往来するのである。大海の中の土地でヨーロッパ人どもがアメリカ州と名づけているものにいたっては、人間でいえば背にあたっている。だからその人民たちは愚かで、無能たらざるを得ない。これはみな自然の形から来るのである〕したがって、道理からいえば自分からつまずいて転倒するはずである。しかしながら、天地の気の働きには盛衰があって、「人の勢いが盛んになると一時は天の正理に打ち勝つことがある」(『史記』)のはやむをえない勢いである。だから英雄豪傑が奮起して、天の事業を助けないならば、天地といえどもまたついには北方の蛮族、肉食の毛唐どものために自由に翻弄されてしまうであろう。
いま日本全国のためにその根本対策を論じようとすると、人々は愕然として顔を見合わせ、驚きあきれないものはないが、これは古い見聞にとらわれ、旧思想を信じこんでいるからである。孫氏の兵法に「敵が来ないのをあてにせず、味方の側に十分な備えがあるのをあてにする。敵が来攻しないのをあてにせず、味方の側に来攻できないような備えがあることをあてにする」といわれている。したがって、わが国の政治教育が行き届き、風俗が純美であり、上下義を守り、人民は豊かで軍備も充足し、どんな強敵といえども、これを防ぐに手落ちがないように備えさえすればいいのである。もしその体制がなお不十分だとするならば、みずからは安逸を貪っているものたちははたして何を頼みとするのであろうか。ところが世間の論者はみな「彼らは野蛮人にすぎない。軍艦ではなく、商船であり漁船にすぎない。深刻な害をなし得るものではない」などという。これらの発言があてにしようとしているものは、彼らは来ない、彼らは攻め寄せはしないということであって、相手の出方をあてにするものであり、自分の方にはなんらあてにするものはないのである。わが方にどんな備えがあるのか、
攻めて来させないような準備は何かと問いつめれば、いっこうに取りとめもなく、何もわかっていない。こんなありさまでは、天地が彼らの自由に翻弄されないようにと希望しても、いったいいつになったらその期待がもてるというのか。
臣はこのことに悲憤慷慨し、やむにやまれぬ気持があるので、あえて国家(幕府)が頼むべきものは何かについて論じたい。第一には「国体」の項において、建国の神々が忠孝をもって国を建てられたことを論じ、さらに武勇を尊び、民生を重んじたもうたことに論及する。第二には「形勢」の項において、世界各国の大勢を論ずる。第三には「虜情」の項において、富国強兵のための必要任務を論じる。第五には「長計」の項において、人民を強化し、風俗を正しくするための長期的計画を論じる。この五論はいずれも「天意が定まれば、ふたたび人の勢いに打ち勝つ」という真理の実現を願っての論である。自分が一身を捧げて天地の大道に殉じようと誓う心は、だいたい上に述べたごとくである。
国体上
帝王が四海波静かに、ながく平和にこれを治め、天下をゆるぎなく保つためには、何を頼みとするかといえば、それは万民を威力によって服従させ、その一代だけを保つということではない。真に頼りとすることができるのは、人民がことごとく心を一つにして、その統治者を親愛し、離れる気持ちになれないという実態である。そもそも天と地が分かれ、人民というものがはじめて生じて以来、天祖の御子孫が四海に君臨し、皇統連綿として誰ひとりあえて皇位をうかがうものもなく、もって今日にいたったのは、けっして理由がなきことではない。君臣の義は天地間の大義である。父子の親(シン)はこの世における恩愛の極致である。この義の最大のものと、恩愛の極致とは天地の間に併立し、しだいに普及浸透して人々の心に行き渡り、永久に変化することはない。これこそが帝王の天下を統治し、万民を整然と支配するための大いなる資産である。
皇位の象徴=三種の神器
むかし、天照大神が建国の基礎を建てたもうたのは、天の位にあって天の徳により、天の大業を実現せられたということであり、すべてが天の御しわざであった。その徳を玉にあらわし、その明知を鏡にあらわし、その威力を剣にあらわしたが、それは天の仁に一体化し、天の明知にのっとり、天の威力を奪って万国に君臨したまうということである。天下を皇孫に伝えたもうた際、手ずから三種の神器を授けて、それを皇位の印とし、また天徳の象徴とし、もって天の仕事を代行するという天職を行なわしめたまい、かくてのちこれを無窮に伝えしめたものである。天祖の御血統の尊いことは、厳然として犯すべからざるものである。君臣の区別はこうして定まり、大義はここに明らかとなった。天照大神が神器を伝えたもうたとき、とくに鏡を手にして祝いの詞を述べ「この鏡を見るときは、私を見るのと同じようになさい」と仰せられた。こうして後世長く、この鏡は天照大神の御神体として奉祀され、歴代の天皇は、この鏡を拝しては大神のお姿をその中にごらんになった。ごらんになるのは天祖の御分身たる天皇であるが、そこにまざまざと大神をお目にされるのである。このようなとき、礼拝の刹那に、神秘的な神人相感が生じるのは必然である。したがって、その祖先を祭って孝心をあらわし、身を謹み徳を修めたまうのもまた必然である。このようにして、父子の親はあつく守られ、恩愛の極致はひろく栄えることになる。天照大神は、この二つのものによって人間の道をたてたまい、教えを万世に伝えたもうた。さて、君臣と父子の道は、天道の最大のものであり、内においては父子の恩愛が栄え、外においては君臣の大義が明らかとなれば、忠孝の道は樹立され、天と人を貫く大道は昭然ときわだつ。忠は貴人を貴ぶことであり、孝は親を親愛することである。万民がよく心を一つにし、上下がよく相親しむのはまことに理由あることである。
ところでこの忠孝の教えが誰いわずとも存在し、万民が日々それを用いながら気づかないというのは何故であろうか。天祖は天にあって地上を照らしたまい、天孫は地にあって真心と敬意をつくして天祖に報じたまう。祭政は一致し、治めたまう天職、代行したまう天業は、一として天祖に奉仕したまうものでないものはない。このようにして祖先を尊んで民衆を治めたまうのであるが、すでに天と御一体である以上、その御地位が天とともに悠久であるのはまさに当然というべきである。ゆえに御歴代天皇が天に対する孝心をあらわしたまうに、あるいは御陵を祭り、あるいは祭祀・礼典を重んじたまうのは、その誠と敬をつくしたまう所以であって、礼制は大いに備わっているというべきであるが、その本に報じ、祖先を尊ぶという意味において、大嘗祭はその極致をなすものである。
大嘗祭の大義(略)
天人交感の秘儀(略)
時勢の変(略)
邪説の害
邪説の害というのは何か。古代神皇が神道によって教えを設け、もって民心を総合したもうたその根源はもっぱら一つであり、もともと定まった道があった。そして天に仕え、祖先を祀るという心が後世に伝えられて、人民は本に報い始めに反(カエ)るという意味を知った。神武天皇が天つ神を奉じてまつろわぬものどもを討伐されたときは、しばしば神々を祭りたもうたが、ついに霊畤(レイジ・祭の庭)を鳥見山(トミヤマ)に建てて天照大神を祭り、もって大孝を申(ノ)べたもうた。崇神天皇は神祇を崇敬し、敬(ツツシ)んで天照大神に奉仕され、祭式例を天下に頒布したもうたので、本に報い始めに反るの意義は天下に行き渡り、天下は朝廷を天つ神のように仰ぎ奉り孝の心をもって君に仕え、心を同じくし志を一にしてともに忠をつくし、風俗はきわめて淳厚となった。応神天皇の御代となって、はじめて孔子の経書が入り、これが天下に行われるにいたった。その経書は堯・舜・周公・孔子の道を述べたものであるが、その国土は日本に隣接していて風土・気候はよく類似しその教えは天命・人心をもととし、忠孝を明らかにし、もって帝に仕え祖先を祀ることを教えたもので、天照大神の不朽の教えと大同小異である。〔…〕もしよく資(ト)り用いて祖宗の政治と教えをますます明らかにととのえ、いつまでも怠ることがないならば、その成果はいいつくせぬほどのものがあろう。ところが異端邪説が次々におこり、巫術(フジュツ・シャーマニズム)の信徒があり、仏教あり、固陋なあるいは曲学の儒者あり、西の果ての耶蘇教あり、その他、教化を乱し風俗を破るものは枚挙にいとまがない。祖宗が祭式を正されたのは、天下万民ともに、天に奉仕し、祖先を祀るためであり、その意義は天下に普遍して区別のあるべきことはない。ところが古い家柄の一族でその家説を墨守してかならずしも誤りを捨てないものがあり、地方や民間でひそかに邪神を信奉して、福を祈り幸いを求めることだけ行って、天に仕え、祖先を祀るという根本義を知らないものなどが生じた。世間で陋習を守り、神秘的なことを好むものたちは、怪奇愚昧な理論をそれにこじつけ、人と神の区別を混乱させて、ついには巫術の信徒になってしまう。後世になってあるいは儒教・仏教の説を剽窃してもっともらしい理屈を語り、それを渡世の手段とするものもある。こうなると、神に仕えるといっても、祖宗のいう本に報い始めに反るの意とは異なる。忠臣・孝子でも何にもとづいてその敬と孝をつくすのかわからなくなる。こうなって人民の志は統一を失ってしまった。
仏法の害
仏法がわが国に入ったとき、朝廷ではわが国には祭祀の法があるから、蛮人の神を拝すべきではないという議論があった。ところが逆臣蘇我馬子は私にこれを信奉し、聖徳太子などと結託して寺院を建立した。それ以後、僧侶がしだいにふえ、さかんに仏説を宣伝したので、民心は神の道から離散してしまった。『大宝令』が神祇官を太政官の上位におき、僧尼を玄蕃寮(ゲンバリョウ・外国のことを管掌する役所)の管理に属せしめたことは、よく国体を知ったものといえる。しかしやはり祭と政とを二分しなければならなかったのは、当時の人情・風俗がすでに昔のように純一でなかったことを示している。そして聖武・孝謙の御代になると、仏事はますますさかんとなり、朝廷の政治・行政で仏教信仰を中心としないものはなくなり、ついには国分寺を各国において国府と同格にし、その法を国郡に布告して政治と仏事とを一つにしてしまった。上の好むところの仏法をもって政治を行うのだから、下のものが争ってこれに傾いたのは当然である。ここにおいて天下の人は風になびくようにただ蛮神だけを尊信した。本地垂迹説(ホンチスイジャクsツ)がおこると、おごそかな神々も仏名を冠されるようになった。天をあざむき、人をごまかし、わが人民の仰ぎ見るものをことごとく仏の分かれたもの、その末流と見なし、神の国をインドの国にかえ、日本の人々を西の蛮族の配下としてしまった。国内ことごとく自分から蛮夷に変わってしまえば、国体の存在するわけがない。ゆえに後白河上皇のように貴い御身分でありながら、山法師の制しがたいのを嘆きたもうたのである。時勢がわかるというものである。一向専念の説(一向宗の専修念仏説 真宗)がおこるようになると、神名帳にのるほどの名祠・大社であってもこれを礼拝することを許さず、本に報い始めに反るという心を禁遏(キンアツ)してもっぱら仏を信仰せしめた。ここにいたって人民はインドがあるのを知っていても日本のことを忘れ、僧尼があるのを知っていても君父のことは忘れた。一向一揆のときは、正義によってこれを討つものをさして法敵とよび、あるときなど、忠烈の武士でありながら、武器をとって君父に反抗したものさえあった。忠孝がすたれ人間の志が分離したこと、実に極端であったといえよう。〔…〕
俗儒の書
聖賢の教えは、己れを修め人を教化する道以外のものではない。近世の固陋な儒者や曲学阿世の学者たちは聖人の教えの根本を理解せず、気ままな議論を説いたり、こじつけの経書解釈を行って新奇を競い、博学をひけらかすものがあり、また詩文を作って文章を競いそれで名利を求めるようなものがあるが、これらの雑多な連中は、もとより問題にならない。しかしあるいは大義名分に無知で、明や清を称して華夏とか中国と呼んでわが国体を辱しめるもの、あるいは時勢に追随して名分を乱し、大義を忘れて天皇をあたかも国内亡命者のように見なし、上は歴代天皇の御徳を傷つけ、下は幕府の正義をないがしろにするもの、あるいはこまかいことを数え上げ、ただ利潤のことだけを論じて、それを経世済民の学と自称するもの、あるいは外貌も厳かに宋儒性理の学を談ずれば、その言葉は高尚らしく、その品行は謹厳らしく見えるが、その実はつまり郷愿(キョウゲン・君子らしい俗物)であって、国家の安危も知らず、現実の必要にも応じられないようなもの、すべてこれらのものは忠でもなく、孝でもなく、また堯・舜・孔子のいう道でもないのである。このようにして祖宗の教えは呪術者によって乱され、仏教によって変質せしめられ、俗物的儒者によって矮小化せられ、その言説は矛盾して民心を分裂させ、君臣の義、父子の親(シン)は、いいかげんにして顧みない結果となる。天と人を貫く大道はどこにあるといえようか。
西洋の邪教
しかしながら、むかしの民心を乱したところのものは、せいぜいのところ国内の邪民にすぎなかった。ところが西洋の異人にいたっては、各国とも耶蘇教を信奉してその力で諸国を併呑し、いたるところの寺社を焼き払い、人民をあざむいて、その国土を略奪している。その志は他国の君主をすべて臣下とし、その人民を奴隷とするのでなければ満足しないというものである。その勢いがますます猛烈になって、すでにルソン、ジャワを滅ぼし、ついにはわが日本をも狙いはじめた。かつて彼らは西日本を扇動したが(島原の乱)、これはルソン、ジャワに対するのと同じ手段をもって日本に対しようとしたものである。その邪教が民心をまどわすのは、けっしてたんに国内の姦民にとどまらなかった。幸いに明君・賢相がその悪謀を見抜かれ、一人の生残りもいないまでに完全に絶滅されたのである。頑強な邪宗の徒も、わが国に根をおろすにいたらず、以来二百年、人民が邪教の誘惑から免れることができたのは、大いなるその恩恵である。
しかしながら、神々の大道はなお明らかでなく、民心もまだそのよりどころとすべきものがなく、国内における姦民の存在は、依然たるものであった。彼らがつき従うものは祈祷師や僧侶か、でなければ、俗流の儒者であった。たとえていえば、瀕死の病気は取り除いたけれども、元気はまだ回復せず、あとをどうしたらいいかわからないのと同じように、その内部に中心とするものがなく、外界の異物に刺激されやすいという状態である。ところが最近また蘭学というものが生じた。この学問はもと通訳から出たもので、オランダの文書を読んで、その言葉を解するというだけのものであった。元来、世に害があるというほどのものではない。ところが耳学問の連中は西洋人の大げさな学説を聞き取り、さかんにこれを讃美し、書物を書いて出版し、この尊い日本を毛唐の国に変えてしまおうとするものまで出てきた。そのほかにも珍しい道具や薬品が人の目を奪い、心を恍惚とさせるようなことがあって、そういう悪い風習がかえってまた西洋風俗への憧れをひきおこすことになる。もし、いつか西洋の悪人どもがそれを利用して愚民を誘惑するならば、彼らもまた西洋の下劣な風俗に変わってしまうことを禁ずるのは容易ではない。「霜を履(フ)んで堅氷至る」(『周易』「坤卦」初六)というが、大悪はその初期に食い止め、増大せしめてはならぬ。広範深刻な害悪となるはずのものは、よくよく見通しを立て、予防しなければならぬ。いま外夷は不逞な野心をいだいてたえず辺境を窺っており、内には邪説の害がはびこっている。このようにあらゆることが油断ならない事態である。もし夷狄(イテキ)をわが日本国内に引き入れれば、一般人はその邪悪な仲間となり、官にあるものは私欲のためにこれに結託しようとする悪徳を生じ、天下はざわめきたつであろう。以上を大ざっぱに見れば、はたして日本であるか、明・清であるか、それともインドであるか、または西洋であるか。国体はいったいどうなっているのかというありさまである。いったい四肢の具わらぬものは人間とはいえない。国としてその体をもたねばどうして国といえよう。ところが世の論者はただ「富国強兵をはかるのが辺防の要務である」とだけいう。いま外敵は民心に中心がないのにつけこみ、ひそかに辺境の人民を誘惑して暗々裡にその心をとらえようとしている。民心がいったんとらえられてしまえば、戦う前にすでに天下は外夷のものとなってしまうであろう。富国といってもそれはすでにわがものではなく、賊に兵器を貸し、盗人に糧食を与える結果となるだけである。苦慮苦心して富国強兵を実現しながら、あるときすべてを与えて賊のために役立てるというのは遺憾なことである。少しでも事態の本質がわかるものは、誰ひとり切歯扼腕し憤激しないものはないであろう。いま幕府はともに断然として天下に布告し、辺土の人民が外夷に親近するのを厳禁し、悪賢い夷狄が勝手気ままにわが人民を誘惑したり、扇動したりはできないようにした。この命令が布告されてからというもの、天下の知者・愚人をとわず、夷狄の悪謀・悪計の憎むべく、忌むべきことを知らないものはなくなった。天下の人心がなお健在であることはかくのとおりである。
さて現今は古(イニシエ)を去ること遠いとはいえ、仰ぎ奉るところの天皇は厳然として天祖の正しい御血統にまします。治められる人民は依然として天祖の愛養したもうたものたちの子孫である。人心の中になお健在なるものをよりどころとし、その教えの筋を正し、神皇が天下を教化育成せられたお心を根本とし、天に仕え、祖先を祀り、本に報いはじめに反り、こうして君臣の義を正し、父子の親を厚くし、万民を教化してその心を一つとするならば、なしがたいことがあろうはずがない。これすなわち千載一遇の時機であり、けっして失うべからざる機会である。臣はそのため弊害の生じた由来を詳しく突き止めようとして、邪説の害ということを心にかけざるを得なかったのである。そもそも英雄は事態を一変せしめ、絶妙な変化をひきおこすことができるもので、いつ、いかなることでもなし得ないということはない。そして帝王が四海を保つに頼りとする所以のものは、天と人の大道であり、その形式は変化し得ても、その意義は不変である。したがって神々が天地を統御し、万民をして離れるに忍びない親しみをその支配者に対しいだかしめるという根本原理は、今日といえども実現され得ないことはないのである。今日の時勢の変、邪説の害というものは、天下がその弊にたえきれないほどであるが、しかし人心を更張作新しようと欲するなら、これに対処する正しい方策を考えるだけでよろしい。
国体中
朝廷が武によって建国し、武備をととのえて四方を風靡したもうた由来は古いことである。弓矢や矛の利用はすでに神代に知られており、剣は三種の神器の一つである。そこで細戈千足(クワシホコチタル)の国とよばれたのである。天照大神が日本の土地を天孫に授けたもうたとき、天忍日命(アメノオシヒノミコト)に来目(クメ・久米)の兵を率いて随行せしめられた。神武天皇の東征に際しても、来目の部隊を敵兵を挫くために専用され、ついに大和を平定したもうた。さらに物部を置いて来目とともに宮廷の護衛とし、国土鎮定の部隊たらしめた。崇神天皇は四道に将軍を派遣して服従せぬものどもを討ち平らげ、皇子豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)をして東国を治めしめたもうた。そうして人民には農業のあいまに狩猟をさせ、その獲物は調(ミツギ)ものとし、また兵役に従事するための訓練とした。このような制度がいったん成立すると、御歴代はそれを遵奉され、境域は日に日に広まり、東は蝦夷を追い払い、西は九州を清め、ついには三韓を平らげ、任那に日本府を設けてこれを統御した。強兵につとめた成果がここに実現したのである。仁徳天皇の御代には国内は平和で武力を用いることがなかった。履仲天皇・安康天皇のころからのち、しだいに国力は衰退し、十余代ののちに任那は亡び、三韓は朝貢しなくなった。中興の英主天智天皇は皇化の不振を憤り、おんみずから前進基地に臨んで任那を経営しようとされたが戦いは不利に終わった。しかし当時は東方経略が主眼で、大いに蝦夷を撃撰し、後方羊蹄(シリベシ)に支配所を建設し(…)、ついには粛慎(シュクシン)(ミシハセ。ツングース族)を征討した。これは斉明天皇時代のことであるが、天智天皇が皇太子としてその英略を助けたもうたものと思われる。こうしてその余威は渤海にまでふるい、渤海もまた使節を派遣して朝貢してきた。強兵の成果がまた実現したのである。以来、百余年、世道人心はしだいに衰えたとはいえ、しかも桓武・嵯峨の御代になると、ついに陸奥の賊を平定し、蝦夷を本土の外へ追い払ったところを見ると、まだまだ武威は衰えてはいなかったというべきである。そもそも賊を打ち払い、国土を開拓することは、天照大神が御子孫のために遺された大方針であり、天孫はそれを継承発展したもうたのである。ゆえに天照大神を祭る祝詞(ノリト)には「神の照らしたまうところは、天の窮(キワ)み、地の果てまでも、狭いところ広く、険しいところは平らかにし、遠いところは多くの綱をかけて引き寄せるがごとくに」といわれている。これは天皇の御稜威(ミイツ)がたえず四方に広がることを祈ったもので、朝廷が建国にあたり武を尚(トウト)ばれたという意味もまたわかろうというものである。
兵制の三変 以下略
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