中央大学の吉見義明教授は、ワシントンの国立公文書館で見付けた米軍極秘文書や米太平洋陸軍参謀第2部の報告書などによって、日本軍の毒ガス製造の全容が、ほぼ明らかになったという。そして、日中15年戦争時に日本軍が製造した毒ガス兵器は、致死性のイペリットやルイサイトを含み、実に746万発に達するというのである。また、旧陸軍造兵廠の記録の一部からだけでも、200万発の製造が確認できるという。
ここでは、そうした日本軍の毒ガス兵器によって被害を受けた人たちの、悲惨な被害状況の一例を「日本軍の中国侵略と毒ガス兵器」歩平著ー山辺悠喜子・宮崎教四郎監訳(明石書店)から抜粋した。こうした毒ガス兵器の使用が、下記にあるように「晋警察冀軍区司令部は6月26日、全国の同胞、全世界の人びとに向け、日本軍の北?村における残虐行為を打電公表」され 、国際的に知られることとなったと思われる。(但し、村名で・に変わってしまった文字は田へんに童である)
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第8章 無辜の被害者
河北定県北?(ペイトワン)村事件
1942年5月下旬、日本軍第110師団は訳1500名の兵力を動員し、河北省安平県安平北の滹沱(トウオホ-)河と瀦龍(チューロン)河の間で「冀(チー)(河北)中侵略作戦」を展開した。日本軍は大量の毒ガス兵器の使用より、定県北村?の地下道に避難していた農民を虐殺、800余の無辜の市民を毒ガスによって窒息死させるという事件を引き起こした。
1942年5月26日、日本軍は主力をもって中国八路軍のゲリラ隊を包囲攻撃、27日払暁、付近の東城、西城、東湖、太平湖、解家荘の五か村の全農民を北?村に追い詰めた。1000余名の農民は地下道に避難。戦闘は払暁から正午まで間断なく続いたが、中国軍は弾丸が尽き、日本軍がを占拠すると、定県大隊の副政治委員・趙曙光率いる一個中隊と民兵が、地下戦を行った。日本軍は八路軍との地下道戦に苦しみ、形勢が不利になると、狂ったように地下道を探す。すでに人心を失した日本軍は、地下道口を見つけるとまず、両端をふさぎ、なかに向かって毒ガス弾を投擲した。大量の「あか筒」と「みどり筒」に点火後、地下道にほうり込み、同時に柴草に火をつけて入り口に投げ入れ、すぐにふとんで入り口をふさいだ。地下道内では毒ガスがすぐに充満し、煙が立ち昇ることによって、たくさんの穴の存在が日本軍に知れ、さらに多くの毒ガス弾が投入された。地下道に隠れていた人びとは、まずヒリヒリする刺激臭、火薬臭、甘い臭いを感じ、やがて涙とくしゃみが止まらず、呼吸困難に陥った。まもなく地下道内は混乱をきたし、人びとは出口を求めて逃げ惑い、叫び声、罵り声、うめき声がうずまいた。まもなくそれらの阿鼻叫喚は次第に弱り、うめき声とあえぎ声を残すだけとなり、人びとは苦しみに土壁に爪をたて、つかみ、ころがり、5人10人と窒息して息を引き取っていった。死体のなかには、頭を地面に突っ込んだもの、自分の服をずたずたに切り裂き壁に頭をぶつけているもの、満面唾液と吐物にまみれたもの、子どもを抱いた母子や父子など無残な姿が見られた。
40過ぎの王牛児が2人の息子を連れて地下道に入り、10歳の長男、8歳の次男は父親の両膝を枕に死んだ。32歳の李菊は、1歳にならぬ乳飲み子を抱き、赤ん坊は母親の乳をくわえたまま、ともに死んだ。ある50過ぎの女性は、両腕に10歳ぐらいの2人の女の子と手をつないで、仰向けに死んでいた。その光景の悲惨さは、目を覆うばかりであった。比較的強健な人びとはなんとか穴まで這って出たものの、そこに待っていたのは虐殺の刀であった。このように、武器を持たない一般の農民約800余名が日本軍の毒ガスによって殺されたのである。
同村の生存者の一人、李化民の供述によると、このとき(同村および他の村の)800余人(多くが毒ガスによる被毒)が殺害され、農家36軒が焼かれ、62名の青壮年が錦州炭鉱に強制動員され、後に9名が逃げ帰ったが、その他の者は行方不明のままとなった。事件が起こったのは5月、気候が暑くなったころで、北?村全体に屍が散乱し、臭気が天を覆った。何の変哲もない平和で活気のあった村が、日本のファシストによって荒らしつくされ、砲火と毒ガスによって、屍の荒野に変わりはてた。
この悲惨な事件の発生は、全国各界の強烈な義憤を呼び、晋警察冀軍区司令部は6月26日、全国の同胞、全世界の人びとに向け、日本軍の北?村における残虐行為を打電公表した。世界の公理、公法と正義を守るため、今回日本のファシストが北?村の800人の無辜の人民を毒殺した極悪非道の罪状を世界の人びとの前に明らかにした。呼びかけの電文には義憤があふれ、日本軍の北?村における暴行の全貌が記述されていた。
「日本軍の悪辣な魔の手の下、地下道に避難した無辜の人民800余名は、大部分が、杖を手にした老人や、無抵抗の婦人、子ども、病弱者、乳児であったが、全員が毒ガスによる窒息死を遂げた! 日本のファシストらがこれらの人びとに行った罪行は未来永劫に消し去ることはできない。これは、公理、公法、正義を公然と無視、冒瀆するものだ。すべての正義の民に対する挑戦である!日本ファシストの強盗どもが共産党根拠地の辺境区で行った放火、殺人、強姦、略奪の各種罪行は、すでに枚挙にいとまがない。が、今回の事件は国際公法に違反し、無辜の民衆に毒ガスを放ったのである!その残酷非道のありさまは、人類を敵に回そうという魂胆をますます明白にするものである。この前代未聞の人民に対する大虐殺は、日本ファシストが、すでに世界の公理、公法と正義の最後の垣根を越えたことを、はっきりと証明するものである。世界の公理、公法、と正義を守るため、我々は全世界のすべての正義の人士にあらゆる手立てを使って、これら公理、公法、正義を破壊する日本ファシストの強盗どもに断固たる制裁を加えることを求めるものである」
同日、「晋警冀日報」は「敵、冀中において毒ガス放射、北坦(?)の同胞800人が非業死、必ず深い恨みに報復す」と題し、前述の檄文を全文転載し、日本の侵略者が引き起こした北?村事件に血と涙の告発をおこなった(『細菌作戦と毒ガス戦』467~471ページ参照)。
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ここでは、そうした日本軍の毒ガス兵器によって被害を受けた人たちの、悲惨な被害状況の一例を「日本軍の中国侵略と毒ガス兵器」歩平著ー山辺悠喜子・宮崎教四郎監訳(明石書店)から抜粋した。こうした毒ガス兵器の使用が、下記にあるように「晋警察冀軍区司令部は6月26日、全国の同胞、全世界の人びとに向け、日本軍の北?村における残虐行為を打電公表」され 、国際的に知られることとなったと思われる。(但し、村名で・に変わってしまった文字は田へんに童である)
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第8章 無辜の被害者
河北定県北?(ペイトワン)村事件
1942年5月下旬、日本軍第110師団は訳1500名の兵力を動員し、河北省安平県安平北の滹沱(トウオホ-)河と瀦龍(チューロン)河の間で「冀(チー)(河北)中侵略作戦」を展開した。日本軍は大量の毒ガス兵器の使用より、定県北村?の地下道に避難していた農民を虐殺、800余の無辜の市民を毒ガスによって窒息死させるという事件を引き起こした。
1942年5月26日、日本軍は主力をもって中国八路軍のゲリラ隊を包囲攻撃、27日払暁、付近の東城、西城、東湖、太平湖、解家荘の五か村の全農民を北?村に追い詰めた。1000余名の農民は地下道に避難。戦闘は払暁から正午まで間断なく続いたが、中国軍は弾丸が尽き、日本軍がを占拠すると、定県大隊の副政治委員・趙曙光率いる一個中隊と民兵が、地下戦を行った。日本軍は八路軍との地下道戦に苦しみ、形勢が不利になると、狂ったように地下道を探す。すでに人心を失した日本軍は、地下道口を見つけるとまず、両端をふさぎ、なかに向かって毒ガス弾を投擲した。大量の「あか筒」と「みどり筒」に点火後、地下道にほうり込み、同時に柴草に火をつけて入り口に投げ入れ、すぐにふとんで入り口をふさいだ。地下道内では毒ガスがすぐに充満し、煙が立ち昇ることによって、たくさんの穴の存在が日本軍に知れ、さらに多くの毒ガス弾が投入された。地下道に隠れていた人びとは、まずヒリヒリする刺激臭、火薬臭、甘い臭いを感じ、やがて涙とくしゃみが止まらず、呼吸困難に陥った。まもなく地下道内は混乱をきたし、人びとは出口を求めて逃げ惑い、叫び声、罵り声、うめき声がうずまいた。まもなくそれらの阿鼻叫喚は次第に弱り、うめき声とあえぎ声を残すだけとなり、人びとは苦しみに土壁に爪をたて、つかみ、ころがり、5人10人と窒息して息を引き取っていった。死体のなかには、頭を地面に突っ込んだもの、自分の服をずたずたに切り裂き壁に頭をぶつけているもの、満面唾液と吐物にまみれたもの、子どもを抱いた母子や父子など無残な姿が見られた。
40過ぎの王牛児が2人の息子を連れて地下道に入り、10歳の長男、8歳の次男は父親の両膝を枕に死んだ。32歳の李菊は、1歳にならぬ乳飲み子を抱き、赤ん坊は母親の乳をくわえたまま、ともに死んだ。ある50過ぎの女性は、両腕に10歳ぐらいの2人の女の子と手をつないで、仰向けに死んでいた。その光景の悲惨さは、目を覆うばかりであった。比較的強健な人びとはなんとか穴まで這って出たものの、そこに待っていたのは虐殺の刀であった。このように、武器を持たない一般の農民約800余名が日本軍の毒ガスによって殺されたのである。
同村の生存者の一人、李化民の供述によると、このとき(同村および他の村の)800余人(多くが毒ガスによる被毒)が殺害され、農家36軒が焼かれ、62名の青壮年が錦州炭鉱に強制動員され、後に9名が逃げ帰ったが、その他の者は行方不明のままとなった。事件が起こったのは5月、気候が暑くなったころで、北?村全体に屍が散乱し、臭気が天を覆った。何の変哲もない平和で活気のあった村が、日本のファシストによって荒らしつくされ、砲火と毒ガスによって、屍の荒野に変わりはてた。
この悲惨な事件の発生は、全国各界の強烈な義憤を呼び、晋警察冀軍区司令部は6月26日、全国の同胞、全世界の人びとに向け、日本軍の北?村における残虐行為を打電公表した。世界の公理、公法と正義を守るため、今回日本のファシストが北?村の800人の無辜の人民を毒殺した極悪非道の罪状を世界の人びとの前に明らかにした。呼びかけの電文には義憤があふれ、日本軍の北?村における暴行の全貌が記述されていた。
「日本軍の悪辣な魔の手の下、地下道に避難した無辜の人民800余名は、大部分が、杖を手にした老人や、無抵抗の婦人、子ども、病弱者、乳児であったが、全員が毒ガスによる窒息死を遂げた! 日本のファシストらがこれらの人びとに行った罪行は未来永劫に消し去ることはできない。これは、公理、公法、正義を公然と無視、冒瀆するものだ。すべての正義の民に対する挑戦である!日本ファシストの強盗どもが共産党根拠地の辺境区で行った放火、殺人、強姦、略奪の各種罪行は、すでに枚挙にいとまがない。が、今回の事件は国際公法に違反し、無辜の民衆に毒ガスを放ったのである!その残酷非道のありさまは、人類を敵に回そうという魂胆をますます明白にするものである。この前代未聞の人民に対する大虐殺は、日本ファシストが、すでに世界の公理、公法と正義の最後の垣根を越えたことを、はっきりと証明するものである。世界の公理、公法、と正義を守るため、我々は全世界のすべての正義の人士にあらゆる手立てを使って、これら公理、公法、正義を破壊する日本ファシストの強盗どもに断固たる制裁を加えることを求めるものである」
同日、「晋警冀日報」は「敵、冀中において毒ガス放射、北坦(?)の同胞800人が非業死、必ず深い恨みに報復す」と題し、前述の檄文を全文転載し、日本の侵略者が引き起こした北?村事件に血と涙の告発をおこなった(『細菌作戦と毒ガス戦』467~471ページ参照)。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
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