太平洋戦争勃発当初、東南アジアへ進撃した日本軍の到来を歓迎したインドネシア民族も、しばらくすると、それまでインドネシアを植民地化していたオランダ以上に、インドネシア民族を圧迫し、搾取する日本の軍政に抵抗するようになり、各地で反乱を起こすようになっていった。そして、多くの犠牲者を出したのである。
西カリマンタン(ボルネオ)のポンチャナックでは、抗日の陰謀があったということで、1943年10月下旬から8ヶ月の間に、1500人が斬首刑にあった。そこには、現在犠牲者を悼んで、大きなレリーフのある記念碑が建っているという。
インドネシアでも、戦争に必要な物資の供出が義務づけられ、餓死者を出すほどの食料不足に陥ったようである。また、社会のあらゆる階層の労働力が搾取されたという。そして、もっともひどい目にあったのは、日本の軍事作戦のために橋や道路、飛行場、防空壕、防衛拠点などの建設工事に動員された強制労働者(ロームシャ)やその家族であるという。
多くの人たちが国外でも労働させられた。よく知られているのが、泰緬鉄道(タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約415キロ)建設工 事である。大本営の強い早期開通要求で、常識では考えられない突貫工事が強行された。ところが、この鉄道工事は難所が多く(架橋およそ300)また、悪性伝染病の地である上に、補給体制の不備で、食料はもちろん医薬品や靴、衣服などの補給が極めて少なく、「枕木一本、人一人」といわれるほどの犠牲者を出した。そこにインドネシアからも4万人を超える「ロームシャ」が送られたのである。
西スマトラのプキティンギでは、日本軍の地下司令部建設に、3000人の「ロームシャ」が動員され、機密保持のために、完成時に全員が殺されたといわれている。
にもかかわらず、日本の戦争賠償・被害者補償は、インドネシアの場合も、他の東南アジア諸国と同じように経済協力型であり、「戦争で被った人的・物的被害を回復する」ものではなかった。その内容は、吉田首相が語ったとされる「向こうが投資という名を嫌ったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」という言葉が象徴している。その実体は、日本に利益をもたらす開発を目的とした政府援助なのである。こんな内容で、「戦争で被った人的・物的被害を回復する」ための請求権を完全に放棄させることが許されるのか、と疑問に思う。
下記は「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、インドネシアの部分を抜粋したものである。
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第2章 日本の戦後処理の実態と問題点
第3 日本政府による賠償と被害者への補償
2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結
(5)インドネシア
1949年に独立したインドネシアは、日本に対して戦争損害の賠償を強く求めて、51年のサンフランシスコ対日講和会議に参加し、サンフランシスコ条約(対日平和条約)に9月8日調印した。そして、その12月には、使節団を日本に送って賠償交渉を開始した。ところが、52年2月にインドネシアで政変が発生し、賠償交渉は一時棚上げとなり、対日平和条約の批准も無期延期となった。その後、両国でインドネシア海からの沈没船引き上げによる賠償協定、アサハン河電源開発工事を中心とする賠償協定などが出されたが、批准あるいは合意に達せず、日本側の妥結を急ぐ必要がないとの態度もあって、インドネシアが両国の輸出入収支帳尻の決裁を拒否するという事態にまで至った。その後、56年2月にインドネシアはオランダとの経済協力関係を一切破棄したことを契機として、日本との賠償交渉の再開に対して積極的姿勢に変わった。57年2月に日本に岸内閣が成立し、他方インドネシアではスカルノ大統領が同年7月に国民評議会を設置して大統領権限を強化したことに伴って、賠償交渉の妥結への気運が高まり、58年1月20日にジャカルタで平和条約と賠償協定を調印するに至った。これと同時に、日本は、インドネシアに対して経済協力を約束し、また、交渉経過で問題となった、戦後の輸出入の差し引き帳尻のインドネシア側未払い金についても、日本がこれの請求権を放棄して解決した。
日本国とインドネシア共和国との間の平和条約
第1条 日本国とインドネシア共和国との戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。
第4条
1 日本国は、戦争中に日本国が与えた損害及び苦痛を償うためインドネシア共和国に賠償を支払う用意がある。しかし、日本国が存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、戦争中に日本国がインドネシア共和国その他の国に与えたすべての損害及び苦痛に対し完全な賠償を行い、同時に日本国の他の債務を履行するために十分でないことが承認される
(a)日本国は、別に合意される細目に従って、総額803億880万円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を12年間内に賠償としてインドネシア共和国に供与する。
(b)インドネシア共和国は、この条約の効力発生の時にその管内にある日本国及び日本国民のすべての財産、権利及び利益を差し押さえ、留置し、清算し、その他なんらかの方法で処分する権利を有する。(除外される権利あり)
2 インドネシア共和国は、前項に別段の定ある場合を除くほか、インドネシア共和国のすべての賠償並びに戦争の遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたインドネシア共和国及びその国民のすべての他の請求権を放棄する。
☆経済開発借款交換公文
1,440億円の額までの商業上の投資、長期貸付又は類似のクレジットが、日本国の国民により、締結されることがある適当な契約に基づいてインドネシア共和国の政府又は国民に対して行われるものとする(要旨)
☆旧清算勘定そのほかの諸勘定の残高に関する請求権の処理に関する日本国政府とインドネシア共和国との間の議定書
1952年8月7日にジャカルタで署名された日本とインドネシア共和国との間の支払取決等に基づき日本がインドネシア共和国に対して有する請求権額1億7,691万3,958ドル41セント(アメリカ合衆国ドル)の請求権を、日本は放棄する。(要旨)
この約803億円に相当する賠償については、「賠償として供与される生産物及び役務は、インドネシア共和国政府が要請し、かつ両国政府が合意するものでなければならない」と定められ、このなかには4つの高級ホテル、1つのショッピングセンター(デパート)、が含まれていた。賠償とは、戦争で被った人的物的被害を回復するべきものであるのに、その実体は開発を目的とした政府援助と同じものになっている。また、賠償のなかの船舶については、日本の中古船を市価の3倍以上の価格で賠償として支払ったものであったが、日本の有力政治家がこれに関わったとして国会で問題にされるなど、賠償のあり方については「一体何だったのだろうか」と大きく疑問が投げかけられている。(村井吉敬「賠償と援助──賠償・ODAから戦後処理を考える」『自由と正義』1993年9月号)。
このような「賠償」の実態を理解する上で、吉田首相が語ったとされる「向こうが投資という名を嫌ったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」という言葉は、重要な意味を持っているのではなかろうか。
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西カリマンタン(ボルネオ)のポンチャナックでは、抗日の陰謀があったということで、1943年10月下旬から8ヶ月の間に、1500人が斬首刑にあった。そこには、現在犠牲者を悼んで、大きなレリーフのある記念碑が建っているという。
インドネシアでも、戦争に必要な物資の供出が義務づけられ、餓死者を出すほどの食料不足に陥ったようである。また、社会のあらゆる階層の労働力が搾取されたという。そして、もっともひどい目にあったのは、日本の軍事作戦のために橋や道路、飛行場、防空壕、防衛拠点などの建設工事に動員された強制労働者(ロームシャ)やその家族であるという。
多くの人たちが国外でも労働させられた。よく知られているのが、泰緬鉄道(タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約415キロ)建設工 事である。大本営の強い早期開通要求で、常識では考えられない突貫工事が強行された。ところが、この鉄道工事は難所が多く(架橋およそ300)また、悪性伝染病の地である上に、補給体制の不備で、食料はもちろん医薬品や靴、衣服などの補給が極めて少なく、「枕木一本、人一人」といわれるほどの犠牲者を出した。そこにインドネシアからも4万人を超える「ロームシャ」が送られたのである。
西スマトラのプキティンギでは、日本軍の地下司令部建設に、3000人の「ロームシャ」が動員され、機密保持のために、完成時に全員が殺されたといわれている。
にもかかわらず、日本の戦争賠償・被害者補償は、インドネシアの場合も、他の東南アジア諸国と同じように経済協力型であり、「戦争で被った人的・物的被害を回復する」ものではなかった。その内容は、吉田首相が語ったとされる「向こうが投資という名を嫌ったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」という言葉が象徴している。その実体は、日本に利益をもたらす開発を目的とした政府援助なのである。こんな内容で、「戦争で被った人的・物的被害を回復する」ための請求権を完全に放棄させることが許されるのか、と疑問に思う。
下記は「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、インドネシアの部分を抜粋したものである。
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第2章 日本の戦後処理の実態と問題点
第3 日本政府による賠償と被害者への補償
2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結
(5)インドネシア
1949年に独立したインドネシアは、日本に対して戦争損害の賠償を強く求めて、51年のサンフランシスコ対日講和会議に参加し、サンフランシスコ条約(対日平和条約)に9月8日調印した。そして、その12月には、使節団を日本に送って賠償交渉を開始した。ところが、52年2月にインドネシアで政変が発生し、賠償交渉は一時棚上げとなり、対日平和条約の批准も無期延期となった。その後、両国でインドネシア海からの沈没船引き上げによる賠償協定、アサハン河電源開発工事を中心とする賠償協定などが出されたが、批准あるいは合意に達せず、日本側の妥結を急ぐ必要がないとの態度もあって、インドネシアが両国の輸出入収支帳尻の決裁を拒否するという事態にまで至った。その後、56年2月にインドネシアはオランダとの経済協力関係を一切破棄したことを契機として、日本との賠償交渉の再開に対して積極的姿勢に変わった。57年2月に日本に岸内閣が成立し、他方インドネシアではスカルノ大統領が同年7月に国民評議会を設置して大統領権限を強化したことに伴って、賠償交渉の妥結への気運が高まり、58年1月20日にジャカルタで平和条約と賠償協定を調印するに至った。これと同時に、日本は、インドネシアに対して経済協力を約束し、また、交渉経過で問題となった、戦後の輸出入の差し引き帳尻のインドネシア側未払い金についても、日本がこれの請求権を放棄して解決した。
日本国とインドネシア共和国との間の平和条約
第1条 日本国とインドネシア共和国との戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。
第4条
1 日本国は、戦争中に日本国が与えた損害及び苦痛を償うためインドネシア共和国に賠償を支払う用意がある。しかし、日本国が存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、戦争中に日本国がインドネシア共和国その他の国に与えたすべての損害及び苦痛に対し完全な賠償を行い、同時に日本国の他の債務を履行するために十分でないことが承認される
(a)日本国は、別に合意される細目に従って、総額803億880万円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を12年間内に賠償としてインドネシア共和国に供与する。
(b)インドネシア共和国は、この条約の効力発生の時にその管内にある日本国及び日本国民のすべての財産、権利及び利益を差し押さえ、留置し、清算し、その他なんらかの方法で処分する権利を有する。(除外される権利あり)
2 インドネシア共和国は、前項に別段の定ある場合を除くほか、インドネシア共和国のすべての賠償並びに戦争の遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたインドネシア共和国及びその国民のすべての他の請求権を放棄する。
☆経済開発借款交換公文
1,440億円の額までの商業上の投資、長期貸付又は類似のクレジットが、日本国の国民により、締結されることがある適当な契約に基づいてインドネシア共和国の政府又は国民に対して行われるものとする(要旨)
☆旧清算勘定そのほかの諸勘定の残高に関する請求権の処理に関する日本国政府とインドネシア共和国との間の議定書
1952年8月7日にジャカルタで署名された日本とインドネシア共和国との間の支払取決等に基づき日本がインドネシア共和国に対して有する請求権額1億7,691万3,958ドル41セント(アメリカ合衆国ドル)の請求権を、日本は放棄する。(要旨)
この約803億円に相当する賠償については、「賠償として供与される生産物及び役務は、インドネシア共和国政府が要請し、かつ両国政府が合意するものでなければならない」と定められ、このなかには4つの高級ホテル、1つのショッピングセンター(デパート)、が含まれていた。賠償とは、戦争で被った人的物的被害を回復するべきものであるのに、その実体は開発を目的とした政府援助と同じものになっている。また、賠償のなかの船舶については、日本の中古船を市価の3倍以上の価格で賠償として支払ったものであったが、日本の有力政治家がこれに関わったとして国会で問題にされるなど、賠償のあり方については「一体何だったのだろうか」と大きく疑問が投げかけられている。(村井吉敬「賠償と援助──賠償・ODAから戦後処理を考える」『自由と正義』1993年9月号)。
このような「賠償」の実態を理解する上で、吉田首相が語ったとされる「向こうが投資という名を嫌ったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」という言葉は、重要な意味を持っているのではなかろうか。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
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