OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました。”http://hide20.web.fc2.com” にそれぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。(HAYASHI SYUNREI)
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日中全面戦争につながる盧溝橋事件が起きたのは1937年(昭和12年)7月7日である。事件後の日中間の衝突は複雑で、その詳細についての把握は難しい。しかしながら、『現代史資料9 ─ 日中戦争2』(みすず書房)の中には、下記のように考えさせられる資料がある。
まず、盧溝橋事件以後、一週間も経過していない7月12日に策定された「対支作戦用兵に関する内示事項」(資料1)である。第29軍の膺懲を目的としながら「宣戦布告」はしないという。また、二の用兵方針(2)には、第二段作戦として「上海及青島は之を確保し作戦基地たらしむと共に居留民を現地保護す」とある。居留民の保護はよいとして、この時点で外交交渉を考慮せず外国領土である上海や青島に「作戦基地」を持つという計画が許されるのか、と思う。まだ第2次上海事件前である。さらに驚くのは、7月12日の時点で、南京空襲が視野に入っていることである(二 用兵方針(2)の(ヲ))。
また、この「対支作戦用兵に関する内示事項」の「作戦指導方針ニ関シ」、時の第三艦隊司令長官・長谷川清中将が意見具申をしているが(資料2の「対支作戦用兵ニ関スル第三艦隊司令長官ノ意見具申」)、「支那第29軍ノ膺懲ナル第1目的ヲ削除シ、支那膺懲ナル第2目的ヲ作戦ノ単一目的トシテ指導セラルルヲ要ス」と、その「第一段作戦」をとばしていきなり「第二段作戦」に入るべきだという。盧溝橋事件の際に日本軍に抵抗した第29軍の膺懲が、支那膺懲にとってかわるのはなぜなのか、と思う。あまりにも手前勝手な論理ではないか。
さらには、「支那ノ死命ヲ制スル為ニハ上海及南京ヲ制スルヲ以テ最要トス」といっていることも大問題だと思う。「居留民の保護」が、最重要課題なのではないことがわかる。それを裏付けるように、7月28日には海軍次官(山本五十六中将)・軍令部次長(島田繁太郎中将)が「漢口上流居留民引揚ノ指示」を発している。第2次上海事件前に、着々と首都「南京攻略」を含む作戦の準備が進められていたということであろう。そして、それらが作戦通り実行されたことは、その後の「命令・指示」(資料3、資料4)でわかる。
日本がそうした作戦をもって軍を派遣すれば、現地でトラブルが発生することは当然予想されるが、案の定8月に第2次上海事変がはじまり、8月15日には日本本土から海を越えた攻撃、「渡洋爆撃」が敢行された。『戦略爆撃の思想 ゲルニカ─重慶─広島への軌跡』前田哲男(朝日新聞社)には
”1937年8月15日。日本政府による「対支膺懲」声明発出の日、同じく中国全土に「対日抗戦総動員令」の下った日は、また蒋介石政権の所在地・南京に対して、日本本土から海を越えた攻撃、「渡洋爆撃」の敢行された日とも重なっていた。この日、長崎県大村基地を発進した新鋭の九六式陸上攻撃機20機は、折からの低気圧をついて洋上約600キロを含む南京上空までの960キロを4時間で飛翔、各機12発ずつ抱いた60キロ陸用爆弾を、目標とされた2ヶ所の飛行場周辺に投下したのである。同日、台北基地からも九六式陸攻14機による江西省・南昌への渡洋爆撃が実施された。”
とある。そしてその後、8月31日まで23回の南京空襲が行われたのである。ドイツ製高射砲の被害を避けるため、その多くは夜間空襲であったという。南京市民は機影の見えない爆撃機の轟音と空襲警報のサイレンに怯える日々であったが、日本軍が毒ガス弾を使用すると伝えられていたため、空襲警報発令とともに暑い夏に窓を閉め切らねばならず大変であったいう。南京市立図書館なども爆撃され、市民の死傷者も多かったようである。『南京難民区の百日─虐殺を見た外国人』笠原十九司(岩波書店)には
”在南京のアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの五カ国の外交代表は共同して、日本が宣戦布告もしていない中国の首都を爆撃し、非戦闘員を殺害したことは、人間性と国際道義に反するものであるとして、爆撃行為の停止を日本政府に要求した”
とある。
しかしながら、日本帝国議会は、この「渡洋爆撃」の戦闘実績に動かされ、多額の航空戦力補備予算を認めたという。また、上海公大飛行場の建設・整備が整い、第二連合航空隊(司令官三竝貞三大佐)が大連の周水子基地から移駐してきたため、夜間空襲に代えて戦闘機の護衛つき空襲が可能になると、「航空決戦」と称する激しい空襲が展開されたのである。9月19日から25日にかけて11回延べ289機が出撃して行われた南京空襲は、8月の空襲よりいっそう悲惨なものであったという。
日本軍機による都市爆撃は、下記資料4の命令・指示を見てもわかるが、南京ばかりではなく、杭州や南昌その他の都市にもおよび、10月中旬までに華中、華南の大中小都市60ヶ所以上が被害をうけたという。それらがすべて「南京陥落」前の話なのである。日本軍の南京入城は1937年12月13日、「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」というようなことがあり得るだろうか。
資料1---------------------------------------------------------
三 対支作戦用兵に関する内示事項(差当り統帥部腹案として内示せらるべきもの)(7月12日軍令部策定)
一 作戦指導方針
(1)自衛権の発動を名分とし宣戦布告は行はず但し彼より宣戦する場合又は戦勢の推移に依りては宣戦を布告し正規戦となす。
(2)支那第29軍の膺懲を目的とし為し得る限り戦局を平津地域に局限し情況に依り局地戦航空戦封鎖戦を以て居留民保護及支那膺懲の目的を至短期間に達成するを本旨とす。
(3)海陸軍共同作戦とす。
二 用兵方針
(1)時局局限の方針に則り差当り平津地域に陸軍兵力を進出迅速に第29軍の膺懲の目的を達す。
海軍は陸軍輸送護衛竝に天津方面に於て陸軍と協力する外対支全力作戦に備ふ(第一段作戦)
(2)戦局拡大の場合概ね左記方針に依り作戦す(第二段作戦)
(イ)上海及青島は之を確保し作戦基地たらしむと共に居留民を現地保護す。
爾他の居留民は之を引揚げしむ。
(ロ)中支作戦は上海確保に必要なる海陸軍を派兵し且主として海軍航空兵力を以て中支方面の敵航空勢力を掃蕩す。
(ハ)北支作戦は青島は海陸軍協同して之を確保し爾他の地域は陸軍之を制圧す。
(ニ)陸軍出兵は平津方面に対する関東軍、朝鮮軍より応援するもの竝に内地より出兵する3箇師団の外上海及青島方面に2箇師団の予定にして其の配分情況に依る。
(ホ)封鎖戦は揚子江下流及浙江沿岸其の他我兵力所在地附近に於て局地的平時封鎖行ひ支那船舶を対象とし第3国との紛争を醸さざるを旨とす。
但し戦勢の推移如何に依りては地域的にも内容的にも之を拡大す。
(ヘ)支那海軍に対しては一応中立の態度及現在地不動を警告し違背せば猶予なく之を攻撃す。
(ト)当初第三艦隊は全支作戦に第二艦隊は専ら陸軍の輸送護衛に任ず。
青島方面に出兵するに至らば北支作戦は第二艦隊之当り中南支作戦は第三艦隊之に任ず。
作戦境界を海州灣隴海線の線(北支作戦含む)とす。
(チ)南支作戦は充分有力なる指揮官竝に部隊を以て之に充て第三艦隊司令部は中支作戦に専念し得る如く編制を予定す。
(リ)馬鞍群島には水上機基地艦船燃料補給等の為前進根拠地を必要とし之が所要兵力を第三艦隊に編入せらるる如く編制予定す。
(ヌ)輸送護衛は第二艦隊之に任じ青島方面出兵後上海方面に出兵の場合其の輸送護衛は第三艦隊主として之に当り第二艦隊之に協力す。
(ル)上海陸戦隊は現在派遣のものの外更に2箇大隊を増派し青島には特別陸戦隊2箇大隊を派遣す何れも其れ以上に陸戦隊必要とする場合は一時艦船より揚陸せしむ。
(ヲ)作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる空襲を以てす。
第一(第二)航空戦隊を以て杭州を第一聯合航空隊を以て南昌南京を空襲す爾余の部隊は右空襲と共に機を失せず作戦配備を完了す。
第二聯合航空隊は当初北支方面に使用す。
空中攻撃は敵航空勢力の覆滅を目途とす。
(ワ)右空襲に先だち揚子江上流竝に廣東警備艦船は所要の地点に引揚げるを要す。
(3)上海及青島方面に派遣せらるる陸軍との作戦協定は未済なるも当部協定案の大要左の如し。
(イ)上海及青島方面派兵を必要とする場合とならば上海方面は混成1箇旅団青島方面は1箇聯隊程度の先遣部隊を急派す。
(ロ)海軍艦船を以て為し得る限り陸兵輸送を援助す。
三 作戦部隊編制(内案)別表第一の通(略)
天龍、龍田は第二艦隊司令長官北支作戦指揮の場合は其の指揮下に入らしめらるる予定。
四 作戦部隊軍隊区分(参考案)別表第二の通(略)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
五五 対支作戦用兵ニ関スル第三艦隊司令長官ノ意見具申(昭和12年7月16日)
対支作戦用兵ニ関スル意見
一、作戦指導方針ニ関シ
支那第29軍ノ膺懲ナル第1目的ヲ削除シ、支那膺懲ナル第2目的ヲ作戦ノ単一目的トシテ指導セラルルヲ要ス
(理由)一、武力ヲ以テ日支関係ノ現状打開ヲ策スルニハ支那膺懲即チ現支那中央勢力ノ屈服以外ニ途ナシ
二、支那第29軍ヲ膺懲スルモ前項支那膺懲ノ実質的効果ナシ
三、戦局局限ノ方針ニ依ル作戦ハ期間ヲ遷延シ且敵兵力ノ集中ヲ助ケ我カ作戦ヲ困難ナラシムル虞大ナリ
二 用兵方針ニ関シ
(一)当初ヨリ戦局拡大ノ場合ノ作戦(所謂第二段作戦)ヲ開始セラルルヲ要ス
(理由)一項の部ニ同シ
(二)中支作戦ハ上海確保及南京攻略ニ必要ナル兵力ヲ以テスルヲ要ス
(理由)支那ノ死命ヲ制スル為ニハ上海及南京ヲ制スルヲ以テ最要トス
(三)中支作戦ノ為派遣セラルル陸軍ヲ5箇師団トスルヲ要ス。
(理由)前号ノ理由ニ同シ
(四)開戦劈頭ノ空襲ハ我ノ使用シ得ル全航空兵力ヲ以テシ、第二航空戦隊ヲモ当然之ニ含マシムルヲ要ス
(理由)一、作戦発端ニ於テ敵航空勢力覆滅ノ為ニ行フ空襲ノ成否如何ハ爾後ノ作戦ノ難易遅速ヲ左右スル鍵鑰ナリ
二、第二航空戦隊ノ飛行機ハ特ニ遠距離空襲ニ適ス
三、作戦部隊軍隊区分(参考案)ニ関シ
第二航空戦隊ヲ北支部隊ヨリ除キ、之ヲ航空部隊中ノ空襲部隊トセラルルヲ要ス
(理由)第2項(四)ノ理由ニ同シ
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
六四 命令・指示
一
〔上海確保ニ関スル第三艦隊ヘノ指示〕
8月12日午後11時40分 発電
軍令部機密第461番電
大海令第10号
昭和12年8月12日
軍令部総長 博 恭 王
勅 命
長谷川第三艦隊司令長官ニ命令
一、第三艦隊司令長官ハ現在ノ任務ノ外上海ヲ確保シ同方面ニ於ケル帝国臣民ヲ保護スヘシ
二、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ之ヲ指示セシム
8月12日午後11時55分発電
軍令部機密第463番電
大海令12号
昭和12年8月12日
軍令部総長 博 恭 王
長谷川第三艦隊司令長官ニ指示
一、第三艦隊司令長官ハ敵攻撃シ来ラハ上海居留民保護ニ必要ナル地域ヲ確保スルト共ニ機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘシ
二、兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
六六 命令・指示
一
昭和12年8月14日午後7時
〔第3艦隊司令長官南京等空襲命令〕
第3艦隊機密第607番電
一、明朝黎明以後成ルヘク速ニ当方面ニ於テ使用得ル全航空兵力ヲ挙ゲテ敵空軍ヲ急襲ス。
二、攻撃目標
第二空襲部隊 南京・廣徳・蘇州
第三空襲部隊 南昌(臺北部隊)
第四空襲部隊(第12戦隊・第22航空隊) 杭州
第8戦隊・第10戦隊・第1水雷戦隊航空機 虹橋
二
臨参命第73号
命令
一、上海派遣軍(編組別紙ノ如シ)ヲ上海ニ派遣ス
二、上海派遣軍司令官ハ海軍ト協力シテ上海附近ノ敵ヲ掃滅シ上海竝其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ
三、動員管理官ハ夫々其動員部隊ヲ内地乗船港ニ到ラシムヘシ
四、支那駐屯軍司令官ハ臨時航空兵団ヨリ独立飛行第六中隊ヲ上海附近ニ派遣シテ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ラシムヘシ
五、上海派遣軍ノ編組ニ入ル部隊ハ内地港湾出発ノ時其動員管理官ノ指揮ヲ脱シ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ルモノトス
但独立飛行第六中隊ハ上海附近到着ノ時ヲ以テ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ルモノトス
六、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム
昭和12年8月10日
奉勅伝宣
参謀長 載 仁 親 王
参謀総長 載 仁 親 王 殿下
上海派遣軍司令官 松 井 石 根 殿
支那駐屯軍司令官 香 月 清 司 殿
その他13師団長宛(師団長命略)
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