真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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グローバル資本主義よる搾取と収奪、富の偏在、戦争

2023年03月19日 | 国際・政治

 フルカウント(fullcount)によると、今、WBCで大活躍中のエンジェルス・大谷翔平選手は、単年3000万ドル(約43億4000万円)で2023年の契約に合意したということです。また、年俸3000万ドルは現時点でメジャーで16番目だそうですが、フォーブス(世界的な経済誌)は「今回の契約とエンドースメント収入を合わせて、5000万ドルになると見られ、この額は今年のMLBの高額収入選手リストで2位に位置する」と指摘しているといいます。エンドースメント収入とはスポンサー収入などのことで、年俸と合わせて、総収入は5000万ドル(約72億3700万円)にもなるというのです。

 アメリカのメジャーリーグで活躍すれば、こうした高額な年俸が得られるのみならず、世界に名を知られる選手になれるので、優秀な選手が世界中からアメリカに集まるのだと思います。
 そして、野球選手に限らず、あらゆる分野で、優れた能力を持つ人たちが、アメリカを目指すのだと思います。圧倒的な経済力によって築かれた他国では見られない文化が、アメリカには数多くあるからだと思います。だから、中国やロシアにも、アメリカに魅力を感じ、自国よりもアメリカが好きだという人は大勢いると思います。

 でも、考えるべきことがあります。
 世界の大企業ランキングトップ10中、9か国はアメリカの企業です。トップ20に入る企業のアメリカ以外の国のものは、サウジアラビア1 フランス1 台湾1 中国1です。
 また、フォーブス世界長者番付・億万長者ランキング(2022年版)を見ると、トップ10に入るのは、アメリカ人8人、フランス人1人 インド人1人です。
 私は、アメリカの魅力が、この富の極端な偏在に基づいていることを見逃してはならないと思います。アメリカは、圧倒的な経済力、圧倒的な軍事力、圧倒的な政治力を生かして、世界中から利益を吸い上げるシステムを構築しているのです。

 現在アメリカは、「自由で開かれたインド太平洋」などというもっともらしい言葉を使って、アジア諸国を仲間に引き入れ、中国を追い詰めるためようとしているようですが、それは、国家間の障壁を取り除き、自由化を推し進めて、アメリカの資本が、他国から自由に利益を吸い上げることのできるグローバルなシステムを、中国に認めさせようとする意図に基づいていると思います。中国が受け入れないので、様々な制裁を課し、武力行使の準備をしているのだと思います。
 でも、経済のグローバル化の実態は、上に見たように、富の偏在をもたらし、強者と弱者の格差を拡げ、環境破壊さえもたらしていることを見逃してはならないと思います。
 すでにみたように、最近アメリカは、自国の利益のために、メキシコに遺伝子組み換えトウモロコシを輸入するように強要しているのです。少し溯れば、メキシコのサパティスタ民族解放軍が、当時のクリントン大統領に訴えたように、アメリカは、当時のカルロス・サリナス・デ・ゴルタリ政権と手を結び、搾取と収奪をくりかえしていたのです。

 アメリカが露骨に搾取や収奪をする対象国は、主として、中南米やアフリカ、中東、アジアなどの国々だと思いますが、その他の国々からも、大なり小なり利益を吸い上げていると思います。アメリカの要求を受け入れなければ脅し、脅しても受け入れなければ制裁を課し、場合によっては武力行使もするというのがアメリカだ、と私は思います。

 下記は、「ぬりつぶされた真実」ジャン・シャルル・ブリザール/ダスエ、ギヨーム著:山本知子訳(幻冬舎)からの抜萃ですが、アメリカがあらゆる地域から利益を吸い上げるために、巧みな外交を展開していることが分かると思います。

 アメリカは、共産主義政権や社会主義政権はもちろん、民主主義政権をも、排除の対象にしているように思います。自由に利益を吸い上げることが難しいからだと思います。
 アフガニスタンでは、1978年に社会主義政権が成立し、近代化およびイスラムの教えに縛られない世俗化政策を進めたということですが、イスラム勢力の反政府運動が激化したため、当時のソ連が、このアフガニスタン人民民主党政権を安定させる目的で、侵攻に踏み切ったといいます。
 その時、アメリカはソ連軍と戦う勢力を支援したのです。でも、いわゆる「アメリカ同時多発テロ事件」以降、アメリカは、手のひらを返したように、かつて支援した勢力を潰しにかかったのです。それがアフガニスタン戦争だと思います。
 そうしたことを踏まえて、ウクライナ戦争やアメリカの対中戦略を受け止める必要があると思うのです。アメリカが支援するかどうかは、アメリカの覇権や利益の維持拡大のためであり、民主主義などとは関係ないのだ、と私は思います。
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             第一部 アメリカ合衆国とタリバンの隠された関係
 
            第一章 ライラ・ヘルムズ 職業:タリバンのロビイスト

 元CIA長官の姪ライラ・ヘルムズ。タリバンのロビイストだ。2001年9月11日の同時多発テロ以前、2月から8月にかけて、アメリカ政府はタリバンと交渉を続けていた。
 もともとアメリカは、アフガニスタンの戦士たちに好意的だった。旧ソ連のアフガニスタン侵攻に対して、CIAを通じてひそかにイスラム戦士、ムジャヒディンを支援していたし、ソ連撤退後の泥沼の内戦では、タリバンに期待した時期もあったのだ。
 アメリカは自国の石油政策のため、アフガニスタンを手中におさめたかった。一方のタリバンは窮迫し、経済支援を得るために国際的な認知を必要としていた。こうしてアメリカ政府とタリバンの利害が一致した…。
■ ムジャヒディンへの支援
 彼女の名はライラ・ヘルムズ、ワシントン在住。元イラン大使で、最近までCIA長官を務めていたリチャード・ヘルムズの姪である。その生い立ちから見ても、ライラが世界の闇の部分と無関係に生きてきたとは考えられない。アフガニスタン生れでアメリカ育ちの彼女は、40歳を過ぎた今も溌溂(ハツラツ)としている。彼女の半生は、この両国の関係の波乱に富んだ歩みとともにあったといえるだろう。
 ライラは、1980年代にはすでに、アメリカ東海岸で、アフガニスタンへのソ連の侵攻と闘うムジャヒディン(イスラム教の聖典、ジハードを戦う兵士たち)を支持する活動をしていた。
 当時、彼女は、国務省とホワイトハウスがバックアップするアメリカの非政府団体「アフガニスタンの友」に参加していた(ソ連のアフガニスタン侵攻に対抗するムジャヒディンを支援する在米グループの代表)。アフガニスタンのムジャヒディンに対するアメリカの世論の共感を高めること、それがこの会の目的である。
 遠い祖国で起きている対ソ聖戦の、いわば西洋での中継地としての役割を果たしていた。
 若きライラ・ヘルムズは、この会の一員として、1986年3月20から4月5日までの間、ムジャヒディンのリーダー、サイイド・ムハンマド・ガイラーニーのアメリカ国内旅行をお膳立てする役を仰せつかった。このアフガニスタン・ゲリラの幹部ガイラーニーは、アラブ系のパシュトゥン人である。西洋で教育を受け、最も穏健なムジャヒディン指導者といわれていた。
 まったく予定されていなかったことだが、彼は旅の途中、当時副大統領であったジョージ・ブッシュ(父)に出会い、長時間話し合う機会を持った。1986年3月21日、ワシントンでのことである。
 ライラ・ヘルムズは世渡りに長け、アフガニスタンの宗教的リーダーをはじめとする豊富な人脈を持っていることから、アメリカのアフガニスタン人の間でしだいに頭角を現していった。
 さらにいくつかの歴史的偶然も手伝い、気がつくと誰もが認めるアフガニスタンのロビイストになっていた。いいかえれば、アフガニスタンに対するアメリカの政策が、ライラをロビイストに仕立て上げたのだ。彼女は、いわばアメリカ政府から優遇されてきたイスラム教徒のリーダーたちを、長い間サポートしてきた存在だった。
 1995年、サウジアラビアからの寵愛を受け、財政的支援を得たタリバンはアメリカの国務省までも味方につけ、今まさにカブールで権力を握ろうとしていた。当然のことながら、アメリカとサウジアラビアは、タリバンの陰のスポンサーとささやかれ始める。そしてこのころにはもう、ライラは自然に、ワシントンにおけるタリバンの利益代理人のひとりに数えられるようになった。
 それから6年間、ライラはタリバンの代理人として、特に国連に対して影響力を持つさまざまな活動の調整役を務めてきた。1996年以降、タリバンの最高指導者ムハンマド・オマルは、アフガニスタンの法律を無視して次々に死刑を執行する。
 こうした指導者の実態が明らかになるにつれ、タリバンはアメリカ政府にとっては正式に付き合うのが難しい相手になってきた。しかし、国連に対するライラの働きかけは決して衰えることはなかった。
 1996年にタリバンがオサマ・ビンラディンを迎え入れた後も、さらに1998年、ビンラディンがナイロビと、タンザニアの首都ダルエスサラームのアメリカ大使館襲撃テロに資金を提供した罪で追われるようになった後も、ライラはロビイストとして、タリバン支持の立場を変えなかった。
 たとえば1999年2月、ライラ・ヘルムズは、アフガニスタン女性の生活を紹介するテレビドキュメンタリーをNBCで制作した。

 この番組のため、テレビ局の撮影班がアフガニスタンに送り込まれた。撮影は二週間に及んだという。しかし完成した番組は、アフガニスタンの女性たちの暮しの厳しさをありのままに映し出したものではなかった。まるでタリバンのプロパガンダ用フィルムのように仕上がっていたのだ。結局NBCはもとより、アメリカのどこのテレビ局もこのドキュメンタリーを放映することはなかった。
 今ではとても不思議に思えるが、ヘルムズ女史のこうした積極的な行動は、アメリカでは決して例外的なものではなかった。
 タリバンの他の代理人たちも、ごく最近までは、一見目立たたないが重要な活動の拠点となっている組織を通してアメリカでも一目置かれている存在だったからだ。
 たとえば、アフガニスタン・イスラム首長国(タリバン政府)のアメリカのオフィスは、タリバン政権が表向きは認められていないので完全に非公式ではあったが、アメリカに構えたタリバンの大使館事務局のようなものであった。それでも2001年8月、タリバンの代表者たちは、ニューヨークのフイーンズにあるビルの中でいくつかの部屋を手に入れることができた。それは、9月11日のテロの直前まで、彼らがニューヨークに存在することが実際には容認されていたことを意味している。
 このクイーンズにあるビルに、北アメリカにおけるタリバンの非公式大使、マウラーナー・アブド・アル・ハキーム・ムジャーヒドが迎えられていた。
 2001年2月5日に、タリバンが正式な認知を求めた後、アメリカとアフガニスタンの新しい関係を大々的に調整するという重責をワシントンで任されたのは、当然のことながらこのライラ・ヘルムズはであった。彼女は、その外交的手腕を発揮して、ブッシュ政権の最高責任者たちとムッラー・ムハンマド・オマルの密使との会議を準備した。
 オマル側の交渉相手となるアメリカ政府では、今や実権を握っているのは、その昔ムジャヒディンがソ連と戦った時代に手を組んでいたのと同じ人物である。ブッシュによる共和党政権では、かつてモスクワを揺さぶるためにイスラムゲリラを熱烈に支援した官僚たちが、再び重要なポストに就いていたからだ。
 こうして、一時的なものとはいえ、タリバンとアメリカ政府との間で非常に大きな意味を持つ同盟関係が結ばれようとしていた。

 ■ タリバンへのインタビュー

 ライラの奔走の成果が最初に現れたのは、タリバンが国際的認知を求めてきた2ヶ月近く後だった。2001年3月18日から23日まで、タリバンの移動大使と呼ばれる24歳のサイイド・ラフマトッラー・ハシミが、アメリカを短期訪問したのである。彼は、ムハンマド・オマルの個人的な相談役でもあった。この旅行は、タリバンがバーミャンの建立千年以上といわれる古い仏像をダイナマイトで破壊した事件が世界中に伝えられた後に行なわれている。
 これほど緊迫した状況にもかかわらず、ロビイストのライラは、若いアアフガニスタン指導者のためにいくつかの会談をセッティングする。保安問題の専門家で、元情報担当軍人であったアメリカ人ジャーナリスト、ウェイン・マドセンによれば、この時、アメリカ政府の少なくとも二つの組織がハシミとの会談に応じたという。CIA中央局(DCI:Directrate of Central Intelligence) と国務省情報調査局である。
 それどころか、メディア王国アメリカにあってライラは、この大事な客人ハシミに、二つのインタビューを用意することに成功した。各国の政策決定者がチェックしているといわれるメディア、ABC放送とナショナル・パブリック・ラジオでオンエアされるインタビューだ。タリバンのイメージを改善し、交渉を有利に進めるための夢のようなチャンスだった。
 このハシミの訪問の背景は何だろうか? 単にヘルムズ女史の才覚の成果だろうか? 誰がハシミを送り込んだのだろうか? そして、このアメリカ旅行は、一連のどんな流れに沿ったものなのだろうか?

 アメリカでは、1999年初めから2001年8月まで、アフガニスタン問題を解決しようとする慎重かつ粘り強い意志が確かに存在していた。こうした努力の唯一の成果は、ブッシュ率いる共和党政権が
 、クリントン政権のメンバーによって始められたアフガニスタンに対する働きかけのプロセスを加速させる決断をしたことである。
 その一方、2001年2月5日のタリバンの外務大臣の宣言は、カブールの指導者たちもまた、できるだけ早く協定を結びたがっていることを示していた。
 アメリカ政府とタリバン。この段階で、両者が手を結ぶことによる利益はどちらにとってもはっきり見えていた。ワシントンはエネルギー政策という名目で、タリバンを段階的に国際認知させていく方針を支持していく。この支持と引き換えに、タリバンは平和政策をとることを決断する。つまりタリバンは、原理主義者の長オサマ・ビンラディンを客人として歓迎することを断念しようとした。そして国際的な関係では、原理主義的なスンナ派国家という路線にとどまることで合意していく。
 さらに、急進的なスンナ派の最大の財源であり、アラブ世界ではアメリカの第一の同盟相手であるサウジアラビアが定めた方針と、完全に合致した立場をとることにしたのだ。
 このギブ・アンド・テイクの関係を実現させるために奔走した重要人物が何人もいた。たとえば、2000年1月パキスタンで、アメリカ国務省の高官のひとりが、タリバンの大使サイイド・ムハンマド・ムッタキーと会見する。この高官は、その機を利用して現地のアメリカ人大使トム・サイモンズとも話し合った。その後、このアメリカ大使サイモンズが、アメリカとアフガニスタン間の折衝のパイプ役を果たすようになる。
 こうしてアメリカとアフガニスタンの交渉が最後の幕が上がった。ワシントンにとって、これらの交渉目的は、ひとことでいえば、きのうまでの同盟相手であるタリバンに過激な行動を控えさせ、本来の道に立ち戻らせることにあった。
 なぜなら、タリバン政権は、必ずしもホワイトハウスと国務省の権力者たちによって嫌悪されてきたわけではないからだ。むしろ反対だ。
 数年間アメリカは、タリバンの台頭を自分たちにとって幸運な動きとさえ考えていた。たとえば1994年から1998年まで、タリバンに対して歓迎の意を表していたほどである。アメリカは強大な権力が集中しているポトマック河沿いのワシントンDCから、アフガニスタンの状況のさまざまな変化をすばやく察知していた。3、4平方キロメートルの面積に、財政、政治、軍事の司令部──世界銀行からペンタゴンまで──が混在している地域だ。
 そこに立ち並ぶ建物の中では、巨大なスクリーンに、石油をはじめとする原料価格の変動する相場が映し出されている。ここには、世界中のありとあらゆるニュースをまとめた外電までがまっ先に送られてくる。
 アフガニスタンに関して、アメリカの参謀本部の考えは完全に決まっていた。中央アジアのエネルギー備蓄の鍵を握っているアフガニスタン。和解の方向でこの鍵を利用するには、アフガニスタンを揺るぎない強力な政府によって統治される必要がある。
 1998年ナイロビとダルエスサラームでテロが起きた後でさえ、またタリバンがオサマ・ビンラディンを保護していたにもかかわらず、アメリカがタリバンと交渉を続けてきた理由がそこにあった。

 


 

 

 


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