カウラ捕虜収容所の脱走事件に参加し、戦後、豪州カウラ会の会長を務めた森木勝氏が、脱走に至った心情について、”捕虜となった瞬間から、考えることは自殺の方法ばかりでした。私たちをあのように恐ろしい向こう見ずな行動に駆り立てたものは、救いようのない絶望感だったのです。”と語っていました(前回抜粋)が、ニュージーランドのフェザーストン捕虜収容所で起こった、日本人捕虜反乱事件も、背景には同じような、捕虜になってしまった「絶望感」があったのだと思います。
その「絶望感」と関連して私が思い出すのは、「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(角川文庫)で取り上げられている、女子学徒隊の人たちの手記の記述です。
「上原当美子の手記」には、次のような記述がありました。
”先生が、女子学生は即時解散せよとの軍令を伝えられた。
「長いことみなさんご苦労であった。米軍は間近にせまっている。今ここで解散しなければいけない状態になった。しかし国頭方面ではまだ相当の将兵が交戦している。できるだけみんな無事で国頭まで突破してくれ。運がよければふたたびあう日もあろう」
最後の別れをおっしゃった。兵隊は生徒を残してほとんど壕を去ってしまった。サイパンの玉砕、ふたたびまた郷土沖縄の敗戦。
「皇国の女性だ、死ぬならいさぎよく死にたい。亡くなった学友に対して恥かしくないように……」
みんなは心の中で強く誓った。”
また、「垣花秀子の手記」には、
”米兵の異様な声音と口調。
「大和撫子が捕虜に? とんでもない。死のう”」
私たちはとっさに死を決心した。いつの間にか十二名が車座になり、三個の手榴弾が適当に配られた。・・・
数十メートルいったところであった。私たちと同年輩ぐらいの女の方が、崖から飛びこんだ。やはり死にきれず、大ケガをしただけで、おまけに米兵に救いあげられてしまった。
神国日本に生まれ、捕虜になる! こんなことがあってたまるものか。死に倍する恥辱だ”
また、「比嘉園子の手記」には、
”刻一刻おし寄せてくる逼迫感に、私たちはふたたび自決について話しあった。
「師範の生徒は、絶対に捕虜になってはいけない。自決だ」
私たちは結局どうにもならない最期のときには、いさぎよくりっぱに死ぬことを約束して時期を待つことにした。”
また、「喜舎場敏子の手記」には、
”捕虜になどなるもか。それより死んだほうがよい。学校の不名誉だ。古見さんと二人は手を握りあって震えていた。”
また、「座波千代子の手記」には
”婦長は、三十余名の看護婦を集めてはかった。
「皆そろってここで玉砕すべきか、それとも解散したほうがいいでしょうか」
あまりにも重大な決断をせまられて、しばらく答える者もなく沈黙が続いた。”
戦時中の日本では、高等女学校や師範学校の女生徒でさえ、捕虜になることを”死に倍する恥辱”などと考えていたのです。だから、皇軍兵士にとっては、尚更、恵まれた待遇のフェザーストン捕虜収容所の生活も、日々針のむしろに座らされている心地であったのだろうと思います。
捕虜になることをこの上ない恥辱と考え、その恥辱から逃れるために、死のうとするこうした日本人の心情は、神話をもとに創作された歴史と一体の国家神道(神話的国体観・皇国史観)が源であることは、下記のような文書で明らかだ、と私は思います。
明治天皇が軍隊に下賜した勅諭、すなわち「陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭」に、
”一 軍”人は忠節を盡すを本分とすへし凡(オヨソ)生を我國に稟(ウ)くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき 况(マ)して軍人たらん者は此心の固(カタ)からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固(ケンコ)ならさるは如何程(イカホド)技藝に熟し學術に長するも猶偶人(グウジン)にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同(オナジ)かるへし抑(ソモソモ)國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長(セウチョウ)は是國運の盛衰なることを辨(ワキマ)へ世論(セイロン)に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ”
とあります。“己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕し”と教えているのです。
陸軍大臣・東條英機が発した「戦陣訓」の「序」には、
”夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。”
とあり、本文のなかには、
”恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。”
とあるのです。こうした国家神道(神話的国体観・皇国史観)に基づく教育が、戦前の日本では徹底していたために、ひめゆり学徒隊の女生徒でさえ、自らが捕虜になることが、郷党や家門、学校の不名誉になると考えたのだと思います。
それが、人命や人権を何より大事なものとして尊重する国際社会の考え方と相容れないものであったことは明らかであり、したがって、GHQが「神道指令」を発して、国家と神道を切り離し、政教分離を図ったのは当然の対応だったと思います。人命や人権は、国家権力によっても侵されてはならないのです。
だから、“己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕し”として、”生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ”といういうのは、きわめて野蛮で国家主義的な考えであり、人命や人権こそが、”山嶽よりも重く”なければならないのだと思います。
そうした意味で、カウラ事件もフェザーストン事件も、その深層には、捕虜になったことの恥辱から逃れたいという、強い思いがあった悲劇であることを、忘れてはならない、と私は思います。
下記は、「生きて虜囚の辱めを受けず カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走」ハリー・ゴードン 山田真美訳(清流出版)から「第一部 戦争捕虜」の「フェザーストン事件」を抜萃しました。
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第一部 戦争捕虜
フェザーストン事件
1943年の末、カウラ捕虜収容所当局に一通の報告書が寄せられた。それは、この年の早い時期にニュージーランドのフェザーストンで起こった、日本人捕虜反乱事件に関するものであった。
フェザーストン捕虜収容所は二つの地区から成り、第一地区は朝鮮人など日本軍に労働を強いられてきた者を、第二地区は日本軍の士官および下士官と兵240人を含む戦争捕虜を収容し、双方の合計は700人を下らなかった。朝鮮人たちが一度も問題を起こさなかったのとは対照的に、捕虜となった日本人たちは常に反抗的で、当局を頭から馬鹿にし切っていた。カウラ同様、フェザーストンでも捕虜たちは寛大な待遇を受けていた。一週間の労働時間が33時間を超えることはなく、職場は主に建具屋や青果農場だった。作業着はもちろん、求めればサングラスも支給された。収容所の病院では、骨や皮膚の移植など整形手術や、スウェーデン式マッサージさえ受けることができた。さらに食べ切れないほどの食事と快適な住環境も用意されていたし、それぞれの地区には運動場やラジオが、士官には安楽椅子があてがわれた。
捕虜という屈辱的な立場の自分には、日本にはもはや帰る場所がない。このような捕虜の精神的苦悩について、ニュージーランド当局は国際赤十字社を通じて早い時期から知らされており、これに対して講じ得る対策はすべて実行されていた。例えば、捕虜たちには辞書500冊、麻雀や卓球の道具、楽器などが支給されたほか、アイスクリームは常にふんだんに用意されていたし、映画鑑賞や二週間のクリスマス休暇さえあった。
しかしどれも捕虜の心を癒すことはできなかった。ここでもカウラ同様に、行進を拒否するなどの小さな抵抗が繰り返されていたが、再三にわたる注意も無視して反抗的な態度をとり続ける捕虜たち。その態度に業を煮やした収容所長・ドナルドソン中佐は、
「三日間の猶予期間内に態度が改められない場合には、下士官と兵とを分離する」
と宣言した。この<下士官と兵の分離>という発想が、二日後の1943年ニ月二十五日に起こる暴動の直接の引き金となるのだ。
暴動の詳細は、ニュージーランドのフレザー首相から英・米・豪の当局者に宛てた、二十六日付の極秘電報に詳述されている。
「昨日午後八時四十分、当直の将校から会議中のドナルドソン長官のもとに、『第二地区の捕虜が労働を拒否している』との報告が入った。長官は『五人組の作業班を出すよう、日本人下士官に命令しろ。さもなくば下士官を拘禁する』と命令。しかし下士官はこの命令を拒絶し拘禁された。長官は『ただちに五人組の作業班を出せ』と繰り返したが、命令は再び無視された。収容所副官のマルコム中尉が現場に行ってみると、捕虜たちは所定のグラウンドではなく兵舎と兵舎の間の空き地に座り込んでいた。士官の足立と西村も同席していた。マルコム中尉の『全員グラウンドに整列。士官らは速やかに自室に戻れ』との命令は頭から拒否され、捕虜たちはその場に居座った。マルコム中尉は四十人の衛兵を従えていた。うち何人かは短機関銃やライフルで武装している。副官は足立と西村に『どうしても立ち去らない気なら力づくだ』と告げた。武器をはずして丸腰になった衛兵が、足立と西村に近づこうとしたところ、大勢の捕虜が彼らの行く手を阻み、両者は遂に殴り合いになった。先に手を出したは捕虜たちだった。足立と西村はこの間に兵舎に戻ってしまっていた。マルコム中尉は四人の丸腰の衛兵を下がらせ、代わりに武装した四人の衛兵に足立と西村を捕らえるよう命じた。四人のうちの一人が、邪魔だてする捕虜を銃剣で威嚇した途端、捕虜全員がその場で跳び上がり、大声で叫びながら威嚇の姿勢をとって見せた。この時西村が再び姿を現し、通訳を通じて、『この場から動くかどうかは我々自身の話し合いによって決める』と宣言した。四人の衛兵に引かれて西村が抵抗しながら連行されて行く間、捕虜たちは威嚇するような態度をとり続けた。続いて現れたの足立は、大きな石を二つ拾って捕虜たちの真中に立った。マルコム中尉は足立に対し、自主的にこの場を去るよう勧告した。通訳は、足立の馬鹿げた態度が彼の部下にとっても悪い結果をもたらしかねないと警告し、自分が宿舎まで同行しようと申し出た。足立はこの申し出に一瞬躊躇したかに見えたが、仲間に勇気づけられて断固拒絶した。マルコム中尉は衛兵に向かい『武力行使もあり得る。その場合、最初は空に向かって撃つこと、決して見境なく撃ってはならない』と告げ、続いて武装していない四人の衛兵に足立を連行するように命じた。衛兵が近づくと捕虜たちは一斉に殴りかかって来たが、衛兵は殴り返さなかった。殴られた四人は退却し、代わりに武装した四人の衛兵が足立逮捕に向った。しかし手に手に大きな石を持った捕虜に阻まれ、退却を余儀なくされる。石は収容所の道路に敷くための物で、大量に備蓄されていたのだ。それまで丸腰で衛兵と捕虜のあいだに立っていたマルコム中尉は、捕虜を威嚇するためピストルを借り受けた。これを見た足立は立ち上がり、両拳でおのれの胸を叩きながら挑発的に叫んだ。マルコム中尉は足立の頭上を撃った。途端に捕虜が石を投げ、一斉に襲いかかって来た。足立を目がけてマルコム中尉はが二発目を撃つや、捕虜たちが襲いかかり、同時に衛兵の銃が火を噴いた。顔面を石でやられたマルコム中尉は、屈んで衛兵の後方に下がりながら『撃ち方やめ!』と叫んだが、その声は騒音にかき消され、命令はすぐには実行されなかった。この暴動で四十六人の捕虜が死亡、六十六人ほどが負傷した。衛兵も一人が跳弾による重傷、四人が切り傷や打ち身など軽傷を負った」
その後ニュージーランド政府は、イギリスからの助言をもとに事件の処理に当っている。イギリス政府は助言のなかで、
「この件に関してはできるだけ正規のやり方で処理すること。異常事態の発生を日本側に感づかれることは極力避けよ」
と述べている。事件が日本側に漏れることはつまり、敵に捕らわれている同胞が残忍な報復を受ける危険性を意味したのだ。
三月一日、フレーザー首相はこの事件の犠牲者数(この時点で、捕虜の死者四十八人、負傷者六十三人。衛兵の死者一人、負傷者六人)を、簡潔な声明文で国内向けに発表した。海外への発表は、日本が公式ルートを通じて事件を知らされるまで、さらに数日間にわたって保留された。その直後に開かれた査問会議の結論は、三月二十二日に英・米・豪・カナダ・南アフリカに極秘裏に通達された。その内容は次のようなものである。
・発射された弾は短機関銃からの七十発とライフルからの百五十発で、あの状況では避けることのできなかった数字である。
・この暴動で負傷した足立は「責任は私一人にある。私を殺してくれ」と言った。
・第二地区に放火し、消火活動に来た衛兵を襲って武器を奪うという計画が、前年の十二月にはすでに練られていた。
・捕虜となって敵のために働くなどは日本人にあるまじき行為であり、戦場で死んでいった仲間に対して申し訳ないと、おおかたの捕虜たちはか考えている。
事件から半年後の九月、『ニュージーランドに於ける日本人捕虜殺害』と題された文書が、スイスを通じて日本からもたらされた。その中で日本側は
「イギリスおよびニュージーランド政府が丸腰の捕虜をあくまで武力によって制圧するのならば、我々はこれを慣例とみなし、将来的に同じ行動を起こすことになろう」
と述べている。イギリス・ニュージーランド両政府は、文書の中で使われている<殺害>という表現に即座に異議を申し立て、前年二月十四日に日本軍が三人のイギリス人捕虜を処刑した例を引き合いに出した。三人はマニラの収容所から逃げ出し、冷酷にも処刑されたのだ。これに対し、フェザーストンで暴動を起こした足立と西村は処罰を免れている。
フェザーストンの反乱は、近い将来カウラで起こるかも知れない事件を予見していた。その意味でこの暴動の持つ意味は大きい。まあた、事件の処理が関係各国の政府レベルで極秘裏に行われたにもかかわらず、その概略はなぜかカウラの日本人捕虜たちにも知れわたっている。これは看過できない重大な事実と言わねばならない。
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