真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 タイ

2014年06月05日 | 国際・政治
 タイには、大戦後今日にいたるまで、毎年12月8日に慰霊祭がいとなまれているところがあるという。ナコンシータマラートやプラチュアップキリカンである。そこには、タイ兵士の像をいただいた記念碑が建っているという。1941年12月8日、日本軍がタイの「中立」を侵し、タイの承認を得ないで上陸したため、それを阻止しようと果敢に戦い犠牲となった兵士や住民の慰霊祭であるという。日本軍の「タイ」上陸は、無血上陸ではなかったということである。

 ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発したとき、ピブン・ソンクラーム陸軍元帥を首相とするタイ政府は、中立的立場をとることを表明した。そして、日本と友好関係を保ちつつ、同時にイギリス、フランスとも、相互不可侵条約を締結した。しかし、日本軍の上陸後、タイ国軍最高司令官であるピブン首相は、タイが日本軍に抵抗する力がないことを確認して、一部閣僚の反対を押し切り、日本と「日本軍のタイ国内通過承認協定」を締結した。そして、12月21日には、「タイ・日攻守同盟」を締結し、さらに、その翌年の1月25日には、当初の中立の立場放棄し、枢軸国の盟友として「対米英宣戦布告」をするに至るのである。

 ところが日本降伏直後の1945年8月16日、タイのプリディ・パノムヨン摂政は、「対米英宣戦布告はタイ国民の意思に反したものである。日本に強制されて行ったのであり、戦時中の損害についてはすべて補償を行う」という平和宣言を発した。アメリカ政府は、この「対米英宣戦布告無効」の平和宣言を即座に受け入れた。いくつかの要求項目をあげつつ、イギリスもこれを受け入れている。日本の強制を認めたということであろう。プリディ・パノムヨン摂政自身が、タイ国内に抗日地下部隊を設立し、アメリカやイギリスの自由タイ運動と連携しながら、連合軍の援助を続けていたということなども考慮されたのではないかと思う。

 タイの歴史教科書には、「日本の戦争」による被害の記述はほとんどないようであるが、「泰緬鉄道」建設工事には、他のアジア諸国同様、数万人の「ロームシャ」が動員され、過酷な労働を強いられたという。ビルマ経由の援蒋ルートの遮断と、インド侵入のためのビルマ作戦を進めるため、大本営が1942年6月に早期開通建設命令を出した「泰緬鉄道」建設工事は、難所が多く「枕木一本、人一人」といわれるほどの犠牲者を出したことで知られているが、タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約415キロにわたる工事で、常識では考えられない突貫工事であったという。実数はわからないが、地元タイからも相当数の労務者が動員されたことは間違いないであろう。また、タイ国内に駐留する日本軍の軍需物資調達のために、多量の「軍票」が発行され、タイ経済が混乱したということも、他のアジア諸国と同様であったという。
 タイの歴史教科書に、「日本の戦争」による被害の記述がほとんどないということが、被害がなかったということではないことを忘れてはならないと思う。そういう意味で、「タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた」という記述や、抗日組織が連合国側と協力し合い動いていたというような記述には、注目する必要があると思う。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「タイ」から、私が記憶しておきたいと思った部分を、選んで抜粋したものである。

訳注
(1)タイ仏暦紀元は釈迦入滅のときで、西暦紀元前543年としている。したがって、仏暦を西暦におきかえるには、仏暦年号から543年を引けばよい。仏暦2482年は西暦1939年になる。

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中学校2年生用 社会科教育読本『歴史学 タイ2』(タイ語)教育委員会仏暦2523年(1980年)版

           第5章 開国から今日までの各国との同盟関係

 タイ国と第2次世界大戦への参画

 仏暦2382年(1939年)9月3日、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まったとき、ピブン・ソンクラーム陸軍元帥を首相とするタイ政府は、中立的立場をとることを表明した。日本が、ドイツ・イタリアと同盟関係を結び、枢軸国となって以来、タイは戦争が近づきつつある危機を感じていた。そこで、領土保全のため友好条約に調印し、日本との相互友好関係を保った。同時にタイは、イギリス、フランスとも、相互不可侵条約を結んだ。

 ヨーロッパでの戦闘は当初、ヒトラー率いるドイツが、電撃戦でフランスをうち破った。そしてついにパリと北フランスを占領し、勝利を収めた。ペタン政府はドイツとの停戦条約調印を承認し、政府を南フランスのビシーに移さなければならなかった。

 タイ政府は、ペタン政権に文書を送る機会を得て、以前タイが割譲した仏領インドシナのルアンプラバーンとチャンパーの領有権を手に入れようと、国境の変更を要求した(両地域は仏暦2440年にフランスに割譲した領土で、タイとフランスのあいだで国境紛争があった)。要求は自然なものであり、公正なものであると思われていた。フランス政府はタイの要求を拒否した。仏暦2483年11月28日、タイと仏領インドシナとの国境で衝突が起こった。争いは1ヶ月と続かなかった。当時日本は東南アジアに指導力を有し、影響力をもっていた。そこで調停役としての義務を行使したのである。タイとフランスは東京での会議に代表を送り、ともに東京平和条約に調印した。仏暦2484年5月9日のことである。
 タイは要求通りに返却された領土と、プラタボーン、スリーソーパンとシャムラート(仏暦2449年にフランスに割譲したもの)も合わせて手に入れた。その後タイと日本は、二国の相互援助と東南アジアの平和維持に努めるという内容の文書に調印した。このことが、お互いの同盟関係強化を推進し、二国の経済的結束を固めることになった。この紛争問題は、日本に東南アジアでの役割と影響力を増大させるという利点をもたらした。領土返還に満足したタイ国民は、日本に対し大いに気をよくした。


 仏暦2484年12月8日、日本は、ハワイ諸島のアメリカ軍事基地である真珠湾を襲った。同時に、フィリピン群島、シンガポール、マライにも電撃戦で進軍し、攻撃した。それ以前に日本はタイに兵を派遣し、タイを通過するつもりであった。駐タイ日本大使は、英領(マラヤ、ビルマ)進攻のために、日本軍のタイ国領土内通過を要求した。翌朝、すなわち仏暦2484年12月8日、日本は軍勢を率いてタイ国内のいたる所に上陸した。プラチュアップキリカン、ナコンシータマラート、そしてソンクラーのタイ軍は、堅固な日本軍に抵抗して闘った。そのころ、タイ政府はイギリス政府と連絡を取っていた。イギリス政府は、タイが自衛手段に訴えてもかまわない、と返答した。ピブン・ソンクラーム陸軍元帥率いるタイ政府は、タイが日本軍に抵抗しうるかを審議した。そして軍事力が十分でないことから、政府は日本軍のタイ国内通過と、日本との秘密条約調印を承認した。仏暦2484年12月21日のことである。タイは日本と同盟関係を結び、アメリカ、イギリスとの戦争において日本を支援することにした。日本は失われたタイ国領土が、イギリスから返還されるよう働きかけた。そこでイギリスとアメリカはタイを攻撃し始め、雲行きがあやしくなってきた。仏暦2485年1月25日、タイはイギリスとアメリカに対して宣戦布告し、枢軸国の盟友として第2次世界大戦に参加することになった。

 タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。タイ人のグループのなかには、日本と同盟関係をもつという政府の方針に反対するものもあった。これら一般民衆グループには、連合国側から遣わされたリーダーがいたものと思われる。セーニー・プラモート駐米大使は明らかにその一例である。彼はアメリカ政府に対して、タイ国はやむをえず連合国側に宣戦布告したが、連合国との協力により、自由タイ運動の手はずを整えている、と説明した。アメリカ国内の自由タイ運動は、アメリカ政府の支援を得て順調にことを運んでいた。

 イギリス国内では、スパサワトウォンサニット・サワディワット親王が自由タイ運動の指導者となった。在英タイ人留学生の大部分は運動に参加し、イギリス政府の援助を受けた。アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリディ・パノムヨン摂政は、タイ国内に抗日地下部隊を設立した。そしてアメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡をとりさまざまな行動を起こした。例えば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、破壊行為によって日本の通行を妨害したり、また日本兵を拘引したりして連合軍を援助した。


 日本軍が敗北を認めた仏暦2488年8月16日に、プリディ・パノムヨン摂政は国会の同意にもとづき、仏暦2485年1月25日の対英米宣戦布告は無効であると宣言した。また日本がタイに譲り渡した英領マラヤやビルマをイギリスに返還すると提案した(日本が譲渡したサイブリ、ケランタン、トレンガヌ、プルリスのマラヤ4州。これらは、仏暦2451年の条約により、イギリスがタイより譲り受けたビルマのシャン族の領土である。仏暦2489年、タイに返還された)。アメリカ政府は、タイの対米宣戦布告が無効であることを即時に認めた。こうしてタイは、対米宣戦布告の責任から逃れた。

 ・・・(以下略)

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