真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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油山事件 と左田野修

2016年07月12日 | 国際・政治

 陶磁器の町、岐阜県多治見市で、戦後3年半にわたり身を潜め逃亡生活を送った戦犯、佐田野修。彼は、長崎に原子爆弾が投下された翌日、射手園少佐に米兵捕虜の斬首を命じられ実行したことを、手記に書き残しています。

 『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』(毎日新聞)の著者小林弘忠氏は、そのあとがきに、「戦犯たちが、都合の悪い戦中戦後のことはほとんど押し黙ったままでいるのに、すべて自分をさらけ出した手記をしたためていたのは、斬首したアメリカ兵への深い哀惜と、逃亡せずに死刑判決まで受けた同期生に対する謝罪があったと思う。そのことは戦争への憎しみにつながっていたと私の目には映った。」と書いています。
 彼自身が手記に
順番に処刑者が友森大佐に敬礼して処刑を終えて行った。四番目に私は「次」と命じられたので、友森大佐に敬礼し、穴の前に坐らされている搭乗員の後に立った。未だ身体のふるえは止まらなかったし、戦争という条件を除いては、何等憎む所ない人を何故斬らねばならぬのか、戦争の罪深さを呪った。
と書いていますし、また、この斬首は合法的なのだ、と懸命に自らに言い聞かせていることから、著者の指摘は間違っていないと、私は思います。

 同書によると、左田野が関与した油山事件の1ヶ月半前の20年6月20日にも、西部軍司令部構内で8人の捕虜が殺害された事件あり、8月15日にも、約15名ノ捕虜飛行機搭乗員が油山火葬場付近の山中で、軍管区司令部職員によって処刑されているということです。
 「陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後」斎藤充功(角川書店)は、左田野が関わった連合軍飛行機搭乗員の日本刀による斬首事件、いわゆる「油山事件」は、公開であったことを明らかにしています。背景に、沖縄戦や原爆投下の報復的な意味があったという指摘もあり、戦争による憎しみの連鎖として、忘れてはならないことだと思います。
 米兵捕虜斬首によって戦犯として横浜軍事法廷で裁かれた左田野修は、逃亡中に働いたK陶器製造所でめきめきと焼成技術の腕を上げ、焼成部門になくてはならない存在となっていたばかりでなく、経理にも明るく、社長から、「わしの右腕になってくれ」と頼まれるような人物でした。また、まわりの人たちからも「忠さん」と呼ばれて信頼を得ていたということを考えると、彼の人生も、戦争によって憎しみの連鎖に引き引きずり込まれ、狂ってしまったと言えるのではないかと思います。戦後、戦犯として裁かれ処刑されることことを恐れて、逃亡生活を送りましたが、一人の人間として、自らの加害の事実を正直に手記に書き綴った姿勢は、評価されるべきではないかと思います。

 下記の文章は『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』(毎日新聞)からの抜粋ですが、手記の部分には「ーーー左田野の手記」と加えました。
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                 第一章 橋のある町
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 この1月に福岡俘虜収容所第17分所長だった由利敬・元中尉、函館俘虜収容所第1分所長をしていた平手嘉一・元大尉、2月になってからは由利元中尉の後任所長、福原勲・元大尉にそれぞれ絞首刑判決が言い渡されているのを新聞で読んだ。ごく簡単な記事だったが、絞首刑の文字は、彼を打ちのめすには十分すぎる威力があった。
 死刑判決を受けた3所長たちは虐待を黙認し、捕虜を死に至らしめた罪で責任をとらされたようだ。
ほかにも連日のように、戦犯の罪科が新聞に書き立てられている。
 部下が捕虜を殴ったりして、結果的に死亡させた責任で上司が絞首刑になるなら、有無を言わさず日本刀で生身の捕虜の首を切り落とした自分は、それ以上の罪となり、少なくとも死刑は免れない。そう思うと胸の中の錘が肥大する。
 これから先、完全に別人となって暮らしていけるかどうか、まったく自身がない。逃亡を知ったら、警察は母や兄、姉妹たち家族をきつく訊問するだろう。それを考えると耐えられない。
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ーーー
                 第二章 赤茶けた「告白録」
 ・・・
 見つかった資料の中でもっとも少ないのは、久留米の予備士官学校や陸軍中野学校、西部軍など彼が在籍していた陸軍の学校、所属した軍隊に関するものである。在校中のことはのちに記述するが、とりわけ中野学校は、選ばれた秘密諜報将校を育成する特殊機関であったのは広く知られていて、胸を張っていいはずなのに、何もふれていないのは奇異に感じられる。なぜなのだろうか。
 同行のモットーは「中野は語らず」であった。戦時中はもとより戦後になってもいっさい口をつぐむのが彼ら情報戦士の受けた教育である。一時期はスパイ養成学校とみられていたこともあったが、最近は徐々にその実体が明らかにされつつある。
 ・・・
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               第六章 幻の油山事件
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 同月10日。長崎に原子爆弾が投下された翌日であった。その9日は、依然続いている日本と米英を機軸とした連合軍との戦いに中立の立場をとっていたソ連が日本に宣戦を布告、日本軍が土壇場に追い詰められた記念すべき日だった。
 陸軍大臣阿南惟幾大将は、ソ連の参戦を受けて「全軍将兵に告ぐ」と、総軍に向けて訓示を発した。それは、「たとえ草を噛み、土をかじり、野に伏すとも断じて戦ふところ死中活あるを信ず。是即ち七生報国、楠公の精神なるとともに驀直進前を以て醜敵を撃滅せる闘魂なり。全軍一人も残らず楠公精神を具現すべし。醜敵撃払に邁進すべし」という激烈なものだった。「われは七たび生まれ変わって国のために尽くす」との報国の気持ちを吐露したという南北朝時代の将、楠木正成の故事をなぞらえたものである。
 ・・・
────  処刑現場についての左田野自身が書いた手記の原文を紹介しておこう。記憶を頼りに、エンピツで後年したためたものだが、書くときにも動揺を隠せない状態だったのは、他の記事と異なって、削除、訂正の部分が多いことでもわかる。

ーーー左田野の手記

 射手園少佐は友森大佐の所へ行って何か話していたが、直ぐに帰ってきて処刑者を命令した。私はこの時、見習士官の中で一番か二番位の身長であったため、二列に並んだ前列の右翼にいた。

 射手園少佐は、見習士官全員を眺めていたが、やがて私の前に来て「左田野、お前斬れ」と直接命令した。単なる見学者だと計り思っていた私は非常に驚いた。瞬間、返答に躊躇した。日頃花を眺めたり、音楽を鑑賞したりする事を好む私の性質として、搭乗員を処刑すると言う様な残忍な事は考えるだけで嫌であった。然し乍ら「ハイ」と答えざるを得なかった。私は「ハイ」と答えた。
 其の理由は、命令を受けた以上は絶対服従を強要せしめられていたことは、初年兵以来受けた軍隊教育の鉄則であったからだ。日々の行動凡て命令、服従で覇束せられ、そこには自由意志に依る発言、行動等は豪も許されなかった。(略)そこには批判とか自己の意見を述べると言う事は絶対に許されなかった。自分は此の様な事をしては悪い結果を招来すると思っても、直ちに上官の命令に服従せねばならなかった(この部分は消してある、以下略)。
 私は「ハイ」と答えた後、この処刑が正規の処刑であり且つ合法的であると思った。名前も知らなかったが、法務将校の白いマークをつけた二人がいた。法務将校は権威的に見え、信頼感を与えた。何故ならば法務官が現場に立会っている以上、恐らく軍律会議の審判の結果、搭乗員達は死刑の判決を言い渡され、二人はその執行(の視察)に参列していると思ったからである。更に友森大佐が現場の処刑執行を指揮して居り、射手園少佐が其の指揮下で活動していた事実は、益々処刑の正当性を裏付けるものがあった。
ーーー

 彼は、右の文の(略)のところに、軍隊の命令がいかに厳しいものであるかを「陸海軍人に賜りたる勅諭」や対象12年(1923)9月1日の関東大震災に乗じ、甘粕正彦憲兵大尉が部下に命じて、無政府主義者の大杉栄らを殺害させた事件を引き合いに出して縷々書いている。それは、彼がおこなった
斬首の正当性──  自分から進んで手を下したのではないことを、いくら説明しても足りないと
考えたうえでの弁明ではない。このときの彼ら処刑者たちは、一種の魔術にかかっていたことを語りたかったのは、やはり同日斬首を経験した彼と中野学校同期生(八丙)の証言を聞けばわかる。「処刑のときの精神状態は、まるで忠実なロボットでした」と言っている(『諜報員たちの戦後』)のだ。
 左田野の「返答に躊躇した」との告白は、軍命に対する精一杯の抵抗だったのであろう。ロボットとして動かなければならない苛酷な命令に逆らっているようにも思える
 つぎの彼は、斬首するときの心境を書いている。不安、恐怖心の強さ、理不尽さが描かれている。

ーーー左田野の手記 
 此の様な理由(処刑の正当性)にもかゝわらず、斬首を命ぜられた時には好きではなかった(嫌で堪らなかった、を書き改めている)。一度も刀を使った事も、試し斬りした事もない23歳の私に、どうしてそんな事が出来るであろうか。自信はまったくなかった。
 いくら若くても、無経験でも、これが若し野戦で私を襲ってくる敵ならば防禦の本能で斬ることが出来るかも知れぬが、温和(オトナ)しく死を待っている搭乗員を斬るという事は、可哀そうで内心は嫌であった(堪らなかった、を書き改め)。命令に対しては仕方なしに「ハイ」と返事したが、この時から不安や恐怖感や哀感などが一時に起って身体がふるえ始め、抑えようとしても止まらなかった。
 順番に処刑者が友森大佐に敬礼して処刑を終えて行った。四番目に私は「次」と命じられたので、友森大佐に敬礼し、穴の前に坐らされている搭乗員の後に立った。未だ身体のふるえは止まらなかったし、戦争という条件を除いては、何等憎む所ない人を何故斬らねばならぬのか、戦争の罪深さを呪った(「戦争という条件」から「呪った」までは削除してある)。
 併し私は背中に上官や将校の注いでいる視線を感じ、のっぴきならない気持ちに追い込まれた。心では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、無我夢中で刀を振り下ろした。
 何の経験もない私が何故斬れたのか。「小宮四郎国光」銘のある私の刀がよく斬れたのであった。白昼に悪夢を見ている様な気持ちで刀を水で洗い(ここまで全部削除)、私は友森大佐に敬礼して列に戻った。 

ーーー
 この油山事件の模様は、様々な証言でのちにかなり知られるようになった。
GHQ日本占領史5 BC級戦争犯罪裁判によれば、事件当日の斬首は、「搭乗員(捕虜)の1人が墓場(掘った穴)に連行され、腰かけさせられた。それから、エグチが自分の刀を一振りし、搭乗員の首を半分落とした。オオノ少尉が2番目の処刑執行人であった。彼は刀を振り上げ、搭乗員の首の後部から切りつけたが殺害に至らず、その俘虜はうめき声をあげながら地面に倒れた。ワコウとオオノは再び跪かせ、ワコウがオオノに刀の使い方を教授した。別の3人のアメリカ人搭乗員もサタノ見習士官とオトス中尉、クロキ中尉によって、同じ方法で処刑された」と書かれている。サタノ(正確にはサダノ)が左田野修であるのは言うまでもない。
 同書には「処刑後、トモモリはそれぞれの兵士にウイスキーを勧めている」とあるが、左田野の手記には、このことには触れられていない。「友森大佐は『今日処刑された者は俘虜ではなくて敵である。だが、死んで了った者には罪はないから、死者の冥福を祈って黙祷しよう』との要旨の訓示があり、一同黙祷した」とあるだけである。いずれにせよ、凄惨なシーンがあったのは確かだが、油山事件をより有名にしたのは、つぎのような事実があったからだ。
 その点については横浜弁護士会による『法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録』でみてみよう。同書は、以下のように書いている。

 射手園(達夫少佐)は、事件当日の朝、弓矢を民間人に配給した責任者である大槻隆(少尉)に向かって、弓矢を持って処刑に参加するように命じた。大槻は、約15本の矢と弓を持ってトラックに乗り込んでいた。実際この日の処刑では、1番目から6番目までの搭乗員の処刑は日本刀による斬首によるものであったが、射手園は、7番目の搭乗員の処刑にあたって大槻に弓矢を使うように命じ(略)、8番目搭乗員に空手を用いた。空手による処刑なかなか効果がなかったが、それでも射手園は「中野学校で空手が得意だった者は使ってみろ」と見習士官に命令し、6名くらいが空手による攻撃を加えた。
ーーー
 戦争終結食後、GHQの指令に基づいて、俘虜関係中央調査委員会が組織された。国内外で日本軍が捕らえられた外国人捕虜を虐待したかどうかを調べる機関である。その調書(「西部地区ニ於ケル連合軍飛行機搭乗員取扱ニ関スル調書」)によれば、第1次事件の要旨は、つぎのようになっている。

 昭和19年末以来連合軍ニ依リ、内地ノ各都市相次イデ焼爆撃ヲ蒙ルニ至ルヤ軍官民全般ノ敵愾心ハ漸次強化セラレ、就中軍管区司令部所在地タル福岡市ハ昭和20年6月19日空襲ヲ受ケ、市街ノ要部焦土ト化シ、一般民衆ノ多数罹災スルノ惨状ヲ呈スルヤ敵愾心ハ更ニ著シク激化セラレタモノノ如シ。
 前項ノ如キ状況ニ於テ、約8名ノ捕虜飛行機搭乗員ハ6月20日、軍管区司令部構内ニ於テ軍管区司令部職員等ニ依リ処断セラレタリ。

 ここにあるように、左田野が関与した油山事件の1ヶ月半前の20年6月20日、西部軍司令部構内で8人の捕虜が殺害された事件が最初の西部軍事件である。

 ・・・

 第2の西部軍事件は左田野が関与した油山事件であり、これについてはすでに述べた。残る第3の事件は、終戦日当日におこなわれた。これも先の俘虜関係中央調査委員会の「調書」で概要をみる。

 8月15日終戦トナルヤ、九州地方ニ於テハ各種ノ流言飛語乱レ飛ビ、特ニ連合軍ノ一部既ニ上陸セシ等ノ造言生ジ、婦女子ノ避難等福岡地方ハ名状スベカラザル混乱ニ陥リ軍管区指令部内ノ将校等ニ於テハ、激烈ナル敵愾心ヲ生ズルニ至リシモノノ如シ。
 前項ノ如キ状況ニ於テ、約15名ノ捕虜飛行機搭乗員ハ8月15日、福岡市西南方油山火葬場付近ノ山中ニ於テ、軍管区司令部職員ニ依リ処断セラレタリ。

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