真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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朝鮮植民地支配の本質を見ようとしない主張

2021年01月24日 | 国際・政治

 微妙な変化はあっても、日韓関係の改善に明るい見通しがありません。私は、現在の日本の政権の考え方では改善は難しいと思います。というのは、政権と一体になって活動していると思われる人たちの考え方が、朝鮮植民地支配当時の考え方とあまり変わってはいないと思われるからです。 

 例えば、自由主義史観研究会理事の杉本幹夫氏は、自身の著書、『日本支配36年「植民地」朝鮮の研究』に「謝罪するいわれは何もない」という副題をつけています。
 そして、”日本統治時代、学校では教育言語はすべて日本語で行われた”という事実を認めながら、
植民地教育ではどの国も宗主国の言語は必修であり、宗主国の言語を知らなければ、官界では勿論、実業界でも不利である”から当然であったかのように書いています。植民地化された国が植民地化した国の政策に従うことは、当たり前だったということのようです。

 日本の経済学者・植民政策学者で、無教会主義のキリスト教指導者としても知られる矢内原忠雄は、『植民及植民地政策』の中で、”私は朝鮮普通学校の授業を参観し朝鮮人の教師が朝鮮人の児童に対し日本語を以て日本歴史を教授するを見、心中涙を禁じ得なかった”と書いているとのことですが、矢内原忠雄のように、朝鮮人の立場に立って考えることの出来る人でないと、日本の朝鮮植民地支配の本質が見えないのかも知れないと思います。

 また、杉本氏は”日本が普通学校(小学校)で朝鮮語教育を止めたのは1941年(昭和十六年)である。止めたと言っても授業がなくなっただけで禁止したわけではない”と書いていますが、それは事実に反するのではないかと思います。自由に朝鮮語を話すことができなかったという多くの証言がありますし、もともと朝鮮語教育の授業は過渡的に実施されもので、廃止の方向に進んでいたと思うからです。それは、韓国併合の翌年に公布された「朝鮮教育令」(明治四十四年八月二十四日 勅令第二百二十九号)の第一条に”朝鮮ニ於ケル朝鮮人ノ教育ハ本令ニ依ル”とあり、第二条には、”教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス”とあることで分かります。朝鮮人を朝鮮人としてではなく、日本の天皇の”忠良ナル”臣民として育成することが定められていたのです。いつまでも朝鮮語を使っていては、日本の天皇の”忠良ナル”臣民とはなり得ないということだったと思います。

 だから、日本語を公用語化しただけではなく、家庭内においても、日本語の使用が奨励され、朝鮮語で話すことが、控えられるようになっていったのです。それが、儀式における「教育勅語」の奉読や、「御真影」に対する最敬礼、「皇国臣民ノ誓詞 」の斉唱や朗唱神社参拝宮城遙拝などとともに、朝鮮民族の伝統や文化を無視した皇民化政策の一つであったことは否定できないと思います。

 さらに、杉本氏は、朝鮮語は、”三十八年(昭和十三年)には選択制になったが、朝鮮人校長の学校ではすぐ朝鮮語教育を止めたのに対し、日本人校長の学校の方が続けたとのことである”と書いて、あたかも日本や日本人校長が、朝鮮語の教育に寛容であり、理解があったかのように書いていますが、現実は、朝鮮人校長には、厳しいプレッシャーがかかっていたということではないかと思います。

 ”南総督が民意を聞くために開いた面談会で、「朝鮮人の進むべき道」等を書いた著述家の玄永燮は朝鮮語使用の全廃を主張した。しかし南総督はそれを拒否している

 ということも、急に”朝鮮語使用の全廃”をすると、いろいろ支障があるからであって、朝鮮人がいつまでも朝鮮語を使えるようにしようとするような、「朝鮮教育令」に反する意図に基づくものではなかったと思います。
 部分的、あるいは、個別的には「朝鮮教育令」に反するような取り組みもあったかも知れませんが、”景福宮に総督府博物館を設けたのを始め、慶州、開城、平壌、扶余、公州に次々と博物または分館を設け”たという話や、朝鮮史編纂委員会よる”全三十五巻、二万四千頁の朝鮮史を刊行している”という話も、当時の日本の植民地政策全体の中で、把握されなければならないと思います。杉本氏の主張は、木を見て森を見ないものだと思います。 

 朝鮮近代史が専門の姜在彦教授によると、1929年全羅南道で起きた日本人生徒と朝鮮人生徒の間のトラブルがもとで広がった光州学生の抗議の運動のスローガンの中に、朝鮮人本位ノ教育制度ヲ確立セヨ!とか、植民地奴隷教育制度ヲ撤廃セヨ!とか、社会科学研究ノ自由ヲ獲得セヨ!というようなものがあったというこですが、日本の朝鮮における教育政策には様々な問題や差別があり、多くの朝鮮人には受け入れ難いものであったことを物語っているのだろうと思います。

 戦前よく使われたという「一視同仁」や「内鮮一体」という言葉も、朝鮮人が朝鮮人としてではなく、自らの言葉や伝統、文化を捨て、一日も早く立派な大日本帝国の臣民となることを求めるものであったと思います。それは、「朝鮮教育令の施行について朝鮮総督の論告」の中に、”特ニ力ヲ徳性ノ涵養ト国語ノ普及トニ致シ以テ帝国臣民タルノ資質ト品性トヲ具ヘシメムコトヲ要ス”という文章があることにもあらわれていると思います。

 すでに取り上げたように、子ども向けの「皇国臣民ノ誓詞(チカヒ)」は、下記のような内容です。

一 私共ハ 大日本帝国ノ臣民デアリマス
二 私共ハ 心ヲ合セテ 天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス
三 私共ハ 忍苦鍛錬シテ 立派ナ強イ国民トナリマス

 この「皇国臣民ノ誓詞」について、釜山府通牒に、

一 誓詞ノ斉唱又ハ朗唱ニ付テハ各種機会アル毎ニ之ガ普及ニ努ムルト共ニ徒ニ単ナル暗誦ニ終ラシムルガ如キコトナク常ニ其ノ精神トスル所ヲ確把セシメテ誓詞制定ノ趣旨ノ徹底方ヲ図ルコト
ニ 各学校ニ於テハ朝会ヲ行ハザル日ニ於テモ各教室ニテ毎朝授業開始前必ズ之ヲ斉唱セシムルコト
三 総督其ノ他ノ学校視察ニ当リ全校ノ生徒児童参集シテ挨拶ヲ行フ場合或ハ訓示、講演等ノ終了ニ際シ答礼挨拶ヲ行フ場合ニ於テハ力メテ誓詞ノ斉唱ヲ以テ右挨拶答礼ニ代フルコト

 とあることは、朝鮮における教育が、大日本帝国の”臣民タルノ資質ト品性トヲ具ヘシメム”ということにあったことを示していると思います。

 したがって、杉本氏の、

ここで言っておかなければならない事は、朝鮮語が禁止されたことは一回もなかったし、むしろハングル文字が今日のように普及したのは、日本の教育の成果だと言うことである。韓国の高等学校教科書には、<民族の言葉と歴史を学ぶことが禁止され>と書いてあるが、そのような事実はない
 
 という断定は、客観的事実に基づいていないと、私は思います。
 関係改善のためには、韓国に対し、「謝罪するいわれは何もない」などと一方的に突き放すのではなく、韓国側の主張や研究も踏まえ、客観的事実に基づいた共通の歴史認識を持とうとする努力が欠かせないと思います。
 最近、政権が韓国に対し強硬な姿勢を貫いているのは、杉本氏のような著作に後押しされている側面があるのではないかと気になるのです。

 下記は、『日本支配36年「植民地」朝鮮の研究 謝罪するいわれは何もない』杉本幹夫(展転社)から、「第一章 搾取と奴隷化の実態」の「八 日本語の強制と朝鮮語の使用禁止」を抜萃しました。
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             第一章 搾取と奴隷化の実態

八 日本語の強制と朝鮮語の使用禁止
 日本語の強制
 日本統治時代、学校では教育言語はすべて日本語で行われた。この事に対し、日本語の強制と非難される。植民地教育ではどの国も宗主国の言語は必修であり、宗主国の言語を知らなければ、官界では勿論、実業界でも不利である。その為フィリピンではスペイン時代、フィリピンの改革要求の大きな眼目の一つはスペイン語教育の普及であった。
 他の植民地の動向を見ると、フィリピンは朝鮮同様、教育言語は宗主国の言語である英語のみにて行われた。それに対し、蘭印、仏印等では、現地人の学校は小学校低学年は現地語で、高学年になってくると宗主国の言語を習うことになっていた。これらの国では、小学校の高学年に進むものは極めて少なく、従って現地教育のみで終わる子が多かった。また上級学校への進学にハンデがついた。

 どちらが良いかは一長一短があある。言語は幼少時から始めた方が進歩が早く、見につく。一方言語教育に追われ、その他の教育は遅れ、伝統文化の退歩を招きやすい。この問題は多民族国家では、現在も問題である。例えば中国の北京官語、フィリピンのタガログ語、インドネシアのインドネシア語等その国の標準語とされるが、その言語が本来的に通用する地域は極めて狭い範囲にすぎない。国の統一のためには標準語重視が望ましいが、ローカル文化の保存、育成の面では現地語重視が望ましい。
 現在アイルランドでは英語が大勢を占めているが、ケルト語の強いガルウェーの大学では、英語とアイルランド語の二か国語での授業が義務づけられているという。その結果二か国語で授業できる教授の獲得が難しく、レベル低下に悩んでいるとの事である。

 戦前日本教育で育った人たちは、極めて日本語に堪能であり、日本語より、新しい技術、学問等が容易に取り入れられ、今日の発展の一因となったことは否定できない。

 朝鮮語の使用禁止
 ここで言っておかなければならない事は、朝鮮語が禁止されたことは一回もなかったし、むしろハングル文字が今日のように普及したのは、日本の教育の成果だと言うことである。韓国の高等学校教科書には、<民族の言葉と歴史を学ぶことが禁止され>と書いてあるが、そのような事実はない。
 日本が普通学校(小学校)で朝鮮語教育を止めたのは1941年(昭和十六年)である。止めたと言っても授業がなくなっただけで禁止したわけではない。三十八年(昭和十三年)には選択制になったが、朝鮮人校長の学校ではすぐ朝鮮語教育を止めたのに対し、日本人校長の学校の方が続けたとのことである。いずれにせよそれまでの三十年近くは朝鮮の普通学校では、朝鮮語は必修科目だった。
 まあた官庁では1939年(昭和十四年)まで朝鮮語の学習を奨励する朝鮮語奨励費が支出されている。約三十年為政者は朝鮮語を学び、朝鮮人には日本語を学ばせ、意思の疎通を図るよう努力したのである。

 開国以前の朝鮮の正式の文書はすべて漢文で書かれていた。その為ハングルは諺文と軽視され、寺子屋に当たる書堂でも教えない所もあった。しかし表音文字であるので、字数が少なく、自然にかなり普及していた。
 1882年(明治十二年)アメリカへの開港により、急速にキリスト教が流入した。彼らは布教にハングルを使った事により、ハングルの普及に貢献した。
 新聞にハングルが登場するのは、1886年(明治十九年)発行された『漢城週報』である。朴泳孝の要請を受け、編輯に携わっていた井上角五郎が、福沢諭吉の「ハングルを使って日本の仮名混じり文の様な文体を作り、文明化しなければならぬ」との意見を入れ、漢字とハングルの混淆文で書いたのが始まりである。
 ハングルが急速に普及するのは日清戦争で韓国が清の宗主権を脱してからである。ナショナリズムの高揚する中で、ハングルを使った新聞が次々に発行された。また公用語としてハングルが初めて認知された。

 1910年(明治四十三年)併合後の日本は学校教育で朝鮮語を必修課目とした。この教科書の作成を通じ、綴字法の統一、標準語の制定、普及が進んだのである。勿論韓国教科書で主張する朝鮮語研究会、朝鮮語学会が大きく貢献した事は言うまでもない。
 朝鮮語は1937年(昭和12年)まで必修であり、その間に初等教育の普及は大幅に進んだ。併合時書堂を含め、10%程度だった就学率は1937年には36%に達している。これと共にハングルが普及したのである。ハングルの普及に最も貢献したのは、朝鮮人自身としても、日本の貢献も合わせて評価すべきである。
 1938年南総督が民意を聞くために開いた面談会で、「朝鮮人の進むべき道」等を書いた著述家の玄永燮は朝鮮語使用の全廃を主張した。しかし南総督はそれを拒否している(三章六参照)
 なお毎日申報は終戦までハングル文字の新聞を発行していた。

 朝鮮史の研究・教育
 朝鮮史教育についても、韓国高校教科書では前述のように、朝鮮語の禁止と共に朝鮮史の教育を禁止していたと書いている。
 総督府は1915年(大正四年)景福宮に総督府博物館を設けたのを始め、慶州、開城、平壌、扶余、公州に次々と博物または分館を設け、過去の貴重な遺物の収集をし、古蹟の調査・保存を行った。
 更に1922年(大正11年)には朝鮮史編纂委員会を設け、四十一年(昭和十六年)まで毎年五万から十万円を投資し、アジアから資料を集め、新羅統一以前から李朝後期まで、全三十五巻、二万四千頁の朝鮮史を刊行している。問題のある箇所も多々あると思うが、古代、秀吉の朝鮮侵攻時、近代の三つの時代を除けば、殆んど合意できる筈であり、貴重な資料となっている。
 また授業でも日本史の一環として朝鮮史にも配慮されていたのである。歴史教育が始まったのは、初等教育が四年制から六年制に延長された1921年(大正十年)からである。1932年(昭和七年)に発行された国史教科書には朝鮮史に関する事項として「昔の朝鮮」「三国の盛衰」「新羅の統一」「高麗の王建」「高麗と蒙古」「朝鮮の太祖」「李退渓と李栗谷」「英祖と正祖」と言った事項がある。
 1940年(昭和十五年)の教科書の改訂は時代順の記述を止め、例えば「都のさかえ」「太平のめぐみ」「海外のまつりごと」「制度のととのい」「世界の動き」「国力のあらわれ」と言った具合に、テーマ毎に歴史を学ぶ極めて意欲的な編成をしている。従って題名からは朝鮮の歴史が消えたが、それぞれのテーマの中で相当量取り上げられている。
 なお京城帝国大学では朝鮮史の研究は最後まで続けられた。


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