幕末期、外国船が繰り返し来航し、開港開市などを要求して圧力をかけてくる状況や、オランダの勧告などを考慮すると、拒否し続けることには無理があると判断した幕府は、開港開市政策を進めますが、長州を中心とする尊王攘夷派は、そうした情勢を無視し、開港開市政策の当否を議論することなく、尊王攘夷を掲げて討幕に動きます。その討幕の根拠となった攘夷の思想は、極論すると、いわゆる「異人斬り」に象徴されるように、「異人は神州を汚す」存在であり、したがって、開港開市は許されないというものだと思います。
日本近海に外国船が頻繁に出没し、幕府の政策によって、江戸や横浜で外国人を見ることが多くなるにしたがって、尊王攘夷の思想は急速に広まっていったようですが、それが「異人は神州を汚す」という狂信的とも言える思想にもとどくものであったために、尊王攘夷派の人たちによる、いわゆる「異人斬り」が続発すことになったということは、見逃してはならない、幕末期の歴史的事実だと思います。
また、狙った「異人」を背後から突然襲うという野蛮性も、その後の日本の歴史を考えると、見逃すことができません。
ところが、討幕後の明治新政府は、主として尊王攘夷急進派の人たちによって構成されたために、そうした尊王攘夷の思想の問題点や「異人斬り」という野蛮な殺人行為も、ほとんどふり返られることなく、等閑視されたように思います。そして、明治の時代は、討幕のために掲げた攘夷を、朝鮮や中国を支配しようとする「異国支配」の政策に、巧みに変えて突き進んで行ったのではないかと思うのです。
したがって、尊王攘夷の思想の狂信性や「異人斬り」の野蛮性は、明治の時代に克服されることなく、その後の日本で、かたちを変えて引き継がれていくことになったのではないか、ということです。朝鮮王宮占領事件や日清戦争時における旅順虐殺事件は、そうした流れのなかにあると考えます。
長州を中心とする尊王攘夷派の討幕は、日本の近代化のために避けられなかったというような考え方は事実に反し、歴史認識を歪めるもので、「勝てば官軍」とか「薩長史観」ということばは、そうした考え方を批判的に表現するためにつかわれてきたのではないかと思います。
そうした意味で、いわゆる「異人斬り」は、日本の歴史にとって極めて重要な問題であると思い、「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から、その一部を抜粋しました。宮永教授は様々な資料を発掘しており、また、丁寧に調べ上げています。歴史を学ぶ上で、貴重な一冊だと思いました。
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第一部 攘夷の凶行
攘夷思想の高まり -- ロシア士官と水夫を横浜に誅殺
高まる攘夷熱 日本刀による凶行
幕府は、安政五年(1858)六月に勅許を得ないまま調印(7・1)をもってアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの五カ国に対して、箱館・神奈川(横浜)・長崎の開港と江戸・大坂の開市、外交官(領事・公使)の駐在などを許すことを実行することになった。
かくして各国の外交団は、江戸や横浜に居住し、とくに江戸に近い横浜村には外国人居留地が設けられた。開港場となった横浜は、もと旗本の知行地であり、半農半漁の一寒村にすぎなかった。開港前の横浜村と新田(居留地の周りの地)の戸数は、わずか100ほどであった。(「横浜村井近傍之図」)
開港場の建設は、約十万両を投じて安政六年春から急遽進められ、同年六月の開港時には大小の波止場、外国人居留地および日本人のための移住地が完成し、七月に入ると早くもイギリス人や清国人が商いを始めるようになった。
幕府は横浜村を開港場とするに際して、近傍の野地を削り、沼を埋め、川を通し、運河で取りまきわずかに橋をニ、三架け、その両端に番小屋を設け、人の出入りを監視した。幕府当局の考えでは、横浜村に外国人をすべて閉じ込め、ちょうど長崎の出島のようにそこを陸上の”監獄”とする肚(ハラ)であったようだ。開港場が完成しても初めのうち進んでそこで貿易をやろうという者はおらず、幕府は大商人を勧誘し、むしろ強制的に店を出させ、また外国人の居住や営業活動を容易にするために家屋を設け、さらに運上所(税関の旧称)を設置した。
一方、開市開港後の江戸や横浜で外国人を見る日本人、ことに攘夷思想を持つ武士にとって、外国人は神州日本を汚す”夷狄(イテキ)”(野蛮人)であり、悲憤慷慨の種であった。外国の使臣(公使・領事などの外交官)は、尊大な態度で江戸にやって来て、壮大な寺院に公使館を置き、閣老(老中の異称)と対等な地位に立ち、はばかるところなく勝手な議論や恫喝を行い、幕府有司(役人)はびくびくしながらそれに耳を傾けている。開港場の外国人商人にしても、大きな家を建て、大勢の召使いを抱え、有司や武士・町人に対しても敬意を払わず、わが神州の農工商を見下し、荒稼ぎしている。攘夷熱は、一部の武士(役人・藩士・浪士)のみにとどまらず、一般の町人や浮浪の徒の間にも広まり、不逞の浪士の中には、機会があれば外国人を攘夷の血祭りにあげようとうかがい、江戸や横浜近辺をさまよう者もいた。かれらは外国人を殺せば、幕府は攘夷を断行するものと考えた。
安政六年七月二十七日(1859・8・25)の夜六ツ半(日没)頃のことである。運上所の泊番由比太左衛門のもとに、町役人らがやって来て、横浜町三丁目において異人(外国人)に対する殺傷事件が起こったことを注進した。開港後、外国人に対して罵詈雑言をあびせたり、投石したり、体当たりしたり、ときには抜刀などによって脅かしたりする事件があとをたたなかったが、死人が出たといった知らせにこの宿直は愕然とし、直ちに上役(組頭、若菜三男三郎)にその旨報告した。
これは開港後、外国人に対して行われた最初の殺傷事件であった。事件の顛末は次のようなものである。
七月二十七日(8・25)の夜八時頃、おりから来日中の西シベリア総督ムラビエフ・アム-ルスキー
伯のロシア艦隊に属するアスコルド号の乗組員、士官・水兵四名が、食糧品(野菜や鳥肉など)購入のために横浜に上陸し、横浜町三丁目の青物屋徳三郎で買物をし、店を出たのち、中居屋重兵衛の店の前あたりまで来たとき、突然背後より暴徒に襲われた。被害者は
(水夫)イワン・ソコロフ Ivan Sokoloff ・・・即死
phet ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・重傷、のち死亡
であり、もう一人の士官は小型帆船に戻っていて助かり、ほかの水夫一名(ポポフ提督の給仕、氏名不詳)は負傷したが、一命は助かった。この給仕は、青物屋を出て、ニ十歩も行かぬとき、「殺(ヤ)られた、逃げろ!」といった少尉の言葉を聞いたように思った。給仕は何事かとうしろを振り返ると、モフェト少尉と水夫ソコロフが日本人と争っていた。さらにその日本人の刀は、こんどは自分目がけて振り降ろされようとしたので、給仕は手で頭を守ろうとした。相手の一撃は頭をそれはしたが、帽子を飛ばし左腕に喰い込んだ。そして第二の刃が打ち降ろされようとしたので、近くの店に飛び込んだ。幸いそこの主人が機転をきかし、すぐに戸を閉めたので難を避けることができた。給仕は、はじめ俵物のうしろに身を隠し、のち店の裏手に隠れた。手傷を負ったこの給仕の証言によると、襲ったのは六~八名の日本人ではなかったかという。
水夫ソコロフの死体は凄惨をきわめるもので、頭は真っ二つに割られ、刃痕は鼻孔まで達していた。頭蓋骨からは脳髄がはみ出ていた。右肩も背中のうしろまで深く切られ、ひじの関節も切断され、大腿部の刃痕は骨まで達していた。また腕や手の肉も何カ所か削ぎ取られていた。犯人はそれだけで満足せず、刃で体を突き刺した。検死の所見では、おそらく即死、ということであった。
士官モフェトもソコロフと同じように頭を割られそこから脳髄がはみ出ていた。肩甲骨を深く切られ、刃の先は肺にまで達し、その内部までのぞかせていた。その外にも外傷が見られたが、いずれも致命的なものではなかった。仲間の評判もよかったこの若い士官の場合は、即死ではなく、二時頃に亡くなった。しかし、意識が混濁する中で、襲われたときの模様について語ることはなかった。
折から横浜には、台風によって難破したアメリカの測量船フェニモア・クーパー号(艦長ジョン・マーサー・ブルック、95トンのスクーナー船)が滞舶(タイハク)しており、急を聞きつけてやって来た
同船の艦長や乗組員の手で水夫ソコロフの死骸と瀕死・重傷の士官モフェトを仮宿舎へと運んだ。フェニモア・クーパー号の外科医は、モフェトの状態を一目見るなり、命は助からぬと思い、包帯をするだけにとどめ、必要な手術を施すことを断念した。手術をすれば、さらに苦痛を与えることが火を見るより明らかであったからである。
アムールスキー伯が率いる艦隊は、コルヴェット艦隊リンダ・同グディン、砲艦オプリッチニク号など全部で七隻からなるのであるが、艦隊が極東に向かう途次ブレスト港(フランス北西部、パリの西590キロ)からリンダ号に乗り組んだイギリス人にヘンリー・アーサー・ティレーがいる。彼はどのような人物で、またいかなる資格で、何ゆえに同艦に乗ったものかあきらかでないが、二カ年間(1858~60)の航海を経たのち、紀行記『日本、アムール、太平洋』(1861年)をロンドンで出版した。この中でヘンリーは、事件についての貴重な見聞を記しているが、かれによると、「ずっしりとした、カミソリのように鋭利」な日本刀は、当時、西洋人から非常に恐れられていたという。
現場には、六、七インチ(約18センチ)ほどの刀身の先が折れたもの、麻割羽織(家紋はない)一つ、犠牲者の軍服の切れはし、ぞうり片足(鼻緒は青)のほか、一分銀が一つ、100文銭10枚ほどが、遺留品として残されていた。が、犯人の手掛かりは皆目わからなかった。
後手に回る神奈川奉行所
そもそもロシア艦隊は、前年江戸において調印した日露修好通商条約の批准書交換とカラフト境界の画定を目的に来航したもので、江戸到着後、ロシア使節一行は芝の大中寺を旅宿とし、七月二十三日(8・21)に同寺院で交換を行った。折からロシア箱館領事ゴシケヴィッチ(1814~75)もこの交換のために出府していた。かれはロシア士官および水夫に対する殺傷事件が起こった翌二十八日、早くも幕府に対し、犯人を捕らえ、法に照らして処罰することを要求した。横浜におけるこの事件は、ある意味では起こるべくして起こったもので、じつは事件の前触れとして、随行の士官や水兵が江戸市中において侮蔑を受けるといった小事件もあり、アムールスキー伯がその犯人逮捕を当局に強硬に申し入れたために警護の武士の何人かは免職処分を受けた。これでもうロシア人に対して何事も起こらぬであろう、と高を括っていた矢先の事件であった。
事件の詳細が伝わるや居留地に住む外国人らは度を失い、恐怖にかられ、ピストルを携帯するようになった。また江戸湾のロシア艦隊へもこの非常な出来事が直ちに伝えられると、被害者を引き取るために兵士を派遣した。当時、神奈川奉行であったのは水野筑後守(安政五・七~同六・八在任、前職田安家家老)であり、外国奉行も兼務していた。安政六年に横浜が開港場になると、神奈川奉行所は、その庁(役所)と共に戸部(現在の戸部町)に置かれ、ここで行政上の事務を処理し、貿易上のことは横浜の運上所において取り扱った。ところが、水野は、横浜における異変を耳にしても、直ちに凶行現場には行かず、戸部の役所で鎮座したままであった。ただ属吏を派遣し、凶徒逮捕の手配を指揮していた。
しかし神奈川の各寺院に領事館を設けた米・英・蘭三カ国の領事らは翌二十八日(8・26)の未明には、日本人役人らによってたたき起こされ、横浜の変事についての説明を受けた。イギリス領事官は、青木町の浄滝寺に仮の庁を置き、文久三年(1863)に居留地の155番に移転するのだが、この頃はまだ神奈川にあった。当時、イギリス領事代理として神奈川に駐在していたF・マーティン・カウアンが、江戸のイギリス仮公館(東禅寺)にいる特命全権公使R・オールコックに送った急送公文書(1859・8・27付)には、二十五日(陽暦26日の誤り)の午前四時頃、日本人役人がどやどややって来たので、眠りから起こされ、「ロシア士官らが街中で日本人に襲われ、一人が死んだ」と告げられたこと、また役人らは奉行の命を受けて、各国領事館にも変事を伝えに来たものだが、この事件の処理方法についての意見を聞きたい、との伝言もあったことが記されている。…
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捜査の限界
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神奈川奉行は、犯人逮捕の手配を命じ、その行方を探索させはしたが、犯人を捕らえることはできなかった。犯行は水戸浪士、または攘夷党の一味の仕業であろうと、みな推測した。その後数年を経て、慶応元年(1865)の初めに、武田耕雲斎(水戸藩家老、尊皇攘夷を唱えて筑波山に挙兵した)が率いる天狗党の一味を訊問した際、その中にいた小林幸八が、この事件の犯人であることが判明し、同年五月、横浜において梟首(さらし首)されたという。
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歪んだ「異人」観ーーフランス領事館の清国人ボーイを斬る
居留地のヨーロッパ商人らを震撼させたロシア人殺傷事件のほとぼりがまださめぬうちに、第二の外国人殺傷事件がまたしても起こった。安政六年十月十一日(1859・11・13)の午後六時半頃、神奈川駐在フランス領事代理ホセ・ロウレイロの清国人召使いが、横浜弁天通りで二人の武士に背後から襲われ重傷を負ったのち、死亡した。犯行現場は港崎町わきの外国人御貸長屋通り(イギリス人W・ケズウィックの家の近く)である。
この清国人の名前はあきらかでないが、物静かで、まじめな人物であったらしく、人から憾みを買うような人間ではなかった。たまたま主人の用事で横浜に来て災難にあったもので、事件当日には、洋服を着、ブーツをはき、フェルト帽をかぶっていた。死にぎわの苦痛の中で、同人が語ったところによると、跡をつけて来たサムライが二人いて、そのうちの一人が、いきなり提灯を眼の前につき出したので、「何か御用ですか」と尋ねたところ、背後からもう一人のサムライに斬られたという。刀きずは、左肩下から右腰にかけて長さ九寸五分(役29センチ)深さ約三寸(約9センチ)ほどもあった。召使いは程なく日米双方の医師の手当てを受けるのであるが、深手であったためにかれらもさじを投げてしまった。
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水戸浪士小林忠雄の「異人」観
この事件は迷宮入りともなりかねなかったが、六年後の慶応元年(1865)夏、ついに水戸浪士小林忠雄が犯人として挙げられた。ベルクール仏総領事がフランス外務省に送った外交文書の中に「水戸公に仕えた元サムライの小林忠雄に対する判決文」(1865・7・30付)があり、この中に小林が自ら罪状を白状した口書(コウショ)(口述の筆記)が引用されている。それによると、小林は小八郎・竹三郎という者たちと横浜に買物に来たとき、ロシア人としか思えぬ者(ロウレイロの召使い)と出会った。その者から乗馬鞭のようなもので肩を打たれたという。二本差しの武士が、外国人から体を打たれるということは恥辱と思われた。二人の連れも同意見であった。小林はこの無礼な外国人を切ってはじをそそごうと決心し、ついに背後から肩を切りさげた。
清国人を切った後、小林は遁走し、その後山田イチロウ、アサクラ、イジュチラ(?)という者たちと近国近在の村々を訪ね、刀に物をいわせて、富裕な者から軍用金と称して金をまき上げた。ゆすり同然に集めた金は3,000両ほどになった。その後、小林は天狗党の乱(元治元年=1864年、水戸藩尊攘派藤田小四郎・武田耕雲斎らが挙兵した事件)に加わり、大平山(栃木市と下都賀郡大平町との境にある山、345メートル)に立てこもり、次いで筑波山に移ったが、幕府と水戸藩の追討軍に攻められた結果、党を離脱し、町人に変装し、各地を逃げ回った。しかし、京都で逮捕され、訊問を受けたとき、言葉の端から、横浜の清国人殺害の下手人でないかと疑われ、江戸に送られ、ついに罪状を認めた。
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異文化を体験した男ーーイギリス公使館の通弁伝吉を刺殺
「イギリス臣民」伝吉殺害の真相
安政七年正月七日(1860・1・29)こんどは外国帰りの日本人が攘夷志士のテロに遭って刺殺された。犠牲者は、イギリス公使館(品川高輪の東禅寺)付通弁の伝吉(英名=Dan-KicheまたはDan-Kutciなどのと綴る)である。
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安政七年正月七日(1860・1・29)の午後のことである。駐日英公使ラザフォード・オールコック(1809-97、59-64在任)は、アメリカ公使ハリスを見舞ったのち、公使館が置かれている東禅寺に戻り、自室にいると、部屋の外でだれかが急いでやって来る足音を聞いた。障子を開けて入って来たのは、たまたま公使館に泊まっていた英艦ローバック号の艦長マーテン大佐であった。かれは「早く来てください。あなたの通訳(伝吉)が重傷を負って運ばれてきます」と、せき込むようにいった。伝吉は戸板にのせられていた。かれは短刀で背中を柄のところまで突き刺され、その先端は右胸の上に出るほどの深手であった。オールコックが声をかけると、目をすこし動かしたが、意識はほとんどないようだった。ときどきくちびるを震わすが、ひとこともしゃべらない。傷口を調べるために洋服の一部をぬがしている間、一、二度けいれんを起こし、その痛みのためか全身を震わすとほどなく苦悶することなく息を引きとった、という。
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治安維持の限界--オランダ人船長二人を横浜で斬殺
動機不明の残忍なテロ行為
イギリス公使館通弁伝吉が刺殺されて一ヶ月も経たぬうちに、再び横浜において惨劇が起った。安政七年二月五日(1860・2・26)の午後七時頃、横浜本町の四丁目と五丁目の間で、オランダのブリッグ船クリスティアン・ルイ号の船長ウェセル・ド・フォスとスクーネル船ヘンリエット・ルイサ号の船長ナニング・デッカーら二人は、太刀を帯びた日本人によってずたずたに切られた。両人は本町通りで買物中に背後から襲われたのであるが、あたりは血の海と化した。事件当夜、被害者の悲鳴を聞いたのち、むごたらしい現場に駆けつけた目撃者がいる。
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またこの日、オールコックと老中脇坂中務大輔安宅(安政4・8~万延元年・11在任、のち再任)との間で殺伐とした情勢をめぐっての会談が行われた。オールコックは、これまでに外国人が六名を殺害されているにもかかわらず、犯人は一人も挙げられていないこと、とりわけ横浜居留地に住む外国人は恐慌状態に陥っていること、関門の設置や酔っ払いを取り締まるよう申し入れておいたが、未だ対策が講じられていないことなどについて、幕府側に強く抗議した。
江戸市中でのフランス公使館員負傷事件
横浜においてオランダ人二名が殺害されてからというもの、取り締まりも強化され、久しく同地において異変も起こらず、街も平穏な様子を呈しているかのように思えた。が、江戸においてはイギリス公使館通弁伝吉の刺殺事件が起こって約八ヶ月後に、こんどはフランス公使館(三田の済海寺)の館員ナタール(Natar イタリア人)が、麻上下や羽織を着用した侍四、五名のうちの一人と口論のあげく刀で切られるといった傷害事件が起こった。殺人事件には至らず、幸い同人の命に別条はなかった。
ナタールの職掌は、公使館の旗番(gardian de pavillon)であった。事件は万延元年九月十七日(1860・10・30)の夕方六時頃、宿舎となっている済海寺の門前で起こったのである。ナタールの被創(刀きず)は、幸い大事に至らなかったが、江戸に駐箚する公使館員に加えられただけに幕府の外国公使館に対する万全の措置の不備と無力さを再びあらわにした。この傷害事件の彼我の報告書を読み比べると、当時、幕府がいかにこの事件を捻じ曲げ、もみ消そうと努めているかがよくわかる。
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流浪の果てにーーアメリカ公使館通訳ヒュースケンの暗殺
「あわれな冒険者」の末路
万延元年十二月五日(1861・1・15)の深夜のことである。オールコック公使のもとへ、善福寺のアメリカ公使ハリスから、ヒュースイケンが切られたので、大至急医師を寄こして欲しい旨のメモが届けられた。オールコックは早速、マイバーグ(医師)を善福寺に遣った。が、同人はイギリス公使館に戻ると、ヒュースケンが死んだ、と報告した。ヒュースケンは、日本駐箚アメリカ総領事(のち公使)タウンゼント・ハリス(1855~62在任)の秘書兼通訳として来日した者である。
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ヒュースケンには三名の騎馬の役人がついていた。一人はかれの前に、他の二人は後につき、さらに大君の紋章の付いた提灯をもった徒士(従僕)が四名、馬丁が二名そばに随行した。ところが、一行が麻布薪河岸(芝新堀端芝南新門前代地通り)にさしかかったとき、突如、両側より不逞な一団に襲われたのである。刺客らは二組に分かれ、ヒュースケンを待ち受けていたのである。かれらのうち三名は、提灯を持った役人の馬に刀の峰打ちをくわせ、これを押し止め、役人をうしろへ引張って行った。しかし、役人は不思議なことに、この行為に対して何の抵抗も示さず、ましてや相手を捕らえようともしなかったのである。この間に四名の侍は、供の者の提灯をまず切り落とすと、次いで馬の前足を切り、ヒュースケンに躍りかかって、これを斬りつけた。襲撃は瞬時にして行われたので、かれはピストルを抜くひまもなく、両脇腹に傷を負った。そして馬に拍車を加えて200ヤード(約180メートル)ほど走ったところで、落馬した。警護役の騎馬役人三名ばかりか、徒士・馬丁らもとっくに逃げてしまっており、かれは懸命に従僕の名を呼んだ。しかし、しばらくの間、誰一人かれを助けには来なかった。一方、ヒュースケンを斬りつけ、手応えありとみた刺客らは、難なく暗やみの中に姿を消した。
ヒュースケンを襲った刺客の数は、日本側の報告では「武家方侍四、五人」(「米国書記官ヒューケン遭害一件」)とあり、ハリスが国務省へ送ったそれには「七名」とある。襲われたのは、午後九時前後のことか。かれは落馬して15分ばかり路上で呻吟していた。やがて役人らは戸板を見つけ、その上にヒュースケンを乗せ、九時半頃善福寺に運び込んだ。血だらけのヒュースケンの姿を見たハリスは愕然とし、声もなかったが、気を取り戻すと、直ちにプロシアとイギリス両代表部へ外科医の応援を求めたのである。早速、プロシア公使館からはフォン・ルチウス医師が、イギリス公使館からはマイバーグ医師が、ヒュースイケンの治療に駆けつけたことはすでに述べた。
ヒュースケンが戸板でかつぎ込まれたのは仮のアメリカ公使館が置かれている善福寺の一坊(善行寺)である。かれが刺客に斬られたのち宿坊に運び込まれ、その後の模様を如実に伝えているのは、ハリスが国務省に送った報告書(1861・1・22付江戸発)である。
・・・
駆けつけた人々は、二人の医師とフランス公使館のジラール神父(メルメ・カションの後任の通訳官)を残して一時それぞれの宿舎へと帰った。十二時頃ヒュースケンは再びワインが飲みたいとといったので与えた。何口か飲んだあと眼をつむり、ジラール神父より終油秘跡を与えられ、静かに死んで行った。万延元年十二月六日(1861・1・16)の午前零時三十分のことである。享年二十九歳であった。
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