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さらさらさん (一般書) |
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明確にしにくいもの、見えにくいものを、どう捉えたらよいでしょう?
例えば、「発達障害」といわれるものも、その1つ。
周囲の人に「障害」が見えにくく、
また、「発達障害者」があるという人でも、
人それぞれ、「困っている」ことがが異なり、「障害」の内容が多様だそうです。
私は、「障がい者」という言葉を、どうしても好きになれません。
できるだけ使いたくないのですが、
「発達障害」について考えるとき、
「困っている」という状況や、その内容を、
周囲の人に分かりやすく伝えるためには「言葉」が必要な気がしています。
その言葉が、「発達障害」という言葉なのかもしれない。
と考えたりしています。
大野更紗さんの著書「さらさらさん」に収められている、
熊谷晋一郎さんとの対談『「ゆらぐ」障害者』。
この対談の中で、熊谷さんが、下記のような指摘をしていました。
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振り返ってみれば、
これまで、障害を語るときには、
「質と量」しか言ってきませんでした。
たとえば、「目が見えない障害」であるとか、
「耳が聞こえない障害」であるという「質」でまず分類して、
あとは目が「どれぐらい」見えないかとか、
耳が「どれぐらい」聞こえないかという「量」で判定する
というように、一人の人の中での「ゆらぎ」が十分に記述されていない。
(中略)
今の自立支援法では、当事者のニーズではなく、障害の「質と量」に関する判定結果が
支援量を決めている。
となると、「ゆらぎ」のある人が一番割りを食うでしょう。
明らかに重度の人はお金が下りるかもしれないけど、ゆらいでいる人、軽度の障害、言語化されにくい障害や苦悩を抱えている人には、とてもとても厳しい。
(中略)
そもそも、生活というのは、障害のあるなしに関わらず、ゆらぐものですね。
急用が入ったり、体調が変化したり、何をしているわけでもない待ち時間や、
余暇が突発的に生じたりする。
必要な支援や制度設計を考えるときに、このようなゆらぎを考慮に入れる必要があります。
生活を「家事」「介護」「外出」など、スケジュールごとに細かく分けて、
それに必要な支援の量を計算するというやり方で、真っ先に削られるのが、
何をするでもなく見守りをしたり、寄り添ったりするための時間、いわば「ゆらげる時間」です。
ゆらぎの中でこそ、意識や、言語や、イメージや、対話や、新しいアイデアが生まれるのですから、これを無視した制度設計を認めるわけにはいきません。
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見えにくいもの、明確にしにくいものを捉えるためのキーワードが、
「ゆらぎ」かもしれません。
障害のある・なし関係なく、
質とか量とかでは計れない部分、要素こそ、
「人間らしさ」のような気がしています。
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