
ここは秀紀が住んでいるアパートだ。
実家から飛び出して来た彼が、初めての一人暮らしを始めた安アパート。
ここに住む前に、色々なことがあった。
両親から遠藤と付き合うことを反対され、家を飛び出し途方に暮れた。

今までは、資産家である実家の後ろ盾があることが当たり前の人生だった。
秀紀は子供の頃からそれを知りつつ、それを踏まえて生き方を学び、実践してきた。
幼い淳に教えたように、彼なりの処世術でその環境を生き抜いてきたのだ。

愛の為に‥と言ったら大げさかもしれない。
けれど彼は、今まで得てきたものを全て捨ててでも、遠藤と居ることを選択した。
この世界に自分をこんなに愛してくれる人も、愛している人も他にいないと、熱く強い思いを抱えて。

しかし現実は甘くなかった。
今までと180度違う生活、狭い部屋で抱える孤独、いつも苛ついている恋人‥。



そしてマイノリティな自分に対する、世間の目の冷たさを知った。



好奇な視線から逃れ部屋で膝を抱える度味わう、言い知れぬ孤独。砂を噛むような思い‥。

しかしそんな生活の中で、時に楽しいこともあった。
少し失礼な、しかし思いやりのある隣人との出会い、その友達とわいわい騒いで囲んだ食卓、不意に訪れた幼馴染との邂逅‥。



砂の中に紛れた宝石のように、数々の記憶が胸の中で光る。
そして、様々な思い出が染み付いたこの部屋を、秀紀は明日去ることにしていた。
色々なことに対する別れが、刻々と近づいて来ていた。

荷物を段ボールにまとめながら、秀紀と遠藤はポツリポツリと会話をした。
「お医者さんは何て‥?」 「ただ‥毎日消毒してガーゼ取り替えて‥それだけしておけばいいって」

良かったね、と秀紀が優しく声を掛ける。
遠藤は何も言わず、二人は黙々と手を動かし続けた。


これから自分たちがどうなっていくかの核心に触れる話題を避けて、二人は自然と無口になった。
それでも秀紀は遠藤を思って、彼に気遣いの言葉を掛ける。
「‥あたしがいなくても、自分でちゃんと健康管理も傷の手当もするんだよ」

”あたしがいなくても”
その言葉は遠藤の心に悲しく響き、思わず彼は秀紀の方を振り向いた。
今ここにいる恋人は、明日にはいなくなってしまうのだ。
「なぁ‥マジで別れるつもりか?!」

遠藤は彼に詰め寄った。
「ただ家に帰ればいいんじゃねーのかよ?青田なんかのせいでお前‥」

声を荒げる遠藤を制して、秀紀はゆっくりと口を開く。
何かを吹っ切ったかのような、しっかりとした口調で。
「修ちゃん、淳のせいじゃない。あたしたちのためなの」

秀紀は彼に問いかけた。
自分が実家に帰ってからも、関係を続けられると思う?と。
遠藤は冷静な彼の言葉を、焦燥を抑えつつ受け止める。

秀紀はさらけ出した。その正直な胸の内を。
今までずっと胸につかえてきた、苛立ちと哀しさを。
「世間はあたし達のことを理解しようともせずに、後ろ指さすから‥。
いつも言い訳して、人のせいにしてきた」

「あたしは勉強も就職もしんどいよって泣き言ばっか言って、
あなたはあたし達の関係の肩身が狭くって苛立ってばっかで‥。二人共いつもピリピリしてたよね」

ただ二人で笑っていたいと、一緒にいたいと、願いはいつもシンプルだった。
けれど顔を合わせる度に喧嘩して、一人になると苛立って、何もかもが上手くいかなかった。
秀紀はその原因を一つ一つ、丁寧に解きほぐして消化していた。彼の話は続く。
「自分達はこんなにも辛いんだから、もっと良い暮らししている奴らに迷惑かけて何が悪いって、
心のどこかでそう思ってたんだと思う」

「あたしも堕ちるとこまで堕ちて、修ちゃん追い詰めて、ようやく気が付いたの」
「‥‥‥‥」

遠藤は、じっと秀紀の話を聞いていた。
こんな風に彼とちゃんと向き合って話を聞いたことなんて、実は一度も無かった気がした。
別れに抗いたい気持ちの傍らで、彼の話に納得している自分がいる。秀紀は淀みない口調で尚も続けた。
「このままじゃ駄目。あたしも今おかしな疑いかけられたまま、どうしていいか分からないし、
修ちゃんも本当に大変なことになるとこだった」

「ご両親は今の状況、ご存じないんでしょう‥?」
図星だった。
自分の近況も、怪我をした現状も、両親に話せないままでいる。遠藤は返す言葉も無く、ただ俯いた。
「‥‥‥‥」

秀紀がそんな彼を見て、幾分明るい口調で言葉を掛ける。
「あたしはまた実家でお世話になって、ちゃんと勉強して就職しなくちゃ」と。
「淳に言われたからじゃない。あたし、地に足つけたいの」

俯いた遠藤に、秀紀は前向きな言葉を掛けた。
あなたもしっかり就職の準備を頑張って、二人で淳にカードのお金も返そうね、と。
「それでさ‥お互い辛いことちゃんと乗り越えたら、その時‥
その時、また会えるよ」

その時秀紀は、涙を堪えて笑った。
別れを言わずに、再開の約束をした。
どんな時でも遠藤を思って振る舞う彼は、優しくて何より、強かった。

俯いた先に広がる古い床が、ぼやけて滲む。
込み上げてくる嗚咽を必死で堪えながら、遠藤は小さく頷いた。
「‥分かった」

零れた涙が染みを作る。後から後から、彼への思いが溢れてくる。
けれど遠藤は秀紀の気持ちを真っ直ぐに受け止めた。
これは別れではないと、二人の新たな旅立ちだと、分かっていたから。

さよなら、とどちらかが口にした。
心は哀しみに暮れ、涙は溢れ続けていたけれど、二人は孤独では無かった。
何よりも大切な存在を、心の中に抱きしめていたから。
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<旅立ち>でした。
これにて二部での、遠藤さんと秀紀さんの話は終わりです。
前半はダイジェスト風記事にしてみました。
二人の関係は一旦終わりを迎えますが、きっと将来一回り大きくなった二人で再会出来るのではないでしょうか。
チートラ内で唯一ちゃんと向き合ったカップル、といった感じです。
秀紀さんのような大人に、最終的に先輩もなれるのかどうか‥気になるところですね。
次回は<別れの時>です。
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