
亮は彼女の傘の中で、涙を流していた。無情な雨が、心の中に降りしきる。
”こんなはずじゃなかったのに”が、彼の心の大部分を占めるだろうか?
順調にいっていれば、今先生と共にテレビに映っていたのは自分だったかもしれない。
過去の栄光が、脳裏にこびりついて離れない。

身軽なのが一番と、彼は適当な場所で適当な職に就き、適当なタイミングで居場所を変えた。
自由であるということは気楽だが、その代わりとしてその環境は彼をどんどん曖昧にした。
職業は? 家族は? 君の国籍は?

何一つしっかりとしたものが無いという事実。
その事実は亮の未来もまた、曖昧にした。

雨が降る。冷たい雨が。
亮の心から溢れた無常が、空を泣かせて雨が降る‥。

その雫を、彼は手を差し出して触っていた。指を伝い落ちるその雫は、彼の掌を冷たく濡らす。
青田淳は雪の家の軒下で、少し小降りになった雨を眺めていた。

もう随分長い間彼女の帰宅を待っているが、依然として彼女は帰ってこない。
携帯電話も通じず、淳はその場に立ち尽くしていた。

ふと足元を見ると、一匹のかたつむりがノロノロと歩いていた。
淳が足をかたつむりの方へ向けると、かたつむりは気配を察してその歩みを止める。

そして淳は暫しの間、かたつむりの行く先を眺めていた。
少し移動したり、身を屈めて見やったり‥。


容姿の際立った若い男性がそのような行動を取っていることは、幾分珍しいので人の目を引く。
淳が顔を上げると、家の前を通りがかった人達が彼の方をジロジロと見ていた。

居心地悪そうに頭を掻く彼。

それから淳は何度も腕時計を見やったり、空模様を眺めたりと漫然とした時間を過ごした。
ようやく雨は止み、厚い雲が風で流れていく‥。


雪と亮は、その後居酒屋へ移動し酒を飲んだ。
亮は何も言わず焼酎を煽り、不機嫌そうに料理をつまんでいる。
「あの‥さっき何で泣い‥」

おずおずと雪が切り出すと、亮は無言の視線を向けた。

凄い形相である。
思わず雪は下を向き、「何でもないです」と質問を取り下げた。
亮は雪の前にグラスを置くと、お前も飲めと酒を注ごうとする。
「弱いからちょっとずつ‥」と雪が口にすると、

「お前って勉強しか能ねぇんだな」と呆れたように亮は言った。雪は思わずムッとする。
亮は自分の言った台詞を少し考えた。”能力”という点だ。

とあることが気になり、雪に向かって質問した。
「もうすぐ終わりだろ?塾」

雪は「はい」と答えた。もう大学が始まるからだった。
「‥オレも辞めよっかな」

亮は、塾の仕事が自分に合わない気がすると言った。
その言葉に雪は、「それじゃあ他にやりたい仕事があるんですか?」と聞いたのだが、
亮は素っ気なく「さあな」と言っただけだった。
「お前はあんの?」

亮から向けられた問いに、雪は暫し天を仰いで考えてみた。
未来はとめどなく続いているが、ただとりとめもなく広かった。
「私は‥」

そう言って暫し考えた後、遠く広がる未来から自分の足元に視線をやる。
「河村氏の言うとおり、私は勉強しか能がないから‥。専攻分野で就職することになるでしょうね」
「経営だったっけ? じゃあどっかの企業とか?」

「はい、多分‥」
「どこ?」
亮からの質問に、雪は特定の企業の名前は出せなかった。
「企業と言っても沢山あるし、どこへ行くかは‥」と言葉を濁す。
「どっかに閉じこもって勉強するって意味じゃ全く同じだな。聞くだけでウンザリだぜ」

雪にしろ下宿で国試の勉強をしている仲間達にしろ、彼らの持つ地道さを前にするとゲンナリする。
安定を望むには不可避なその特性を、自分が持ち得ないその性質を。

それきり黙り込んだ亮を前にして、雪はもう一度彼に質問した。
「それじゃあ河村氏はここを辞めた後、どこへ行くんですか?」


自分が誰で、何を目指し、どこへ行くのか‥。
亮はそのまま黙り込んだ。
心の表面で考えたこれからの算段はあるが、それが本当に正しいのだろうか?
「オレは‥」

自分が誰で、何を目指し、どこへ行くのか。
‥誰と居たいのか。
地方から上京する時、あそこを出る理由となった言葉が脳裏をかすめる。
一人では死にたくない

亮は口を開こうとしたが、その続きを話すことは出来なかった。
目の前に現れた、予想外の人物のせいで。
「二人で何話してるの?」

俺も混ぜてよ、と言って彼は座った。
二人は目を丸くする。

不意に現れた青田淳が不敵に笑みを浮かべたところで、波乱の一夜が幕を開けた。

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<これからのこと>でした。
亮の心情の流れがすごく丁寧に描かれていますね。
現在の自分の曖昧さ加減を知り、過去の栄光との差に愕然とする‥。
先輩が現れなかったら二人はどんな会話をしたのかな~ 未だに気になってます。
次回は<三人で円卓を(1)>です。面白回の始まりです(^^)♪
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