ふむっ!と雪は気合を入れて、メールを作成していた。

送信先は青田先輩。
その文面はこんな感じだ。
先輩 明日時間ありますか?

ようやく心の整理がついてきた雪は、明日先輩に会って話をしようと思っていた。
気合を入れてメールを打ちながらも、どこか少し緊張しているのだった。

ふと隣室を窺うと、そこはしんと静まり返っていた。
今まで秀樹が居た空間にぽっかりと穴が空いて、雪の心にもどこか隙間風が入り込む。

雪は幾分寂しさを感じながら、塾へ向かう道すがら聡美と電話をして歩いた。
「もしもし聡美、どうした?今日は塾だけど。うん、うん。あ、後で雨が降るみたいだよ」

雪が通りすぎたアパート‥そこは秀樹の住んでいた部屋の真ん前の部屋なのだが、
そこから女の甲高い笑い声が響いていた。以前秀樹を変態呼ばわりして警察に言いつけた、あの女だった。
「あの変態引っ越したよ。あたしもちょっぴり手を加えたけどね。
クソ暑いのに窓も開けられないこっちの身にもなれっつーの」

女は真ん前に住んでいた変態が居なくなったことに安心し、堂々と下着姿で窓を開けていた。
しかしよく見ると元秀樹の部屋は窓が少し開いていて、そこに一人の男が潜んでいた。

ニヤニヤと笑いながら、女の姿を眺めている。

黒い影が、とある大事件まであと少しと迫っていた。
一見平穏なアパートに、女の笑い声が響き渡る‥。


一方ここは河村亮の住む下宿。
時刻はもう塾の就業時間に迫っていた。
「クッソ、また遅刻だ!ったく何でこんなに散らかってんだよ!」

亮は廊下に置かれた沢山の物に躓きながら玄関へと急いだ。
ふと、傍らに置きっぱなしにしてある荷物が目に入った。

青田淳の父親からの、誕生日プレゼントだった。
亮は舌打ちをして、その箱を足で蹴った。その表情を怒りで歪めながら。
「青田のオッサン、度々こんなもん送りつけやがって‥白々しい‥」

深く暗い記憶が脳裏をかすめる。

亮は自分の左手を見ながら、
その手がギブスと包帯で包まれていた時のことを思い返した。

あの時、青田会長は亮の傍らに座りながら、目をつむっている彼に向かって呟いた。
私は‥君たちなら、淳の友達になれると思っていた‥。‥すまなかった。

ごめんな、と青田会長は消え入りそうな声で呟いた。
亮は目をつむっていたが、その声ははっきりと聞こえていた。

握りしめた右手に、無数の血管が浮かんでいた。
深く暗いところにある記憶が、未だに亮を捕らえては心を揺さぶる‥。

その後亮は、会長から贈られたそれを小太り君にあげた。
彼は頬を上気させながら突然のプレゼントを喜んだ。

未だ亮が何者なのか知らない小太り君は、その細い目をさらに細めて推理する。
「‥河村クン、何者かと思っていたけど、ミュージシャンとみたぞん!
」 「ちげぇよデブ
」

小太り君は亮の指を見ながら、長くてピアノに向いているし‥と言うが、亮は取り合わなかった。
プッと吹き出しながら、小太り君は笑う。
「お世辞ですけどーッ!プププ!」 「
」

そのまま背を向けて去って行く亮に、小太り君が「いってらっしゃい」と声を掛ける。
亮は頭をぐしゃぐしゃと掻きながら、イライラを連れて廊下を歩いて行った。

一度思い出した記憶は、なかなか消えてはくれなかった。
亮は力の入りきらない左手で拳を固めながら、ふと高校時代の自分を思い出していた。

腕前はメキメキと上達し、ますますその才能が世間に認められていっていた時期だった。
亮を見てくれていたピアノの先生は、雑誌のインタビューでも亮のことを「ただ一人の特別な弟子」だと豪語した。

眠そうな亮はその態度こそ良くなかったが、実力がある分それさえも容認されていた。
コンクールもきっと良い結果が出る、先生は亮の才能を信じている‥。

笑顔で亮の背中を押す先生に、亮は自信たっぷりに心配しないで下さいと言った。

その指は鍵盤に吸い付くように音楽を奏でる。
亮はピアノを弾くことに困難を覚えたことが、正直一度も無かった。
「チョロいぜ」

得意気にそう言って笑う自分の姿が、脳裏にこびりついている。
過去と呼ぶにはあまりにも生々しいその記憶が、亮を縛り続けている。
「!!」

ビクッと亮は身を揺らした。
記憶の海を揺蕩っていた思考が、急に現実に引き戻されたみたいだった。
携帯電話が大きな音を立てて鳴っている。亮は着信画面を見て、溜息を吐きながら電話を取った。
「亮‥元気?」

懐かしいが疎ましい声が聞こえる。おずおずと話し出した電話先の男は、亮が地方に行っている時の元同僚だった。
亮は既に彼とは縁を切ったと思っていたため、電話を掛けてきたことに対して憤慨していた。
しかし元同僚は亮の言葉など耳に入らないかのように、話を続けようとする。
「そっちでちょっと面倒見てやったからって、オトモダチ面してんじゃねーぞコラ。
ママの元から離れられねーような奴が独り立ちなんて無理だっつーの!人間なぁ、生きてきた地を離れたらオシマイなわけよ!」

亮はくどくどと説教を垂れた。
しかし電話先の彼は「今まだ都内にいるの?」と切迫した様子で続けてくる。
「あのさ‥俺、お前が上京したってことしか‥都内のどこにいるのかは知らないんだ、本当に‥」

亮は彼の話の要点が掴めず疑問符を飛ばしていたが、
続けられた彼の言葉に、思わず息を呑んだ。
「社長がお前捕まえて殺すって」

亮は思わず電話を耳元から離して、目を剥いた。
電話口からは依然として、怯えたような様子で彼が話し続けている。
「で、でもさ!俺は本当に都内に居るってことしか知らないし、大丈夫だよね!
都内っていっても広いんだろう?」

彼は亮が怒っているかどうか、気にしていた。
”河村亮は都内にいる”と、白状してしまったからだった。
「社長完全にキレてて、今すぐ金が要るみたいなんだ。ごめんな、亮」

彼の顔面は、殴られた痕が腫れ上がり傷だらけだった。その傷が、社長の憤慨を物語る。
空を見上げると、暗く厚い雲がだんだんと空を覆っていくのが見て取れた。
その不穏な曇り空に、彼の謝罪が吸い込まれていく‥。
「ごめんな‥」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<迫る黒い影>でした。
何やら不穏な影が近づいてまいりましたね。
この亮の元同僚さんは、日本語版ではカットされていましたが、亮に一度「社長が怒り狂ってる」と電話を掛けてきています。
参考記事→<ファースト・コンタクト>
随分と長い布石でしたね‥。
次回は<曖昧な関係>です。
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送信先は青田先輩。
その文面はこんな感じだ。
先輩 明日時間ありますか?

ようやく心の整理がついてきた雪は、明日先輩に会って話をしようと思っていた。
気合を入れてメールを打ちながらも、どこか少し緊張しているのだった。

ふと隣室を窺うと、そこはしんと静まり返っていた。
今まで秀樹が居た空間にぽっかりと穴が空いて、雪の心にもどこか隙間風が入り込む。


雪は幾分寂しさを感じながら、塾へ向かう道すがら聡美と電話をして歩いた。
「もしもし聡美、どうした?今日は塾だけど。うん、うん。あ、後で雨が降るみたいだよ」

雪が通りすぎたアパート‥そこは秀樹の住んでいた部屋の真ん前の部屋なのだが、
そこから女の甲高い笑い声が響いていた。以前秀樹を変態呼ばわりして警察に言いつけた、あの女だった。
「あの変態引っ越したよ。あたしもちょっぴり手を加えたけどね。
クソ暑いのに窓も開けられないこっちの身にもなれっつーの」

女は真ん前に住んでいた変態が居なくなったことに安心し、堂々と下着姿で窓を開けていた。
しかしよく見ると元秀樹の部屋は窓が少し開いていて、そこに一人の男が潜んでいた。

ニヤニヤと笑いながら、女の姿を眺めている。

黒い影が、とある大事件まであと少しと迫っていた。
一見平穏なアパートに、女の笑い声が響き渡る‥。


一方ここは河村亮の住む下宿。
時刻はもう塾の就業時間に迫っていた。
「クッソ、また遅刻だ!ったく何でこんなに散らかってんだよ!」

亮は廊下に置かれた沢山の物に躓きながら玄関へと急いだ。
ふと、傍らに置きっぱなしにしてある荷物が目に入った。

青田淳の父親からの、誕生日プレゼントだった。
亮は舌打ちをして、その箱を足で蹴った。その表情を怒りで歪めながら。
「青田のオッサン、度々こんなもん送りつけやがって‥白々しい‥」

深く暗い記憶が脳裏をかすめる。

亮は自分の左手を見ながら、
その手がギブスと包帯で包まれていた時のことを思い返した。

あの時、青田会長は亮の傍らに座りながら、目をつむっている彼に向かって呟いた。
私は‥君たちなら、淳の友達になれると思っていた‥。‥すまなかった。

ごめんな、と青田会長は消え入りそうな声で呟いた。
亮は目をつむっていたが、その声ははっきりと聞こえていた。

握りしめた右手に、無数の血管が浮かんでいた。
深く暗いところにある記憶が、未だに亮を捕らえては心を揺さぶる‥。

その後亮は、会長から贈られたそれを小太り君にあげた。
彼は頬を上気させながら突然のプレゼントを喜んだ。

未だ亮が何者なのか知らない小太り君は、その細い目をさらに細めて推理する。
「‥河村クン、何者かと思っていたけど、ミュージシャンとみたぞん!



小太り君は亮の指を見ながら、長くてピアノに向いているし‥と言うが、亮は取り合わなかった。
プッと吹き出しながら、小太り君は笑う。
「お世辞ですけどーッ!プププ!」 「



そのまま背を向けて去って行く亮に、小太り君が「いってらっしゃい」と声を掛ける。
亮は頭をぐしゃぐしゃと掻きながら、イライラを連れて廊下を歩いて行った。

一度思い出した記憶は、なかなか消えてはくれなかった。
亮は力の入りきらない左手で拳を固めながら、ふと高校時代の自分を思い出していた。

腕前はメキメキと上達し、ますますその才能が世間に認められていっていた時期だった。
亮を見てくれていたピアノの先生は、雑誌のインタビューでも亮のことを「ただ一人の特別な弟子」だと豪語した。

眠そうな亮はその態度こそ良くなかったが、実力がある分それさえも容認されていた。
コンクールもきっと良い結果が出る、先生は亮の才能を信じている‥。

笑顔で亮の背中を押す先生に、亮は自信たっぷりに心配しないで下さいと言った。

その指は鍵盤に吸い付くように音楽を奏でる。
亮はピアノを弾くことに困難を覚えたことが、正直一度も無かった。
「チョロいぜ」

得意気にそう言って笑う自分の姿が、脳裏にこびりついている。
過去と呼ぶにはあまりにも生々しいその記憶が、亮を縛り続けている。
「!!」

ビクッと亮は身を揺らした。
記憶の海を揺蕩っていた思考が、急に現実に引き戻されたみたいだった。
携帯電話が大きな音を立てて鳴っている。亮は着信画面を見て、溜息を吐きながら電話を取った。
「亮‥元気?」

懐かしいが疎ましい声が聞こえる。おずおずと話し出した電話先の男は、亮が地方に行っている時の元同僚だった。
亮は既に彼とは縁を切ったと思っていたため、電話を掛けてきたことに対して憤慨していた。
しかし元同僚は亮の言葉など耳に入らないかのように、話を続けようとする。
「そっちでちょっと面倒見てやったからって、オトモダチ面してんじゃねーぞコラ。
ママの元から離れられねーような奴が独り立ちなんて無理だっつーの!人間なぁ、生きてきた地を離れたらオシマイなわけよ!」

亮はくどくどと説教を垂れた。
しかし電話先の彼は「今まだ都内にいるの?」と切迫した様子で続けてくる。
「あのさ‥俺、お前が上京したってことしか‥都内のどこにいるのかは知らないんだ、本当に‥」

亮は彼の話の要点が掴めず疑問符を飛ばしていたが、
続けられた彼の言葉に、思わず息を呑んだ。
「社長がお前捕まえて殺すって」

亮は思わず電話を耳元から離して、目を剥いた。
電話口からは依然として、怯えたような様子で彼が話し続けている。
「で、でもさ!俺は本当に都内に居るってことしか知らないし、大丈夫だよね!
都内っていっても広いんだろう?」

彼は亮が怒っているかどうか、気にしていた。
”河村亮は都内にいる”と、白状してしまったからだった。
「社長完全にキレてて、今すぐ金が要るみたいなんだ。ごめんな、亮」

彼の顔面は、殴られた痕が腫れ上がり傷だらけだった。その傷が、社長の憤慨を物語る。
空を見上げると、暗く厚い雲がだんだんと空を覆っていくのが見て取れた。
その不穏な曇り空に、彼の謝罪が吸い込まれていく‥。
「ごめんな‥」

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<迫る黒い影>でした。
何やら不穏な影が近づいてまいりましたね。
この亮の元同僚さんは、日本語版ではカットされていましたが、亮に一度「社長が怒り狂ってる」と電話を掛けてきています。
参考記事→<ファースト・コンタクト>
随分と長い布石でしたね‥。
次回は<曖昧な関係>です。
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