夢七雑録

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5.佃橋から鎌倉橋

2009-10-28 22:43:06 | 神田川と支流
(26)佃橋

 次の橋は「佃橋」。橋の名は、地名(字)の築田から転じたようだが、本来は領主の直営田をさす佃が正しいのかも知れない。何れにしても、神田川沿いに水田が広がっていたのは確かだろう。江戸時代、高井戸は杉丸太の良材の産地として知られようになり、「佃橋」の近辺にも杉林が作られる。「佃橋」から南に甲州街道に出る道も、その運搬路として利用されてはいたのだろうが、現在は、遥かに交通量の多い環八が「佃橋」を通過している。その環八を歩道橋で渡って先に行く。

 川沿いの道は桜が多いので、花見時がベストといえるが、夏でも爽快に歩けるのが有りがたい。川の中を覗くと、川底の中央部を水が流れていて、思いのほか、水は澄んでいるように見える。前に来た時は、川の中に水質改善のための噴水のようなものがあったが、今回来てみると既に撤去されている。上流の方を覗いてみると、「佃橋」の辺りから、かなりの量の水が流れ込んでいるのが見える。玉川上水を流れてきた処理水を、浄化のため神田川に落としているという話を、どこかで聞いたことがあったが、その場所が「佃橋」であったらしい。

(27)高井戸橋
 次の橋まで来ると人通りも少なくなる。それでも、橋の名だけは、高井戸の名を付けている。高井戸の地名の起こりについては諸説ある。堀兼の井という深井戸に由来するという説、高台にあった高井堂が地名に転じたという説、丘の上の辻堂の傍らにあった清水を高井戸と称したという説、高井氏の土地ゆえ高井土と呼んだという説、等々。考えるほどに分からなくなってくるが、地名の起源などは、分からないことが多いのだ。

(28)正用下橋
 「正用下橋」の名は地名(字)に由来する。正用とは、下層領主の直営田のことを言うが、佃も正用も同じ意味で使われていたのかも知れない。近くには旧石器時代の遺跡もあり、この辺は古くから人が住みついた場所ではあった。

(29)池袋橋
 「池袋橋」は地名(字)に由来する。むかし、北の辺に大きな池があり、棲んでいた蛇を殺したところ水が涸れたため、頭骨を中野の宝仙寺に納めて祈祷してもらったという伝承がある。話の真偽はともかくとして、地形的には池が出来てもおかしくない場所ではある。ここから次の橋までは少し離れているが、公園などもあって緑も多く、退屈はしない。

(30)乙女橋
 付近に鷹狩の場所があって、一般人の狩猟を禁じていたという。このような場所を御留場と呼ぶそうだが、御留が乙女に転じ、「乙女橋」という橋の名となって、色もピンクに染められたというわけだ。

(31)堂の下橋
 丘の上に辻堂があり、そこから堂の下という地名(字)が生じ、その地名が橋の名となる。「堂之下橋」という橋の名は、玉川上水の橋の方が先だったようで、その後、江戸時代には無名だった神田上水の橋が、この橋名を受け継いだということなのだろう。この橋の下流には、小さな滝が出来ている。その音を背中にして、次の橋へ向かう。

(32)塚山橋

 次の「塚山橋」は、塚山公園に渡る橋として架けられたもののようだが、石造りの印象的な橋である。塚山公園は、縄文時代の集落跡地を整備して公園としたものだが、前に入ったこともあり、今回はパスして先に行く。

(33)鎌倉橋

 旧鎌倉街道が通っていたから「鎌倉橋」というわけで、橋のたもとには、「鎌倉街道」の石碑も建っている。鎌倉街道というのは、鎌倉に通じる中世の古道の総称だそうだが、関東では、新田義貞鎌倉攻めの際の進路として取り上げられることが多いようだ。その進路だが、上道、中道、下道とあり、これに、別ルートや連絡道、支道まであって、少々ややこしい事になっている。この鎌倉橋を通るのは、そのうちの、中道に関わる道のようで、登戸の渡しから、祖師谷、上北沢を経て、この鎌倉橋を渡り、大宮八幡の前を通って、鍋屋横丁から板橋に出る道だという。その道を辿ってみるのも面白そうだが、今日は別に目的がある故、早々に鎌倉街道と分かれて、先を急ぐ。

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