<巻4>
4.1 廻向院
「江戸名所記」は、回向院について、ものの哀れを留めていると記すとともに、明暦3年(1657)に発生した明暦の大火(振袖火事)の惨状を詳細に記述し、武蔵と下総の境である牛島の堀を埋め立て、塚を築いて死者を埋葬し、寺を建てて諸宗山無縁寺回向院と名付けたと記している。「江戸名所記」の挿絵には、露座の仏像が描かれている。銅造阿弥陀如来座像は延宝3年(1675)に造立されたという説があり、これが正しいとすれば、それ以前に露座の座像があったのかも知れない。
天保の頃の「江戸名所図会」の挿絵を見ると、回向院の境内には茶屋があり、参詣客の姿も見られる。江戸時代の後期、回向院では勧進相撲や出開帳がしばしば開催されており、また、札所でもあったので、参詣する人が多かったのだろう。同書の挿絵に、露座の仏像が本堂前に描かれているが、宝永2年(1705)に再鋳された銅造阿弥陀如来座像と思われる。現在、この坐像は本堂内に移され回向院の本尊になっている。
天保の頃の回向院の山号は豊国山であったが、現在は、諸宗山無縁寺回向院に復している。所在地は墨田区両国2。最寄駅は両国駅である。
4.2 三俣
三俣について、「江戸名所記」は次のように記している。三俣は、浅草川、新堀、霊岩島の三方に通じて水が流れるので、この名があり、絶景の地である。北は浅草寺、深川新田、東叡山寛永寺。西は江戸城や愛宕山。南東に伊豆大島、南西に富士山、東は安房や上総が見える。何より面白いのは8月15日の舟遊びである。世の好事家や大名のほか、貴賎上下の人々が舟を飾り、幕をはって、三俣から鉄砲津を目指して漕ぎ出していく。或いは歌い、或いは吟じ、笛太鼓で囃したてて騒ぎ、三味線や胡弓を弾く。普段は許されない事だが、今宵ばかりは三俣でも花火が許され、舟ごとに競い合って種々の花火を出す。春宵一刻値千金の心地がする。花火は、しだれ柳、糸桜、牡丹花、白菊など様々である(挿絵からすると、当時の花火は今の玩具花火の類だったらしい)。三俣の月は、月の名所の須磨明石にも勝るという。
寛永年間の「武州豊島郡江戸庄図」や寛文6年の「新板江戸庄図」では、箱崎の西を流れて浅草川(隅田川)に通じる水路(箱崎川)と、霊岸島と箱崎の間を流れる新堀と、霊岸島の西を流れる水路(亀島川)とに、日本橋川が三分岐する地点を、“三つまた”と記している。浅井了意の「東海道名所記」には、海から江戸の地に入るには、“新堀、ミつまたより日本橋にこぎ入るもあり”とあるので、日本橋川が三分岐する地点を、「江戸名所記」も三俣と呼んでいると考えられる。眺望についての記述は、日本橋から新堀、浅草川(隅田川)を経て鉄砲洲に至る舟遊びのコース途中の眺めであろうか。当時は両国橋下流の隅田川に架かる橋は無かったので、見通しは良かったと思われる。18世紀になると、隅田川が舟遊びの中心になり、「隅田川風物絵巻」でも、両国橋から箱崎にかけて行楽の舟が多く見られるようになる。19世紀の「江戸名所図会」では、隅田川が箱崎島で分流する地点を、三派(三俣)と呼んでいるが、舟遊びの拠点が、呼称とともに隅田川に移ったように思える。
現在、箱崎川は埋め立てられ、箱崎島(中央区日本橋箱崎)は陸続きになり、箱崎の上流にあった中洲(中央区日本橋中洲)とも陸続きとなる。新堀は日本橋川下流の扱いとなるが、亀島川とともに、水路として現在も残っている。往時の三俣の景観は失われてしまったが、舟遊びは、水上バスや屋形船として今も存続している。
4.3 永代島八幡宮
永代島八幡宮とは富岡八幡のことである。創建は寛永4年とされるが、寛永元年に長盛法印が祠に神像を安置したのが最初とする伝承もあり、元八幡と称される富賀岡八幡宮(江東区南砂7)に安置していたという伝承もある。「江戸名所記」では、ご神体(神像)は、菅原道真作で源頼政から千葉氏、足利氏などを経て伝わったとする。「江戸名所記」は、さらに、寛永20年から8月15日が祭礼日になった事、慶安4年に永代寺を八幡宮付属の寺とした事、同5年に弘法大師の堂を建て真言三密の秘蹟を講じた事、同年に流鏑馬を鶴岡八幡の法式により始めた事などを記している。また、永代島の景色は類まれで、東は安房や上総の山、南は品川、池上も近く、南西に富士、北西に江戸城、北に筑波、北東に下総が見えると書いている。
富岡八幡宮の別当寺であった永代寺には、広重の名所江戸百景にも取り上げられた評判の庭園があった。この庭園は山開きと称して期間を定めて公開していたが、多くの人が訪れたと、「江戸名所図会」は記している。また、富岡八幡宮の門前には、茶屋や料理屋が軒を並べ、行楽客が絶えることは無かったという。明治になると、その永代寺も廃寺となり庭園も失われるが、その後、永代寺の跡に成田山東京別院として深川不動が建てられ、永代寺の名称は塔頭が引き継ぐことになる。富岡八幡宮の祭礼は、今も変わらず8月15日を中心に開催され、八幡宮の門前町である門前仲町は、今も八幡宮や深川不動への参詣客で賑わっている。
4.4 禰宜町・浄瑠璃
禰宜町というのは古い町名で、寛文の頃に浄瑠璃小屋があったのは、堺町、葦屋町であったという。「江戸名所記」は、この町について、次のように記している。ここには、浄瑠璃、歌舞伎、曲芸など色々見物するものがあり、木戸を並べて、太鼓を打っている。貴賎老若で込み合う中に、異様な格好をした連中も居て、傍若無人の振る舞いをしている。町人は恐れて色を失い、女や子供は逃げ帰ることもある。「江戸名所記」は、さらに続けて浄瑠璃の歴史にふれ、三味線を伴奏に人形を操る人形浄瑠璃について、曲節も面白く人形操りも珍しいとし、大薩摩(薩摩浄雲)、小ざつま(浄雲の子、または外記か)、丹後拯(杉山丹後掾)などと名乗って、鼠木戸を構え太鼓を打って営業していると記している。仏教的な題材を扱う説経節も、この頃には人形浄瑠璃に近い演じ方で人気を集めるが、「江戸名所記」は、天下一大さつまの看板をかかげる人形浄瑠璃の小屋のほか、説経節の第一人者であった天満八太夫が「小栗判官」を演じていた小屋を挿絵に取り上げている。
人形浄瑠璃も、一時は歌舞伎を凌ぐ人気を博するが、次第に歌舞伎人気に圧倒されるようになる。「江戸名所図会」は、堺町と葦屋町の間に人形操りの小屋があると書いているが、すでに歌舞伎に比べ扱いは小さくなっている。明治以降、人形浄瑠璃は文楽の名で受け継がれる。現在、都内では、国立劇場・小劇場で公演が行われている。
4.5 禰宜町・歌舞伎
明暦大火より前の江戸を描いたとされる「江戸名所図屏風」は、歌舞伎芝居、人形浄瑠璃、軽業の小屋が軒を並べる芝居町の様子を取り上げている。歌舞伎芝居として描かれているのは、寛永6年(1629)に禁止された女歌舞伎に代わって台頭してきた若衆歌舞伎である。しかし、承応元年(1652)には若衆歌舞伎も禁止されてしまう。その後、野郎歌舞伎として興業が許される事にはなるのだが、当時はまだ悪い印象の方が多かったらしく、「江戸名所記」でも、歌舞伎に対し批判的な記述になっている。寛文の頃、上方で職を失った歌舞伎役者などが江戸に移り住むようになるが、「江戸名所記」では、そのような人物として、大坂(?)庄左衛門、小舞庄左衛門、杵屋勘兵衛、又九郎(坂東又九郎)、千之丞(玉川千之丞)の名をあげている。
「江戸名所図会」では、堺町の中村座と葦屋町の市村座が競い合っている様子を挿絵に取り上げている。やがて、天保の改革。芝居小屋は浅草に移転を命ぜられ、堺町と葦屋町から芝居小屋が姿を消すことになる。歌舞伎は、移転先の浅草猿若町で盛況をみせることになるが、明治になると、他への移動を政府から命ぜられる。その後、江戸時代からの芝居小屋は相次いで廃座に追い込まれ、明治時代に創設された歌舞伎座のみが生き残る。現在、歌舞伎と言えば、歌舞伎座ということになるが、今は工事中である。一方、ゆかりの地である浅草の隅田川の畔には、平成中村座が仮設され、江戸時代の芝居小屋の雰囲気を今に伝えている。
4.6 西本願寺
「江戸名所記」は、本願寺が東と西に分かれてからというもの、宗風も作法も同じであるのに、対立を続けている事態に苦言を呈し、末寺の坊主などは、東から西に、西から東にと宗派を変えるので、明星房という異名がついていると記している。西本願寺はもと浅草御門のうち(横山町)にあったが、明暦の大火の後、鉄砲洲に移っている。「江戸名所記」は、海に突き出した土地で、初めは寂しい場所であったが、江戸が繁盛するにつれ人家が続くようになり、絶景の地になったと書き、また、本堂は海に向かって建てられていて、安房や上総、伊豆の大島、富士が見えるとし記している。伊豆大島は、見えたとしても山頂が見える程度であったろうが、それはそれとして、当時の西本願寺は海に近く、景勝の地であったのは確かだろう。
「江戸名所図会」の挿絵から、江戸時代後期の西本願寺には、多くの参詣客が訪れていた事が分かる。その後、西本願寺は関東大震災の際に焼失。昭和に入ってから、インド様式で再建される。西本願寺は、現在、築地本願寺に改称している。
4.7 増上寺
三縁山増上寺の開山、大蓮社酉誉聖聡上人について、「江戸名所記」は、次のような話を記している。酉誉上人が江戸の貝塚(千代田区平河町)にあった光明寺に居住していた時のこと、光明寺内で経文の解釈をめぐり議論があった。これを聞いていた托鉢僧が、にっこり笑って帰っていったので、酉誉上人はその後を追い、その訳を尋ねた。その托鉢僧・聖冏和尚がその理由を答え、それから、互いに問答するうちに、酉誉上人は深い感銘を受け、それまでの真言宗を捨てて浄土宗に変え、寺の名も三縁山増上寺と改称して、聖冏和尚の弟子になったという。時が移り、江戸に家康が入府した時、増上寺の和尚であった源誉上人に家康が帰依するという事があった。その後、増上寺は現在地(港区芝公園4)に移り、徳川家の菩提寺となり、また学問寺となる。「江戸名所記」は、増上寺について、寺の後ろに将軍家の御霊屋があり、その後は山になっていること。前には僧の寮があり、山門が高く聳えていること。門の外は東海道で上り下りの往来する人で市のようになっていること。東方には海上に舟が行き交う様が眼下に見え絶景であることを記している。
「江戸名所記」には増上寺内の五重塔についての記述は無いが、「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」には五重塔が描かれているので、寛永の頃から五重塔が存在していた可能性がある。五重塔は承応年中(1652-)に建てられたほか、文化年中(1804-)にも再建されているが、戦災で焼失して現在は無い。増上寺の建造物の多くは戦災などで焼失したが、三解脱門、経蔵、黒門は現存している。
4.1 廻向院
「江戸名所記」は、回向院について、ものの哀れを留めていると記すとともに、明暦3年(1657)に発生した明暦の大火(振袖火事)の惨状を詳細に記述し、武蔵と下総の境である牛島の堀を埋め立て、塚を築いて死者を埋葬し、寺を建てて諸宗山無縁寺回向院と名付けたと記している。「江戸名所記」の挿絵には、露座の仏像が描かれている。銅造阿弥陀如来座像は延宝3年(1675)に造立されたという説があり、これが正しいとすれば、それ以前に露座の座像があったのかも知れない。
天保の頃の「江戸名所図会」の挿絵を見ると、回向院の境内には茶屋があり、参詣客の姿も見られる。江戸時代の後期、回向院では勧進相撲や出開帳がしばしば開催されており、また、札所でもあったので、参詣する人が多かったのだろう。同書の挿絵に、露座の仏像が本堂前に描かれているが、宝永2年(1705)に再鋳された銅造阿弥陀如来座像と思われる。現在、この坐像は本堂内に移され回向院の本尊になっている。
天保の頃の回向院の山号は豊国山であったが、現在は、諸宗山無縁寺回向院に復している。所在地は墨田区両国2。最寄駅は両国駅である。
4.2 三俣
三俣について、「江戸名所記」は次のように記している。三俣は、浅草川、新堀、霊岩島の三方に通じて水が流れるので、この名があり、絶景の地である。北は浅草寺、深川新田、東叡山寛永寺。西は江戸城や愛宕山。南東に伊豆大島、南西に富士山、東は安房や上総が見える。何より面白いのは8月15日の舟遊びである。世の好事家や大名のほか、貴賎上下の人々が舟を飾り、幕をはって、三俣から鉄砲津を目指して漕ぎ出していく。或いは歌い、或いは吟じ、笛太鼓で囃したてて騒ぎ、三味線や胡弓を弾く。普段は許されない事だが、今宵ばかりは三俣でも花火が許され、舟ごとに競い合って種々の花火を出す。春宵一刻値千金の心地がする。花火は、しだれ柳、糸桜、牡丹花、白菊など様々である(挿絵からすると、当時の花火は今の玩具花火の類だったらしい)。三俣の月は、月の名所の須磨明石にも勝るという。
寛永年間の「武州豊島郡江戸庄図」や寛文6年の「新板江戸庄図」では、箱崎の西を流れて浅草川(隅田川)に通じる水路(箱崎川)と、霊岸島と箱崎の間を流れる新堀と、霊岸島の西を流れる水路(亀島川)とに、日本橋川が三分岐する地点を、“三つまた”と記している。浅井了意の「東海道名所記」には、海から江戸の地に入るには、“新堀、ミつまたより日本橋にこぎ入るもあり”とあるので、日本橋川が三分岐する地点を、「江戸名所記」も三俣と呼んでいると考えられる。眺望についての記述は、日本橋から新堀、浅草川(隅田川)を経て鉄砲洲に至る舟遊びのコース途中の眺めであろうか。当時は両国橋下流の隅田川に架かる橋は無かったので、見通しは良かったと思われる。18世紀になると、隅田川が舟遊びの中心になり、「隅田川風物絵巻」でも、両国橋から箱崎にかけて行楽の舟が多く見られるようになる。19世紀の「江戸名所図会」では、隅田川が箱崎島で分流する地点を、三派(三俣)と呼んでいるが、舟遊びの拠点が、呼称とともに隅田川に移ったように思える。
現在、箱崎川は埋め立てられ、箱崎島(中央区日本橋箱崎)は陸続きになり、箱崎の上流にあった中洲(中央区日本橋中洲)とも陸続きとなる。新堀は日本橋川下流の扱いとなるが、亀島川とともに、水路として現在も残っている。往時の三俣の景観は失われてしまったが、舟遊びは、水上バスや屋形船として今も存続している。
4.3 永代島八幡宮
永代島八幡宮とは富岡八幡のことである。創建は寛永4年とされるが、寛永元年に長盛法印が祠に神像を安置したのが最初とする伝承もあり、元八幡と称される富賀岡八幡宮(江東区南砂7)に安置していたという伝承もある。「江戸名所記」では、ご神体(神像)は、菅原道真作で源頼政から千葉氏、足利氏などを経て伝わったとする。「江戸名所記」は、さらに、寛永20年から8月15日が祭礼日になった事、慶安4年に永代寺を八幡宮付属の寺とした事、同5年に弘法大師の堂を建て真言三密の秘蹟を講じた事、同年に流鏑馬を鶴岡八幡の法式により始めた事などを記している。また、永代島の景色は類まれで、東は安房や上総の山、南は品川、池上も近く、南西に富士、北西に江戸城、北に筑波、北東に下総が見えると書いている。
富岡八幡宮の別当寺であった永代寺には、広重の名所江戸百景にも取り上げられた評判の庭園があった。この庭園は山開きと称して期間を定めて公開していたが、多くの人が訪れたと、「江戸名所図会」は記している。また、富岡八幡宮の門前には、茶屋や料理屋が軒を並べ、行楽客が絶えることは無かったという。明治になると、その永代寺も廃寺となり庭園も失われるが、その後、永代寺の跡に成田山東京別院として深川不動が建てられ、永代寺の名称は塔頭が引き継ぐことになる。富岡八幡宮の祭礼は、今も変わらず8月15日を中心に開催され、八幡宮の門前町である門前仲町は、今も八幡宮や深川不動への参詣客で賑わっている。
4.4 禰宜町・浄瑠璃
禰宜町というのは古い町名で、寛文の頃に浄瑠璃小屋があったのは、堺町、葦屋町であったという。「江戸名所記」は、この町について、次のように記している。ここには、浄瑠璃、歌舞伎、曲芸など色々見物するものがあり、木戸を並べて、太鼓を打っている。貴賎老若で込み合う中に、異様な格好をした連中も居て、傍若無人の振る舞いをしている。町人は恐れて色を失い、女や子供は逃げ帰ることもある。「江戸名所記」は、さらに続けて浄瑠璃の歴史にふれ、三味線を伴奏に人形を操る人形浄瑠璃について、曲節も面白く人形操りも珍しいとし、大薩摩(薩摩浄雲)、小ざつま(浄雲の子、または外記か)、丹後拯(杉山丹後掾)などと名乗って、鼠木戸を構え太鼓を打って営業していると記している。仏教的な題材を扱う説経節も、この頃には人形浄瑠璃に近い演じ方で人気を集めるが、「江戸名所記」は、天下一大さつまの看板をかかげる人形浄瑠璃の小屋のほか、説経節の第一人者であった天満八太夫が「小栗判官」を演じていた小屋を挿絵に取り上げている。
人形浄瑠璃も、一時は歌舞伎を凌ぐ人気を博するが、次第に歌舞伎人気に圧倒されるようになる。「江戸名所図会」は、堺町と葦屋町の間に人形操りの小屋があると書いているが、すでに歌舞伎に比べ扱いは小さくなっている。明治以降、人形浄瑠璃は文楽の名で受け継がれる。現在、都内では、国立劇場・小劇場で公演が行われている。
4.5 禰宜町・歌舞伎
明暦大火より前の江戸を描いたとされる「江戸名所図屏風」は、歌舞伎芝居、人形浄瑠璃、軽業の小屋が軒を並べる芝居町の様子を取り上げている。歌舞伎芝居として描かれているのは、寛永6年(1629)に禁止された女歌舞伎に代わって台頭してきた若衆歌舞伎である。しかし、承応元年(1652)には若衆歌舞伎も禁止されてしまう。その後、野郎歌舞伎として興業が許される事にはなるのだが、当時はまだ悪い印象の方が多かったらしく、「江戸名所記」でも、歌舞伎に対し批判的な記述になっている。寛文の頃、上方で職を失った歌舞伎役者などが江戸に移り住むようになるが、「江戸名所記」では、そのような人物として、大坂(?)庄左衛門、小舞庄左衛門、杵屋勘兵衛、又九郎(坂東又九郎)、千之丞(玉川千之丞)の名をあげている。
「江戸名所図会」では、堺町の中村座と葦屋町の市村座が競い合っている様子を挿絵に取り上げている。やがて、天保の改革。芝居小屋は浅草に移転を命ぜられ、堺町と葦屋町から芝居小屋が姿を消すことになる。歌舞伎は、移転先の浅草猿若町で盛況をみせることになるが、明治になると、他への移動を政府から命ぜられる。その後、江戸時代からの芝居小屋は相次いで廃座に追い込まれ、明治時代に創設された歌舞伎座のみが生き残る。現在、歌舞伎と言えば、歌舞伎座ということになるが、今は工事中である。一方、ゆかりの地である浅草の隅田川の畔には、平成中村座が仮設され、江戸時代の芝居小屋の雰囲気を今に伝えている。
4.6 西本願寺
「江戸名所記」は、本願寺が東と西に分かれてからというもの、宗風も作法も同じであるのに、対立を続けている事態に苦言を呈し、末寺の坊主などは、東から西に、西から東にと宗派を変えるので、明星房という異名がついていると記している。西本願寺はもと浅草御門のうち(横山町)にあったが、明暦の大火の後、鉄砲洲に移っている。「江戸名所記」は、海に突き出した土地で、初めは寂しい場所であったが、江戸が繁盛するにつれ人家が続くようになり、絶景の地になったと書き、また、本堂は海に向かって建てられていて、安房や上総、伊豆の大島、富士が見えるとし記している。伊豆大島は、見えたとしても山頂が見える程度であったろうが、それはそれとして、当時の西本願寺は海に近く、景勝の地であったのは確かだろう。
「江戸名所図会」の挿絵から、江戸時代後期の西本願寺には、多くの参詣客が訪れていた事が分かる。その後、西本願寺は関東大震災の際に焼失。昭和に入ってから、インド様式で再建される。西本願寺は、現在、築地本願寺に改称している。
4.7 増上寺
三縁山増上寺の開山、大蓮社酉誉聖聡上人について、「江戸名所記」は、次のような話を記している。酉誉上人が江戸の貝塚(千代田区平河町)にあった光明寺に居住していた時のこと、光明寺内で経文の解釈をめぐり議論があった。これを聞いていた托鉢僧が、にっこり笑って帰っていったので、酉誉上人はその後を追い、その訳を尋ねた。その托鉢僧・聖冏和尚がその理由を答え、それから、互いに問答するうちに、酉誉上人は深い感銘を受け、それまでの真言宗を捨てて浄土宗に変え、寺の名も三縁山増上寺と改称して、聖冏和尚の弟子になったという。時が移り、江戸に家康が入府した時、増上寺の和尚であった源誉上人に家康が帰依するという事があった。その後、増上寺は現在地(港区芝公園4)に移り、徳川家の菩提寺となり、また学問寺となる。「江戸名所記」は、増上寺について、寺の後ろに将軍家の御霊屋があり、その後は山になっていること。前には僧の寮があり、山門が高く聳えていること。門の外は東海道で上り下りの往来する人で市のようになっていること。東方には海上に舟が行き交う様が眼下に見え絶景であることを記している。
「江戸名所記」には増上寺内の五重塔についての記述は無いが、「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」には五重塔が描かれているので、寛永の頃から五重塔が存在していた可能性がある。五重塔は承応年中(1652-)に建てられたほか、文化年中(1804-)にも再建されているが、戦災で焼失して現在は無い。増上寺の建造物の多くは戦災などで焼失したが、三解脱門、経蔵、黒門は現存している。