夢七雑録

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江戸名所記見て歩き(7)

2012-10-20 09:26:58 | 江戸名所記
<巻5>

5.1 芝瑠璃山遍照寺

 「江戸名所記」は、遍照寺について、次のように記している。武蔵の芝の山中に光を放つ石があった。弘法大師がこの石に向かって祈念したところ、薬師如来が忽然として姿を現した。そこで、薬師如来の姿を自ら刻み、伽藍を建ててその像を安置し、瑠璃山遍照寺と名付けた。その後、建長年中(1249-)に、俊英阿舎利が山の麓に七間四方の楼閣を建て、山上にあった本尊の薬師如来と十二神将を移した。

 「御府内寺社備考」の摩尼珠山真福寺の項には、真福寺は初め瑠璃山遍照寺と称したとする「改選江戸志」の説と、遍照寺に関する「江戸名所記」の記述が引用されている。また、真福寺については、下総の真福寺の住持であった照海上人が、天正19年(1591)に江戸に出て鉄砲洲に草庵を構えたことに始まり、慶長10年(1605)、愛宕下に土地を賜って、照海上人を開山として開創されたと記している。真福寺本尊の薬師如来像については、浅野幸長が等身大の薬師如来像を彫らせ、その胎内に浅野家伝来の弘法大師作の薬師如来像を納めたとしている。由緒の違いからすると、遍照寺と真福寺は別の寺のようにも思えるが、どのような関わりがあるのか判然としない。「江戸名所記」が、あえて遍照寺の名を用いた理由も不明である。

 真福寺は愛宕の薬師として古くから親しまれていたようで、「新板江戸大絵図」にも、愛宕下に薬師という記載がある。幕末、真福寺はオランダ、ロシア、フランスの公使館として利用されている。その後、震災などで焼失したが再建され、その建物も老朽化したため、現在は、ビルとして再建されている。真福寺は、愛宕山の北側、放送博物館に上がる車道の横にあり(港区愛宕1)、虎ノ門からもさほど遠くない。

5.2 窪町・烏森稲荷

 「新板江戸大絵図」で、烏森稲荷は、幸橋御門の南側に、鴉森宮として記載されている。浅井了意はこの稲荷について良い印象を受けなかったらしく、「江戸名所記」の中で次のような事を書いている。烏森は武蔵の名所と言うことだが歌枕などには見当たらない。古老の言い伝えでは、ここに昔から狐が棲んでいて、人が家を建てるのを妨害したといい、大名も館を建てることが出来ず、祈祷も役に立たなかったというが、本当だろうか。今も祠があって稲荷神を崇めているという。ここは稲荷神の霊地なのだろうが、繁盛するかどうかは分からない。

 「江戸名所図会」は、この稲荷について、往古からの鎮座ながら来歴などは分からないとし、神宝として元歴元年(1184)の鰐口があったと書いている。ただ、藤原秀郷が平将門を攻めた時に勧請したとする説については、信としがたいとしている。なお、明暦の大火の時に烏森一帯も焼けてしまったが、祠は無事だったという話もあって、江戸では結構人気のある稲荷であった。実際、江戸時代の稲荷番付では関脇の位置を占めていたのである。現在は、烏森神社と改称し、新橋駅西側の飲食店街の一角に鎮座している(港区新橋2)。


5.3 芝金杉村・西応寺

 寛文6年の「新板武州江戸之図」によると、増上寺の大門の前から南に行き、将監橋で水路(赤羽川。のちに新堀)を渡って、先に進むと西応寺に出る。西応寺の南側には水路(入間川)があり、ここを渡れば東海道に出る。「江戸名所記」では、応安元年(1368)に明賢上人が西応寺を開いたとしている。また、天正年中に家康が西応寺に立ち寄った際、寺領の寄進を受けたという。本尊は恵心作の阿弥陀如来像で、鎮守は熊野三所である。

 赤羽川と入間川は渋谷川の下流にあたる。江戸時代初期の渋谷川の流路が描かれている「寛永江戸全図」によると、渋谷川は、現・古川橋の近辺で東から北に向きを変え、二つの水路に分かれ、現・一の橋近辺から東に流れ、現・赤羽橋近辺で再び合流し、虎ノ門近くに発して愛宕山と増上寺の横を流れてきた桜川を合わせて、赤羽川として海に流れ込んでいた。また、現・赤羽橋近辺からは南に水路を分け、幾つかに分かれて各屋敷に水を供給したあと、西応寺近くで合流し、入間川として海に流れ込んでいた。寛文の頃になると、渋谷川沿いの農地が武家屋敷地や寺社地に代わるようになり、不要となった水路は埋め立てられる。また、舟が通れるよう川幅を広げるとともに、流路を変えて蛇行を少なくする河川改修が行われるが、「元禄江戸図」を見ると、元禄6年頃には、一の橋近辺まで河川改修が進んでいたようである。結局、四の橋までの河川改修が終わったのは元禄12年頃。下流は新堀と呼ばれるようになる。

 西応寺は、幕末に最初のオランダ公使宿館が設けられたとして、都史跡になっている。なお、オランダは高輪の長応寺や愛宕下の真福寺を宿舎として利用している。西応寺は、イギリス使節の宿舎にもなり日英修好通商条約が締結された場所でもあったが当時の建物は現存していない。現在地は港区芝2。地下鉄三田駅が最寄り駅だが、大門で下車し、芝大門、将監橋を経て南に向かえば、右側に西応寺の入口がある。

5.4.田町・八幡

 「新板江戸大絵図」で、東海道(現・第一京浜)を南に、海沿いの田町を進み、札の辻を過ぎた先、右側に八幡の社がある。「江戸名所記」は、この八幡について次のように記している。この神社は、昔は三田にあり、田町に移ったのは正保年中である。ある人の話では、この宮は渡辺の綱を神としているという事だが、当てにはならない。神事は8月15日。神さびた雰囲気の社である。

 「江戸名所図会」は、三田八幡宮のうしろは山林で、東は海に臨み風光秀美であると記している。また、地元の人の話として、延喜式神名帳にある武蔵国荏原郡御田郷の稗田神社は、この神社であると記している。

 現在、三田八幡宮は御田八幡神社と改称している。今は海も遠のき、風光秀美とはいかないが、現在も交通量の多い道を見下ろす場所(港区三田3)に建っている。なお、延喜式神名帳の稗田神社に該当するかどうかについては異論もある。田町で下車し、第一京浜を南に行くと、札の辻の先、右側に神社の入口がある。

5.5 芝・大仏

 「新板江戸大絵図」で、東海道を田町から先に進むと牛町に出る。泉学寺(泉岳寺)に入る道を見送って先に行くと、右側に芝の大仏オオボトケがある。「江戸名所記」によると、芝の大仏は寛永12年(1635)頃に、但唱木食により建立されたという。大仏は五体の木像(五智如来)で金箔を貼っていたと思われる。大仏の門前には仁王の石像があり、これも但唱木食の作である。「東海道名所記」によると、大仏は身の丈一丈の立像で、仁王は身の丈7尺余であったという。

 如来寺の諸堂は元禄年間に完成をみたが、享保10年(1725)と延享2年(1745)に焼失し、仁王と地蔵の石像も焼損した。その後、諸堂は宝暦年間に大仏も含めて再建される。「江戸名所図会」の挿絵は、再建後の如来寺を描いているが、二王礎との記載があるので、仁王門は再建されなかったと思われる。如来寺は明治になって移転し、如来堂は裳階を外して移築され瑞應殿となる。この時、仁王や地蔵の石像も移したという。大正15年に養玉院と合併し帰命山養玉院如来寺となる。現在地は品川区西大井5。最寄駅は西大井駅である。なお、旧地は泉岳寺の隣(港区高輪2)にあった。


5.6 芝・閻魔堂
 
 「新板江戸大絵図」によると、閻魔堂は如来寺門前の北側にあった。「江戸名所記」は、閻魔堂の前に茶屋があり、門前は東海道で、海面はるかに見え渡ると記している。また、地蔵菩薩の石像のほか石仏が五体あったとする。

 享保10年か延享2年の火災の際、閻魔堂も焼失したと思われる。「江戸名所図会」には、閻魔堂は描かれておらず、また、「御府内備考」にも如来寺境内に閻魔堂跡ありと記されているので、閻魔堂は再建されなかったのであろう。旧地は、現在の高輪神社の北側にあたる。(港区高輪2)

5.7 芝・泉学寺

 如来寺の北隣が泉学寺(泉岳寺)である。「江戸名所記」は、泉学寺と牛町について、次のように記している。この寺は、門庵和尚の開基で、昔は麻布の台にあったが正保年中に今の場所に移る(慶長17年に外桜田に創建され、寛永18年の火災で焼失して移転したという説あり)。寺の山門は高く、門内は松並木になっている。東南を見れば帆かけ船が走り、夜は漁火が沖に浮き沈みするのが見える。ここは品川の入口にあたり、門前の東海道は、上る人、下る人、馬や籠が絶えず通る。門前に続く四町は牛町で、牛車のための牛の数は千疋にも及ぶ。しかし、この頃は、牛を使わずに人が引く地車が使われるようになった。牛の代わりに八人で引くので代八と呼ばれているが、江戸中の馬子などは、この地車を憎んで代八を引く人を人畜生と呼んでいる(牛車大工五郎兵衛と倅の八左衛門が作ったので代八車と呼ばれたという説もある)。

 泉岳寺は忠臣蔵ゆかりの寺として知られるが、本来は曹洞宗の学問所であった。「江戸名所図会」の挿絵には、赤穂四十七士の墓所が小さく描かれているが、挿絵の中心となるのは、本堂や九つの学寮などから成る、本来の寺の姿である。現在の泉岳寺の姿は江戸時代と同じではないが、学問所としての伝統は引き継がれているという。しかし忠臣蔵との関係は深く、義士祭が春と冬の二回行われている。現在地は港区高輪2。泉岳寺駅下車すぐ。


5.8 品川・東海寺

 ここで、浅井了意の「東海道名所記」と、元禄3年の「東海道分間絵図」を参考にして、江戸の入口である芝口(札の辻)から、東海道を辿ってみる。三田八幡を過ぎると、車町(牛町)が四町続く。その先の右手に芝の大仏オオボトケがあり、門の外には閻魔堂と太子堂がある。東海道の海側は石垣になっていて、安房や上総が残らず見え、また、西国などから来た舟も見えた。遠浅の海に沿った道を進むと、右側に御殿山が見えてくる。山上は海の眺めが良く、山中(御殿山)には御茶屋(将軍の休息所などとして使われた御殿)があった。その先、右に入るのが東海寺への道である。東海寺(東海禅寺)を開いたのは、沢庵和尚である。沢庵和尚は故あって出羽の上山に流罪となったが、後に許され、寛永15年頃に東海寺を建ててひきこもる。その風儀を慕う好事家たちが門前に市をなしたと、「江戸名所記」は記している。

 東海禅寺は、5万坪の敷地を有し17の塔頭のある大寺であった。「江戸名所図会」の挿絵を見ると、敷地内に目黒川が流れ、要津橋が架かっていた。この橋を渡った北側に本堂があり、西側の山の上には沢庵和尚の墓所があった。明治になると、広大な敷地の大半は接収され、東海禅寺は廃寺に追い込まれる。その名を継承した塔頭が、現在の東海禅寺である。今は往時の面影は無いが、沢庵和尚の墓所だけは当時のまま今に伝えられている。東海禅寺は、新馬場駅下車。交差点を渡ってすぐ(品川区北品川3)。


5.9 品川・水月観音

 「東海道分間絵図」で、東海道を先に進み、目黒川を渡ると右側に妙国寺(天妙国寺)の五重塔が見えてくる。この塔は「江戸京都絵図屏風」にも描かれており、寛文の頃には存在していたが、現存していない。その先、池上道が右に分かれる。池上本門寺の参詣道である。東海道を先に進むと右側に品河寺(品川寺)がある。「江戸名所記」による、品川寺の水月観音の由緒は次のようである。武州荏原郡品川郷の押領使(治安維持を担当する役職)の某は、弘法大師から渡された観音像を家に伝えて崇めていた。この観音像は品川左京亮の時まで代々伝えられ、品川一門の討死後も草堂に安置されて残された。太田道灌が品川を知行した時は、道灌もこの像を信仰し、観音堂も建てられた。その後、品川は北条家のものになるが、武田信玄が北条家と争った際、品川の観音堂も焼き払われ、観音像も甲州に持ち去られる。しかし持ち去った者が狂気のように品川に返せと叫んだため、観音像は戻されて、藁屋に安置された。承応元年(1652)、寺地を拝領して観音堂を修造し、寺を海照山品川寺普門院とした。観音像は水月観音と名付けられた。

 「江戸名所図会」の挿絵によると、寺に入ってすぐ左に、宝永5年(1708)建立の江戸六地蔵の一つがある。この地蔵尊は今も残っている。挿絵では、寺の門をくぐると正面に本堂があるが、今は右手の奥が本堂になっている。なお、水月観音は秘仏になっている。挿絵の左手には鐘楼が見える。その大梵鐘は明暦3年(1657)の鋳造だが、海外に搬出されたまま行方不明になっていた。ところが、ジュネーブにあることが発見され、昭和5年に返還されて今に残る。品川寺へは、青物横丁で下車して東に行き、旧東海道を南に入るとすぐである(品川区南品川3)。


5.10 池上・本門寺

 「東海道名所記」によると、鈴が森を過ぎた辺りから池上の本門寺が遠くに見えたという。本門寺への参詣道は幾つかあるが、品川寺近くの池上道をたどれば、本門寺の前に出ることが出来た。池上本門寺について、「江戸名所記」は、次のように記している。昔、日蓮聖人が安房小湊から舟で鎌倉に通った時、品川の浦で舟から上がり、池上村に入って、関東番匠棟梁・右衛門尉宗仲の家に宿泊した。聖人は山の景色を見て、ここは遷化(高僧が死去すること)の場所であると心に決めた。後に、身延山よりこの地に移り、宗仲の家に弟子を集め遷化の時が来たことを告げ、弘安5年に遷化した。宗仲は聖人の弟子となり家を寺としたが、これが大坊である。やがて本門寺は繁盛し境内も広くなった。祖師堂には日法作の聖人御影があり、長栄山、本門寺、祖師堂の額は光悦の書である。寺中16坊のうち古跡は、宗仲の家・日澄の寺(大坊本行寺。大田区池上2)、日朗の寺・照栄院(大田区池上1)、日像の寺・覚蔵坊(廃寺)、日昭の寺・南坊(南之坊。大田区池上2)の4か所である。寺の什物には日蓮自筆の注法華経などがある。

 池上本門寺は戦災により多くの堂宇を失っている。「江戸名所図会」の挿絵にある建造物のうち現存しているものを上げると、まず、元禄年間に建立された総門がある。次に慶長12年造立の五重塔がある。この五重塔は「江戸図屏風」や「江戸京都絵図屏風」にも描かれ、寛文の頃にも存在していたが、位置は異なっていた。天明4年の輪蔵(経蔵)も現存している。正徳4年に改鋳された梵鐘は現存しているが、戦災で損傷を受けたため、今は新たに鋳造された梵鐘が使用されている。このほか、江戸時代の建造物として宝塔があるが、「江戸名所図会」には描かれていない。池上本門寺へは、池上駅で下車して10分(大田区池上1)ほどで着く。

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