骨折で片腕を固定したユキがそれでも自転車乗りに挑戦をしていた。
子どもたちが時々「しんしょー」という言葉を使っている。「しんしょー」とは「身体障害」のことである。この「しんしょー」を何かに劣っているというような意味で使うのだ。例えば、誰かが何かに失敗すると「なに、おまえ、しんしょーじゃん」というような使い方。
身体障害のある友人が少なからずいるので、子どもたちのこの言葉を聞くとなんとも悲しい気持ちになる。
障害によりよちよちとした歩き方しかできない友人がこんな話をしてくれたことがある。
「高校生のとき、通学で駅へ行く途中、小学校の前を通ってたんだけど、子どもたちが『ペンギンが来た』っていつもはやすのがつらくてね」と。
「子どもたちに注意したり、小学校に伝えたりしたの?」と尋ねると
「でも、私なり先生なりが子どもたちに注意をしても、私の前で言うのをやめよう、としかなんないかも知れないでしょ。」
点字ブロックの上に駐輪されたたくさんの自転車や車椅子マークの付いた駐車スペースに該当者ではないのに平気で停めてある車に代表されるようにやっぱり大人社会の歪み、配慮のなさ、無意識の差別、そんなものが子ども社会に反映されちゃうんだろうな。
大人が変わらなきゃね。
子どもたちが時々「しんしょー」という言葉を使っている。「しんしょー」とは「身体障害」のことである。この「しんしょー」を何かに劣っているというような意味で使うのだ。例えば、誰かが何かに失敗すると「なに、おまえ、しんしょーじゃん」というような使い方。
身体障害のある友人が少なからずいるので、子どもたちのこの言葉を聞くとなんとも悲しい気持ちになる。
障害によりよちよちとした歩き方しかできない友人がこんな話をしてくれたことがある。
「高校生のとき、通学で駅へ行く途中、小学校の前を通ってたんだけど、子どもたちが『ペンギンが来た』っていつもはやすのがつらくてね」と。
「子どもたちに注意したり、小学校に伝えたりしたの?」と尋ねると
「でも、私なり先生なりが子どもたちに注意をしても、私の前で言うのをやめよう、としかなんないかも知れないでしょ。」
点字ブロックの上に駐輪されたたくさんの自転車や車椅子マークの付いた駐車スペースに該当者ではないのに平気で停めてある車に代表されるようにやっぱり大人社会の歪み、配慮のなさ、無意識の差別、そんなものが子ども社会に反映されちゃうんだろうな。
大人が変わらなきゃね。
やれテストの点が低い、やれ走るのが遅い、やれ集中力が無い、やれ性格が悪い・・・。
人間のランク付けに幼い頃からさんざん触れて成長するんだから、自分達より「劣る」ところの「身体障害者」を「しんしょー」と嘲ることに疑問が無いのは当たり前。
成果を計らねばならない宿命を持つ「教育」の限界のひとつ。
「遊び」が持つ可能性のひとつがそこにある。
誰?まだいるの?子どもの「しんしょー」の心を教育でなんとかしようなんて考えてる人?