夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2017年 6月29日(木)「民主主義と数の力」

2017年06月29日 20時37分48秒 | 「政治・経済」
ツイッターからです。
旧民主党政権時、ねじれ国会だのと決められない政治がやり玉に挙がった。実はこの時から政治の倫理や民主主義というものが瓦解していったのです。選挙は数の力を得るためのものになってマニフェストが消え去った。政治家ではなくても票になる人であればいい、あるいはポピュリズム。
二大政党という政治の中での政治家はもちろん、マスコミも多くの国民も「決められる政治」=「数の力」という常識を作り出して流されていった。選挙の結果という数の力も民主主義だとされたが、結果は数の力があれば何でも有りの政治が生まれて、社会全体もあらゆる種類の「力」があれば何でも有りに。
今の自民党が言う官僚主導から政治主導は、政治家が政策の理論などにおいて官僚に負けない資質を得ることではなくて、政治家の数の力を背景とした「力」によって捻じ曲げられるようになっている。企業は労働者よりも圧倒的に力がある。企業論理もまた「力」によってブラック化した。
街頭宣伝やネットを見てもヘイトが力を得た。この力が差別であろうとこれも言論だと主張されはじめた。「バカ、死ね」「いやだったら日本から出ていけ」「反日国民」などという高圧的な言葉が力を得た。この力は一般国民だけではなくて政治家の意識や知識人にまで陰で時には表で広がりを見せた。
言論や批判など、社会的な何かしらの「力」によって圧力を受けるようになり、マスコミの自粛までもが広がった。一見平等な報道がされなくてはならないという中での自粛のようであるが、力を持つ者の主張はやはり強くてそれが平等性から見た意見の力となり、これが社会的多数意見とみなされる。
国民は自分の意見を語ることは昔から自粛されていた。政治はもちろんひどい場合には真面目な話も「マジメぇ~」などと揶揄され楽しい話をしなくちゃ!と。テレビの政治番組でも最後はお茶螺家や例えば男女平等も男と女の闘いなどにごまかされてきた。
社会性や対人関係においてはテレビで見た意見を言っていれば無難であり、それである程度政治にも関心があるよといえる。
やはり国民全体が「数の力」=「民主主義」が常識化してしまっているのです。間違ったことを言うとたたかれる。。。。ほんとはその自分の意見が間違っているかいないかはわからないのに。。。。言論や批判は委縮をしてくる。これは何も一般国民だけではなくて「電波止める」といわれたマスコミも同じ。
民主主義や自由を抜きにして決められる政治を何も考えずに受け入れた国民の末路です。でも、今、これに気付き始めた人が多くなっているのではないでしょうか?決められる政治の力を持つ政党が劣化をして政治倫理が働かなくなっているのですから。でも保守(与党)の中からこれからも疑問が出るでしょう
民主主義や自由を余計なものと考える数の力は、腐敗して政治経済の劣化を必ずもたらします。力による政治ですから力のある者が得をする政治となります。小さくなるパイの分け前は力の持つものが多くを分捕る社会になります。これが社会を疲弊させていきます。最後は精神論的な戦争です。。。。。。
選挙は数の力の維持にある。これが「政治屋」の根底にある。だから選挙はうまいです。くっついたかと思うと離れたり、離れたと見せかけて選挙後はくっついたり。。。
改憲までこれが激化すするでしょう。
コメント
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