newsweekに二つの記事があった。
「長時間労働で減退する、日本の働き盛りの知的好奇心」
「働き盛りが読書しない日本、やがて訪れる思考停止社会」
ツイッターで時々目にするツイートで日本人は今の政治や社会を考えない思考停止になっているといったものがある。すでに思考停止は始まっているのでしょうか?
知的好奇心と読書とは切っても切れない関係にあります。
ですから、知的好奇心が減退し、読書しない人々が増えていけば確かに思考停止社会を加速するでしょう。今は読書をしなくても様々な知識や情報を手に入れられます。しかしこの知識や情報は思考ではない。膨大な知識や情報量があるがそれを処理するには思考が必要です。知識と思考は別物です。最近考える力の教育が言われていますが、まさに思考は考える力です。
読書はもちろん知識や情報を得るものです。しかし1冊の本を読む行為と時間は数日という長く続くものです。この中で考えることが必然となります。時には前のページまで読み返したりしながら理解しようとします。また以前読んだ関連する本を開くこともあるでしょう。又は小説や詩の本を思い出すことがある。今読んでいるほんとはまったく関連性のない本を思い出しハッとすることもある。そして批判的に読み進める中でまた考える。
本を読んでもほとんど中身は忘れ去られることが多いのですが、すべてを忘れるのではなくて思考の血肉として残っているものです。
このように読書によって得た思考力(考える力)が今の膨大な知識や情報を処理する基礎となります。
知的好奇心は知識や情報をたくさん得たいというものではないと思います。
思考する中で、これはどうなんだろ?あれはどうなんだろ?と考える中で知りたいという気持ちが高まる状態でなければ知的好奇心は膨らみません。詰め込みは苦痛となりますが、考えることは楽しみとなっていきます。ですから知的な人ほど専門の知識から離れた様々な知識を追い求められます。
では日本社会が思考停止になっていく理由は何でしょうか?
読書量と言いますが読書は有り余る時間があるからできるというものではありません。先ほど書いた知的好奇心がなければ本は読めません。長時間労働だから読書もできずに知的好奇心が薄れるとだけでは説明できないでしょう。
社会のシステムが知的好奇心や考える力を必要としないようになっており、それを政治や企業が生み出しているという事です。
1960年代から70年代の安保闘争時代は労働者や学生は自ら考えることを行っていました。しかし政治や企業はそれを必要とせず逆に邪魔になった。知的レベルが高く国や企業に何も考えずにあるいは忖度して従う人間作りが求められた。今後憲法改悪がありそうですがこれが考えない日本人をさらに増やして考える日本人を押さえつけるでしょう。
こういった社会が日本の社会システムとすれば考えることひどい場合は読書することが異端視扱いされる。
「趣味は?」
「読書かな・・・・」
「まじめぇ~・・・あははは」
こういう日常が生まれます。
同時に議論を深めること自体も蔑ろにされます。
議論よりも力ですよね、今の時代は。
古代弁証法すら忘れ去られている。
この状態がまた政治にも働き方にも悪影響を及ぼして負の連鎖は底なしとなる。
何も日本人の知的レベルが下がっているわけでもないのに今後はノーベル賞が無理ではと言われている。知的好奇心を活かせない社会システムならこれは当たっているでしょう。そしてアメリカなどの大学で働く研究者がノーベル賞でも取ると、「日本人、すごい!!」と見当はずれの愛国心が生まれる。
(追記)ツイッターから
知識や情報という面では、スマホ1台持っていれば深い専門性を求めなければ図書館を持ち歩いているようなもんですね。しかし思考・考える力はスマホにはない。思考・考える力も知識や情報としてでしか知りえない。
こういう考え方をしなさいとスマホが教えてくれてその通りに動くようになった時、人間は人間でなくなる。こういう考え方をしなさいというものはすでに誰かがインプットしてしている社会かも。。。。
「長時間労働で減退する、日本の働き盛りの知的好奇心」
「働き盛りが読書しない日本、やがて訪れる思考停止社会」
ツイッターで時々目にするツイートで日本人は今の政治や社会を考えない思考停止になっているといったものがある。すでに思考停止は始まっているのでしょうか?
知的好奇心と読書とは切っても切れない関係にあります。
ですから、知的好奇心が減退し、読書しない人々が増えていけば確かに思考停止社会を加速するでしょう。今は読書をしなくても様々な知識や情報を手に入れられます。しかしこの知識や情報は思考ではない。膨大な知識や情報量があるがそれを処理するには思考が必要です。知識と思考は別物です。最近考える力の教育が言われていますが、まさに思考は考える力です。
読書はもちろん知識や情報を得るものです。しかし1冊の本を読む行為と時間は数日という長く続くものです。この中で考えることが必然となります。時には前のページまで読み返したりしながら理解しようとします。また以前読んだ関連する本を開くこともあるでしょう。又は小説や詩の本を思い出すことがある。今読んでいるほんとはまったく関連性のない本を思い出しハッとすることもある。そして批判的に読み進める中でまた考える。
本を読んでもほとんど中身は忘れ去られることが多いのですが、すべてを忘れるのではなくて思考の血肉として残っているものです。
このように読書によって得た思考力(考える力)が今の膨大な知識や情報を処理する基礎となります。
知的好奇心は知識や情報をたくさん得たいというものではないと思います。
思考する中で、これはどうなんだろ?あれはどうなんだろ?と考える中で知りたいという気持ちが高まる状態でなければ知的好奇心は膨らみません。詰め込みは苦痛となりますが、考えることは楽しみとなっていきます。ですから知的な人ほど専門の知識から離れた様々な知識を追い求められます。
では日本社会が思考停止になっていく理由は何でしょうか?
読書量と言いますが読書は有り余る時間があるからできるというものではありません。先ほど書いた知的好奇心がなければ本は読めません。長時間労働だから読書もできずに知的好奇心が薄れるとだけでは説明できないでしょう。
社会のシステムが知的好奇心や考える力を必要としないようになっており、それを政治や企業が生み出しているという事です。
1960年代から70年代の安保闘争時代は労働者や学生は自ら考えることを行っていました。しかし政治や企業はそれを必要とせず逆に邪魔になった。知的レベルが高く国や企業に何も考えずにあるいは忖度して従う人間作りが求められた。今後憲法改悪がありそうですがこれが考えない日本人をさらに増やして考える日本人を押さえつけるでしょう。
こういった社会が日本の社会システムとすれば考えることひどい場合は読書することが異端視扱いされる。
「趣味は?」
「読書かな・・・・」
「まじめぇ~・・・あははは」
こういう日常が生まれます。
同時に議論を深めること自体も蔑ろにされます。
議論よりも力ですよね、今の時代は。
古代弁証法すら忘れ去られている。
この状態がまた政治にも働き方にも悪影響を及ぼして負の連鎖は底なしとなる。
何も日本人の知的レベルが下がっているわけでもないのに今後はノーベル賞が無理ではと言われている。知的好奇心を活かせない社会システムならこれは当たっているでしょう。そしてアメリカなどの大学で働く研究者がノーベル賞でも取ると、「日本人、すごい!!」と見当はずれの愛国心が生まれる。
(追記)ツイッターから
知識や情報という面では、スマホ1台持っていれば深い専門性を求めなければ図書館を持ち歩いているようなもんですね。しかし思考・考える力はスマホにはない。思考・考える力も知識や情報としてでしか知りえない。
こういう考え方をしなさいとスマホが教えてくれてその通りに動くようになった時、人間は人間でなくなる。こういう考え方をしなさいというものはすでに誰かがインプットしてしている社会かも。。。。