先日書いた
「資本主義は眠りにつく(4)」の続きです。
ある商品がすべての生産段階においてIT化そしてロボット化をされていくとすればその商品の追加される価値はゼロに近づく。
とはいえ、その商品がさらに発達するためには人の科学手を発達させる労働力が必要でしょうし、多くの消費者が喜ぶ使い勝手やデザインを制作する労働力も必要でしょう。
こう見ると技術者やデザイン家などの人の頭脳能力あるいは手に職を持つという意味における能力が眠りにつく資本主義においても必要です。
こうなると、現在の学歴社会と言われる単なる学歴だけの評価というものがなくなるでしょう。
以下にその人間としての能力が社会に役立つかは、学歴ではなくて実際どのような頭脳の能力あるいはどのような手に職を持っているかで評価がされるでしょう。
今の社会を見ても起業するといったものよりも職人あるいは専門職そして研究など人の労働が重要視される社会です。労働が重要視されるという事は社会は人の労働により成り立つという当たり前のことが目の前に現れているという事です。またなにも優れた専門的な労働力ではなくても、現在の労働力不足が言われている社会において労働力が社会をつくっているという事は自明なわけです。ここから見ればブラック企業や今の政府が行ってきたしこれからも行おうとしている労働力の使い捨てがいかに間違っているかが理解されるでしょう。
日常使うような物はIT化されたロボットが作り出す。その中で人の労働は必要最小限になるでしょう。そしてその商品価値は単に生産設備やエネルギーそして原材料の身からの価値移転分を残すことになるでしょう。こうして日用品は十分生産される。一方労働力は極端に余るでしょう。余ると言っても今の社会のように一方における過度の労働と一方における失業という余るという事ではなくて、一人当たりの必要労働時間の減少としてあらわれるという事です。
社会的な必要労働時間が減少していけば、余暇が増えるという事です。
この余暇が増えるという事は何を意味するか?
必要労働時間の減少に伴い労働力の再生産時間すなわち生活を営む時間が増加をするという事です。
夫婦が自分たちで子育てをしたり、少なくとも保育園であくせくせずに子育てができるという事です。余暇が増えればパチンコや酒におぼれるという人も多くなるでしょうが、より多くの人々は生活を楽しみ精神活動(芸術など)にその時間を使うでしょう。これは何を意味するか?人の人間としての発展です。
すると、商品の価格は下がり続けますがその消費は多くなる。さらに生産性や使い勝手を良くするような要望が出るでしょう。企業はこれに応えていく。
(以下ツイッターからの追記)
眠りについた資本主義は形を変えてその最高段階に達するでしょう。
このように資本主義が眠りにつくと、困るのは結局は企業やそこに寄生する投資家や政治家、官僚となりますが、同時に一般庶民を食い物にする様々な犯罪で食っている人々もまた困る社会になります。資本主義的社会の仕組みが失われるという事です。
とはいっても、このような状態は国家はもちろん眠りにつきます。その国家という仕組みが眠りについてもその中で人は生きなければならないのですから、ゼロに近づく商品価値をうまく利用して労働時間の短縮や一定の生活水準をすべての国民が受け取れる社会をつくるしかなくなります。資本主義は発展する
それが「資本主義は眠りにつく(5)」となると思います。それは、資本主義は眠りにつかないで発展しなければならないという事です。しかしそれは古臭い資本主義ではない。
安倍政権は真逆な政策を数の力で押し切ろうとしています。
新自由主義というのは新しい資本主義ではなくてこれまで経済を成長させてきた発達した資本主義から19世紀のようなカビの生えた資本主義に戻すことだったのではないかと思います。もちろん戦争という手段も含めて。