夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「12月29日という日」

2024年12月29日 08時06分47秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
パソコンの調子が悪くしばらくこれませんでした。
やっと復活です。
でも、しばらくは忙しいし・・・・

≪過去の記事≫

【2003年】
どよ~ん。。。
大掃除をしたのはいいのですが、ごみの回収は年内は終わっていました。
生ごみや分別ごみと一緒に年越しです。。。ハハハ
台所をやっていたとき、レンジがあまりにも汚く、妻と一緒にその汚さに見とれてしまいました。仕方なく新調してしまいました。
まあ、ともかくこれで新しい年を迎えられます。。。

【2004年】
東京も朝から雪です。積雪3センチほどかな?
今年は雪が多いのかもしれません。寒さも厳しいです。
腰の調子は最悪。。。。トホホ
医者も年末年始で休みになります。これから1週間、我慢するのみ!!
少しは歩き回ったほうがいいというので、息子の運転で正月の買出しに行きました。スーパーも商品の値段が高くなったような気がします。

【2005年】
どこもいよいよ御用納めですなぁ。。。
この一年を振り返って。。。なんてゆっくりした気分にもなれません。
なんだかどたばたと1年という時間は過ぎ去って行ってしまったような気がします。でも、この一年毎日必ずとはいえませんが楽しくこの日記も書けました。だいぶ愚痴も多いのですが、ハハハ。。。と笑いながら時々読み返しています。
読んでくださった方、ありがとうございました。年末年始も少しだけでも書けたらと思います。
よいお年を!!
読書ページに夏生さんの「庭ができました」を入れました。本とは内田先生の「先生はえらい」を先に読み終わり、途中まで感想を書いたのですが、難しくて先に進んでいないので先に「庭ができました」をいれました。時間があれば年内にはと思うのですが。。。。

「庭ができました」
                         角川文庫
               銀色 夏生  著
夏生さんは、夫との別居を決意した2000年頃(「つれづれノート10」)、沖縄県宮古島へ土地を買い「島移住」を考えますが、土地の造成に手間取りあきらめますが、その後島でなければならない理由はないと実家に引っ越すことを考えます。そして2002年7月25日、夫と離婚をして東京から故郷の宮崎県へお子さんたちとともに引っ越します。住まいは、狭くて古いご実家の離れに落ち着きます。(「つれづれノート12」)
すでにこのときに子供の頃に住んだことのある今は空き家になっている土地に家を建てる計画をしていました。家のデザインはすべて夏生さんが決めて家の工事が始まります。
この家は2003年7月に完成され、夏生さんは新居に引っ越します。(「つれづれノート13」)同時に庭造りの構想を進め、外塀の工事がはじまります。
この家については、2003年11月に「家ができました」(角川文庫)として出版をされます。
このように家作りと庭造りがされますが、夏生さんにとっては離婚をして宮崎に帰り、二人お子さんを育て、今までの結婚生活を振り返り、これからを考えますが、その意味では、夏生さんの心の中のひとつの区切りというものがあったものと思います。
2003年6月には、2002年頃から構想していた自選詩集「丘をばら色に染めながら」が出版されます。また、2001年11月発行の「バイバイまたね」以後約3年ぶりに2004年4月に詩集「雨は見ている川は知っている」を発行し、2005年2月には詩集「すみわたる夜空のような」が発行されます。そして庭造りが終わり「庭ができました」が発行されました。この詩人銀色夏生としての本来の作品にも夏生さんの心が現れているし、詩集という作品の発行自体にも新たな夏生さんを感じます。「つれづれノート」はもちろんですが、家や庭造りには平行してこのような作品も発表されているわけで、家や庭という形のあるものの作品ですが、その目に見え形のあるものと詩集などというほかの作品での心の部分を読者も平行して読んでみるとおもしろいと思います。
「今では、もう家も庭も私も、それぞれのんきにすごしています。作るときにやるだけやったので、心残りはありません。こうやって報告し終えたら、そこでやっと家と庭というこの作品作りは終わります。今はまた次のレポートにとりかかっているところです。」
                   (まえがき より)
「家ができました」もそうでしたが、この「庭ができました」もほとんどが写真ばかりの本です。
「家ができました」は、検索をすると建築関係の方にも読まれて評価されています。「庭ができました」も造園業の方や趣味で庭いじりをされている方の評価も出てくると思います。この意味では、本自体が夏生さんの作品であるとともに、家や庭というものが一つの作品となっているということだと思います。
しかし夏生さんファンにとっては、家や庭を楽しませていただくと同時に、日記エッセイ「つれづれノート」との関連で楽しめます。「つれづれノート」には、家や庭を作っていく過程が所々に出てきてそれがどのような形になって現れるのかが気にかかるところなのですが、それが本の写真によって紹介されるわけですかファンにとってはたまらない作品となります。
布団を干せるような大きな岩は、「つれづれノート」ではイラストとして書かれていましたが、本の写真ではパラソルの下の日陰で読書する夏生さんが出てきます。手作りの石垣、小石を埋め込む作業、庭の片隅にある生ゴミコンポスト(こては「つれづれノート」を読んでいても楽しく印象的なもの)、愛犬マロンの小屋、子供会だったかで作った「田の神さあ」、夏生さんの好きな木々や草花。。。。など、ファンにとってはたまらないものばかりです。
またたくさんの木々があるある中にもレモンの木がありますが、これは「檸檬の木の下で」といったかの詩にもあり、「やっぱり檸檬も植えられていたのかぁ。。」と考えたりもしました。あんがい思い出の木や草花もあるのではないかと思います。
写真ばかりの本ですからさっとめくって終わりかなと思ったらずっと見入ってしまいました。
「つれづれノート」ファンの方は必見の本です。

【2006年】
買い物に行き正月用の日本酒を買ってきました。
正月用なので少し高い酒を買ったのですが、少し味見をしてみようと封を切ってしまいました。これが間違いのもと。。。。
ハハハ・・・・味見のつもりがだいぶ飲んでしまいました。
夕食を食べ終わったら寝てしまった。。。
大掃除。。。。まだです。

【2007年】
昨夜、寝るときに雨の音がしました。
その雨も早朝にはやんだようです。一日中どんよりと曇りました。
でも雨の生か暖かい一日でした。
スーパーの食品売り場の棚はほとんど正月用品でした。
いつもウインナーとか置いてある棚に向かったのですが、ウインナーが無い?
パートのおばちゃんに「ウインナー、どこ行っちゃたんだろ?」と訊いたらだいぶ離れた棚にちんまりとありました。はじめはそのおばちゃんもどこにウインナーが消えたかわからなかったようで、店の奥に訊きに行っていました。
目に入るのは正月用品という中で、こういうこと一つとってもせわしなく感じます。
年々正月が嫌いになっていく。。。ううう

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
朝日新聞28日朝刊25面に文芸時評「わからない」の効用(わかると思うほうが間違い)というものが載っていた。
純文学は難しいというお話でしょうか?
この「わからない」の効用はとして、
「わからないの効用はわからなそうのものにある。私の頭がこんなに悪かったと思うと愕然とする。しかし文学が、いや世界が簡単にわかると思うほうが間違いなのだ。」
と。
この記事で「わからない」のどこに照準を当てているんだろ?
「わからない」ものを書くのは、偉そうに通ぶったものだと見ること自体がに間違いがあり、そういった人間は漫画などのわかりやすいものに走るという中原昌也の言葉を引用をして、この「わからない」ものを悪とする風潮が出てくると純文学は商売上がったりだとする。このような一部にある偏見があるのでしょうが、この記事ではこの「わからない」純文学の例として三つの作品を上げる。しかしよく見るとこの三つの作品の「わからない」は、どうも作品の構成や流れの中にある謎解き、手の込んだ文体や言い回しのような例ばかりのような気がする。
この構成の流れや複雑さあるいは謎解きのようなもの、そして手の込んだ文体や言い回しといったものは、たしかに純文学を「わからない」ものにするだろう。こういう「わからない」では、先の仲原が語る「わからないものは偉そうで通ぶったもの」といったようにとらえられて当たり前だろう。こういう意味での「わからない」純文学を純文学の正統派としたならどんどん読者は純文学から離れるだろう。どこか馬鹿にされたような感じがする純文学(といってもここの記事で紹介をされている三つの作品がこのような文学科は僕は読んでいないのでわからないが)という定義では。。。。。。だから水島さんの作品をわかりやすいと批判的になる。
漱石が文学は美文ではなくてその精神だと言ったように、美文に限らず凝った難しい文章が純文学ではなくて、著者の精神面がどのくらいうまく表現をされているかに文学的な価値が現れる。この精神面がどのように現れているかを読み解くのが本来の「わからない」の中身となる。
1+1=2は絶対正しいが、2=1+1と決め付けたらそれはある場合には間違いで、解が2になる数式は無限にあるのだから。文章に凝った作品の難しさは、1+1の式を数学の専門家が使うような高等数学の式に書きあらわして2という解を得るものに似ている。2を説明するのに何も高等数学は要らない。単純な愛を表現しているだけなのにその表現を小難しいように書く中に文学性を高める方法である。しかし2=1+1から2という数字は無限に表現できるよという中には、愛というもの形は無限に人間の心の中にあるとしてその一つを表現した意を表現したということになる。この場合の「わからない」は著者がどのような愛を書いているのか、読後に心に残る愛はどんな愛なのかというものをかみ締める中の「わからない」である。これこそ純文学の「わからない」ではないか?
そうすると、この「わからない」は、読者と著者のキャッチボールとなり、ただ理解するだけでは終わらない心の拘留が残る。そして読者は「考える」のである。「わからない」から考えるのである。読者がいろいろと考えることこの契機を作る「わからない」を表現した文学こそ本物となる。そして人間の心だから100%はわからないというものに行き着き、その中に純文学の例えば「愛」というテーマは永遠となるのである。

【2011年】ツイッターつぶやき
今のように政治も経済も混沌となりさまざまな矛盾が噴き出てきそれに対して有効な手段がない時にその批判から改革という言葉が出てくる。
改革という言葉には何か良い方向に向かうことを意味するように理解をしてしまうがその改革が本当に良い方向であるかは定かでないはずです。しかし改革という言葉を使い強い指導力を見せられるとどっとその改革という言葉に引き寄せられていく。
古い体質の中に何を再構築していくかが改革だが、改革を今までの制度を壊すということばかりに使われるならそれは改革ではないと思います。

【2012年】ツイッターつぶやき
安倍内閣はリフレ派の政策だとか言われ始めていますが、リフレーションってどんな政策なんでしょ?
金融緩和政策などを通じて、穏やかで安定したインフレ政策、遊休した設備投資や失業を克服、需要を創出。これによりデフレという不況から脱出する。(ウィキペディア参照)
なんとなく理想論的なインフレ政策なのではないでしょうか。
今日の『blogos』にも
『リフレは日本が抱えている最重要問題のうちの3つ、つまり1、景気低迷、デフレ、膨大な国の借金を一度に解決するのに役立つ可能性を秘めている。金融緩和を実施すれば、おそらく日本の失業率が少し下がり、また円が値下がりして輸出業者を助けることになるであろう。』
というリフレーションへの期待のような記事がありました。
このようにうまくいく政策なのでしょうか?
金融緩和政策はゼロ金利に加えて量的金融緩和に向かっていると思いますが、市場に流れる貨幣量を貯金を減らしてそして低金利で日銀が貸し出したりして貨幣量を増やそうとした景気回復には至らないという事は今までのゼロ金利でも証明されていますし、資金は国外に流れて国内の設備投資は進まなかった。結局は消費不況の中でのデフレも克服されなかった。ここでさらに量的緩和で貨幣量自体をじかに増やしても同じ結果になるのではないでしょうか。ですから景気の低迷やデフレ対策にはならない。
同時に国債の発行量は増えてさらに安倍政権では国債の発行量が増えるようです。リフレーションによりこの赤字が減るのかといえばそうではなくて、今現在も国債の金利が上がる傾向を示しているわけですから国際自体の危機にもつながるのではないでしょうか。
失業率が減ると言いますが、インフレ政策と失業率には何の必然的なつながりはないでしょう。同じく低賃金化は改善されないでしょう。
リフレーションといっても、結局はインフレ策でしかなく、その結果は多少のインフレが発生したとしてもそれはインフレと不況が同時に進むというスタグフレーションの拡大でしかないのではないでしょうか。そして酷な需要はインフレによってそして今後の消費増税によってさらに冷え込み、売れない商品はその価格を下げ続け、さらなる低賃金化が進み、更なる価格破壊が進むというデフレスパイラルに陥るのではないか。

【2013年】ツイッターつぶやき
経済的にも政治的にも矛盾が深まり発展の動きが停滞をしはじめる。今の社会(先進国あるいは資本主義といってもいい)がこの段階にきています。これまでの社会では今のような事態になれば恐慌が起きて戦争に突っ走るということになっていたかもしれませんが、先進国や途上国も含めて恐慌を抑えようとしていますし世界大戦を抑えようとしている面があります。これ自体が社会の発展でしょう。
しかし国民生活の低下と格差の拡大そしてそこからの相対的過剰生産が解決されたわけではありませんので停滞事態は深刻さにおいて同じでしょう。
この中でこの停滞からどう切り抜けるかが課題となっているわけです。
資本主義といってもそれぞれの国においては違いがあります。その国の歴史の流れの中に同じ資本主義でも形態と特徴があります。この中でその国それぞれに社会の発展の特徴も違ってくるでしょう。日本もまた模索をしているのですが、どうも今の矛盾解決を過去に戻ることにその解決策を見出すような動きとなっています。しかしその方向はひとつの矛盾として戦後かこのものとなったはずです。ですから社会の発展は今現在の矛盾をどのように発展性に変えていくかでなければなりません。歴史において日本が獲得したもの、それを土台にして社会は発展するでしょう。それは平和主義であり戦後民主主義であり、日本独特な共同体的な経済や政治です。それをどのように発展させるかですね。
これから逸脱をすれば日本への見方は当然古い社会への回帰となるでしょう。

【2014年】ツイッターつぶやき
「日銀は「デフレマインドの払拭(ふっしょく)」を目指して金融緩和を続けていると言うが、日本人が物を買わないのは本当にデフレマインドがあるからなのだろうか。本当に物の値段が先行き下がりそうだから買わないのだろうか。」(「日銀が導く未踏の境地「4年連続円安」の現実味」より引用)
以前も書いたが、やはりここでも日本経済の実態は単なるデフレではなくて「デフレ不況」なのです。
物の値段が下がるのは生産性が向上すればそれは経済法則です。その時企業利益が名目上減るわけですからそれをカバーするために禁じ手である労働賃金が引き下げた。それは非正規雇用の増加といった形でも引下げを行った。ここに消費マインドの低下が起こってしまったのです。何も先行き物価が下がるのを期待しての「買い惜しみ」ではなくて買いたくても買えない状況が作られたのです。
「アベノミクスが始まった日を2012年11月14日とすると、その日以来、円は対ドルで52%下落している。約25カ月半で円が対ドルで50%超下落したのは、1973年の変動相場制移行後初めてである。」(同上引用)
アベノミクスの失敗は消費増税といわれていますが、本質は円安誘導でしょう。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
今年は国民が愚弄された年ではないかと思います。
何でも有りの社会が普通になり、何でも有りを無意識的にも意識的にも行使したものが得をする。
何でも有りを意識的に行使することが愚弄です。愚弄は犯罪にはならないからと行使されます。
勿論行き過ぎた愚弄は犯罪となりましたが。
政治経済を中心に社会の隅々にまで浸透してしまった。
愚弄する人々はもちろん何かしらの「力」がある。
その力の行使を何でも有りとして行使するから愚弄できる。
国民は国民一人としては無抵抗にならざるを得ません。国民が分断をされていると愚弄されやすくなる。
来年は愚弄していた人々が愚弄される社会になるかもしれない。というのは、より強い力を持つ者が弱い部分の愚弄していた人々を愚弄するという事です。
愚弄する社会は国民の嘲笑の対象となります。
現実に笑わざるを得ないことがまじめが必要な場で語られますね。ブラックユーモアかと思ってしまうことが。。。。
しかし、この愚弄することが当たり前の社会は政治や特に経済に深刻な悪影響をもたらすでしょう。
愚弄社会は自壊していきます。

【2018年】ツイッターつぶやき
東京も寒くなってきましたので今夜は湯豆腐です。
ということで夕螺家特性湯豆腐のタレ。。。。。
小鍋に水、酒、砂糖、みりんを入れて多めの醤油を入れます。
これを沸騰させて濃いめに煮詰めます。
そこに長ネギのみじん切りを入れてまた一煮立ち。
火を止めたら鰹節を入れたら出来上がり。
食べるときは長ネギや鰹節を除いたたれだけで湯豆腐を食います。
甘めのタレですが、これがうまい!!
スーパーに行ったら京都の豆腐がありました。
土鍋に入れようとして切ったらびっくり。。。。
なんか胡麻豆腐のような粘り気がある。
たぶん葛が入っているんではないかと思います。
京都の豆腐ってこういうものでしたっけ?
昔京都で湯豆腐を食いましたが覚えがない。。。。。

昨日、妻とファミレスに行ったら、メニューにおつまみで「キャベツのアンチョビ炒め」がありました。
うまそうなので夜の酒のつまみに作ろうと思ったのですが、先日買ってきた塩鰹があるのを思い出しました。
キャベツをオリーブオイルとコショウで炒めて塩鰹のみじんに切ったものを入れるだけの料理です。うまかったです。
そういえばアンチョビはオイル漬けですがしょっぱい魚という面では塩鰹も似たようなものですね。ですからペペロンチーノに入れたりガーリックトーストに乗せてもいいかも。
使い方は案外あるかも。
そういえば塩鰹を薄く切ってゆずの皮を入れて甘酢につけてみましたが塩分も抜けておいしかったです。

【2019年】ツイッターつぶやき
「黒い霧」
懐かしい言葉です。
まだ子供のころだったか、子供の中でも「黒い霧」という言葉が広がりました。
プロ野球での八百長問題が表面化した事件でした。
「八百長」
今の社会を見てもこの言葉が当てはまるように感じます。
黒い霧に包まれた八百長社会。
桜を見る会の疑惑はまだ続いています。
続いているというよりもさらに問題化は深まってきています。
毎日新聞によると、桜を見る会の名簿はシュレッダーにかけられてしまったといわれていますが、公文書を破棄するときには廃棄簿に記載することが義務付けられているそうですが、この廃棄簿に桜を見る会の廃棄が記録されていないそうです。
同じく毎日新聞によると、昭恵夫人の私的な交友関係者も招待をされており、以前から昭恵夫人は私人なのか、公人なのかと問われている中桜を見る会についても私人である婦人の意見が通されているようです。
桜を見る会に限らず、現在の政治はすっかり国民から離れて一部の政治家などによって陰でうごめいている。そしてそのうごめきは国民には見えないようにされている。
この状態が黒い霧となって矛盾が見え隠れしている。しかし今の政治は圧倒的な力を持つ党が独裁的な力を持つのですから、矛盾はあるときには八百長にもなる危険性をもって進んでいく。
その八百長試合を見て国民は興奮させられているのでしょう。
八百長とわかっていても興奮して応援する。
それが日本を愛することになっている。

【2020年】ツイッターつぶやき
正月自宅支度のため車で買い物。コロナで密を避けるために買い物はできるだけ一人でというのが常識化されている東京です。
ついでに車にワックスをと思いいつものガソリンスタンドに行ったのですが洗車機の前は車が行列を作っていました。あきらめてスーパーへ。
道路はすいていたのですが、運転が荒っぽいですなぁ。。。
なぜかみんな急いでいる。
そんな話を妻にしたら「師走だからね」と。。。。
今年の御節料理はどうするか迷ったのですが、頃感染が拡大していますから手作りの方が安心かなと思い毎年のように手作りします。
昆布巻きだけは大変ですから今年は買ってきました。
明日から2日間で作ります。
買い忘れたものがいくつかあるのでまた明日スーパーへ。
コロナ感染が怖いのでササっと行ってきます。

【2021年】ツイッターつぶやき
正月支度と言ってもおせち料理を作ることぐらいで日常とそうは変化はないです。
今日は買い物に行ってきました。
夕飯用に牛肉を買ったのですが、帰ってきて思い出した。。。。。
去年の正月用に買った牛肉を思い出し失敗したことを。硬くてまずいし高い・・・・・
去年、もう牛肉はやめようと思ったのを忘れて買ってしまった。
そういえば去年チャーシュー用に買った肉もなんだか筋が多かった。。。。。。
なんだか出だしが悪いですなぁ。。。。。。
どんよりしながらも明日から御節料理を作ります。
黒豆、昆布巻き、伊達巻、ナマス、松前漬け、田作り、煮しめ。。。。。

【2022年】ツイッターつぶやき
冬至も過ぎて正月がやってくれば春も近いですなぁ。
白木蓮が小さい固いつぼみが出てきました。
山茶花はたくさん咲いてツバキが一輪。



少しづつ陽が伸びていく楽しみ。
1カ月もすれば春♪

【2023年】ツイッターつぶやき
正月用品の買い物に行きました。
鏡餅・・・・忘れた。ウウウ・・・・
ビニールに入った鏡餅を買うのですが、うまくないので毎年苦労しています。しかし、縁起もんですからなぁ。細かく切ってカキ餅にしたりしますがめんどくさい。
スーパーの駐車場は渋滞。
毎年不思議なのが、雑煮用の鶏肉の賞味期限が次の日になっている。たくさん切って売るので少し前から準備しているのでしょうね。帰ってから冷凍しなければならないのですからはじめから冷凍で売ればいいと思うけど、それでは見た目が悪いので売れないのでしょうか。
昆布巻き用の身欠きにしんを探したけどない。冷蔵品を売っている片隅にありました。いろいろと探すうちにスーパーの中をぐるぐると。
疲れますなぁ。。。。。
帰ってから昼寝をしようと思ったのですが、どうする家康の総集編が。
つい最後まで見てしまいました。
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