夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2024年 2月13日(火)「コンビニスイーツ」

2024年02月13日 22時22分27秒 | 「思うこと」
真冬の頃、セブンイレブンでフレンチクルーラードーナツを買ったのですが、記事が柔らく、ココアかな?のクリームがたくさん挟んであってうまいので癖になってしまった。しかし春になりクリームがイチゴ味になりがっかり。
そういえば夏にはファミリーマートのアイスキャンデーにはまってしまいずっと食っていた。
テレビ番組でも時々コンビニスーツをやっていますが、クリームなどは本格的だとか。とは言っても値段から知れその値段に沿った原料なのでしょうが。もちろん大量生産をしているので安くはなるかな。
でも、製造元を見ると地方の菓子屋さんだったりもして、そのお菓子屋もコンビニスーツとして売ってもらえば助かるのでしょうね。
イチゴクリームのフレンチクルーラードーナツは夏になると何味になるのか。。。。。
高いケーキなどはめったに食ったことがない。
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池に浮かぶ月2158【2月13日】

2024年02月13日 21時33分03秒 | 「池に浮かぶ月」
去年は横断歩道を渡ろうとしている人がいたので車を止めたら、その歩行者が先に言ってもいいよというジェスチャーをしたので、車を走らせたら警察官が歩行者保護義務違反で切符を切られたというニュースがありました。
警察官の問題ですなぁ。。。。。
歩行者が行くまでずっと止まっているしかない。

≪去年の今日はこんなことを・・・≫
2023年 2月13日(月)「優しさなのでしょうが」

「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」
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「2月13日という日」

2024年02月13日 07時56分49秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
真冬の頃、セブンイレブンでフレンチクルーラードーナツを買ったのですが、記事が柔らく、ココアかな?のクリームがたくさん挟んであってうまいので癖になってしまった。しかし春になりクリームがイチゴ味になりがっかり。
そういえば夏にはファミリーマートのアイスキャンデーにはまってしまいずっと食っていた。
テレビ番組でも時々コンビニスーツをやっていますが、クリームなどは本格的だとか。とは言っても値段から知れその値段に沿った原料なのでしょうが。もちろん大量生産をしているので安くはなるかな。
でも、製造元を見ると地方の菓子屋さんだったりもして、そのお菓子屋もコンビニスーツとして売ってもらえば助かるのでしょうね。
イチゴクリームのフレンチクルーラードーナツは夏になると何味になるのか。。。。。
高いケーキなどはめったに食ったことがない。

≪過去の記事≫

【2004年】
娘と近くのペットショップに行ってきました。熱帯魚とハムスターの餌などを買ってきました。
店の中を見ていたらセキセイインコの赤ちゃんがいました。盛んに鳴いていたのでオスでしょう。僕が高校生の頃だったか、セキセイインコを飼ったことがありました。「チイちゃん」という黄色いインコでした。言葉をたくさん覚えてかわいいインコでした。13年ほど生きたと思います。お袋が我が子の様にかわいがりよく世話をしていました。
娘にそんな話をしたら欲しくなってしまったようです。
明日は妻とおデートと思っていたのですが、妻が風邪をひいたみたいだといっていました。またの機会かな?
今夜はチャーハン、焼きそばとワンタンスープを作ります。

【2005年】
晴れてはいましたが寒い一日でした。
車で買い物に行ったのですが、どこも駐車場は満杯。いつもの日曜はこうは満車にはならないのですが、やはり3連休というのも関係しているのかな?お父さんも3連休で買い物ぐらいは家族サービスとか。。。。。
インフルエンザがすごくなりました。周りの人もインフルエンザで倒れる人が多いです。そういえばワクチン注射をしていない。。。。怖いです。なんとなく気のせいかのどが風邪の様に少し痛み出したので、ニンニクエキスのたっぷり入った栄養ドリンクを飲み、今夜はニンニクたっぷりの豚肉のソテーです。
においそう。。。。
まぁ、風邪やインフルエンザになるくらいなら人の迷惑もかえりみずニンニクの匂いを漂わせますよ。。。

「ゆっくりとさよならをとなえる」
            新潮文庫
            川上 弘美  著
川上さんの日常のことと本について書かれたエッセイ集です。
川上さんは、「あとがき」の中で、新聞などさまざまなところで書いたエッセイをまとめた本で、そこに通底しているものは、「本のこと」と「まごまごした感じ」と書いています。
「まごまごした感じ」は、エッセイ集の前半です。
川上さんの小説は、日常の生活のなかで起きる出来事を主人公は驚きもなくうろたえることもなく受け入れるようなものがあると思います。作品の性格から、その日常が夢の世界のように不思議な形として現れるのですが、主人公は驚くこともなくうろたえることもなく自然に受け止める。受け止めて淡々と語る。
目の前に現れる人との関係においても恋愛においても、淡々と受け止める。
しかし淡々といっても、心の動きがないのかというとそうではなく、、一般的な小説のように激しい心の動きが表現されないというだけで心の動きはあるのです。
さまざまな事象を淡々と受け止める。しかし心の動きはないわけではない。この一見矛盾したしたようなものを言葉に現すとすると、「まごまごした」という言葉が最も適当なのだろうとあらためてうなったしまいました。淡々と受け止めたのはよいが、それをどのように解釈したり対処したりしたらよいのか、ここに「まごまごした感じ」が見えるのではないかと思います。
このエッセイ集の前半は、川上さん自身が日常の中のさまざまなものを淡々と受け止めながらもまごまごしながら受け止め書いているのだと思います。
川上さんが公園でビールを飲んでいると、ひとりの老人がやってくる。一緒にビールを飲みはじめ、無くなったら老人が「買ってきましょうか」と。そして川上さんの前に手を出す。金を出せということである。タバコもあげる。おもしろい話で、川上さんのまごまごした感じが現れています。
前半は、このような日常に現れたものを書き連ねていますが、もうひとつ特徴的なのが食べ物です。そして飲み屋。。。。
おいしそうな食べ物の話がたくさん出てきます。そして飲み屋で飲む。赤提灯を思わせる飲み屋は、作品の中にもたくさん出てきますが、こんな川上さんの日常に作品の種があるのかもしれません。
一番多く入った店は、一番は本屋で、二番が飲み屋、三番がスパーだと。こんな言葉の中に何気ない川上さんの日常が見え、生き方も見えるような気がします。
飲み屋の風景や先に書いた老人との逸話もそうですが、内田百閒を「先生♪~」と呼びかけるところなどは「センセイの鞄」を連想したりしてしまいます。日常のとらえ方、そのままが川上さんの摩訶不思議な夢のような作品となるのでしょう。
この点でもこのエッセイはおもしろいと思います。
後半は本の話です。
朝日新聞の日曜日には時々川上さんの書評が出ていますが、日経新聞や雑誌などに連載したものがまとめられています。こんな本の感想文が書けたらいいなぁとおもいます。
川上さんとほんとのかかわりは尋常ではない。。。。
表題作は、最後に収められています。
「冬の夜にすること」など、日常が列挙されています。なんの変わり栄えのしない日常。。。。
これを列挙したところになんともいえない心が見えるような気がします。作品中に、戦時中の内田百閒の書いたエッセイが抜書きされていますが、そこには食べたいものが列挙されています。戦時中の食糧難の中で食べたいものを書き連ねる悲しみ。ささやかな夢。楽しみ。この内田百閒のエッセイに表題作は呼応するものかもしれません。日常の中の平凡な行い。夢。楽しみ。。。。。

【2006年】
ほう。。。。サバカレー。。。
夕食を作りながらサバカレーをつまみに焼酎を飲んでいました。
このサバカレーは、ドラマの中での架空の商品だったそうですが、ドラマにあやかってか商品化されたようです。
「ぶらり旅」にも書いたように「サバカレー」をテレビで聞いた覚えがあったので買ってきたのですが、このドラマを僕も見ていたのかもしれません。
カレーはシーフードにもよくあいますからサバにもよいのかもしれません。子供の頃、カレーに肉など入れられないときにシャケの缶詰を入れたカレーをよく食べさせられましたが、魚風味のカレーはこんな意味で慣れています。シャケの缶詰の柔らかいとはいえ背骨の入ったカレーには参ったっけ。。。
サバの風味がよいです。。。。ハハハ
千葉県の銚子市にある会社が作っているようです。千葉県にいらしたときは是非お探しください。
娘と買い物に行ってきました。
スーパーにはバレンタイン用のチョコがたくさん並べられていました。
昨日の日記にも書いたように生チョコが食べたい。。。。
僕が買うのも変ですので、そこで娘に生チョコを買わせました。食後のデザートに食べたいと思います。
それにしても小学生の女の子がたくさんチョコを買っていましたが、クラスにばらまくのでしょうか?

【2007年】
風もそこそこに吹き、よく晴れていたので洗濯物も気持ち乾きました。
夕方この洗濯物をたたもうと思いたたみはじめたら。。。。
へっくしゅんっ!!
くしゃみと鼻水が止まらなくなった。
洗濯物も取り込むときによく花粉を払ってからでないと地獄です。。。
一応バレンタインデーに妻からチョコをもらったので、一応ホワイトデーも明日ということでチョコを買ってきました。。。。ハハハ
一応。。。一応。。。と、儲けたのはチョコを売る会社。
買い物には娘も付いてきたので、そういえば娘からももらっているので一応娘の食べたいチョコを購入。。。。
なんだかなぁ。。。。
今夜は、厚揚げと豚肉の味噌炒めとブリ大根を作りました。
どうも腹が減っているときに買い物をすると食材を多く買ってしまい、お皿にどかっと。。。。厚揚げと豚肉の味噌炒めは明日の分まである。
ブリ大根のブリのアラは、すごく安いなぁ?と思って買ってきたのですが、ほとんど頭と骨ばかり。。。ううう
まぁ、出汁をとる程度には使えたけど、やはりある程度身が付いていないとなぁ。。。。

「ぢぞうはみんな知っている」 群 ようこ  著
何年か前に群さんのエッセイ「午前零時の玄米パン」を読んだ。
その感想の最後に、
「おてんば娘が50歳になりどんなおばさんになったのかという興味もありましたので。。。」
と、書いたのですがまさに今回のエッセイは群さん50歳のエッセイで、「『エロばばあ』狂乱」には度肝を抜かれました(笑)
「『大人』の掟」の書き出しに、「それなりに人というものがわかってきたような気になっていた」が、「人間とはそんなに単純ではないとあらためて感じる」と50歳になろうとしているご自分を見つめています。
「午前零時の。。。」は、4年前に読んだので中身はほとんど忘れているのですが、自分の感想文を読むと、どうも30歳代の群さんのエッセイで、女性から見た女性(時には暴露?)の生き様を描いていますし、その意味では50歳の群さんも同じような生き方をし、その女性から見た女性の表現も変わりありませんね。
人というのは、若い頃にいろいろなものに接しながら自分の生き方を意識的にも無意識にも形づくっていきますが、30歳の半ば頃からは、ある程度の生き方も定まり、人生観を変えるような大きな出来事がない限りそのままに年齢を重ねていくのだと思います。平凡に。。。。
ただ違うのは、40歳も後半にもなれば老化に気づき、50歳にもなればその老化が目に見えて現れてきます。人生のラストスパートというのか、自分を心身ともにどのように維持をしていくかに思いをめぐらしはじめます。その中での人とのかかわりの変化もあるわけで、それはやはり自分自身の老化した自分の中にあるわけです。
このエッセイ集は、この老化あるいは年齢を重ねることがどのようなものかというものを50歳になった群さんが語っているエッセイ集だと思います。
まずはじめのほうに、群さんの金をあてにしてバブリーな生活をする群さんの母親の様子が描かれます。群さんも売れっ子作家としての地位も確立してその母親の要求に応えます。どこか「金持ち群ようこ」が鼻につく点もあるのですが、そこには群さんが子供時代から見てきた母親がいて今の母娘関係もあり、50歳という初老の群さんからみた年老いた母親像が出ています。その母親のためにご自身は所得税すら滞納する状態。。。ここに「午前零時の。。。。」というエッセイの時代とそうは変わりのない群さんの姿があります。母親のいろいろな様子に自分の未来の姿もあるわけです。
また、「オスネコの『老い』」では、人間でいえば80をすぎた隣の家の飼い猫「ビーちゃん」が出てきます。そのビーちゃんのボケの様子にまた老化していくとはどういうものかをみるわけです。最後のエッセイ「まるでホラー」にビーちゃんが再び登場し、いっそう老いとは何かを見ることになります。まるでホラー。。。群さん独特な表現の中にも老いとは?をみますね。猫と一緒にするには失礼ですが、ビーちゃんにしろ母親にしろ年老いてゆく必然的な姿への思いが伝わってきます。
群さんはご結婚もしていないようですし、お子さんもいない。そこに登場するのが飼い猫の「しいちゃん」。人間でいえば青春まっさかりでしょうか?ここにどことなく母親の心情を思い起こすような群れさんがいます。50歳という年齢はこういう年齢です。年老いた母親がいて、今自分も50歳。しいちゃんは青春真っ盛り。その中で群さんは、50歳という年齢を考え実感するのでしょう。「体型崩壊」。。。ううう(笑)虫歯を治して一生自分の歯で物を食いたいと思う群さん。
50歳になって人生を悟ったようでも相変わらず人と人との摩擦やトラブルは続いていく。
老化とは何かと思うと同時に、今の50歳をどのように見つめてどのように生きるか。でも、そうは深刻でもないというのが50歳という初老の群さんの心情でしょう。
周りには相変わらず楽しい人たちがいていろいろな出来事が起きる。
「いくつになっても、人間、いろいろな経験ができるものですなあ」
と。
年齢による変化はあるものの、世の中や世間は動いているのであり、相変わらず平凡に今ある自分も生きている。
結局はこうして一生を終わっていくのでしょう。。。。
「ぢぞうはみんな知っている」という題名は、表題作名かと思ったのですが、エッセイ中には同題の作品はありませんでした。目をつぶってじっと立っているお地蔵さんですが、人の一生を静かに見守っているのでしょうね。少しにこっとしながら。。。。
いろいろと悲しいこともありますし、喜怒哀楽は仕方がないもの。群さんもお地蔵さんと同じように人の人生をにこっと楽しく見つめているのではないでしょうか?

【2008年】
北風ピューピュー
北に向かう自転車のじい様
うつむいて一生懸命にペダルをこぐ
しかし蛇行しはじめた
。。。。
ううう。。。。
ついに息きれて停止
寒い一日でした
今夜は温まる夕食と思い、チゲ風の湯豆腐にしました。具は豆腐と鶏肉のツミレ、鱈、長ネギだけです。スープは市販のもの。

「ぢぞうはみんな知っている」  群 ようこ  著
何年か前に群さんのエッセイ「午前零時の玄米パン」を読んだ。
その感想の最後に、
「おてんば娘が50歳になりどんなおばさんになったのかという興味もありましたので。。。」
と、書いたのですがまさに今回のエッセイは群さん50歳のエッセイで、「『エロばばあ』狂乱」には度肝を抜かれました(笑)
「『大人』の掟」の書き出しに、「それなりに人というものがわかってきたような気になっていた」が、「人間とはそんなに単純ではないとあらためて感じる」と50歳になろうとしているご自分を見つめています。
「午前零時の。。。」は、4年前に読んだので中身はほとんど忘れているのですが、自分の感想文を読むと、どうも30歳代の群さんのエッセイで、女性から見た女性(時には暴露?)の生き様を描いていますし、その意味では50歳の群さんも同じような生き方をし、その女性から見た女性の表現も変わりありませんね。
人というのは、若い頃にいろいろなものに接しながら自分の生き方を意識的にも無意識にも形づくっていきますが、30歳の半ば頃からは、ある程度の生き方も定まり、人生観を変えるような大きな出来事がない限りそのままに年齢を重ねていくのだと思います。平凡に。。。。
ただ違うのは、40歳も後半にもなれば老化に気づき、50歳にもなればその老化が目に見えて現れてきます。人生のラストスパートというのか、自分を心身ともにどのように維持をしていくかに思いをめぐらしはじめます。その中での人とのかかわりの変化もあるわけで、それはやはり自分自身の老化した自分の中にあるわけです。
このエッセイ集は、この老化あるいは年齢を重ねることがどのようなものかというものを50歳になった群さんが語っているエッセイ集だと思います。
まずはじめのほうに、群さんの金をあてにしてバブリーな生活をする群さんの母親の様子が描かれます。群さんも売れっ子作家としての地位も確立してその母親の要求に応えます。どこか「金持ち群ようこ」が鼻につく点もあるのですが、そこには群さんが子供時代から見てきた母親がいて今の母娘関係もあり、50歳という初老の群さんからみた年老いた母親像が出ています。その母親のためにご自身は所得税すら滞納する状態。。。ここに「午前零時の。。。。」というエッセイの時代とそうは変わりのない群さんの姿があります。母親のいろいろな様子に自分の未来の姿もあるわけです。
また、「オスネコの『老い』」では、人間でいえば80をすぎた隣の家の飼い猫「ビーちゃん」が出てきます。そのビーちゃんのボケの様子にまた老化していくとはどういうものかをみるわけです。最後のエッセイ「まるでホラー」にビーちゃんが再び登場し、いっそう老いとは何かを見ることになります。まるでホラー。。。群さん独特な表現の中にも老いとは?をみますね。猫と一緒にするには失礼ですが、ビーちゃんにしろ母親にしろ年老いてゆく必然的な姿への思いが伝わってきます。
群さんはご結婚もしていないようですし、お子さんもいない。そこに登場するのが飼い猫の「しいちゃん」。人間でいえば青春まっさかりでしょうか?ここにどことなく母親の心情を思い起こすような群れさんがいます。50歳という年齢はこういう年齢です。年老いた母親がいて、今自分も50歳。しいちゃんは青春真っ盛り。その中で群さんは、50歳という年齢を考え実感するのでしょう。「体型崩壊」。。。ううう(笑)虫歯を治して一生自分の歯で物を食いたいと思う群さん。
50歳になって人生を悟ったようでも相変わらず人と人との摩擦やトラブルは続いていく。
老化とは何かと思うと同時に、今の50歳をどのように見つめてどのように生きるか。でも、そうは深刻でもないというのが50歳という初老の群さんの心情でしょう。
周りには相変わらず楽しい人たちがいていろいろな出来事が起きる。
「いくつになっても、人間、いろいろな経験ができるものですなあ」
と。
年齢による変化はあるものの、世の中や世間は動いているのであり、相変わらず平凡に今ある自分も生きている。
結局はこうして一生を終わっていくのでしょう。。。。
「ぢぞうはみんな知っている」という題名は、表題作名かと思ったのですが、エッセイ中には同題の作品はありませんでした。目をつぶってじっと立っているお地蔵さんですが、人の一生を静かに見守っているのでしょうね。少しにこっとしながら。。。。
いろいろと悲しいこともありますし、喜怒哀楽は仕方がないもの。群さんもお地蔵さんと同じように人の人生をにこっと楽しく見つめているのではないでしょうか?

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
(記事なし)

【2011年】ツイッターつぶやき
    拝啓 川上 弘美様
日記を拝読させていただきました。
年末年始は世間が慌しく動き回っていますね。なんだか自分ひとりが閑にしているのは世間の流れに取り残されているような気にさせられます。クリスマスだ忘年会だと。。。。しりをたたかれるような、背中を押されるような忙しなさを感じます。
川上さんの日記を読ませていただきなんだかほっとしました(笑)。。。うん
世間の若い方の中にはオフ恐怖症というようなものがあるらしいです。手帳に「オフ」と書いたオフ日が多くなると落ち着かない。それは友達がいない恐怖にもつながるようです。多数のメールも同じようなものだそうです。
そんな中、どっしりと構えて昼寝をされるなんてさすが・・・・・です。うん(笑)
年々僕も年賀状書きが億劫になり手にする年賀状の数も減りました。正月は昼寝に限ります。。。。

       敬具

12月になると新しい年の手帳が本屋さんなどに並びますね。
新しい年を思うと手帖でも買うか!とも心に沸き起こるのですが、どうせ「オフ」とも書かない真っ白けのままに終わる手帳ですから買うのをやめます。今は携帯のカレンダーで十分です。
「休み」「燃えないゴミの日」とか書くぶんには十分であります。
一日が過ぎるとカレンダーを開きその日を削除する。。。。なんともいえない時間の流れを感じます。

【2012年】ツイッターつぶやき
企業が海外での現地生産を増やし、中国などの低賃金労働者を目指して資本を移していく。この企業間競争の中に巻き込まれている形で日本の労働者も競争に巻き込まれる。
海外の低賃金労働者と競争をさせられるなら今のような日本の若い方の失業や低賃金化は必然的になる。この競争で一番良い思いをするのは企業だけである。際限のない負の競争で国民は疲弊をし、疲弊した国民をどうにか生かしていくために社会保障が必要となり負の競争のつけは国家財政にのしかかるような仕組みを作られる。その社会保障のために負担の重さから見ると逆進性の強い消費増税が言われる。そこでまたさらに国民は疲弊をしていく。
際限のない負の競争は、搾取と収奪の中に国民をおしこめる。
今朝のワイドショウーを見ていたら民主党の長妻さんが年金改革の話をしていた。結局は昨日も書いた橋下知事の「究極の格差是正」と同じことを言っている。中間層の受け取る年金を下げてそれを最低保障年金の財源にして無年金者(今まで本人の意思で年金掛け金を納めなかった人や経済的におさめることができなくなった人たちなども含む)に支給するというやり方でしょう。上にも書いた逆進性の高い消費増税と中間層の犠牲による年金格差の税制です。これはちょうど貧困を中間層の生活低下によって均していくという発想です。国民の貧困化の状態を格差の是正というわけで、貧困化をみんなでというのですからそれも格差の是正だといったわけのわからないものでですう。貧困化(層)に希釈。
このように際限のない競争は負の競争として行われます。本格的なデフレスパイラルに突入するかもしれません。今の瞬間を考えれば企業や富裕層は以上のような政策で一息つくでしょうが、長い目で見れば企業の利潤率はさらに下がり、不労所得者層の不安定さは増すでしょう。

【2013年】ツイッターつぶやき
昨日も書いたが、企業(特に輸出産業)には減税や公共事業で税金をばらまく。その企業はゼロ金利で日銀が量的緩和でばらまく資金を使わせる。賃上げは1000億円の企業への減税という資金で行わせる。
日本の貿易相手国はアメリカであるがアメリカにも金をばらまいて日本製品を買わせる。
G7では一定の理解を得られたと言われているが明らかに通貨安競争で輸出産業の利益(本来の事業利益ではない為替上の利益)を確保させる。対外的発言と国内的発言が乖離する。
このばらまきの資金は消費増税を当て込んだものである。
このように見るとアベノミクスといわれるような経済政策ではなくてばらまきと国民生活の低下(国民所得の企業への移転)という自民党的なそれも古い政策でしかないだろう。
円安により輸入品は高くなり物価は上がるでしょう。この物価が上がることをインフレと勘違いをしなければいいが。
朝日新聞朝刊7面に財界への賃上げ養成の記事があったが、その要請を決断させたものが「参院選にらみ決断」という見出しにあるように賃上げを行う中での景気回復も「その中で参院選を迎えられれば理想的だ」(同記事より引用)というのが本音でしょう。
どうもこのばらまき的な政策は政策として進んでいるわけですが、政治的「安倍色を出さない」中で行われ、このまま参議院選に突入するためのものという色合いも強いのではないかと思います。
市場は円安で企業業績が上がった、株価が上がったと盛んに政府の「成果」を強調しますし、支持率も上がっていると。しかし国民生活には展望があるのかといえばそうではない。このような中で一つのバブル的な政治の中で参議院選に突入してしまうことがどうなんでしょうか。

【2014年】ツイッターつぶやき
2%目標達成後の景気や財政に重大な関心=黒田日銀総裁 | Reuters http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA1C05020140213 … 金融の日銀の責任は2%あるいは3%の物価上昇。経済の政策はアベノミクス。分けてみるべきでしょう。日銀は政府に提言すべきはすべきです。国民生活への言及は無理か。
「物価上昇率をFRBが目標とする2%まで押し上げたい考えを示したが、金融政策ができることには限界がある」http://jp.reuters.com/article/jp_column/idJPTYEA1C03W20140213?feedType=RSS&feedName=jp_column&virtualBrandChannel=13487&utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter …
(ツイッターより)
デフレというのは物価が下がり続けることだから物価を上げればデフレから脱却できる。物価が上がるためには景気の回復がなければならない。それを刺激するために金融市場や商品市場に金をばら撒けばいい。そのために中央銀行による国債の買取からの貨幣量を増やす。
そもそもこのような論理事態に誤りがあるわけです。
デフレといっても貨幣量が少ないからではなくて、貨幣量は金融市場において過剰であってそのために商品市場においての貨幣量が不足することにある。商品市場での貨幣量の不足は商品の消費を抑えるのですから商品生産を行う企業自体にも生産の縮小が起きてそれは企業の設備投資などそこでの消費の不足が起きる。企業利益は株や国債などの金融市場に流れる。そしてそれはまた金融市場の貨幣のだぶつきを大きくする。
中央銀行の量的緩和に効果を持たせるためには商品市場に貨幣が流れなくてはならない。
その中においてのインフレ傾向により物価が上がらなければならないのである。
しかし中央銀行のこの金融緩和は物価を2%上げるたためだけに責任があり、その2%の物価上昇がどのような中身において達成できるかは責任外の問題である。どのような中身において行われてそれを達成できるかはすべて政府の責任となる。
日本銀行は2%まで物価が上昇するまで緩和を続けるということしかできない。アメリカのFRBは縮小は言うが緩やかな出口戦略を言うしかないのである。その中で政府はどのような経済政策を行っているか?消費の拡大のために必要な庶民生活の圧迫を行う。それは失業問題であり不安定雇用の増大と賃下げとして現れている。緩和マネーのほとんどは金融市場に流れる。結局は金融市場での貨幣量のだぶつきの増大と商品市場における貨幣量の絶対的縮小と相対的縮小(物価が上がれば商品市場内の貨幣量は少なくなるのと同じ)を引き起こす。
ここには常にデフレ圧力が作用をして中央銀行による貨幣量の爆発的な増大に対して物価上昇の割合はそうは大きくならないという現象が起きる。
この現象面からそうは中央銀行も緩和策を行えなくなる。
「大規模な量的緩和を維持することで得られる経済的なプラス効果は疑わしい。イエレン議長は、物価上昇率をFRBが目標とする2%まで押し上げたい考えを示したが、金融政策ができることには限界がある。2008年以降、FRBのバランスシートは4倍に膨らんだのに、現在の物価上昇率は1.5%にとどまっている。」(上記ロイターの記事より引用)
「黒田東彦総裁は13日午後の衆議院予算委員会に出席し、2%の物価目標実現後の景気や財政について「日銀は重大な関心を持っているし、政府も重大な関心を持っている」と述べた。松田学委員(維新)に対する答弁。」(引用)
アベノミクスへの期待が失望に反転することも起こりえるでしょう。

【20015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
政府による報道の在り方について多くの発言が飛び交っている。
最近においても放送法がらみで大臣が電波を止めることもできるとの発言まで出ている。
偏った報道あるいは報道の公平・中立さという言葉が独り歩きをして観念的な解釈がされ始めている。
では偏った報道とか報道の中立とは何かをも一度考えてみなければならない。
以下、ツイッターからの転載です。

偏った報道あるいは報道の中立性を考える場合どこに中心点があるのでしょうか?その中心点は「真実」であり「国民の利益」などにあります。この中心点から政府の行うものがずれていたならそれを批判するだけであっても偏った中立性のない報道をは言えない
この中心点となる真実や国民の利益については様々なとらえ方があります。ここで討議が必要になるのですがどちらの意見が正しいかを出し合うことの内部にどちらの意見を主張するかが現れます。ここに観念的な公平とか中立はあり得ない
観念的な公平や中立が大切ではなくて真実がどこにあり国民の利益がどこにあるのかをどこからも邪魔をされずに主張しあえること自体が真の現実的な公平や中立が生まれるのです。

真実でないもの間違ったものそして国民の利益にならないものなどを報道することが報道機関の使命であり責任だろうか?
報道機関は真実そして国民の利益から報道をすることが使命なのである。
ならば報道機関は真実がどこにあり国民の利益がどこにあるのかを踏まえて報道すべきなのです。ここにうそや国民の利益にならないだ王としたものについてその意見も正しいとはならないでしょう。
正しいと考え国民の利益を中心点として報道すること、他の報道機関と意見の違いが出たなら報道により討議をしていくこと、取材をしていくこと。これが使命でしょう。

【2017年】
ツイッターで「世界文化遺産登録を目指す「俳句」と「荒川区」の実は“深い関係”」という記事を見つけた。
世界文化遺産に登録できる条件を知らないが、日本の一つの文化である俳句が世界遺産となることはうれしい。
しかし、世界遺産登録も観光事業と勘違いされるものを感じます。
俳句の遺産はどこに?
関係した遺跡や自然が多く残っているわけでもないし、その意味では形が見えない。
詩的表現あるいは精神文化がどのような形で残っているのかとなるとやはりどこかぼんやりとしている。
推進協議会の一つの団体「国際俳句交流会」では、「ユネスコ登録に向けて」という考え方を示している。
その中では、俳句が世界一短い詩形というものから世界に広がり、俳句の魅力が認められてきたとし、次のように俳句の魅力をより広げるために、次のように提起をしている。
・俳句の大衆性
・俳句の普遍性
・俳句の平和性
・次世代への教育力
この中での広がりにより世界遺産として承認されるのではないかということでしょうか?
「俳句の大衆性」や「俳句の普遍性」については、正岡子規も俳句の芸術性を比較しながら著書を残していると思います。
詩としてのすぐれた作品そしてその芸術性と、普遍性や大衆性。
俳句にとっては、これは永遠の課題なのかもしれません。
ただ広がりを持つことによる世界遺産なのか、俳句という芸術性を広めることによる政界遺産なのか。
たぶん、これはどちらか一つを選ぶことはできないでしょう。
世界遺産蟹はどちらもが必要になると思います。その意味では俳句の芸術性につおて日本人すら知らないことばかりですから、わかりやすい大衆的な言葉でこれを広めねばならないでしょう。

【2018年】ツイッターつぶやき
川上弘美さんの「東京日記 恋人は冷蔵庫。」(平凡社ウェブ版)が更新されました。
毎月たのしみに読んでいるサイトです。
去年の夏、寝室で寝ていると台所の方から唸り声が聞こえてきました。また冷蔵庫かなぁ・・・・・とは知りつつ眠りに入ろうかと思う頃にまた唸り声が大きくなる。心配になってしまい台所に行くと冷蔵庫の扉にある冷蔵温度の表示のランプ「強」が怪しく光りドンというような音がして唸り声が消えた。ついでに冷蔵庫から冷たい水を出して飲み終わりドアを閉めて寝室に行こうとしたら、またふるえるような唸り声を出し始めた。恋人とまではいかないが冷蔵庫に愛おしさを覚えた。。。。。。
川上さんちの冷蔵庫も同じような状態らしいですなぁ。。。。。。
恋人は冷蔵庫とはいえ、一生沿い続けるわけにはいかない冷蔵庫・・・・・悲しいですなぁ。
とはいえ、20年も一緒に暮らしていれば内縁の夫ぐらいにはなっているはずですから、なおさら捨てるわけにもいかない。冷蔵庫の方から「もう冷えないよ」と離縁されるしかない。しかしそれまで唸り声を聞くには。。。
さてどうしたものでしょうか。

俳句は17文字という世界で一番短い詩形だと言われています。
詩形だという事は明治の正岡子規などによる俳句の芸術性はやはり詩であるという事につながるでしょう。
俳句は詩であるというだけでは俳句としての芸術ではない。その詩形に欠かせないものとして季語がある。17文字の詩であると同時に季語が入る規制された詩形でなければならない。5・7・5、5・5・7であろうと7・55であっても季語が入れば俳句だとなる。いや、5・7・5でなければ俳句とは言えないというもう一つの規制もあるのかもしれない。もちろん17文字というのが最も著しい規制でしょう。
そのほかにも俳句の決まり事とされる規制がいくつかある。
こう見るとはいくというのは相当窮屈な詩形という事になりますが、しかし俳句は無限に存在する。
これが俳句の面白さかもしれません。
この窮屈さを感じて自由を求める俳句運動が過去にも現在にもあるのでしょうが、どこまで自由さが許されるかでも俳句の難しさでもありますが面白さでもあるのでしょう。
そして様々な規制が相互に作用してさらに窮屈となるのかもしれませんがそれがまた面白さになるのかもしれません。
何だか窮屈さばかりを強調していると俳句というのは窮屈さを楽しむ詩形ではないかと思ったりもします。
また更に俳句というのは結社をつくり、その結社の中であるいは結社間でよいく悪い句も出てしまい、悪ければ手直しをされて、これでこの句は生きるなどとなる。
俳句は17文字ですから、「てにをは」ぐらいの手直しも含めて、単語ひとつ変わるとまるで違う句になってしまいます。まったく違う句になってもうまい句なら良いのか。。。。。詩形としては優れた詩となるが心がどこかに飛んでしまうことが起きます。俳句の写実がなくなって架空の景色となる。俳句を詠んだ人の心を残しながらそれをより優れた詩にすることは難しいでしょう。それができるのは本人だけですね。
今後どの規制を残し度の規制を捨てるか、この中で窮屈さもすっきりするのかもしれません。そして残された窮屈さの中で面白さを味わえる。

【2019年】ツイッターつぶやき
景気循環は10年おきだといわれていますが、アベノミクスは企業利益と株高という仮想の好景気を作り出した。勤労国民には実感のない好景気です。それは最近の不正統計にも現れていますし、何よりも消費増税10%は経済の好循環をアベノミクスで生み出せるという前提に立つものですが、統計不正もそうですが増税時に個人消費が大きく落ち込まないために様々なからくりを行っている。株価は日銀の金融政策というカンフル剤と年金積立金にまで手を伸ばしている。
円安誘導では輸入品の値上げという悪性の物価高を作り出したが、景気の好循環でのインフレ傾向は起きずに2%目標は無理になっている。
以上のような状態は景気循環の中での好景気ではなくて株価においてなどの冷たいバブルでしかない。
リセッション(景気後退)は取り越し苦労だろうか?しかも冷たいバブルという仮想の好景気の中で。
日銀は金融緩和の副作用(銀行の利潤低下など)に注意を向けながらも金融緩和を続けるという。しかし国債の買い入れは減少しているし利下げも限界でしょう。
ブルムバーグの記事にFOMCに待ち構える不都合な現実、対策は次の景気後退に間に合うかという記事がありましたが、アメリカ盛り上げを行ってきたが最近は息切れしています。景気自体は好調のようですが。
しかし日本はどうか?
「欧州中央銀行(ECB)や日本銀行に比べ、利下げの余地があるという点で将来の景気低迷への備えがある方」(引用)と分析をしています。アメリカも危ないのではないかと分析をされる中、日本の実態はどうでしょうか?
仮想の好景気、冷たいバブルもリセッションは起きる。その引き金が悪性の物価高と消費増税10%となるでしょう。
それが株価に連動しないとも限らない。
安倍政権は消費増税10%を行わなければアベノミクスの失敗を認めることになる。そのために様々な手当てをしながら強行をするしかない。すると経済全体を後退することにもなる。
野党は安倍政権を批判して追い込みますが、同時に安倍政権は自壊をしていく。もちろん国民生活を壊しながら。。。。。

【2020年】ツイッターつぶやき
2月8日に「隔離(2)」というのを書きましたが、その続きのようなものです。
クルーズ船での隔離の過酷さが見えてきました。船内で健康の方が罹病するのを待っているようにも見えてします。一方では表現は悪いですが穴のあいたはバケツをふさぎきれていない。(ツイッターより)
神奈川県では中国への渡航歴のない80代女性が死亡した。
東京都では70歳代のタクシー運転手が罹病した。
和歌山県では50代男性医師が罹病をし、さらに同僚男性医師3人が疑いがある。
これまで書いてきたようにクルーズ船では、部屋での隔離はあるものの船内自体が一つの密室ですから次々に罹病する人が出ている。
まさに日本の実態は穴の開いたバケツに近づいているのかもしれない。
海外からは日本の対応は場当たり的だという非難も出ているようですが、隔離するにもちぐはぐさが見えるのかもしれない。この点でも国際的に穴の開いたバケツになりつつあるのではないか。
クルーズ船の乗客の内高齢者や持病のある方を下船させる動きが出てきましたが、少し遅すぎたのではないかと思います。
船内での罹病者数の増加は、たとえ院生で今後下船して自宅に帰れるようになってもやはり生活のしにくさが残り所うきゃの方は苦しむのかもしれない。日本社会では政治もマスコミもこれを風評被害だで片付けるでしょう。しかし実態は穴の開いたバケツである心配は常に起きるでしょう。これは仕方ないと思います。乗客の方の人権を守る手厚い診療や社会的な生活の場での保障が必要になるでしょう。

【2021年】ツイッターつぶやき
池袋路上で母子二人が亡くなった事故はまだ記憶に新しいが、あれから1年10カ月が過ぎたのですね。
裁判は第5回の法廷が開かれたそうです。
被告は車が原因だったとの主張を崩さず裁判は長引くかもしれません。
この事故が起きるころ、ニュースでは毎日のように高齢者の事故が報道されていました。ですからまた高齢者化と僕も思いましたが、同時に車の車種を見てまたあの車かとも思いました。もちろん原因は裁判の中で今後明らかになされるのですが。
Jcastニュースによりますと、今回の第5回公判後棒ちゅにん傍聴人も退席するときに1人の女性が
「『人殺し』という言葉が、2回出ました」(引用)と過激な言葉を発したそうです。
これは非国民に対する値する過激な言葉でしょう。
この女性は原告とは面識もない人だったようです。
これにより被害者のご家族も衝撃を受けて立てなくなる状態だったそうです。被告人がどのような反応を示したかは記事にはありませんがやはり大きな衝撃を受けたでしょう。
この女性の心無い言葉が被告人だけではなくて原告人のご家族をも傷つけてしまったのだと思います。
この女性がなぜこのような言動を行ったのかはわかりませんが、僕の推測では、裁判を傍聴しているうちに亡くなった母子の事を思い描き感情的になったのかと思うと同時に、ある正義感からの抗議(被告人など)かもしれないと思います。
ある悪を決めつけてしまいこの悪については抗議をする。その抗議は悪に対してのものだとゆがんだ正義感から億位ある過激な言葉も発する。
どちらにしてもお僕の推測ですからわからないのですが、だいぶ前から日本社会はヘイトをはじめゆがんだ抗議が増えてしまいました。国際社会を見てもアメリカのイラク空爆では大量破壊兵器という悪が作り出されてその空爆が正義の戦争とされました。こういった悪に対する正義の行動がまた悪を許すという負の連鎖が続きます。
「人殺し」という言葉もつい口に出てしまう人々が増加しているのではないでしょうか。
僕は喫煙者ですからツイッターでもいろいろな嫌煙家の方とお話をしますがだいぶ過激な言葉を飛ばされます。喫煙は悪であるからどんな言葉を投げかけてもそれは正義だと思ってしまうのでしょう。
こういったものが社会の様々なところで現れ、今朝のニュースでは、母子で外食をして店を出たら見知らぬ男性に公衆の面前で外食をとがめられたそうです。この場合その母子は何も悪いことはしていないのですが、とがめた男は今はやりの〇〇警察のようなものです。
自分の正義感がどのような言動でも許されそれが社会をよくすると勘違いをしてしまいいろいろな人を傷つけていく。
昔から日本人は自己主張が下手だと言われてきましたが、現在は自己主張も考え始めてそれは良いことだと思っています。しかしゆがんだ正義感から人を傷つけることで抗議をするというゆがんだ自己主張も増えてしまったことは怖いと思います。

【2022年】ツイッターつぶやき
川上弘美さんの「東京日記」が更新されました。
魔空間。。。。
今日は数日間見て見ぬふりをしていた換気扇の掃除をしました。
ガスレンジを使うたびに見上げてたれる茶色の油を横目に毎日そろそろだなとみるのですがいざとなると手が出ない。換気扇のフィルターをとるとそこはまさに魔空間。
まぁ、換気扇ぐらいなら30分もあれば掃除はできるのですが、納戸や押入れの中を考えると。。。。。
「人ごとのふりをした期間が長すぎたため、はっと気がつくたびに決意が雲散霧消している。」
川上さんも信念を前にしてこの魔空間に手を伸ばしてしまった。。。。
来年は「人ごとのふりをしない」と心に決めて晩酌を楽しむ。
僕の性格は「やらねば・・・・やらねば・・・・」と案外大切なことでも先延ばしにしてしまい、時々思い出しては気が沈む。こう書いているうちにも厄介な魔空間が目に浮かぶ。

【2023年】ツイッターつぶやき
横断法に渡ろうとしている人がいたので車を止めた。
こうしたことはよくありますよね。特に左折時にはよくあることです。
この時、その歩行者がやさしさのために歩くのをやめて車に対していってもいいよというジェスチャーをした。
この時どうしますか?
その時やさしさに甘えて車を走らせた。
そこにたまたま警察官いてその様子を見て歩行者保護義務違反で切符を切られる。
実際こういうことがあったそうです。
僕も歩いているときに横断歩道を渡ろうとしたとき車くるとき立ち止まって車を通すことがあります。これはタイミングの問題です。優しさとかいうことではなく、車を先に行かせた方がスムーズに渡れると思うからです。
歩行者優先も車の走行を邪魔をして急ブレーキを踏ませるようなことが一般化したならこの社会大変なことになりますね。
コメント
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