夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2024年 2月20日(火)「室温21℃」

2024年02月20日 22時19分51秒 | 「思うこと」
春がどこかへ行って今日は初夏のような気候。
冬の上着を着て歩いていたら汗ばみました。24度ぐらいまで上がったそうですから、冬の上着ではね。
小学生がTシャツ1枚で歩いていました。
昨日が雨水でしたが、雪国でも雨に変わり道路が雪解け水でいっぱいになったそうです。
海水温度も上がっていて北海道の昆布が危ないそうです。フグが北上して北海道に行ってしまい、北海道では砂漠職人がいないので困っているそうです。サンマはとうの昔にいなくなった。
自然は微妙な温暖化でもその環境の変化で大きく変化するようですね。
去年の猛暑でベランダのゼラニウムが枯れました。植物も機構のわずかな変化でも変わっていくのでしょう。

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池に浮かぶ月1265【2月20日】

2024年02月20日 20時20分35秒 | 「池に浮かぶ月」
去年は、千葉県大多喜方面にドライブに出かけました。
途中立ち寄った笠森観音は、清水の舞台をぎゅっと小さくしたようなお堂でした。
ドライブの楽しみの一つは道の駅。
加茂菜という東京では見かけない野菜を買ってきたのですが、菜花でした。

≪去年の今日はこんなことを・・・≫
2023年 2月20日(月)「加茂菜」

「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」
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「2月20日という日」

2024年02月20日 07時47分34秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
春がどこかへ行って今日は初夏のような気候。
冬の上着を着て歩いていたら汗ばみました。24度ぐらいまで上がったそうですから、冬の上着ではね。
小学生がTシャツ1枚で歩いていました。
昨日が雨水でしたが、雪国でも雨に変わり道路が雪解け水でいっぱいになったそうです。
海水温度も上がっていて北海道の昆布が危ないそうです。フグが北上して北海道に行ってしまい、北海道では砂漠職人がいないので困っているそうです。サンマはとうの昔にいなくなった。
自然は微妙な温暖化でもその環境の変化で大きく変化するようですね。
去年の猛暑でベランダのゼラニウムが枯れました。植物も機構のわずかな変化でも変わっていくのでしょう。

≪過去の記事≫

【2004年】
今日は暖かくなるという予報だったけど、暖かかったかな?
それほど暖かいという感じはありませんでした。
しかし日差しはもう春という感じですね。乾燥していることもありますが洗濯物が好く乾くようになりました。日も伸びてきたし、うきうきしてきます。

「哀しい予感」
角川文庫
吉本 ばなな  著
吉本ばなな(改名され よしもとばなな)さんの初期の本らしいです。
ばななさんのあとがきや解説を読むと、この作品は単行本と出版され、文庫版を発行するときにかなりの部分を直したそうで、加筆されたところもあれば、無駄なところは削除したところもあるそうです。単行本との違いがどこにあるかはよくわかりませんが、このためか読みすすむと少しつながりが不自然に感じるところがあります。
しかしこの不自然さも中身のおもしろさには影響は出ていません。
主人公の弥生は19歳。幸せすぎるような家庭と思われるような家庭が描かれ、その家庭の中に、またすばらしい両親と弟の哲生の4人で暮らす。
女の第6感は怖いと昔から言われているが、弥生にはこの人にはないような感を持っている。作品は、この弥生が「確信する」中での行動によって自身の過去を知り思い出していく。
ばななさんの作品は、「ハードボイルド・ハードラック」しか読んだことがないが、霊的な意思というのか、霊感というのか、不思議な力によって支配あるいは救われるというものが根本にあるのか?この作品にもないはずのアヒルのおもちゃが風呂場に現れる。弥生の感もそのような霊的なものを感じる。先にも書いたが、この作品は弥生の「確信」が多く現れるが、ばななさん自身があとがきに「この小説は私の中のある方向性の卵だ」と書かれているように、この作品が作家としてのばななさんの「確信」だったのではないかと感じる。
血のつながりはないものの、弥生と哲生という近親相姦的なものや、弥生の叔母(実は姉であった)と教え子の恋。ばななさんの描く恋は、多くの作家が描く不倫というような恋に比べても危なすぎるものだと思う。レ敵名物、危なすぎる濃い、そして社会の日のあたらないような影にあるような不幸、これがばななさんの作品の特徴なのでしょうか?
しかし、ばななさんの作品のよさは、このような独特な暗さといってもよい雰囲気だけで終わらず、ひとつの時間の流れにピリオドをうって新たに生きていこうとするものがあり、それが読者を勇気づけるのではないかと思う。
作品に「血族」という言葉が出てきます。この言葉もこの作品のキーワードでしょう。
ばななさんの最近出版された日記を読むと、家族の絆を強く感じます。家庭や家族という言葉に比べて、「血族」という言葉にはすごい響きがある。やはりばななさんの内面では、この血族も大きいのかと連想した。
日記では、身内(家族だけではなく周りを取り囲む人々)意識も強く感じます。
血族、身内・・・・・ものすごい行動力と対人関係、ばななさんって寂しがりやかな?


【2005年】
何だかライブドアの堀江さんも大変だなぁ。。。
新球団を始めるのに失敗をしたので、次の手を急ぎすぎているのではないかと思ってしまう。しかし一般庶民としては応援した気持ちが強いのではないかと思う。
フジテレビとの確執が大きくなり、いろいろな方面から批判が強まっているけど、自由競争というのはこんなもので、変な倫理観のようなもので堀江さんを批判するというのも的外れだろう。
都合のよいときだけは自由競争で、下克上のような今まで力を持つものが困り始めたら倫理観を出すというものおもしろいものだ。
この現象は、一つのITバブルなんだろう。。。。。
景気が回復しないうちにIT関連の金余りも出たりする。。。。ますます経済は混迷するだろう。

『落花する夕方』
                     角川文庫
              江國 香織  著
華子がバニーガールのような耳をつけて恋人の健吾の前に現れた。
健吾は不思議な格好の華子に引き寄せられ、心のすべてを急速に吸い取られた。
こんな健吾が一人で引越しをするという。
8年間健吾と同棲していた梨果は、こんな健吾に未練を残しながらも別れざるを得なかった。
出て行った健吾、華子への思いだけに出て行った健吾だったが、どういうわけかその恋の当人である華子が梨果の部屋の転がり込んでくる。「部屋の家賃が大変でしょ」という理由で。梨果は、出て行った健吾との唯一のつながりとなった華子を受け入れる。
梨果は、健吾との思い出と唯一の健吾とのつながりである華子との1年半という時間の生活を語っていく。
作品は、梨果がまるで日記を書くように1年半の時間の流れを断片的に語っていく。生活は、仕事と部屋で過ごす姿だけであり、同じ繰り返しの中に時間が止まっているようである。止まった時間の中での日常の中に梨果の心の変化だけが流れる。理解しがたい華子の行動と心。しかしどこかこんな華子に引かれていく梨果と、健吾への思いの薄らぎ。
キューピットは人の心に暖かい恋というものを運んでくる。華子のもつその容姿と不思議な魅力は、天使そのものと言ってもよいものがある。しかしその天使のような華子は、キューピットのように恋を運ぶのではなく、人の心の中にある恋や愛そしていとしさというものを華子自身が吸い取っていくといってもよい。
健吾の梨果への恋や愛も、健吾の友人の男も華子を巡って離婚をする。これは男だけではない。子供の心さえとらえられていく。そして梨果という女性の心も。天使ではなく、小悪魔的というのだろうか。。。。
小悪魔的という言葉が適当かどうかわからないが、すべての人間の心をひきつけていくから誰からも恨まれはしない。恨まれるどころか恨むべき人間もひきつけられていく。こんな意味での小悪魔的である。
梨果の部屋に転がり込んできた華子は、小さな鞄と歯ブラシ、糸瓜コロンそして退屈なラジオ番組を聴くだけの小さならじをだけをもって来ただけである。梨果は不思議な感覚にとらわれる。さっき転がり込んできたのに、ずっと一緒に暮らしてきたような気持ちになり、その生活がごく自然なのである。人にも物にも執着することなく自然そのままという心地よさ。この心地よさにすべての人間はひきつけられてしまうのかもしれない。
このような華子と接することにより、接する人の心からも執着心が消えうせてしまうのかもしれない。最も重要な恋や愛、いとしさというような執着心をも。このことが健吾が一人引っ越すという行動にもなったのだろう。そして1年半という時間をかけて梨果の心の中からも健吾への思いを消し去ったのかもしれない。
しかし。。。
梨果が健吾になぜ華子に引き寄せられたのかを聞くと、健吾は一言「執着」という。
華子はすべての人間の心の中にある執着を一身に受けていたのではないか。血のつながった弟からの愛という執着も。。。。
華子は執着もせずにいたが苦しんでいたのだろう。自身の執着する心がないにもかかわらずすべての人の心の中にある執着心を受けていた。こんな華子は。。。。悲しい最後です。
健吾は華子という存在がなくなったことにほっとするところもでてくる。梨果は執着心をなくす怖さ、自分の心の中から人を愛する心が消し去られることにおびえたようになる。
恋や愛、この執着するものを消し去ったときの心地よさ。しかしその反面では恋や愛という執着するものがなくなったときの怖さ。こんな矛盾をしたものが人の心の中にそのままに存在するのでしょう。
江國さんは「あとがき」に書きます。「これは、すれちがう魂の物語です。すれちがう魂の、その一瞬の物語。」と書きます。一方には執着する心が消え去り、一方には残る。このすれちがいに男女の心が現れるときがあるのでしょう。これは絶望的です。


【2006年】
ホームページが表示されない。。。。?

【2007年】
「夜かかる虹」 角田 光代  著
1998年「夜かかる虹」と「草の巣」の2編を「草の巣」として講談社から出版され、文庫化にあたって「夜かかる虹」と改題されて出版されました(文庫版最後のページより)。
角田さんの作品に「幸福な遊戯」という短編集がある。
表題作「幸福な遊戯」では、実の家族を嫌う主人公が、男二人とひとつの部屋で暮らす。それは男女関係というものを抜きにし、それぞれがお互いを束縛せずに暮らすというひとつの人のつながりの中の幸福さである。自由さといってもよいのかもしれない。主人公は家族というものを嫌うが、人のぬくもりのようなものを求めているのだろう。
家族から逃げるように人とのぬくもりを求めていくことは、成人になったときに巣立ちをしていく若者にとっては自然な成長過程にあるはずだが、角田さんの作品に表れる若者は、家族関係から逃げるようなそんな心が見えている。これが巣立ちをしていく過程の心の葛藤(家族とはいたいが自分の世界も作りたい)というもの以上の強さのある心の動きである。
角田さんの作品の主題には、この「家族とは」というものを追い求めるものがあるのではないか。
「夜かかる虹」「草の巣」もこの家族あるいは家庭というものに向き合うあるいはそこから逃げる若者を表現している。
若い人が家族から巣立ちをするときには、自分自身で食べていくという必要最低限の条件が必要で、その条件を満たしたときに巣立ちといえる。もちろん食べていけるという堅実なものを求めるのではなく、束縛もされない自由を求めることもまた巣立ちである。しかしこの巣立ちというものが、ただ家族から逃げるというだけなら、そこには経済的にも心の成長にも裏づけられないただ漂うような生活が待つばかりでありそこに不幸があるだろう。「幸福な遊戯」の中に収められている「無愁天使」という短編にみるような家族の崩壊という不幸もあるだろう。そこに逃げるというやるせないものも出てくる。角田さんの作品の根っこには何があるのかはわからないが、家庭というものに苦しいほどに向き合う作家を見ることができるのではないか。
また、巣立ちという場合には、家族関係もそのままに素直に残り意識できる。しかし逃げるという場合には、消せない家族関係の思い出や現実に残存する家族の血からも常に逃げなくてはならない。
角田さんの「夜かかる虹」「草の巣」という二つの作品に表れる主人公の姿は暗闇に落ちていく。
「夜かかる虹」には、フキコ、リカコという3歳違いの姉妹が出てくる。もちろん同じ両親を持ち、同じ家庭の中に育った。
しかしこの姉妹二人からみた家庭や家族自体は同じものなのだろうが、しまいそれぞれにおいて違うもののように写るのかもしれない。
姉と妹、兄と弟。。。。。
血がつながり幼い頃から一緒に育ったとはいえその性格は違ってくる。
親というのはどちらにも同じ愛情を注いでいるようだが、「この洋服、お姉ちゃんには小さくなったからあなたが着てね」とか、逆に喧嘩でもしようものなら「あなたはおねえちゃんでしょ!」と、その違いはあるもので、子にしてみればこの違いを複雑に受け止める。周りの大人も、同じものをお下がりとしてきていても姉が着ていたときよりも「可愛いわね♪」と妹の可愛さを言うこともあり、日常においての姉妹の心に及ぼすものは大きいのかもしれない。フキコはリカコに嫉妬したようにじめる。リカコはフキコの持つものをほしがり、それがまたフキコにとっては「取られた」という意識を生む。この確執を成人した今も持っていたとするなら。。。。
ここでは姉妹としてだが、一つの家庭というものを描いている。
リカコは小さな頃の思い出をフキコに話す。二人で小さな赤い傘を広げて立てかけて「おうち」を作ったこと。。。その狭い空間には幼い姉妹がいるわけで、結局はいろいろな確執があるにしても家族というものからは離れられないのである。
「草の巣」は、ある日、主人公の「私」が同棲する仲野のために大家に支払う家賃7万円を持ち、ビーフストロガノフを作るための買い物に出るが、バイト先の飲み屋で知り合った不気味な男村田の車に乗り付いて行ってしまうことから始まる。
村田は、家を作っているという。しかし付いていってみると、山の中にごみ同然に捨てられている壊れた家具が野原に置いてあるばかりの家だった。村田は町の中で廃屋となった家から家具を取ってきてはそこに並べる。草の巣。。。。家。
廃屋は、家具がそのまま朽ち果てるように残る。しかしその家具一つ一つにはそこに住んでいたであろう人々の生活のにおいがする。主人子も村田と一緒にその廃屋に入りその家具を見ることにより自分の家族を思い出す。村田は甥っ子の写真を大切に持つ。草の巣に持ち運ばれる家具に人のあるいは家庭のぬくもりを感じ、甥っ子のしてもその小さな子にやはり家庭のぬくもりを感じていたのか。主人公は、家庭の中にあった家具一つひとつを思い出すが、そこにはいつもテレビなどを解体して壊してしまう父親の姿があった。家自体も家具一つひとつも家族という人々を集めさせるために存在する。それを壊してしまう父親は主人公にとっては崩壊の象徴なのかもしれない。そして廃屋は何かしらの理由によるひとつの家族の崩壊を物語っている。
村田の仕事先で知り合った若い男に「あんたは男から逃げているんでしょ?」と的外れなことを言われるが、「逃げている」という言葉を引きずる。男から逃げているというのはまったくの的外れにしろ、主人公は何から逃げているのかを考える。
やはりそれは家族あるいは家庭ではないだろうか?
しかし、人は人とのかかわりの中で、家族あるいは家族のようなものを持つというのも自然であり、村田といるときでさえ、主人公はビーフストロガノフの材料のメモと家賃のための7万円を引きずるのである。村田の草の巣で、二人は缶詰の缶を開けて食べる。主人公は考える。。。。橋の下でも家具があるなら家族というものは集まるのだろう。。。。
今、このままどこへも行ける。
地図でぱっと探したところにも住めればいい。車のガソリンがなくなったときにそこに住めばいい。。。。
自由はそこにある。
しかしこの自由は、何もかも捨ててしまったときにあるのであり、物などに執着したときに自由は消えうせる。
自由な女。。。。
村田は自由だろうか?
主人公はその男に何を見るのか?
自由は孤独。自由は平凡。。。。。
草の巣にすめるようになったらそこから仕事へ行くと村田は言う。
しかし。。。
「ある日行かなくなる。だれも気づかない。おれはいなくなる。ど、どこにもいなくなる。」
と。
この言葉は、主人公にとっては怖い言葉なのだろう。
やはり人はどこに逃げても家庭にこだわらざるを得ずに、最後はその中で朽ち果てていくという怖さ。
主人公の心は揺れ動く。そこに心の解決はない。
逃げたい。。。。でも、村田に追いかけてもらいたい。。。。
主人公はどこに行こうとしているのか?それは主人公にもわからないのであり、この暗闇に落ちた主人公に読者の心も暗闇に入り込むだろう。
しかし、この個人と家族あるいは家庭というものは誰でもが背負うものであり、主人公が特別ではない。特に若い人たちが心に持つ心の成長過程にある不安のひとつであることは間違いないだろう。

【2008年】
ベランダの花たちがもぞもぞと動き出したよう。
まだ寒いですが天気のよい日の日差しは春です。
ミニバラの枝からは新しい枝の芽が急激に伸びてきました。
今年は、小さい鉢にいくつか分けてあるアマリリスを一つの大きな鉢に植えようかと思い、先日ホームセンターに鉢や土を買いに行きました。
ホームセンターには春の花がたくさん売られていてどれも買いたくなるのですが、もうこれ以上鉢を増やすわけにも行かないし、どうもずぼらな僕としてはうまく育てられそうもないので買うのはやめ。。。。
スーパーに行ったら、BSE検査済みの牛肉というのがありました。少しは安心かなと思い買ってきたのですが、どうも疑い深い僕としては、たとえば遺伝子組み換えをしていない大豆を使った豆腐と聞いた場合、この遺伝子組み換えをしていないという業者の言葉をそのままに受け取り、加工する業者は遺伝子組み換えではないとするのかも?というような疑念が湧くのです。どうなんだろ?「中国餃子」として報道された一連の事件もそうですが、売るほうは検査を仕切れていないようですから。ですからBSE検査をした牛肉といっても100%安心とまでは行かない。
もちろんこれは、僕のゲスの勘ぐりなのでしょうから話半分に読んでください。でも、食の安全が崩れている今、僕のようなもう一つ安心できないというものが湧いてくるというのは確かとは思うのですが。。。。
牛肉を焼肉のタレで焼き、サラダをつけました。
ところが何を勘違いしたのか、フルーツサラダの材料をそろえながらも、惣菜コーナーでもポテトサラダを買ってしまったのです。どうしようかなと思ったのですが、ポテトサラダをベースにして、他のフルーツも混ぜて見ました。そこにフレンチドレッシングを少しとマヨネーズであえてみました。
それが。。。。
うまかったのです!!
また作ろう。。。。とはいえ、ジャガイモを自分で入れればいいんですよねぇ。

「夜かかる虹」  角田 光代  著
1998年「夜かかる虹」と「草の巣」の2編を「草の巣」として講談社から出版され、文庫化にあたって「夜かかる虹」と改題されて出版されました(文庫版最後のページより)。
角田さんの作品に「幸福な遊戯」という短編集がある。
表題作「幸福な遊戯」では、実の家族を嫌う主人公が、男二人とひとつの部屋で暮らす。それは男女関係というものを抜きにし、それぞれがお互いを束縛せずに暮らすというひとつの人のつながりの中の幸福さである。自由さといってもよいのかもしれない。主人公は家族というものを嫌うが、人のぬくもりのようなものを求めているのだろう。
家族から逃げるように人とのぬくもりを求めていくことは、成人になったときに巣立ちをしていく若者にとっては自然な成長過程にあるはずだが、角田さんの作品に表れる若者は、家族関係から逃げるようなそんな心が見えている。これが巣立ちをしていく過程の心の葛藤(家族とはいたいが自分の世界も作りたい)というもの以上の強さのある心の動きである。
角田さんの作品の主題には、この「家族とは」というものを追い求めるものがあるのではないか。
「夜かかる虹」「草の巣」もこの家族あるいは家庭というものに向き合うあるいはそこから逃げる若者を表現している。
若い人が家族から巣立ちをするときには、自分自身で食べていくという必要最低限の条件が必要で、その条件を満たしたときに巣立ちといえる。もちろん食べていけるという堅実なものを求めるのではなく、束縛もされない自由を求めることもまた巣立ちである。しかしこの巣立ちというものが、ただ家族から逃げるというだけなら、そこには経済的にも心の成長にも裏づけられないただ漂うような生活が待つばかりでありそこに不幸があるだろう。「幸福な遊戯」の中に収められている「無愁天使」という短編にみるような家族の崩壊という不幸もあるだろう。そこに逃げるというやるせないものも出てくる。角田さんの作品の根っこには何があるのかはわからないが、家庭というものに苦しいほどに向き合う作家を見ることができるのではないか。
また、巣立ちという場合には、家族関係もそのままに素直に残り意識できる。しかし逃げるという場合には、消せない家族関係の思い出や現実に残存する家族の血からも常に逃げなくてはならない。
角田さんの「夜かかる虹」「草の巣」という二つの作品に表れる主人公の姿は暗闇に落ちていく。
「夜かかる虹」には、フキコ、リカコという3歳違いの姉妹が出てくる。もちろん同じ両親を持ち、同じ家庭の中に育った。
しかしこの姉妹二人からみた家庭や家族自体は同じものなのだろうが、しまいそれぞれにおいて違うもののように写るのかもしれない。
姉と妹、兄と弟。。。。。
血がつながり幼い頃から一緒に育ったとはいえその性格は違ってくる。
親というのはどちらにも同じ愛情を注いでいるようだが、「この洋服、お姉ちゃんには小さくなったからあなたが着てね」とか、逆に喧嘩でもしようものなら「あなたはおねえちゃんでしょ!」と、その違いはあるもので、子にしてみればこの違いを複雑に受け止める。周りの大人も、同じものをお下がりとしてきていても姉が着ていたときよりも「可愛いわね♪」と妹の可愛さを言うこともあり、日常においての姉妹の心に及ぼすものは大きいのかもしれない。フキコはリカコに嫉妬したようにじめる。リカコはフキコの持つものをほしがり、それがまたフキコにとっては「取られた」という意識を生む。この確執を成人した今も持っていたとするなら。。。。
ここでは姉妹としてだが、一つの家庭というものを描いている。
リカコは小さな頃の思い出をフキコに話す。二人で小さな赤い傘を広げて立てかけて「おうち」を作ったこと。。。その狭い空間には幼い姉妹がいるわけで、結局はいろいろな確執があるにしても家族というものからは離れられないのである。
「草の巣」は、ある日、主人公の「私」が同棲する仲野のために大家に支払う家賃7万円を持ち、ビーフストロガノフを作るための買い物に出るが、バイト先の飲み屋で知り合った不気味な男村田の車に乗り付いて行ってしまうことから始まる。
村田は、家を作っているという。しかし付いていってみると、山の中にごみ同然に捨てられている壊れた家具が野原に置いてあるばかりの家だった。村田は町の中で廃屋となった家から家具を取ってきてはそこに並べる。草の巣。。。。家。
廃屋は、家具がそのまま朽ち果てるように残る。しかしその家具一つ一つにはそこに住んでいたであろう人々の生活のにおいがする。主人子も村田と一緒にその廃屋に入りその家具を見ることにより自分の家族を思い出す。村田は甥っ子の写真を大切に持つ。草の巣に持ち運ばれる家具に人のあるいは家庭のぬくもりを感じ、甥っ子のしてもその小さな子にやはり家庭のぬくもりを感じていたのか。主人公は、家庭の中にあった家具一つひとつを思い出すが、そこにはいつもテレビなどを解体して壊してしまう父親の姿があった。家自体も家具一つひとつも家族という人々を集めさせるために存在する。それを壊してしまう父親は主人公にとっては崩壊の象徴なのかもしれない。そして廃屋は何かしらの理由によるひとつの家族の崩壊を物語っている。
村田の仕事先で知り合った若い男に「あんたは男から逃げているんでしょ?」と的外れなことを言われるが、「逃げている」という言葉を引きずる。男から逃げているというのはまったくの的外れにしろ、主人公は何から逃げているのかを考える。
やはりそれは家族あるいは家庭ではないだろうか?
しかし、人は人とのかかわりの中で、家族あるいは家族のようなものを持つというのも自然であり、村田といるときでさえ、主人公はビーフストロガノフの材料のメモと家賃のための7万円を引きずるのである。村田の草の巣で、二人は缶詰の缶を開けて食べる。主人公は考える。。。。橋の下でも家具があるなら家族というものは集まるのだろう。。。。
今、このままどこへも行ける。
地図でぱっと探したところにも住めればいい。車のガソリンがなくなったときにそこに住めばいい。。。。
自由はそこにある。
しかしこの自由は、何もかも捨ててしまったときにあるのであり、物などに執着したときに自由は消えうせる。
自由な女。。。。
村田は自由だろうか?
主人公はその男に何を見るのか?
自由は孤独。自由は平凡。。。。。
草の巣にすめるようになったらそこから仕事へ行くと村田は言う。
しかし。。。
「ある日行かなくなる。だれも気づかない。おれはいなくなる。ど、どこにもいなくなる。」
と。
この言葉は、主人公にとっては怖い言葉なのだろう。
やはり人はどこに逃げても家庭にこだわらざるを得ずに、最後はその中で朽ち果てていくという怖さ。
主人公の心は揺れ動く。そこに心の解決はない。
逃げたい。。。。でも、村田に追いかけてもらいたい。。。。
主人公はどこに行こうとしているのか?それは主人公にもわからないのであり、この暗闇に落ちた主人公に読者の心も暗闇に入り込むだろう。
しかし、この個人と家族あるいは家庭というものは誰でもが背負うものであり、主人公が特別ではない。特に若い人たちが心に持つ心の成長過程にある不安のひとつであることは間違いないだろう。

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
(記事なし)

【2011年】ツイッターつぶやき
二大政党制の矛盾が出ている。その矛盾は同じような政策を持ちながら国会内の主導権争いに混沌としたものがどんよりと流れていく。政策で、子供手当てがバラマキだという政策的な論争があるにはあるが、民主党のバラマキ政策は自民党時代のバラマキ政策の二番煎じであり、自民党は野党となってそのバラマキを攻撃する。どちらも基本政策は企業生き残り策のデフレ下の個人消費拡大策で、そのために税金を国民にばら撒き財政の赤字は消費税で補う。それもバラマキの財源はあるが年金や社会保障費はないという論理で大衆課税を行うというもので、結局はどう企業利益を確保するかで消費税は存在をする。
しかしその企業が社会的にどのような役割をするかといえば、国内の雇用情勢は変わらず、今、春闘があるわけだがかたくなに賃上げは拒む(追記:連合は企業防衛に中に自己防衛を見る)。すべて国外生産と株や金融そして国債に消えて息国民生活には企業利益は結びつく理念がない。
二大政党制は、徹底された民主主義の中にしか存在はありえない。駆け引きだけでは拮抗する勢力の中で常に「ねじれ」が出る。ねじれは国民生活抜きの勢力争いとなり結局は政治の混迷である。国民生活に青磁はあるということは、国民生活が低下していけばそれは国力が下がるということで、国民生活をどうするかを議論してその議論が二大政党制の民主主義につながる。しかし今はそれは絶望的であり政治的民主主義は縮小する。
同時に二大政党制がその基本的政策が同じであることから大連立的なものになるとそれは一党独裁的な政治的民主主義がなくなる。国民生活を考えた中の政策的一致ならばまだ良いが、国民生活を無視した格差社会の拡大につながるならばそれは独裁となる。国民生活を議論する。。。。そうするとさまざまな階層について検証しなければならないわけで、もちろん企業のことも考えるわけで、必然的にその議論は民主主義を強化していく。
なかなか二大政党制による民主主義は現在は難しいだろう。ではどうするか?社会民主主義勢力をどう形成するかである。今の国会内でも小さな社民党の勢力でも二大政党制での政策に影響を及ぼすことができる条件があった。国民生活をいろいろと考える中での第三の勢力としての社会民主主義勢力をどうにか形成しなければならない。
ネットが世界を動かすというものが出てきましたが、グーグルにも見つからない見つけにくいような細々とした国民生活を考える(追記:声の)勢力をつなげなければならないでしょう。
もちろんそれは政策を考えていく中で今の二大政党制を考えるものでなければならないことはいうまでもありません。

   「銀色夏生です。ツイッター、はじめます。」(幻冬舎文庫)
去年3月に夏生さんがホームページを再開され(ずっと以前に「小さな窓からこんにちは」(だったか?というホームページがあったようです)びっくりするとともに飛び上がるような喜びを感じました。そしてまたツイッターまではじめられたと!!
ツイッターを読ませていただくとまるで「生つれづれノート」では!とうれしかったです。そしてツイッターを通じてお話ができるのかなと思い、僕も遅ればせながらツイッターをつくりました。そして今回ツイッターをはじめられたときからの夏生さんとファン・読者との「会話」が本になりました。
以前、「おしゃべり本シリーズ」として「つれづれノート」に登場する方などとお話しをされたものを本にされていましたが、そのときの感想として、おしゃべり本はファンや読者とのおしゃべりで完結するのではとかいた覚えがありますが、まさにファンや読者とのおしゃべりですね。。。。その前段としては、「へなちょこ探検隊2」(幻冬舎文庫)の発売と幻冬舎の創立記念?とあわせて行われたサイン会にファンなどとのふれあいがはじまりましたし、その後はさまざまなファンとにつながるように前に出てきていらっしゃいました。そしてこのツイッター本の発売と先日行われたCDの発売に際してのミニコンサートとサイン会に。
作家というのは案外孤独だと思います。もちろんファンレターや(そういえば、「つれづれ」の中でファンレターをまたお読みになるようになったともお書きになっていましたね)ほんの発行部数で読者やファンとつながりを見ることがあるのでしょうが、生のファンや読者の声そして反応とはなかなか接することができないものがあると思います。もちろん、夏生さんの基本は今もその孤独の中から浮かび上がる思いを本にするというものに変わりはありませんし、その意味で孤独は今もおありだと思います。そしてその孤独をぐっと自分の心の中に沈ませる。その中においての生の読者やファンとのおしゃべりですね。
この本は、そう、この「本」は「作品」としてではなくてツイッター本です。一人の作家とそこに集まるファンや読者。。。それをそのままに本にしたものです。ですから多くは読者やファンの「返信」としての言葉です。ツイッターをしている方ならその自身の「ホーム」にあたるページをそのままにという本です。夏生さんからは読者やファンの方へのフォローはありませんから、その「ホーム」は、ご自身がツイートされたものと「返信」とその夏生さんからの再返信という価値になっています。
僕はまるでツイッターに集まる声を読むように次から次へと早いペースで読みました。そのように読むのがこの本の中身を見ることができるのではないかと思います。そしてぐっと来る言葉にリツイートしたり返信ができない代わりにページに折り目を入れました。
作家というある意味「有名人ツイッター」ですから、一つの世界が生まれます。それが「銀色なみな」(銀色な皆さん)世界でしょうね。
長い間ファンであった方の声。。。。それは「つれづれ」やしに勇気付けられながら生きていたという声です。そして夏生さんの行動力とぐっと来る言葉にひきつけられ、そして同じ一日を生きているんだという一体感が出ています。それは夏生さんご自身の感じるものでしょう。ファンと一緒に同じ一日を生きている。それが「銀色なみな」という一体感です。その世界が染み出るように現れた本ですね。
ツイッターという世界がどんな世界を作り出せるか?ツイッターをしている方これからはじめたいと思う方にも、夏生さんのファンでもなくても面白く読める本だと思います。
でも、反面ツイッターだけではありませんがネット上のつながりはより広いつながりを作りますが、その中に入らない(入れない)ファンも多くいるということで、ある意味夏生さんとファンとがこじんまりと固まってしまうことにもなります。その意味では、後書きに次のツイッター本は、自分のツイートを中心にしたものにしたいとお書きになっていますが、その中でツイッター本は一つの「作品」となるでしょうし、多数の読者への問いかけとなると思います。
夏生さんという一人の作家、女性の生のつぶやき。。。。
それを楽しみにしています。
ネット世界は作家も読者もない。一人の人間として入っている。夏生さんも読者やファンがその個人のホームでどのように他の方とつながっているかに興味をお持ちだと思います。それは膨大な世界になるでしょう。でも、そこでいえることは、一人ひとりの読者やファンはその生活を送っているということです。その中にさまざまな喜怒哀楽があって、というよりもだからこそ夏生さんの言葉に励まされる。「おはよう!」というツイートに励まされる。同じ一日を過ごすために。悲しいけど苦しいけど、そして楽しいことがあったよ!!と。

【2012年】ツイッターつぶやき
まず昨日のツイッターから転載。
「昔、春闘が華々しいころ大幅賃上げが行われたが、その賃上げを抑える論理の一つして賃上げをすると物価も上がりインフレになると。賃上げすると企業も値上げをしていくということでしょう。今、政策インフレが議論になっていますが、ある意味内需型の経済政策が良いということになるのでしょうか。」
「内需を伴わないインフレがどのような結果を引き起こすでしょうか。。。。インフレを起こすのではなくてデフレを抑えること、この意味においての内需型の経済政策が必要でしょう。」
「内需を伴わないインフレがどのような結果を引き起こすでしょうか。。。。」ツイッターでは書けませんでしたが、今でも吹きたまっている金がさらに吹きだまっていくということです。この吹き溜まりが国債や株に回り、金融商品に回り、穀物や不動産への投機に回るなど、国民生活に直接働きかける金としては機能しないということで、その結果はインフレ化のバブル状態が引き起こされてその後はじけて矛盾が拡大するということです。バブル化にはならないまでも国民の消費は減り続けて商品価格の下落は進み、デフレがさらに広がる。一方では株や不動産の価格が上がりインフレ傾向になる。スタグフレーションというのはこのようなものと考えてもいいと思います。
そもそもデフレの状態であるのにそこに政策的なインフレを導入しようというのが乱暴すぎるのではないでしょうか。国内消費が上がっての自然な形のインフレならばそれはデフレを脱却させる一つの現れとなりますが、政策的なインフレですから今の国の考え方とすれば国内消費(国民生活の安定からの内需拡大)は考えないわけで、上に書いたようなスタグフレーションそしてその結果としてのバブルとして終わるのではないでしょうか。
デフレからの脱却と政策インフレとは違うものでしょう。政策インフレはどちらかと言えば過熱しそうなインフレを抑えて一定のインフレ率にするということでは機能するでしょうが、デフレ脱却の方法としてはその機能は生かされないで矛盾を広げるだけでしょう。

【2013年】ツイッターつぶやき
「外債を購入するには、円を売って外貨に換える必要があり、円売りの為替介入に相当する効果がある。」 (時事ドットコム)
昨夜のテレビで政府が公共事業費を大幅にアップするという事から「予算のぶんどり合戦」がはじまっているという。さっそく族議員が活躍をし始めたりするのでしょう。そして地元に予算を「ぶんどる」「力のある政治か」がまた注目をされるのでしょう。
上に書いた外債購入は180度がらっと変わって購入しないようになるようですが、借金大国が景気が悪いと嘆く企業が多い中アメリカ国債を大量に持っているのにさらに概査を買うという発想を持ったことに国民生活軽視が現れます。
先の「ぶんどり合戦」も何を分捕るのかといえば予算ですが、その予算は税金です。
生活保護費の切り下げなど社会保障の行方が暗くなっている中そして消費増税が迫っているなどういう発想なのでしょうか。公務員給与も下げられますがこれも気にも汗をかくとか痛みを分かち持つといことでした。そして公務員給与が下げれば国民生活が楽になるといった幻想を持った人も多い中、民間賃金の行方も混沌として円安誘導政策が物価を押し上げていきます。
だんだんとアベノミクスの正体が現れてきていますね。
しかし儲け話があるわけですから国民の中にもそれに便乗しようとします。
マネーゲームでの不労所得の増加と勤労所得の低下が同時に発生をする。様々な面でまた格差は拡大するでしょう。

【2014年】ツイッターつぶやき
あと1ヶ月ほどで消費税が8%になりその後10%へと検討されはじめている。
住宅や自動車など高額の商品につおいて購入を予定している人やこの際買っておこうという富裕層の駆け込み需要があったのでしょうが、さらに10%になる前に買っておこうという人がどのくらいいるか?また百貨店での高額商品の売り上げも同じでしょう。しかし一般国民の日常においての消費は、タバコ消費税が上がるときにまとめ買いといったものがありましたがそれと同じ程度のまとめ買いぐらいでしょう。しかしここにきてこの駆け込み需要も本当だったかという疑問も出始めているようです。残念ながら会員ではないので前文読めないのですが「駆け込みでの高成長はウソ?増税前夜の消費を読む」という記事がありました。記事から好景気といわれたこと自体に誤りがないのかあるのかはわかりませんが、どうも駆け込み需要の気体も薄いのではないかというものを感じます。
前回の小泉景気といわれたころ国民には実感なき景気だったわけで、今回言われている好景気も実感なき好景気です。この実感なき好景気は消費を伸ばすことにはつながらないという意味を含むものでしょう。
経済の土台が不安定の中の消費増税ですが、それを97年冬至と比較した「消費増税相場の足音97年に学ぶリスクシナリオ」という記事があります。
「つまり消費増税は景気(個人消費)を悪化させ、巨額の景気対策を打つ羽目になりました。税収を増やすどころか、国の借金を大きく膨らませる結果となったことはこれらの数字から明らかです。」(上記リンクページより引用)
97年当時と今とを比べれば世界の動きには違いはあるでしょう。しかし今日も日本株は大幅に下落をしてその原因を世界的な消費の原則と日本の貿易赤字と見ているようですが、今の日本の経済状況は97年当時よりも悪化をしている状態と見るべきで、そこでの消費増税となります。労働者の賃金は下がり続けてきましたしその中での景気(個人消費)は悪化をするでしょう。
ひとつ違いがあるとすれば政府が賃上げの必要性を認めている点です。消費増税と共に春闘の妥結もありますから一部輸出産業は賃上げをするかもしれません。しかしこの賃上げがどこまで波及するかとなれば平均賃金を大幅に引き上げることにはつながらないでしょう。やはり「期待感」の域を出ないと思います。
問題なのは株価へのリスクだけではなくて国家そのものの先行きへのリスクにまで拡大する危険性と国民生活の壊滅的なリスクです。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
去年3鉢100円で買ってきたアリッサムがたくさんきれいに咲きはじめました。
3鉢100円ですからもうだめかと思われる状態でしたが、どうにか去年の夏を日陰に避難させ、この冬の寒さは日当たりのよいところに出しておきました。
多年草だそうですが、夏の暑さや冬の冷たい風は苦手なようです。
いまは2株のビオラの間で赤い小さな花を咲かせて地面に広がっています。ビオラだけでは寂しいのですが、アリッサムの赤がアクセントになってきれいです。
今年の夏を大切にして育てたいと思います。
そういえば、ブルーサルビアも無事冬を越して葉の芽がたくさん出てきました。小さな紫色の花をたくさん咲かせますが、ほのかな甘い香りがそよ風に乗って漂います。これもビオラを横に植えておきましたが、花の時期は一緒ではないですね。ビオラが終わったら、ブルーサルビアの横にトリニアを植える予定です。トリニアの種まきはそろそろかな?今度調べてみよう。。。。。

【2018年】ツイッターつぶやき
2月12日に「働き方改革は誰のため?」というものを書いた。働き方改革も労働者のために行われるのではなくて企業利益のために行われるものではないかと書いた。
ここにきて安倍総理の裁量労働制の方が労働時間が少ないというデーターもあるというのが間違いであり安倍総理が謝罪した。
能力のある労働者がある一定の成果を上げれば早く帰れるといったようなもので、その場合労働者の裁量に企業はゆだねるといったものでしょう。しかし馬車馬のように働いで成果を上げても早く帰れるどころかかえって労働時間が伸びてしまう。逆に考えれば、ある成果が達成できなければさらに長時間働くことにもつながっているでしょう。無理なノルマがある限り裁量労働制は労働時間を長くするという事です。
同時に弾力的労働時間も同じでしょう。
時間外労働面では、残業をするのも個人の裁量となってしまう危うさがあります。企業の解釈次第となります。
間違ったデーターを3年間も平気で利用しての法案の根拠の一つですから働き方改革はいい加減なものと言えるでしょう。これから100時間という残業をやらせることが法的なお墨付きが出るわけですし、労働時間が長くなるという事は労働者が健康で働く条件が少なくなるという事です。産業医の規制するといっても産業医は産業医です。健康の不安どころか過労死の問題も出てくるでしょう。
いい加減なデータを用いて法案化をしたならそれは内閣のでき忍です。完了官僚が悪いというトカゲのしっぽ切りでは済まされません。内閣の意図的だったかどうかも徹底して国会の場で明らかにしなければなりません。

【2019年】ツイッターつぶやき
東京も暖かくなってきました。
日中は19度まで上がりました。夜になっても暖かです。
夕方ベランダに出て外を眺めていてふとかねのなる木に目を移したら、白い星のような小さな花が3つほど咲いていました。
今日の暖かさで一気に咲いたのでしょう。
花は触ると少しべたべたします。たぶん蜜が多いのかも?
毎年小さな蜂が飛んできて蜜を集めています。
啓蟄まではまだだいぶありますが、このまま暖かさが続けば今年はこの小さな蜂も早いかもしれません。
霞始靆(かすみはじめてたなびく)2月23日頃
きょう東京に春霞が出たようです。この春2回目です。
やっと春らしくなってきましたなぁ。。。。。。

【2020年】ツイッターつぶやき
毎日ウォーキングをしています。
1日平均は6500歩ほどですが毎日少し歩くことはよいのかなと思っています。
買い物や家の中でも歩きますから8000歩ぐらいでしょうか。
この1か月を見ると体重も体脂肪もいろいろと変化はないのですが、数値を見れば「やや高め」を維持しています。
体重もそうですがやや高めがいいのかなと思います。
痩せると体に悪いし、太っても体に悪い。
とは言っても理想な体系を維持することは無理ですから、やや高めでちょうど良いのかもしれません。
しかし。。。。。。
ウォーキングをすると、腹が減ってついついおやつを食ってしまう。
いかん、いかん。。。。。
とは思うのですが、おやつを食っても少し高めを維持できるというのはウォーキングの効果ではないかと思います。
あとは血中コルステロールなどがどうなっているかですね。。。。。
体年齢がマイナス14歳というのは案外良い数値かも。
15年前に比べて4歳も若返っている!!
≪データー≫
体重
05年      6〇.3㎏
14年      6〇.3㎏
20年1月22日 6〇.3㎏
   2月20日 6〇.1㎏ 
〇の部分はナイショ(笑)でも、2キロぐらいの差です。
体脂肪率
05年      16.9%
14年      19.8%
20年1月22日 21.9%
   2月20日 22.4%
内臓脂肪率
05年       8.0%
14年      12.5%
20年1月22日 10.0%
   2月20日 10.0%
骨格筋力
05年      33.9%
14年        ?
20年1月22日 34.0%
   2月20日 33.7%
基礎代謝
05年      1569
14年      1475
20年1月22日 1564
   2月20日 1551
BMI 
05年      22.7
14年      23.4
20年1月22日 23.1
   2月20日 22.9
体年齢
05年      -10歳
14年      -13歳
20年1月22日 -14歳
   2月20日 -14歳

【2021年】ツイッターつぶやき
テレビコマーシャルで高速道路で車が勝手に追い越しをしてくれるシーンが流れている。これも一つの自動運転システムでしょう。でも、追い越しなら毎日行っているわけですからそうは必要性を感じませんね。ただ、一定の条件で車が安全を確かめて追い越しするなら安全面では良いのかもしれません。しかし毎日一般道でも緊張しながら追い越しをしているわけですから実用面というよりもこういっては失礼かもしれないが遊び程度にしか利用しないかもしれない。
事故防止の安全アシストですね。
この事故防止システムでは障害物や前方の車や人にぶつからないというものも出ている。すでに大衆車でもこのような安全装置は義務化されているように標準装備になっている。たしかにちょっとした不注意や高齢での注意力低下での事故防止には必要なのかもしれない。ただしこの安全装置が作動するのは限られた条件の実のようですが。
追い越しのサポートや安全装置の進化これは自動運転へ向けて欠かせない技術力なのでしょうが、まだ僕たち一般人が思い描く自動運転とはだいぶかけ離れたものでしょう。
ホンダやレクサスで世界に先駆けてレベル3の自動運転車が発売されそうです。
レベル3になると事故が起きた時の責任はすべてメーカー側になるそうです。しかしメーカー側の責任になるのですからその安全を保障する条件はやはり限られます。高速道路など自動車専用道路での渋滞時時速30キロ以下が条件のようです。高速道路の渋滞で前の車にぶつけるという事故は多いでしょうから安全面では良いですね。そしてスマホをいじっていても勝手に車は動いてくれるのですからイライラや疲れも解消されるでしょう。ただし眠くなりますなぁ。
こう見るとレベル3でも自動運転としてはかなり制限されたものです。
レベル4、レベル5に到達するには間がかなり時間が必要らしいです。
日本の込み合った一般道でも自動運転ができるようになればいいですね。家族で夜中に出かけてみんなで寝ながら目的地へ。自動運転のイメージとしてはここまで来ないと。。。。。
最近5Gのスマホが登場したばかりですが、世界は6Gの実用化に向けてすでに動いているようです。中国やアメリカそしてヨーロッパではしのぎを削っているようです。この面で日本の遅れはどうなんでしょ?世界は電気自動車に向かい複雑なエンジン技術もいらなくなり、6Gでも後れをつるなら日本の自動車メーカーはただの箱モノを作るだけになってしまいます。
この6Gという情報処理速度が自動運転の必須のようです。
インターネットを眺めていると、この6Gが実現し終わり2040年ぐらいには完全な実用ていきな自動運転が実用化されるようです。
どうにか生き延びて自動運転を見てみたいものです。
アメリカが火星探査の車の着陸に成功したそうです。
自動運転も様々な科学技術の発展の中の一つですから2040年ごろはどんな社会になっているか。。。。
でも。人間の科学技術に対して人間の社会システムがうまく適応できるのかが心配です。今のままではせっかくの科学技術の進歩も人間にとって幸福を実現する道具にはならないでしょう。

【2022年】ツイッターつぶやき
新規感染者数の下がり具合が緩やかになりそうですね。
緩やかと言ってもオミクロン株は感染の広がりが急激でしたのである程度抑えることができればやはり急激に減少すると思うのですが、どうもほかの国に比べて緩やかだということです。
この緩やかというのは下げ止まりあるいは高止まり減少ということになります。
陽性率が40%ですからこれが5%程度にならないと急激な現象減少とはならないでしょう。市中感染者が多く市中にいる。すると感染防止策が行われてもなかなか感染を抑えきれないことが起きているかもしれません。
来週の新規感染者数と陽性率の数値がどのくらい前の週を下回るか。

【2023年】ツイッターつぶやき
南関東は暖かでした。東京も朝から晴れて気持ちがよいので房総半島1周のドライブに行ってきました。
房総半島は未知の駅道の駅が多くていつもいくつかに立ち寄ります。
今日は大多喜町あたりの道の駅に立ち寄ったのですが、いろいろ見慣れない野菜がありました。ドングリを大きくしたような形のイモや加茂菜という野菜がありました。イモはどうやって食うのかわからないので加茂菜だけを買いました。
見た目はなんとな菜花ですが、葉っぱはそうはしわくちゃではない。菜花に比べて葉っぱが硬そうです。
帰ってきて茹でたのですが、香りが菜花に似ていました。花が一つ出ていたのですがやはり菜花です。
東京のスーパーでは見たことのないその地方独特な野菜なんでしょうね。
道の駅に行く前にテレビ番組で見た笠森観音に行きました。

こじんまりとした二月堂のよう。。。。。。
コメント
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