減給取消訴訟原告奥野泰孝さんの訴えを掲載します。
キリスト者として、不起立の訴え
証言 奥野泰孝(府立支援学校 高等部教諭)
わたしは今、やむにやまれず君が代強制反対の声を上げています。わかっていただきたいのは、何か運動をしようとしているとか、政治的な目標を持って行動しているというのではないということです。ただ単純に、「あかんことをあかんと言わざるを得ない状況」に追い込まれているということです。
私は美術教員です。子どもが生き生きと絵を描いたり、表現活動を楽しむのを支援しながら、自分も生き生きと表現し続けていきたいと願っています。
ところが今、学校現場はそれとは正反対の方向に向かい、管理教育が徹底してきました。自分が思い描いた教育のあり方とはかけ離れた方向のように思われます。
2001年2月、勤める高校の卒業式『国歌斉唱』事の発言で、私は2002年2月に口頭厳重注意を教育長から受けました。その時、校長から「君は仕事をかけているのかね、なにをしているかわかっているのか!」と恫喝され私は「仕事以上のものをかけています。」と言い返しました。仕事以上のものが何なのか、すぐに口から出てこなかったけれど、今も、職を失うからといって、取り下げられないと思っています。ただ、問題がなかなか解決しない時、自分が信じた言動であっても、世に受け入れられなかったり、理解者が減ってきたら孤立感が募ります。昨年1月16日の東京の君が代処分に対する最高裁判決で桜井裁判官が補足意見でこう述べています。「処分対象者はみずからの歴史観の葛藤を経て心情と尊厳をまもるため、やむを得ず不選択した。心情に忠実であろうとすればするほど追い込まれることが推測される。加重処分は懲戒制度の運用の許容範囲を超えている。」心情に忠実であろうとするほど心理的に追い込まれる気持ちをよく理解されていると思います。孤立感は苛立ちを与え、本来の動機を忘れさせます。そんな弱さの中にある時、助け手、友が現れます。そういうことの背後に神がいることを確信しています。
クリスチャンなので「国歌斉唱」時に起立できないと言うと、自己満足のために起たないのじゃないかと誤解する人もいます。確かに一般的な言い方では「宗教上の理由からできません」ということになるかと思います。しかし、それでは不十分だと思っています。「宗教上の理由から」ではなく、「信仰によって」起立できないのです。自分の信じているイエス・キリストを裏切ることになると思うからです。「その場だけとりつくろえばいいじゃないか」「卒業式の場では公務員だから国のルールに従えばいいじゃないか」と言われても、そうするわけにはいかないのです。それは、自分の主義主張や自己満足のために起立できないというのとは根本的に違っていると思っています。
憲法20条は、何人に対しても信教の自由を保障しています。これは、「何を信じてもいいんですよ」ということではなくて、国が国民に信仰、宗教を押し付けないということです。
私は32年間、大阪府の教育公務員として人権学習にも関わってきました。最初3年間はI市養護学校T分校に勤めました。筋ジストロフィーの児童生徒が多くいました。病院から通ってくる生徒に美術や図工を教えていました。
私は小中学生のころ、いわゆる「大人の言うことを聞くまじめないい子」であったのですが、大学の時から、飲酒と喫煙をはじめ、どう生きようか模索していました。酒・煙草で風邪をひきやすい状態で、養護学校に勤めて筋ジストロフィーの子どもたちと一緒に暮らしているというのは、彼らの命を脅かすことになります。風邪をひくと痰を自分で取り除けず死んでしまう子どももいるのです。煙草をやめなければと思いながら、なかなかやめられませんでした。これでいいのかなあ、と迷い出しました。T病院のナースに、「自己実現ってどういうことですか」と聞かれて、「自分がこうなりたいと思う夢を実現していくことかなあ」と答えつつ、なんか違うなと引っかかっていました。やがてキリスト教会に行くようになって洗礼にいたりました。3年後、同和教育推進校の府立N高校に転勤し美術を教えました。同和教育の担当にもなって勉強をしながら12年すごしました。教会学校で中高生に聖書を教え始めた時期でもありました。無我夢中で働いていました。その後H高校に移りました。同じ府立でも学校によって同和教育に対する向き合い方が全然違い、ギャップを感じました。やがて式典で「日の丸・君が代」がガンガン入ってきて、そんな中「日の丸・君が代」に反対して処分(口頭厳重注意)を受けました。卒業式の場で「立つ立たない」を決意することで思想信条が明らかにされてしまうので、みなさん「座りましょう」と呼びかけたからです。そういう教員生活を送ってきました。
「君が代」の強制は教員に対してだけだと命令する側は言われますが、児童生徒にも保護者にも「君が代」は強制されています(「日の丸」掲揚の場合も同じと思います)。管理職と数年前に話したところ、ルール上は生徒に立つように指導してほしい、クリスチャンの保護者が「立たせたくないと、そういう家庭教育をしている」と言って来ても、保護者を説得してほしいと管理職は言いました。本音を言ってくれたと感じました。処分という暴力で教員を屈服させ、生徒に君が代を押し付けるのは教育の破壊です。育てるというものでも成長を支援することでもない。さまざまな考えがあることが児童生徒に知らされ、少数意見にも耳が傾けられる、自分で判断する、そういう道筋が生徒に示される、そういうことが学校教育で行われるべきだと思います。話し合いに時間がかかるからと言って数で決めていく、それを指示する教育行政は間違っていると思います。
わたしは洗礼を受けてずっと二十年くらい教会学校のリーダーをしていましたが、昭和天皇が亡くなって大嘗祭が行われたりする中で、中高生に国家権力と信仰について話をしていました。住んでいるA市で、教会の有志で学校での君が代強制に反対する署名を集めて教育委員会に持って行ったりしました。公立の高校に子どもが入学したので、学校にも強制をしないでほしいと言いに行きました。県立A高校でしたが、卒業式の君が代の時、わたしの子どもの担任だけ座ってくれていました。それを見て非常にうれしかったです。そういう経験があるので、座っている保護者は見えないけれども、本当は座りたいと思っているけど立っている保護者がいたとして、教員の立場で自分が座っている姿が目に入ったら喜んでもらえるだろうなと思って座り続けています。私の「不起立」という表現は、自分自身も含め社会の少数者の気持ちを表すものであり、公共性があり、公益性のあるものであると信じます。誰にも迷惑かけない行為によって、議論が起こらず「思考停止状態」にある「君が代」強制に対する問題意識を社会に喚起し、再び対話を始めるきっかけになってほしいと願っています。「表現の自由」ということによって擁護される範囲の行為であり、全体の奉仕者として間違っていないと思っています。それに処分を加える府教委の行為は憲法21条「表現の自由」をも侵しているのではないでしょうか。
明治政府以来歌われてきた君が代は、国家神道による国民精神の統制、マインドコントロールに使われてきました。日本の教会の一部は、悔しいことに政府の見解に言いくるめられ、あるいは言いくるめられるふりをして、弾圧を逃れてきました。「あなた達は信仰を持っているが君が代は宗教ではなく国民の義務だから従うように」という見解に言いくるめられたのです。大逆事件の後からそういうことが厳しくなってきたということです。神社局と宗教局とに分けてあり、神社は宗教の分野から外して国が管理するとなっていたので騙されたんだなと思います。今の橋下徹さんや大阪維新の会が、君が代の意味や思想的な問題には議論を持って行かないであくまで公務員のルール、ルールだから守れという問題にすり替えて強制してくるのが似ていると思います。
教会学校で接していた中高生たちがもう二十代後半、三十代になっているのですが、伝道師になっていたり、教会教育のリーダーになっていたり、純粋にキリストに仕えている人たちがいるのがとてもうれしいです。自分が弱っているときにはそういう若い人たちに本当に励まされますし、自分が言ってきたことを翻せない、裏切れないという思いを強くされます。私はいわゆるノンポリで、組合ですごく頑張ってきたわけでもないのに、君が代、天皇制の強制はおかしい、日本は民主主義の国ではなかったのか、と思い、やむにやまれず言ったために2002年に処分を受けました。教育現場において少し浮いた存在になってしまいました。ある時、労働運動の集会で教育現場の報告をしてほしいと言われて、君が代反対のことを5分か10分くらい話しました。2004年でした、その時私は弱っている時だったんですが、参加者の中にH高校の卒業生がいて、当時大学生だった元H生は、集会後、メールを送ってくれました(集会主催者に)。その内容は、「何千人に1人の生徒であった私を思い出すのは難しいでしょうが、先生の授業をうけたことを思い出しました。私はあなたが話をするのを聞いて、卒業式の君が代反対運動をされていたのを思い出しました。今でも力強く続けていらっしゃることを知って心が高まりました。」彼女は大学で草の根の戦争反対の活動をしているとのことでした。こういうことがあると本当に心強いです。
これからもクリスチャン教員として「日の丸・君が代の強制は国家神道儀礼の復活、強制を意図しているから、止めなければならない」と言って行きたいと思います。この強制は、戦争責任を曖昧にし、日本の国家の道徳性を損ない、品性をおとしめている。そして、信教の自由を定めた憲法20条に反していると。「日の丸・君が代」は国体というものの性格を帯びているので偶像礼拝につながると思います。今の日本はいろいろな偶像に引っ張られています。鰯の頭も信心から、と言いますが、日本の多くの人は憲法20条を、鰯を拝んでもいいし狐を拝んでもいい、という風に取っているのではないかと疑ってしまいます。それは間違いです。偶像崇拝によって真実から目を背けさせられる、そしてファシズムにつながる。本当の信仰は思考を活発にさせるが偶像崇拝は思考停止させると思います。そういうことも今後社会に訴えて行きたいと思います。
2012年3月16日、7日の卒業式での不起立のことで事情聴取を受けました。府教委の職員が3人前にいて、横に職場の管理職がいて、30分位でした。前もってどういう考えで立たなかったかを文書で渡してありましたので、そこでは答えませんでした。付き添っている管理職に聞けばわかるのに、名前や生年月日や職歴を聞かれました。西暦でいうとしつこく元号で言わせようとしました。調書のサインと捺印は拒否しました。27日に処分言い渡しがあり、研修30分を受けました。その後意味不明の文書が示されました。誓約書と書いてなく、宛名もなく「今後私は国歌斉唱時、起立斉唱を含む職務命令に従います。」というものに署名をせよと言われました。「これは何ですか?誰あてですか?」という質問にも返答がありませんでした。書かずに出てきました。相手はそれを強制して書かせると法律違反だと知っているのでしょう。だから事実を積み重ね、空気を作るという、つまり脅しと感じました。「ルール違反をしたのは間違っているんだ」と言うだけで法的には根拠がないことは明らかです。
入学式のことですが、私は新入生の担任でしたが入学式に参加できませんでした。前々から校長に今度は立つかと聞かれていました。座ると言うと式場外の係、受付にすると言われていました。職務命令で「立ちなさい」と出ていてその時の判断で自分で決めることだから、係を決めるために確認する必要はないじゃないかと反論しても耳を貸さず、あくまでも、「立つかもしれない」では受付業務、「立つ」なら式場に入れる、という命令でした。橋下徹氏の言った「大人の知恵」とか「面従腹背」というような言葉が頭を巡り夜中の3時頃まで眠れませんでした。翌朝通勤電車の中で「座ろう」と決め、朝の教職員集合時、「座ります、でも出させてほしい」と言ったところ急遽受け付けに回されました。支援学校の担任というのは入学式で生徒の車いすを押してあげるとか、腰や肩を支えて一緒に歩くとかしないといけません。担任としての一日目の仕事なのにそれをさせてもらえず、まったくクラスに関係のない教員が介助を命じられました。式の後で生徒と写真を撮ります。この生徒たちと卒業まで担任を持ち上がっていくと考えられます。それなのに私は一緒に写れませんでした。一緒に育っていく担任と生徒という関係性を考えない、管理職の思考停止だと思いました。死とはコミュニケーション不全だと思います。神との断絶が死であるなら、人との断絶も人間関係の死であると思うときに維新の会がしていることは教育現場に死を持ち込んでいる、管理職と一般教員の断絶、生徒と教員の断絶、保護者と教員との断絶を図っている、命令と処罰で人間社会を作っていこうとしていると思います。「人は分かり合えない」というニヒリズムから出発しては教育は出来なと思います。
5月23日に戒告処分の取り消しを求めて申し立てを府の人事委員会にしました。府教委のしていることは憲法違反であると言いました。憲法20条違反をも訴えます。私は記者会見をして、報道されました。名前を顔が知られたのでネット上で「反日活動家」と書かれ、「朝鮮へ帰れ」とか、「こんな教員は養護学校へ転勤させろ」とか、何重にも差別が露わになりました。インターネット上の空気はこの国の空気であって、憎悪の言葉は悪魔に支配されているようです。
2013年3月の卒業式で、私は「不起立」で減給処分を受けました。職務命令違反2回目と数えられました。条例で職務命令に3回違反すると免職にするとなっています。私は、この処分にも「不服申立」をしました。審理は進んでいません。この二つの処分が間違いであると証明されることを願っています。
2012年7月には支援をしてくれる人が集まって「奥野さんを支える叫ぶ石の会」を作ってくれました。キリスト者、同僚のネットワーク、十数年前から組合の枠を超えて一緒に闘ってきた人たち、大学時代の友人も加わってくれました。このようなネットワーク、人間の関係性が成長していくということはすごくうれしいことです。支援学校に勤めていると、障害をもっていたり、病気が進んでいったりする子どもたちがどのように学校教育を過ごしていくかということを考え、人間関係をどのように発達させていくかが大事だと強くい思うようになりました。それで、そのことが自分の身にも起こっていることがすごくうれしいです。そのような人の繋がりを作って行きたいと思っています。神まかせです。神の義を問うていきたいと思います。
私は、支援学校で仕事をしながら思うのですが、特別支援の教員が不起立であるというのは、府立高校の教員が不起立であるのとはまた意味合いが少し違っているのではないかと思います。
私は高校に二十二年間勤務したあと、支援学校に転勤しました。その現場で思わされたことは、「本人の努力で何かをできるようになる、あるいはできるように支援すること」が支援学校の教育ではなくて、「仲間と一緒に関係を深めながら、できないことができるようになる、お互いにわからなかったことがわかるようになる、それが大事なことではないかということ」でした。そしてそれは決して支援学校だけのことではなく、どの学校でも求められる教育ではないかということでした。
それは私に、イエス・キリストの教会の在り方を思い出させます。教会が家族として共に支えあいながら成長していくように、強い者が勝つとか、力のある者が勝つ、競争はそのためにあるんだという社会ではなくて、正しいから認められる、正しいから前進する、そのような社会こそ目指すべき社会ではないかと思うのです。そしてクリスチャンはキリストの十字架を通してそのようなDNAを受け継いでいるのではないかと思います。
とはいえ私は弱い人間です。不安に襲われ、孤立を恐れています。「管理職の言うこと、教育委員会の言うことはあなたの責任ではないんだから、言われたことをしたらいいんだ」という声に負けそうになることもあります。事実、不起立という決断も、迷いに迷ってのことです。
斉唱の強制というのは、そういう恐ろしさを持っています。「たかが三分間立ってるだけじゃないか」「口パクでも歌った真似をすれば処分は受けないじゃないか」という声が聞こえます。でも、そのようにして自分の良心を裏切ることの小さな種が、私をどのようにしていくかというのは恐ろしいです。
この問題は私にとって政治の問題でも宗教の問題でもなくて「教育」の問題であり「信仰」の問題なのです。
(2013年9月8日)